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本編・第三部
214 胸の中に、いた。
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俺の腰の位置に設置された灰皿の台に肘をついて、ジッと銀色のライターの横車を擦る。煙草の先端に火が灯るのを確認して、大きく息を吸い込んだ。
天井の換気扇に向かって細く長く紫煙を吐き出す。右手にライターを持ったまま左手に持った黒い煙草から立ち上る煙を眺めて、この喫煙ルームの奥にある椅子を見遣る。
(………)
終業時刻直後のルーティン。普段は……奥側の。今、視線を向けているあの椅子が、俺の定位置。なのに。
(ど~も……あそこに座りたくない、んだよね~ぇ…)
よくわからないが、先週のあの日から。あの、赤い唇から、俺の真意を暴くようなセリフが飛び出してきてから。あの日以降、あの椅子に座りたくないのだ。
「……」
ふたたび黒い煙草を咥えて、大きく息を吸う。彼女と遭遇した時に負った中指と人差し指の火傷は完治しているはずなのに、チリチリと痛みが走ったように思えた。
(……あの女はなんなんだ、一体…)
自分の心がこうも乱れているということにひどく苛立つ。苛立ちを捨て去るように、苛立つこの感情を己の身体からその感情の全てを無くすように。換気扇に向かって大きく紫煙を吐き出した。
『The eyes are the window of the soul?』
流暢な英語で俺にこの言葉を突きつけてきた彼女。日本語でいうところの……目は口ほどに物を言う、という意味の英語だ。
(……目、ねぇ…)
俺の目がなんだと言うのか。俺の本心はもう誰にも読ませない、と……心に決めていたのに。この仮面は誰にも剥がせさせない、と、そう思っていたのに。
あの琥珀色の瞳をした女は、俺が隠し通そうとしている本心を、悉く暴いていく。
俺は、今度こそ。俺の大切なモノ守るために、道化を演じる、と。そう決めたのだ。例えそれが間違っている選択だとしても。
(………俺は、貫き通す。道化を演じることを)
そう考えながら。このまま、この道を貫いていいものか……迷っている自分もいることに。気がついていた。
だからこそ―――俺は戸惑っていた。
俺はこんなに不器用で、優柔不断で。他人の思惑を察することも出来ず、他人に影響されやすい男だっただろうか。
たかだか一人の女を前にして、彼女の真意も判らない。赤い唇で俺を翻弄させ、琥珀色の瞳を細めて。知香ちゃんが小林くんや真梨ちゃんに向けるような、悪戯っぽい笑みにそっくりな表情を浮かべた、彼女の言動に振り回されて。この一週間、彼女の言動の真意をひとりで悶々と考え込んでいる。
彼女は俺の本心に気付いている。
なぜ気づいたか?―――それは、俺の目を見たから。
彼女は俺の本心に気付いている。
では―――何処まで、勘付かれている?懲戒解雇となった黒川が、俺を逆恨みして動いている、ということを。
彼女は―――知って、いるのか?
