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本編・第二部

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 景色が、どんどんと後ろに飛んでいく。本土と繋がる大橋から見える景色は…海に太陽が反射して、キラキラと眩く光っている。

 大橋をしばらく走ると、広大な空き地といくつかの建物が見えてきた。私が生まれた頃から計画されて、開発されてきた人工島。

 そこに、昨年……高規格コンテナターミナルと、物流倉庫が数社、竣工したのだという。

 この広大な開発地域は、ロジスティクスセンターと位置付けて、物流倉庫の大規模集積地化を進める予定、ということをいつかのニュースで見た気がする。







「お世話になっております、極東商社通関部の田邉です」

 運転してくださっていた田邉部長が、取引先であるグリーンエバー社の物流センターの正面玄関をくぐり、受付で名乗って来館手続きを済ませた。

 来客用と記載されたICカードを胸に下げて、倉庫棟に足を運ぶ。倉庫棟の入口でICカードを翳し、手渡されたマスクを耳にかけた。その場で簡易的な体温チェックを受けて……荷捌き室に足を踏み入れる。

「わ……すごい」

 思わず感嘆の吐息が漏れる。

 ドックシェルターに着けられたコンテナに簡易コンベアが横付けされて、たくさんの荷役にやくさんがそこに集まっていた。コンテナからどんどんと白い段ボールの荷物が搬出されていく様子は、まるで魔法のよう。その荷物がコンベアを流れていき、荷役さんの手でプラスチックパレットにあっという間に積み上がっていく。縦横無尽にフォークリフトが動き回って、積み上がった貨物が奥の倉庫棟に収納されていった。


 今日は、田邉部長に、グリーンエバー社に見学と組織改編の挨拶に連れてきてもらった。自分が実際に通関手続きを行っている貨物を見るのは初めてのこと。

(……これを日本で流通させるための手続きをやっているんだな、私…)

 そう実感すると、なんだか胸が熱くなっていく。

 私たちが普段何気なく食べている食材は、原材料があって、加工されて。場合によってはこのように輸入され、日本で流通させるための手続きを経て、商社によってスーパーに卸されて……長い時間をかけて、ようやく、私たちが手にすることが出来る。

 その一端を担えている、ということに。とてつもない誇りと……もっと知りたい、という欲が湧いてくる。

「……一瀬、今、こうして見学に来れて。すごく楽しいんだろう?」

 田邉部長が荷下ろし作業の動画をスマホに納めながら、笑いを噛み殺したような顔を向けてくる。

 ……そんなに、楽しそうな顔をしていただろうか。バツが悪くなりぺこりと頭を下げた。

「申し訳ありません……こうして、通関業者として食の安全を守っていく使命を実感しまして、身が引き締まる思いです」

 私の声に、いや、いいんだよ、と。田邉部長が再び吐息を漏らしながら笑った。

「仕事は楽しくやれるのが一番だ。一瀬を総合職に転換させたのは正解だったね。どこの取引先からも一瀬を指名する声が後を絶たないのだから」
「……え、そうなのですか?」

 思わぬ一言に目を見開いた。そんな話は今まで聞いたこと無かったけれど。

「どこの取引先とも楽しそうに会話しているだろう? 世間話でも、仕事の話でも。それがウケているんだろうね。グリーンエバー社の担当中河なかがわさんも、一瀬に会ってみたいと言っていたから。今日は丁度いい機会だったね」

 そう頷くと、田邉部長が勝手知ったるという風に、倉庫棟と事務所棟を繋ぐ連絡通路に足を向ける。私は慌ててその後ろを着いていく。





 しばらく歩くと、事務所棟に行きついた。グリーンエバー社の事務所棟の応接室に通されて、コーヒーが目の前に置かれる。コーヒーを出してくださった女性が退出し、田邉部長とふたりきりとなった。

「一瀬は、総合職になってから本当に表情豊かになったと思う。なって、結果的によかったのではないかと思っているよ」

「……ありがとう、ございます」

 あの第2研修ルームでの面談のことを思い出す。あの時は本当に、世界から消えてしまいたいと思っていたけれど。

 こうして、自分の仕事が日本の食を支えている、ということを目の当たりにして。私が担っている業務なんて、小さな事象かもしれない。けれど、人間が生きていくにあたって欠かせない『食』を支えていられる今の自分を、誇りたい。あの時、消えてしまわなくて…本当によかった。

