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本編・第三部

215 香りが、漂った。

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「……は…………?」

 知香の早出と同じ時間に家を出て、いつもより早い時間にオフィスビルに辿り着いた。

 先週から専用カード紙に打刻するタイプのタイムカードから、PCシステムでのログイン方式となった。不要となった以前のタイムカードの機械が設置してある場所には、社員向けの掲示板が新たに設置されることとなった。その掲示板に不意に視線を向けると、通達、と書かれた白紙が目についた。

「…………池野、課長が…?」

 そこには、PCで印字された、明朝体の文字で。一身上の都合により退職、と。淡々と、事実を通達するだけの文字が並んでいた。

 そこに記載された日本語を噛み砕くのに5分ほど時間を要しその場に立ち尽くした。そうして、その下に記された己の名前をぼうっと眺めて、今度は10分ほど時間を浪費した。

「部長、兼……課長……昇進……?」

 まるで他人事のように。そこに記載されていた明朝体で印字された文字を読み上げる。


 この、俺が。企画開発部の部長と、各営業課を取り纏める課長を兼任する、という、通達。


 さっぱり、理解できなかった。ただただ、その場所で立ち竦んだまま、ただただ、時間を浪費していた。


「おはようございます先輩~。昨日はお疲れさまでした~」

 のんびりした藤宮の声が、背後から聞こえてくる。けれど、その声にも反応出来ない。

 こいつは前回のやらかし以降、それをしっかり反省しメキメキと営業の底力をつけて行っている。それは4月のノルウェー出張以降、より顕著だ。そんな全く違うことが脳内を駆け巡っていく。

 耳に水が詰まったように、そんな藤宮の声が反響するようにわんわんと鳴り響いて、遠くに聞こえている。

「そうでした!昨日の披露宴のあと、例の子とデートしてきて!正式に付き合うことになりました!先輩のおかげです、ありがとうございました!」

 ニッ、と。藤宮が俺の隣で満面の笑みを浮かべていることを視界の端で捉えた。


 そう。昨日は、浅田の披露宴で。浅田は今日から1週間、結婚休暇を取得していた。だから、こんな想定外のことが起こっていることはヤツは知らないだろうし、いつものように浅田にアドバイスを求めることも出来ない。


 ただただ凍りついている俺を不思議そうに眺めている、藤宮。俺の視線を追って、ひゅっと息を飲んで。

 藤宮とふたりで、茫然と。ただただ、その場に立ち尽くしていた。







 茫然としていた俺たちはその後出社してきた総務部の人間に声をかけられお互いに我に返って、何も言葉を発しないままそれぞれのブースに足を向けた。

 その後、俺は毎朝恒例の役員のみで行う定例会議に呼び出され、社長直々に新たな名刺と辞令が手渡された。当然ながら、その場に彼女はいなかった。社長から、今回の俺の昇進は黒川の一件での活躍、その後の新部門に係る営業成績の評価によるもの、と、長々と説明された。

 説明されている間も、うわんうわんと耳が鳴っていた。俺の身体は水中にあって、世界中の音が水の中で聞こえてくるようだった。何もかもが遠くに聞こえていた。


 営業課の―――彼女のデスクに足を運ぶと。彼女のデスクはガランとしていた。まるで今まで誰も座っていなかったかのように、綺麗なものだった。

 営業課に属する人間も、誰一人として彼女の退職を知っていた者はいなかった。手続き上、総務部の……社会保険関係の手続きを担当する一部の人間だけは、知らされていたようだったが。


 俺のデスクの上に乗っていた、彼女からの業務引き継ぎ書。それに目を通しながらせわしい午前中を過ごした。営業課の面々が上げてくる商売の伝票の承認、システムに入力後の電子承認。信用調査会社の情報と照合しつつ、新規取引先の承認や与信の増枠に係る承認等々、上げればキリがない。おかげで俺がやるべき仕事が相当遅れている。