(いや……黒川が動いていることに気がついているなら、このタイミングで退職という選択はしないだろう)
至極当然の結論に辿り着いて、ふたたび煙草を口に咥える。
今朝、社外メールを開くと。彼女から、退職に伴う定型文のような挨拶メールを受信していた。
三井商社を懲戒解雇となった黒川が、俺を逆恨みして―――俺の恋人と誤認している知香ちゃんを害そうと動いている、ということまでは。ここまでは、勘付かれていないだろう。
あの会社と縁が切れたとはいえ、黒川は三井商社社長の私生児だ。役員である彼女が、三井商社を支えてきた彼女が。あの時も即座に謝罪行脚を選んだ彼女が、三井商社が不利になるようなそれらの動きを、野放しにはしないだろう。
ふぅ、と。ふたたび大きく紫煙を吐き出した。ゆっくりと手元の灰皿に煙草を押しつけて、灯された火を消す。灰皿の台に両腕の肘をついたまま、ゆっくりと。右手に持ったままの銀色のライターに視線を落とした。
(……十二夜)
彼女が、俺に。このライターを返しながら口にした、あの言葉。
あれは、シェイクスピアの十二夜という作品に出てくるセリフだ。道化を演じるには高い能力が必要、という意味合いを持つ。俺が道化を演じている、ということを勘付いている、という、言外の宣言。
けれど。俺が何のために道化を演じているかまでは、勘付かれていない、はずだ。
(……いちいち俺のことを振り回してくれるね、あの人は)
小さくため息を吐きながら、心の中で毒付く。そういえば。あの挨拶メールからは、彼女から紡がれる一言一言で俺を翻弄する、そんな雰囲気は微塵も感じ取れなかった。
初めて、彼女に出会った時。香典返しをマスターに渡しに行った日。あの時、俺に出すコーヒーを淹れているマスターと彼女との会話で……彼女がこれから日本を発ってタンザニアに行く、ということだけは察した。
タンザニアに行って、何を成し遂げる気でいるのだろうか。
女性ひとりで。政治情勢も軍事情勢も安定していない、在留日本人数すら少ない、衛生・栄養・教育の問題が顕著な、そんな国で。
一体、何を。タンザニアで、彼女は何をする気でいるのだろう。
そこまで考えて、彼女の行く末を案じている自分に自嘲気味の笑いがこぼれる。
「うじうじして……これじゃまるで、恋煩いみたいだね~ぇ……」
誰に見せるでもない苦笑いを顔に貼り付けた。その刹那、自分が無意識に吐き出した言葉にゆっくりと瞠目する。
(……………は…?)
胸の奥に潜む心臓が、普段よりも強い力で収縮を繰り返している。
(まさか)
心臓が、ひどく痛い。冗談でもなんでもなく、皮膚を破られ肋骨を折られて、誰かの手で直接、心臓を掴まれているようだ。
(有り得ない、絶対に。そんなこと……有り得ては、いけない)
どくん、どくん、と脈打つ鼓動と同じ強さ、いや、それをはるかに上回る強さで、頭に浮かんだ考えを乱暴に跳ねのけた。強く頭を振ると、ぱちぱちと少し伸びた自分の髪が頬を打った。
(か、のじょ、は、………池野さん、は。三井商社に勤めていて…ただの、食用花の商談先の相手で)
そう。ただの、知り合いだ。常連である喫茶店の店主の妹で。そこから偶然繋がっただけの、人間。
(違う。有り得ないんだ)
衝撃でふらつく身体を灰皿の台についた肘で支え、自分の頭に浮かんだ突拍子もない考えを必死にねじ伏せようと躍起になっていた。
彼女はただの知り合いにすぎない、数度しか会話もしていない、
けれど、その割に、他人の気持ちなどわからないわと言わんばかりの柔和な笑みを浮かべて的確に俺を揺さぶってくるあの赤い唇が、初めて出会ったあの時から忘れられなくて、
知香ちゃんや真梨ちゃんに比べて化粧っ気が少ない割に肌が綺麗で口元のホクロがさらに色気を醸し出しているなと思っていて、
あの食用花の商談の時にその口元が綺麗だなんて時々見惚れたりして、
その唇から奏でられる是の声が聞きたいと思ったら思わず目が細まって、
そうしてあの時の最後の商談成立の言葉を引き出そうとしていた俺がいたことは、
もう二度と消せない事実で―――
(…………は…?)