 ほう、と息をつくと、応接室の扉が開いて。

「………一瀬、知香、さん?」
「な、……中河さん?」

 とても懐かしい顔がそこにあって、私は目を見開いた。

「一瀬、中河さんと知り合いだったのか?」

 田邉部長が驚いたように声を上げた。思わぬ懐かしい顔に、私と中河さんはぱちぱちと目を瞬かせる。

「地元の…高校の、同級生です」
「そうだったのか」

 田邉部長が、世間は狭いね、と、中河さんに笑いかけた。颯爽とスーツのスラックスを捌きながら、中河さんが私に近寄ってくる。

「一瀬、なんて苗字どこにでもいるから、まさか極東商社に一瀬さんがいるなんて思わなかったよ」

 電話口の声も全然違うし…と呟いて、中河さんが苦笑しながら名刺を取り出した。

「改めて。グリーンエバー社集荷担当の中河かおるです」
「頂戴します。極東商社通関部の一瀬知香です」

 ……同級生と、こんな形で邂逅し、名刺交換をするだなんて。10代そこそこで恋バナや宿題の回答を見せ合っていた私たちも、すごく大人になったんだなと感じた。

 中河さんは、高校3年生の時の同級生。席替えのたびに隣同士になって、奇遇だね? と笑いあっていた。けれど、そこまで仲が良い方ではなかったから、高校を卒業してからは連絡を取ることもなかった。

 さらり、と。中河さんのチョコレート色のミディアムヘアが揺れ、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。

 高校時代は私がミディアムで、中河さんがショートで。今は、中河さんがミディアムで、私がショート。真逆、だ。

 ……智さんに嵌められてショートヘアにしたけれど。智さんは本当は長いほうが好みなんだろうか。今日、帰ったら聞いてみよう。

 そう考えていると、中河さんが手帳を開きながらサバサバした口調で言葉を紡ぎだした。

「早速ですが、田邉さん。今回は組織改編されると伺いましたが」
「あぁ、そうですね。4月から、弊社の通関部をグループ分けする予定になっています。一瀬を農産グループのリーダーに据える予定でおりますので、御社との窓口は私から一瀬へ移管することとなります。そのご挨拶で伺いました」

 田邉部長が私に視線を向ける。その言葉が終わるのを待って、私はぺこりと頭を下げた。中河さんが手帳をめくりながら、指を動かす。

「そうだったのですね。今日見ていただいた貨物は……確か、三井商社の冷凍ブロッコリーでしたね」

「他にも数社、御社とはやりとりがあったかと。今後ともよろしくお願いいたします」

 その後、軽く通関業務にかかる情勢等の雑談をして、私たちは応接室から退出した。帰り際に、ふわり、と。中河さんが笑って、先ほどとは違うやわらかい口調で私に語り掛けた。

「一瀬さん。名刺に個人の携帯番号書いているから、今度お茶でも飲みに行こう」
「うん、ありがとう。また連絡するよ」
「じゃ。また」

 お互いに笑い合って、私は田邉部長が運転席に乗り込むのを確認し、助手席に乗り込んだ。






 先ほど通った大橋に差し掛かったところで、鞄から田邉部長が作成してくださった顧客一覧表の資料を取り出してペンを走らせ、運転席の田邉部長に声をかける。

「あと、三井商社の営業2課に挨拶に行って今日は終わりですね」
「そうだな、今日は朝からずっと挨拶回りだったからね。帰ったら足をいたわっておくといい。明々後日も挨拶回りの予定にしているから」

 そう、今日は朝からずっと田邉部長から引き継ぐ予定の、農産関係の取引先に挨拶回りに行っていた。一日だけでは回り切れないから、日を置いて再度挨拶回りに出る予定だ。もう、太陽が大きく傾いている。

「はい、ありがとうございます」

 手元の資料によると、三井商社営業2課の担当は、「黒川氏」と記載されていた。

(くろかわ、さん。どんな人か、帰ったら智さんに聞いてみよう)

 今日は帰ったら聞くことだらけだ。髪型の好みのこと、黒川さんのこと。智さんの笑顔を思い出し、挨拶回りで緊張していた心が綻んだ。ゆっくりと資料を鞄に戻す。

「一旦会社に戻って、社用車を駐車場に置いてから、徒歩で行くよ。三井商社は近いから」
「わかりました」

 綻んだ心をきゅっと引き締めて、助手席から飛んでいく景色を眺めていた。





 いつもの交差点を曲がり、エレベーターに乗った。独特の浮遊感と軽い音で到着を知る。

「お世話になります、極東商社です」

 三井商社の受付に記帳し、応接室に促された。しばらくして、営業2課の担当者の3名が応接室に入室する。挨拶を交わして名刺交換を行う。

「は、初めまして…営業2課の、く、ろかわです…」

 目を合わせてくれない。面長の顔に細い目がおどおどと私に向けられる。

(…人見知りされるタイプなのかしら。営業さんなのに………大丈夫なのかな)