 昼休みに入っても休む暇はなかった。苛立ちを隠しきれぬまま、スマホを肩に挟んで。業務引き継ぎ書を捲りながら、俺はある人物に電話をかけていた。


 長い呼び出し音の後に、マスターの応答する声がした。思った以上に低い自分の声が転がっていく。

「あんた、知ってたんだろう?」

『……相変わらず察しがいいなぁ、お前は』

 苦笑するマスターの声に苛立ちを隠すことなど出来なかった。

 彼女は、マスターの妹。彼女らは、両親をふたり揃っておよそ8年ほど前に亡くしている。あれは俺が入社してすぐの春のことで。社会人となって初めての弔事だったから、鮮明に記憶に残っている。



 あの―――世界中を震撼させた、大規模テロを発端とした戦争で。マスターと彼女は、両親を失った。彼らの両親は貧しい国に生きる人々を支援する活動をしていた。

 恐らく、いや、確実に。……彼女はもう日本にはいない。海外に向けて日本を発ち、遠い異国の地でその両親の遺志を継いだ何かを興そうとしているのだろう。



 だから。彼女の唯一の身内である、この電話先のマスターが。彼女が執行役員を退任し、三井商社を突然退職する、ということを。知らなかったはずがない。そう、察しての発言。

「ふ、ざけるな……!どうして引き止めてくれなかったんだ!あの人は、この会社に必要な人材でっ……!」

 理不尽だとはわかっている。けれど俺の胸の中に生まれたいくつもの感情を簡単に処理して片付けていくことは難しかった。誰かに―――それこそ、自分の第二の親とも言えるマスターにぶつけるしか。

 震えるような俺の怒声が、俺だけが在籍する企画開発部の……ひとりだけの空間に響いていく。

『ふざけるな、と言われてもなぁ……加奈子はこうと決めたら頑として覆さねぇタイプだからな、俺が止めたところで止まらなかったろうよ』

 ふぅ、と長いため息の向こう側でパチパチと爆ぜる音がする。恐らく、いつもの煙草ガラムを吸いながら話しているのだろう。俺もこの苛立つ感情を抑えるべく煙草を口にしたいところだが、生憎喫煙所まで足を運ぶそんな暇はない。遅れ気味の自分の仕事を少しずつでも捌いていかなければ。

「あの人がいたからこそ……彼女だからこそ、この会社を支えられてきた部分もあったんだ。それを俺が全部引き受ける?冗談じゃねぇ……」

 女性である池野課長だからこそ……黒川の件で、決定打となる事実を引き出せた。被害にあった社員も、女性同士だからこそ打ち明けられたのだろうから。

 それらも全てひっくるめて、俺に任された。正直、俺には、荷が重すぎる。重圧に潰れてしまいそうだ。

 握り締めていたペンを、パタリと落として。ゆっくりと、右の手のひらを見つめる。

 白く、大きな手のひら。あの時に自らの爪で切り裂いた傷は癒えているが、あの傷が疼いているように感じる。


 身体に、見えない重しが。時間を経るごとに、ひとつずつひとつずつ、乗せられていくようだ。
 後は任せた、と。歴史のバトンを渡された。俺の、この小さな手のひらに、ぽすん、と。軽く重い音を立てて、手渡された。


 確かに黒川のような膿を出し切りたい、だから早いところ課長に上がる、と。そう彼女に宣言はした。けれど、こんな形での昇進は想定すらしていなかった。

 スピーカーの向こう側のマスターが楽しげに吐息を漏らしていく。

『お前からそんな弱気発言が出てくるとは思わなんだ。……なんだ、お前は加奈子がいねぇと仕事が出来ねぇだったのか?』

「っ、」

 スピーカーから響く、揶揄うような声色。その声色で紡がれた『甘ちゃん』という言葉に。グサリと心を抉られる。

 彼女がいて、俺がいる。俺が幹部に引き立てられても、彼女と一緒に、この三井商社を支えていける。何か躓くことがあっても、彼女がそっと道標を俺に示してくれる。
 それが、そんな日々がいつまでも続くと、そう思っていた。けれど、それは―――幻想、だった。