一気に坂道を転がり落ちていく、俺という小さな石。その石がアスファルトを転がり落ちていく度に、ポロポロとこぼれ落ちて欠けていく小さな感情の欠片たち。
欠けていくような感情に歯止めもきかず、煙草を手放して何も持っていない左手で。自分の額を前髪ごと力なく抑えながら、緩慢な動作で頭上を仰いだ。
天井にある、大きな換気扇。静かに回るその羽根を見つめながら。
「違う。絶対に、違うんだ……」
ただただ。自分に言い聞かせるように。
ただ、それだけを。口に、した。
自分の中に生まれた信じられない考えにひどく動揺していた。けれど、己の足はいつものルーティンをこなすように、通関部がある上階を目指した。
カンカン、と。トゥースチールの軽快な音が、動揺し大きく揺れ動いている俺の心とは正反対に、この螺旋階段に響く。エレベーターホールに繋がる扉を押し開き、ほぅ、と息を吐きながら、いつもの場所に凭れかかった。
知香ちゃんの身の安全を確保するために。自分に課せられた業務は必ず定時で切り上げている。通関部に所属していた頃は、外部の会社からの依頼で業務の全てが動いた。だから自分の采配だけで残業の有る無しを決めることが出来なかった。
今は、農産販売部のバイヤー。営業マンだからこそ、営業成績という結果さえ残せれば残業せずとも何も言われない。事実、あのシンポジウムの後の交流食事会をきっかけに、新規の取引先を開拓した。その数は片手では足りないほど。それらの営業成績も相まって、来月1日付けで課長代理まで抜擢されることとなったのだろう。が、正直、今の俺には役職など鬱陶しいことこの上ない。
役職が上がれば部下の管理まで任されることになる。そうなれば、否応なしに残業をせねばならない時がくる。こうして彼女の身の安全を確保することなど出来なくなる。
(そう……俺が好きなのは、知香ちゃんだ。知香ちゃんを、護る。それが、俺の一番の望みであり、願い…なんだ)
だからこそ。先ほど浮かんだような『片想い』は否定しなければならない。
自分にそうやって言い聞かせているうちに、日の入りを迎え、深夜残業がつく直前の時間になっていた。
俺は段々と焦ってきていた。普段、知香ちゃんはこんな遅くまで残業することはない。
(……まさか、今日はもう直帰している、とか…?)
彼女は総合職だ。もしかしたら、今日は午後から取引先に商談に行って直帰しているのかもしれない。そうであれば、彼女がきちんと……智くんが待つはずの自宅に帰宅出来ているかどうかが懸念される。
ドクドクと。数刻前に何かに鷲掴みされた心臓がひどく跳ね始めた頃に。ふわり、と、知香ちゃん自身の馨しい香りが鼻腔をくすぐった。
「やぁ、知香ちゃん。今日は随分と遅かったね~ぇ?」
焦げ茶色の瞳と視線が交差する。心の中でほっと息を吐きながら、へにゃり、と。いつものような笑みを浮かべた。
相変わらず嫌そうな表情を浮かべながら、俺と短く会話を続けている知香ちゃん。嫌悪感が滲むその声色に、小さく自分を納得させる。
(……それでいい。嫌われても、彼女の身が護られるのであれば)
チン、と軽い音がしてエレベーターが到着すると同時に、彼女が呆れたように俺がなぜ長袖であるのかを問いかけてきた。
「あはは、俺ね、半袖のワイシャツが苦手なんだ」
「……そうなんですか」
半袖のワイシャツが苦手だ、というのは嘘だ。俺の身体にはイギリスにいた頃の―――軍隊や諜報機関に在籍していた頃の傷痕が多数残っている。戦争を経験していない現代日本人の目にはこの傷痕はひどく衝撃的に思えるらしい。軍隊を持たない日本ならではの価値観と言えるだろう。だから俺は日本がどんなに暑かろうが長袖を身につけると心に決めている。
「スーツの発祥、イギリスは半袖シャツは認められてなくてね?持っていない、というのが正しいかなぁ」
そこまでを口にして。ふっと。
(あぁ……タンザニア、は…Commonwealth of Nations、だったな………)
ぽつ、と。そんな考えが浮かんだ。
その瞬間。
―――――ふたたびぐるぐると俺の頭の中を回り始めた、馬鹿げた考え。
(違うっ……!)