 同じ営業課にいた智さんや藤宮くんの営業スマイルを思い出すと、何となくこの人が心配になってくる。

「頂戴します。極東商社通関部の一瀬です」
「4月から、弊社の通関部をグループ分けする予定になっています。一瀬を農産グループのリーダーに据える予定でおりますので、農産チームさまとの窓口は私から一瀬へ移管することとなります。そのご挨拶です」

 田邉部長が穏やかな声で、今日幾度も聞いたセリフを紡いでいく。

 初めに名刺交換をした黒川さんが、さっきグリーンエバー社に見学に行った冷凍ブロッコリーの担当、らしい。田邉部長がスマホで撮影した荷降ろしの映像をみせる。

 黒川さんの脇に控える営業さんふたりは、名刺交換の際に坂田さんと島口さんと名乗られた。黒川さんの補佐をされているそうだ。

 今後の三井商社の動向などの話なども軽く話していく。それは、智さんからこれまで聞いていた程度の事ばかりだった。

 田邉部長が事前情報を手に入れたいと巧みに会話を誘導するも、肝心の新部門については、坂田さんに煙に巻かれた。

(……智さんも、話せないところは私にすら話さないようにしてるってことだよね。当たり前だけど)

 お互いに社会人。まして、取引先同士。話せないことがあるのは、仕方ない。私だって、智さんに話していないこと……小林くんが落としてきてくれた丸永忠商社のこととか、たくさんある。

 話せないから、結果的に、隠し事……になってしまうかもしれない。その事実に少しだけ淋しさを覚えるけれど、仕方ないものは、仕方ない。

 そう気持ちを切り替えて、ある程度話し終えたところでおずおずと私が切り出す。

「すみません。お手洗いお借りしてもよろしいでしょうか」

 今日はずっと挨拶回りに出ていたから、差し出されるお茶やコーヒーを飲みすぎた。お腹が痛い。

 お手洗いの場所を聞いて、鞄を手に持って応接室を一旦退出する。








 応接室を出て、目の前の廊下を真っ直ぐに歩いていく。ここの突き当りを左に、という看板を見つけ、ゆっくりと歩いた。

(黒川さん……名刺交換以外はあまり話さなかったな。坂田さんと島口さんとお話しすることの方が多かったなぁ…)

 細い瞳が、私を見ては視線を逸らしていたさっきの様子を思い出す。

 田邉部長の資料によると割と取扱量が多いから、これから多分頻繁に連絡を取る人だと思うのだけど。どうにも人物像が掴めない。

 やっぱり、今日帰ったら智さんに黒川さんの人となりを聞いておこう。電話口で世間話くらいは出来るようになりたい。

(そういえば……智さん、今日は定時かな?)

 私はこれから帰社して書類の整理をしなければ。だから、確実に残業。すっと制服からスマホを取り出して、メッセージアプリを立ち上げながら、カツカツとヒールの音をさせて歩いた。

 左に曲がると、ふわり、と。嗅ぎなれた香りが漂って。弾かれたようにスマホから顔を上げた。

「…っ、」
「………こんにちは」

 ふい、と。智さんに視線を逸らされた。パタパタと、濡れた手をハンカチで拭きながら、私の隣を通り過ぎようとする。

 ……仕事中だから、他人行儀な対応になるのも当たり前。私だって……年末、智さんがウチの会社に挨拶回りに来た時、そうだった。

 そう考えて、私も、こんにちは、とだけ返答し、努めて冷静にすれ違おうとして。


『―――今日は、残業』


 すれ違う瞬間、ぽつり、と。私にしか聞こえない小さな声で、囁かれる。その、甘く、低い声に。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされていく。

 そのまま真っ直ぐ歩いて、パタリ、と。お手洗いの扉を閉めた。ズルズルと壁に凭れこみ、動けなくなる。

 さっきの、低い声は。時の、声に近くて。

「……ずるい」

 それだけを私は呟いて。真っ赤になった自分の顔を、目の前の鏡で、確認した。





 仕事中なのに。智さんに、抱き締めてもらいたい、なんて想いが溢れた。
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