 ふう、と。マスターが大きくため息をついた。そこには、俺が……ある種、無関係であるはずのマスターに思いっきりぶつけた理不尽な感情に対する、呆れや怒りなどは微塵も感じられない。労わるような、慰めるような。それでいて、励ますような。そんな声色で、静かに。穏やかな言葉が俺に向けられた。

『なぁ、さとっちゃん。加奈子が、お前になら全てを託せると判断して……あいつは日本を発って行ったんだ。その託された想いを、踏み躙らんでくれ』

「………」

 やはり、彼女は。俺の予想通り、もう日本に居ない。それを目の前に突きつけられて、僅かに視界が滲んだ。


 昨日、浅田の結婚式で。来賓祝辞を述べていた彼女は、いつもの彼女だった。
 いつものような穏やかな雰囲気で。提供される食事を口に運んで、同じテーブルを囲んでいた俺や藤宮の遣り取りを柔和な笑みで見つめていた。


 別れさえ、俺たちに告げることなく。彼女は、俺に全てを託していった。その覚悟を、その意思を。踏み躙るつもりなど、毛頭……ない。

 先ほど落としたばかりのペンを緩やかな動作で拾って、右手でぎゅうと握り締める。

『信頼していた上司が突然居なくなって混乱しているのはお前だけじゃねぇはずだ。そいつらのケアまで含めて、お前は加奈子に信じて託された。だったら、お前が成すべきことはひとつしかねぇだろう?』

 ふぅ、と。マスターがふたたび、長くため息をついた。

『こうやって俺に八つ当たりのように怒声を浴びせることでもねぇ。加奈子がいなくなった悲しみに暮れてその場に蹲ることでもねぇ。お前がすべきことは、ただひとつだ』

「……」

 俺が、すべきこと。その答えはもう、とっくの昔にわかっている、ことで。

 込み上げる感情を堪えるように、ぐっと唇を噛み締める。

『……じゃあな。俺はまだ焙煎の依頼仕事が残ってっから』

 そうして、プツリ、と。電話が、途切れた。







 マスターに叱咤されて。暗澹たる気持ちを抑えて、午後からの業務に邁進した。確かに、マスターが口にした通り。営業課のメンバーの大半も、俺と同様にひどく動揺しているようだった。彼らの心のケアも含めて、託された。俺は結局、自分の事しか考えていなかった。マスターとの会話でそれに気が付かされて、俺のすべきことをひとつずつ片付けていくことにした。

 営業課に所属する営業マンや一般職の女性を一斉に集め、俺が『長』となったことで不満がある人間もいるだろう、ということや、暫くは混乱するだろうが、彼女に全てを託された俺を支えて欲しい、と、全員に頭を下げて回った。

 以前の俺であれば、俺が先頭となって引っ張っていく、という考えにしか辿り着けなかっただろう。けれど、黒川の件でも痛感したが『俺ひとり』では限界がある。この会社は、俺ひとりで回しているわけではない。全員の協力があってこそ、だ。

(……俺が、どう立ち回るかを…見ていたんだろうな、彼女は)

 ほう、と。四角く切り取られた夜空をぼんやりと見つめながら、小さくため息をついた。


 黒川の一件。初めてあの件を池野課長に相談したのが3月の中旬。イタリア出張に出る前だった。あれから約3カ月半を経て、かっとなりやすい俺が、物事を冷静に対処出来るまでを……さらに言えば、今回のような不正処理の糸口を掴んだ時にどう対処するかを見届けてから。俺に合格点を出せる瞬間を見届けるまでを、自分の後任が育ったと自分自身で納得するまでを。彼女は決断するその時を、待っていたのだろう。


 業務をこなしながらも彼女の真意に想いを馳せているうちにあっという間に時は過ぎていき、知香に連絡を取ることが出来ないまま夜が深くなっていった。腕時計を確認すると、もう深夜残業がつく直前の時間だった。そろそろ帰宅しよう。連絡が取れないことで知香に随分と心配をかけているはずだ。