脳内で半ば悲鳴のような声をあげて、その考えを否定する。
俺は、池野さんに片想いをしているんじゃない。
今、隣にいる知香ちゃんが好きなんだ。
我を忘れるほど知香ちゃんに夢中になっていて、
彼女をこの世界から消させたくなくて俺は必死で知香ちゃんを助けようとしていて、
俺を救ってくれた知香ちゃんを、
もう俺の生きる意味となった知香ちゃんを、
この世界から、神さえ滅んだ、残酷だとわかっているこの世界から、
それでもなお俺が生きるこの世界から彼女を失いたくなくて、
だから馬鹿げていると分かっていても、
彼女に嫌われようとも、罵られても傷付けられようとも、
彼女を護るための道化を演じるのを辞められなくて、
その焦げ茶色の瞳で、俺を見て欲しくて、
その薄い唇で、俺の名前を呼んで欲しくて、
―――気がつけば。彼女の身体をこの胸に抱き寄せていた。
思考回路なんて、理性なんて。働いていなかった。とっくの昔に焼き切れていた。論理なんて破綻していた。
自分の気持ちを確かめるように、彼女が好きだと熱に浮かされたように繰り返し口にした。
感情のままに、込み上げてくる馬鹿げた考えを否定するように、胸に搔き抱いた華奢な身体をエレベーターの扉に押しつけた。
身動きが取れなくなった彼女の頬を撫でて、自分の気持ちを確かめるように、彼女に向かって愛の言葉を囁いた。
自分の気持ちを確かめるように、彼女に口付けようとして―――
気がつけば、エレベーターの扉が開いていて。
気がつけば、彼女の身体が宙に浮いていた。
「あ……」
知香ちゃんの身体が、遠くなる。
倒れ込む彼女を護ろうと、手を伸ばす。
けれど。伸ばした手は、虚空を裂いた。
俺の手は、彼女には、届かなくて。
俺は、Maisieの代わりに知香ちゃんが欲しくて。
それが手に入らないとわかったら、今度は知香ちゃんの代わりを求めていて。
神はその別の人さえ、俺には与えてくれない。
神は―――俺の手から、全てを奪っていくだけ。
だから、俺の手から―――池野さんがすり抜けていくのは、当然の結末なのだ、と。
遠くなる彼女の短い黒髪が、ふわふわと揺らめいているのを眺めながら。
白く華奢な腕が、何かを掴もうと伸ばされているのを眺めながら、ぼんやりと考えていた。
そうして、気がつけば彼女は。
俺の胸の中から……智くんの。
彼の。胸の中に、いた。
天井の換気扇に向かって細く長く紫煙を吐き出す。右手にライターを持ったまま左手に持った黒い煙草から立ち上る煙を眺めて、この喫煙ルームの奥にある椅子を見遣る。
(………)
終業時刻直後のルーティン。普段は……奥側の。今、視線を向けているあの椅子が、俺の定位置。なのに。
(ど~も……あそこに座りたくない、んだよね~ぇ…)
よくわからないが、先週のあの日から。あの、赤い唇から、俺の真意を暴くようなセリフが飛び出してきてから。あの日以降、あの椅子に座りたくないのだ。
「……」
ふたたび黒い煙草を咥えて、大きく息を吸う。彼女と遭遇した時に負った中指と人差し指の火傷は完治しているはずなのに、チリチリと痛みが走ったように思えた。
(……あの女はなんなんだ、一体…)
自分の心がこうも乱れているということにひどく苛立つ。苛立ちを捨て去るように、苛立つこの感情を己の身体からその感情の全てを無くすように。換気扇に向かって大きく紫煙を吐き出した。
『The eyes are the window of the soul?』
流暢な英語で俺にこの言葉を突きつけてきた彼女。日本語でいうところの……目は口ほどに物を言う、という意味の英語だ。
(……目、ねぇ…)
俺の目がなんだと言うのか。俺の本心はもう誰にも読ませない、と……心に決めていたのに。この仮面は誰にも剥がせさせない、と、そう思っていたのに。
あの琥珀色の瞳をした女は、俺が隠し通そうとしている本心を、悉く暴いていく。
俺は、今度こそ。俺の大切なモノ守るために、道化を演じる、と。そう決めたのだ。例えそれが間違っている選択だとしても。
(………俺は、貫き通す。道化を演じることを)
そう考えながら。このまま、この道を貫いていいものか……迷っている自分もいることに。気がついていた。
だからこそ―――俺は戸惑っていた。
俺はこんなに不器用で、優柔不断で。他人の思惑を察することも出来ず、他人に影響されやすい男だっただろうか。
たかだか一人の女を前にして、彼女の真意も判らない。赤い唇で俺を翻弄させ、琥珀色の瞳を細めて。知香ちゃんが小林くんや真梨ちゃんに向けるような、悪戯っぽい笑みにそっくりな表情を浮かべた、彼女の言動に振り回されて。この一週間、彼女の言動の真意をひとりで悶々と考え込んでいる。
彼女は俺の本心に気付いている。
なぜ気づいたか?―――それは、俺の目を見たから。
彼女は俺の本心に気付いている。
では―――何処まで、勘付かれている?懲戒解雇となった黒川が、俺を逆恨みして動いている、ということを。
彼女は―――知って、いるのか?
