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本編・第三部
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「さ、とし……」
嗅ぎ慣れた匂い。私を抱き留めるために、智の大きな手のひらが私の二の腕に触れていた。優しく私の身体を抱き留めてくれる、愛おしい人の胸の中。頭上を見上げれば、今にも泣き出しそうなダークブラウンの瞳と視線が絡みあう。
「すまん、遅くなった。突然、池野課長が退職して」
「あ……」
見るからに疲労感の濃い、智の表情。その唇から紡がれた言葉に、目を見開く。
やっぱり。池野さんの退職は、智も知らなかったこと、なのだ。だから今日は、突如退職した彼女の後を任されることになり東奔西走し、一日中連絡が取れなかったのだろう。
私も、今日は。いつもより増して忙しかった。あのシンポジウム後の交流食事会で繋がった、新規の取引先が徐々に増えていっているから……深夜残業がつく直前まで、通関依頼を捌いていた。
「遅くなったから、あの交差点で待つよりはと思ってここに来た。この時間なら極東商社の社員もほぼ帰っているだろう。俺が知香と一緒にいても勘繰られるような状態にはならないと思って、な」
いつも待ち合わせている、交差点。このオフィスビルからも、三井商社のオフィスビルからも死角になる、あの交差点。あの待ち合わせ場所ではなくて、ここに迎えに来てくれた、ということに、今日はひどく安堵した。
唇を。奪われるかもしれない、と、思った。
倒れて、頭を打って、気絶でもすれば―――片桐さんに連れ去られる、と。
あの瞬間。私を見ているのに、私を見ていない、ヘーゼル色の瞳と視線がかち合った瞬間。
確かに、そう、思った。
あれからの片桐さんは、私を見ていたから。だから、私が嫌がることを、無理にはしないだろう、と。その考えを、たったあの一瞬で、大きくひっくり返されて。
小刻みに震える身体。私からその恐怖の感情を感じ取ったのか、私に視線を向けていた智がぐっと唇を噛み締めた。
私の二の腕に触れられていた智の手のひらが、ゆっくりと離されて。私を背中に庇うように、智が歩みを進める。
「………で。なぜ、こんな状況になっている?」
智が、怒気を孕んだ低い声で。エレベーターの中に立ち竦んだままの、片桐さんに言葉を投げつけた。
「なぜ、知香の身体から。お前の香水の匂いがする?」
低く、低く。智が畳み掛けるように問いかけていく。
私の身体から立ち上る、シトラスの香り。片桐さんの―――香水の、香り。嗅覚が鋭敏な智は、たったそれだけで。私の身体に片桐さんの香水の香りが移るほどの何かがあった、と。このエレベーターの中で私に何が起こったかをある程度把握した、と……そう言いたいのだろう。
ぎり、と。智の右の手のひらが小さく握られる。
「………答えろ、片桐。知香に、何をした?」
唸るような。でも、それは以前のように我を忘れたような怒声ではなかった。
冷静で、それでいて決定的な言葉を引き出そうとしているような。そんな声色だった。
ぎゅう、と。震える手で、私を庇うように立ってくれている智のワイシャツの後ろ身頃を掴む。初めて片桐さんが、私たちの自宅のエントランスで待ち伏せしていた時とは、違う。あの時の智は、我を忘れて片桐さんに今にも飛びかかりそうな雰囲気があったけれど。意外なことに、今は―――ひどく、冷静に見える。
片桐さんは茫然とした表情で、私と智を見つめている、ように……見えたのだけど。
ゆっくりと。鮮やかに。口元と、そのヘーゼル色の瞳が歪んでいく。そうして。
「やぁ、智くん。昇進、おめでとう?」
へにゃり、と。上のエレベーターホールで私を待っていた時のような、人懐っこい笑みを浮かべた。
カンカン、と。片桐さんが歩みを進めていく音がする。エレベーターの中に立ち竦んでいた彼が、ゆっくりとエレベーターから足を踏み出した。