「そう、か……今日から残業代がつかねぇのか…」

 企画開発部 部長 兼 営業課 課長。管理職、となった。職場は人の集合体。集まりであるからには、守るべきルールや方向性がある。そこから逸脱しないよう見守り、かつ……全社員の力をより高めていく働きかけをする重要な役割を担っているのが、管理職だ。

 よもや、こんなに早く管理職になる日が来るとは思わなかった。31歳になって初めての出勤日に、こんなことが起こるなど。きっと、一生涯忘れえぬ日になることだろう。

 ビジネスバッグを手に持ち、新しく導入されたタイムカードを打刻してPCの電源を落としていく。


 その、瞬間。


『最高の誕生日プレゼントだったでしょう?』

「っ、」


 ふわり、と。妖艶とも言える声が。俺しかいない、この企画開発部のブースに響いた、気がした。

 パチパチ、と。瞬きを数度繰り返して。幻聴だと理解して、それでもなお口の端を吊り上げて。

 もう、日本に居ないはずの彼女に向かって、思いっきり。飛びっきりの、苦笑いを浮かべた。

「あぁ……最っ高の、誕生日プレゼント、でしたよ。池野課長」

 そう、小さく呟いて。パチリ、と、このブースの電気のスイッチを落とした。









 スマホを確認すると、極東商社の始業時間付近に知香からメッセージが届いていた。届いていたメッセージは若干の動揺が滲み出ているような文面。恐らく知香にも池野課長から挨拶メールが届いていたのだろうと察する。相変わらず細やかな気配りをするひとだ。

(……そういえば。先週、知香を、と言われたのは…池野課長なりに、知香に別れを告げるため、だったのか…)

 ぼんやりと考えながら、1階に到着したエレベーターを降りようと足を踏み出した。

 『一瀬さん、借りるわね?』と。琥珀色の瞳を細めながら、あの悪戯っぽい微笑みを浮かべて。俺を見つめながら楽しげに笑っていた先週の彼女の表情が脳裏に浮かび、ふるふると小さく頭を振る。

 全身に纏わりつく疲労感を薙ぎ払うように、ずんずんと歩みを進める。知香も今から帰ると連絡が来ていた。さすがにこの時間まで片桐は待っていないだろうし、夜も深い。いつもの交差点よりは……極東商社が入っているオフィスビルのエントランスまで迎えに行こう。

(この時間であれば……他の社員もほぼ帰ってしまっているだろうし)

 知香との繋がりが露見する事態になる可能性は少ないはずだ。そう考えて、目的の場所まで歩いた。エレベーターが駆動していることを視認し、恐らくこのエレベーターに知香が乗っているはずだ、と。なんとなくそう感じた。ビジネスバッグを肩にかけ直し、エレベーターの扉の前に立つ。

 きっと、この扉が開いた瞬間の知香は、きょとんとしたような表情を浮かべるだろう。どうして待ち合わせの交差点ではなくここにいるのか、と。そんな、驚いたような表情をするだろう。


 そう。俺は―――ひとりじゃない。
 絢子の事があったときは、ひとりだった。
 けれど、今は。ひとりでは、ない。


 こんな風に、困難にぶち当たっても。俺のこの両手に乗せられたたくさんの人間の想いの重たさを分かち合える、愛おしいひとがいる。


(だから……俺は、乗り越えられる…)


 愛おしい知香のそのきょとんとした可愛らしい表情を想像し、心身の疲労感が和らぐ気がして、少しだけ口元が緩む。己に課せられた全てを握り締めるように、右手で小さく拳を作り、ほう、と。ため息をついた。


 チン、と軽い音がして、エレベーターの到着を知らせてくれた。無機質な音を立てて扉が開いて。


 知香が、―――ぽすん、と。俺の胸の中に、飛び込んできて。

(………………は…?)
 
 ふわり、と。抱き留めた知香の身体から、シトラスの香りが、漂った。
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