(いや……黒川が動いていることに気がついているなら、このタイミングで退職という選択はしないだろう)
至極当然の結論に辿り着いて、ふたたび煙草を口に咥える。
今朝、社外メールを開くと。彼女から、退職に伴う定型文のような挨拶メールを受信していた。
三井商社を懲戒解雇となった黒川が、俺を逆恨みして―――俺の恋人と誤認している知香ちゃんを害そうと動いている、ということまでは。ここまでは、勘付かれていないだろう。
あの会社と縁が切れたとはいえ、黒川は三井商社社長の私生児だ。役員である彼女が、三井商社を支えてきた彼女が。あの時も即座に謝罪行脚を選んだ彼女が、三井商社が不利になるようなそれらの動きを、野放しにはしないだろう。
ふぅ、と。ふたたび大きく紫煙を吐き出した。ゆっくりと手元の灰皿に煙草を押しつけて、灯された火を消す。灰皿の台に両腕の肘をついたまま、ゆっくりと。右手に持ったままの銀色のライターに視線を落とした。
(……十二夜)
彼女が、俺に。このライターを返しながら口にした、あの言葉。
あれは、シェイクスピアの十二夜という作品に出てくるセリフだ。道化を演じるには高い能力が必要、という意味合いを持つ。俺が道化を演じている、ということを勘付いている、という、言外の宣言。
けれど。俺が何のために道化を演じているかまでは、勘付かれていない、はずだ。
(……いちいち俺のことを振り回してくれるね、あの人は)
小さくため息を吐きながら、心の中で毒付く。そういえば。あの挨拶メールからは、彼女から紡がれる一言一言で俺を翻弄する、そんな雰囲気は微塵も感じ取れなかった。
初めて、彼女に出会った時。香典返しをマスターに渡しに行った日。あの時、俺に出すコーヒーを淹れているマスターと彼女との会話で……彼女がこれから日本を発ってタンザニアに行く、ということだけは察した。
タンザニアに行って、何を成し遂げる気でいるのだろうか。
女性ひとりで。政治情勢も軍事情勢も安定していない、在留日本人数すら少ない、衛生・栄養・教育の問題が顕著な、そんな国で。
一体、何を。タンザニアで、彼女は何をする気でいるのだろう。
そこまで考えて、彼女の行く末を案じている自分に自嘲気味の笑いがこぼれる。
「うじうじして……これじゃまるで、恋煩いみたいだね~ぇ……」
誰に見せるでもない苦笑いを顔に貼り付けた。その刹那、自分が無意識に吐き出した言葉にゆっくりと瞠目する。
(……………は…?)
胸の奥に潜む心臓が、普段よりも強い力で収縮を繰り返している。
(まさか)
心臓が、ひどく痛い。冗談でもなんでもなく、皮膚を破られ肋骨を折られて、誰かの手で直接、心臓を掴まれているようだ。
(有り得ない、絶対に。そんなこと……有り得ては、いけない)
どくん、どくん、と脈打つ鼓動と同じ強さ、いや、それをはるかに上回る強さで、頭に浮かんだ考えを乱暴に跳ねのけた。強く頭を振ると、ぱちぱちと少し伸びた自分の髪が頬を打った。
(か、のじょ、は、………池野さん、は。三井商社に勤めていて…ただの、食用花の商談先の相手で)
そう。ただの、知り合いだ。常連である喫茶店の店主の妹で。そこから偶然繋がっただけの、人間。
(違う。有り得ないんだ)
衝撃でふらつく身体を灰皿の台についた肘で支え、自分の頭に浮かんだ突拍子もない考えを必死にねじ伏せようと躍起になっていた。
彼女はただの知り合いにすぎない、数度しか会話もしていない、
けれど、その割に、他人の気持ちなどわからないわと言わんばかりの柔和な笑みを浮かべて的確に俺を揺さぶってくるあの赤い唇が、初めて出会ったあの時から忘れられなくて、
知香ちゃんや真梨ちゃんに比べて化粧っ気が少ない割に肌が綺麗で口元のホクロがさらに色気を醸し出しているなと思っていて、
あの食用花の商談の時にその口元が綺麗だなんて時々見惚れたりして、
その唇から奏でられる是の声が聞きたいと思ったら思わず目が細まって、
そうしてあの時の最後の商談成立の言葉を引き出そうとしていた俺がいたことは、
もう二度と消せない事実で―――
(…………は…?)
一気に坂道を転がり落ちていく、俺という小さな石。その石がアスファルトを転がり落ちていく度に、ポロポロとこぼれ落ちて欠けていく小さな感情の欠片たち。
欠けていくような感情に歯止めもきかず、煙草を手放して何も持っていない左手で。自分の額を前髪ごと力なく抑えながら、緩慢な動作で頭上を仰いだ。
天井にある、大きな換気扇。静かに回るその羽根を見つめながら。
「違う。絶対に、違うんだ……」
ただただ。自分に言い聞かせるように。
ただ、それだけを。口に、した。
自分の中に生まれた信じられない考えにひどく動揺していた。けれど、己の足はいつものルーティンをこなすように、通関部がある上階を目指した。
カンカン、と。トゥースチールの軽快な音が、動揺し大きく揺れ動いている俺の心とは正反対に、この螺旋階段に響く。エレベーターホールに繋がる扉を押し開き、ほぅ、と息を吐きながら、いつもの場所に凭れかかった。
知香ちゃんの身の安全を確保するために。自分に課せられた業務は必ず定時で切り上げている。通関部に所属していた頃は、外部の会社からの依頼で業務の全てが動いた。だから自分の采配だけで残業の有る無しを決めることが出来なかった。
今は、農産販売部のバイヤー。営業マンだからこそ、営業成績という結果さえ残せれば残業せずとも何も言われない。事実、あのシンポジウムの後の交流食事会をきっかけに、新規の取引先を開拓した。その数は片手では足りないほど。それらの営業成績も相まって、来月1日付けで課長代理まで抜擢されることとなったのだろう。が、正直、今の俺には役職など鬱陶しいことこの上ない。
役職が上がれば部下の管理まで任されることになる。そうなれば、否応なしに残業をせねばならない時がくる。こうして彼女の身の安全を確保することなど出来なくなる。
(そう……俺が好きなのは、知香ちゃんだ。知香ちゃんを、護る。それが、俺の一番の望みであり、願い…なんだ)
だからこそ。先ほど浮かんだような『片想い』は否定しなければならない。
自分にそうやって言い聞かせているうちに、日の入りを迎え、深夜残業がつく直前の時間になっていた。
俺は段々と焦ってきていた。普段、知香ちゃんはこんな遅くまで残業することはない。
(……まさか、今日はもう直帰している、とか…?)
彼女は総合職だ。もしかしたら、今日は午後から取引先に商談に行って直帰しているのかもしれない。そうであれば、彼女がきちんと……智くんが待つはずの自宅に帰宅出来ているかどうかが懸念される。
ドクドクと。数刻前に何かに鷲掴みされた心臓がひどく跳ね始めた頃に。ふわり、と、知香ちゃん自身の馨しい香りが鼻腔をくすぐった。
「やぁ、知香ちゃん。今日は随分と遅かったね~ぇ?」
焦げ茶色の瞳と視線が交差する。心の中でほっと息を吐きながら、へにゃり、と。いつものような笑みを浮かべた。
相変わらず嫌そうな表情を浮かべながら、俺と短く会話を続けている知香ちゃん。嫌悪感が滲むその声色に、小さく自分を納得させる。
(……それでいい。嫌われても、彼女の身が護られるのであれば)
チン、と軽い音がしてエレベーターが到着すると同時に、彼女が呆れたように俺がなぜ長袖であるのかを問いかけてきた。
「あはは、俺ね、半袖のワイシャツが苦手なんだ」
「……そうなんですか」
半袖のワイシャツが苦手だ、というのは嘘だ。俺の身体にはイギリスにいた頃の―――軍隊や諜報機関に在籍していた頃の傷痕が多数残っている。戦争を経験していない現代日本人の目にはこの傷痕はひどく衝撃的に思えるらしい。軍隊を持たない日本ならではの価値観と言えるだろう。だから俺は日本がどんなに暑かろうが長袖を身につけると心に決めている。
「スーツの発祥、イギリスは半袖シャツは認められてなくてね?持っていない、というのが正しいかなぁ」
そこまでを口にして。ふっと。
(あぁ……タンザニア、は…Commonwealth of Nations、だったな………)
ぽつ、と。そんな考えが浮かんだ。
その瞬間。
―――――ふたたびぐるぐると俺の頭の中を回り始めた、馬鹿げた考え。
(違うっ……!)
脳内で半ば悲鳴のような声をあげて、その考えを否定する。
俺は、池野さんに片想いをしているんじゃない。
今、隣にいる知香ちゃんが好きなんだ。
我を忘れるほど知香ちゃんに夢中になっていて、
彼女をこの世界から消させたくなくて俺は必死で知香ちゃんを助けようとしていて、
俺を救ってくれた知香ちゃんを、
もう俺の生きる意味となった知香ちゃんを、
この世界から、神さえ滅んだ、残酷だとわかっているこの世界から、
それでもなお俺が生きるこの世界から彼女を失いたくなくて、
だから馬鹿げていると分かっていても、
彼女に嫌われようとも、罵られても傷付けられようとも、
彼女を護るための道化を演じるのを辞められなくて、
その焦げ茶色の瞳で、俺を見て欲しくて、
その薄い唇で、俺の名前を呼んで欲しくて、
―――気がつけば。彼女の身体をこの胸に抱き寄せていた。
思考回路なんて、理性なんて。働いていなかった。とっくの昔に焼き切れていた。論理なんて破綻していた。
自分の気持ちを確かめるように、彼女が好きだと熱に浮かされたように繰り返し口にした。
感情のままに、込み上げてくる馬鹿げた考えを否定するように、胸に搔き抱いた華奢な身体をエレベーターの扉に押しつけた。
身動きが取れなくなった彼女の頬を撫でて、自分の気持ちを確かめるように、彼女に向かって愛の言葉を囁いた。
自分の気持ちを確かめるように、彼女に口付けようとして―――
気がつけば、エレベーターの扉が開いていて。
気がつけば、彼女の身体が宙に浮いていた。
「あ……」
知香ちゃんの身体が、遠くなる。
倒れ込む彼女を護ろうと、手を伸ばす。
けれど。伸ばした手は、虚空を裂いた。
俺の手は、彼女には、届かなくて。
俺は、Maisieの代わりに知香ちゃんが欲しくて。
それが手に入らないとわかったら、今度は知香ちゃんの代わりを求めていて。
神はその別の人さえ、俺には与えてくれない。
神は―――俺の手から、全てを奪っていくだけ。
だから、俺の手から―――池野さんがすり抜けていくのは、当然の結末なのだ、と。
遠くなる彼女の短い黒髪が、ふわふわと揺らめいているのを眺めながら。
白く華奢な腕が、何かを掴もうと伸ばされているのを眺めながら、ぼんやりと考えていた。
そうして、気がつけば彼女は。
俺の胸の中から……智くんの。
彼の。胸の中に、いた。
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念願のランプのショップを開いた鞠宮あかり。
だが、開店早々、植え込みに猫とおばあさんを避けた車が突っ込んでくる。
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