「何をした?って、当たり前のこと聞かないで欲しいね~ぇ?俺、お前に宣戦布告したでしょ?」
片桐さんが、心底愉しそうに。右の手のひらを軽く握って、その曲げた人差し指を口元に当てながら、こてん、と。小さく首を傾げた。無機質な音が響いて、片桐さんの背後の、エレベーターの扉が閉まっていく。
「お前が迎えに来るのがあんまり遅いからさ?心配になっちゃったんだ。俺ならこうして……知香ちゃんの仕事が終わればそばにいて、片時もひとりきりにさせないよ、って事を……彼女に伝えようと思っただけだよ?」
くすくす、と。嘲笑うように私たちを見つめている。あくまでも、自分のしたことはコミュニケーションのひとつである、とでも言いたげな。いかにも……智を挑発しているような。そんな口調だ。
「………」
智は、ただただじっと。片桐さんの挑発に乗ることもなく拳を握り締めたまま、真っ直ぐに。彼を静かに睨みつけている。
「あ~あ、惜しかった。もう少しだったんだけどなぁ……」
微動だにしない智を、ふたたび挑発するかのように。くすり、と。片桐さんはそのヘーゼル色の瞳を僅かに細めた。
「ま、タイミングが悪かったってコトだよね~ぇ?ちょ~っともたついたし。次はもう少しスマートにいくコトにするよ」
愉しそうな笑い声を片桐さんがあげ、言葉を続けていく。紡がれた『もたついた』という言葉に、ハッと我に返った。
(ち、がう……)
さっきの。エレベーターの中での彼の言動には。明確な意思があるようには思えなかった。言うなれば、智ではなくて片桐さんが。我を忘れているような、そんな言動に思えた。
ふい、と。少しだけ視線を落として、先ほどの出来事を反芻する。あれだけ心臓が跳ねていたのに智が来てくれたというだけで、鼓動も落ち着きを取り戻しつつある。小さく息を吸って、混乱していた思考を落ち着けてゆっくりと巡らせていく。
『私が好きなのだ』と、繰り返し口にして、自分自身に言い聞かせているような。脳内に浮かんだ違う考えを、その言葉を口にすることで打ち消しているような。そんな雰囲気があった。だから、今の片桐さん、は。
「……嘘、ついてる。そうでしょう、片桐さん」
ピクリ、と。片桐さんが私の声に、小さく身動ぎをしたことを視界の端で捉えた。
「………嘘をつくことは、嫌いだったんじゃないんですか?どうして嘘をつくの?」
そこまでを口にして、ゆっくりと……視線を上げて。掴んでいた智のワイシャツから手を離して私を庇うように立っている智の真横に歩みを進め、ヘーゼル色の瞳を見つめた。
片桐さんは人懐っこい笑みを浮かべたまま、だけれど。先週、池野さんに借りていたライターを手渡されていたときのような。いつもの笑みが印字されたシールを、ぺたり、と。顔面に隙間なく貼り付けたような。そんな表情を崩さない。
(動揺、してる)
いつだって、本心を他人に読ませない片桐さんだけれど。私の言葉に、確実に動揺している。片桐さんの心の機敏を感じ取って、ゆっくりと、言葉を投げかけた。
「片桐さん。今のあなたは、目が違う。前と同じ。あなたは、私を見ているようで、私を見ていない」
私のその言葉に、片桐さんがふたたび小さく身動ぎをした。
片桐さんは亡くなったマーガレットさんを忘れられず、その代わりに私を欲しているだけ、だった。けれど、それがいつの間にか私を見ていた。そうして、またそれがひっくり返って―――私を、見ていない。そんな瞳をしている。
だから、彼は嘘をついている。さっきの行動は、私を強引に手に入れようとしたわけじゃない。私を口説くための行動じゃない。彼になにかがあって、衝動的にさっきの行動に出てしまった。そんな風に思える。
先ほどから変わらない仮面か何かを貼り付けたような彼の表情。動揺したように思えるその表情を、嘘が嫌いだと口にしていた彼の嘘を暴くように。じっと睨めつけた。
私のそんな様子にも構わず、片桐さんは飄々とした雰囲気を精悍な顔に貼り付けたまま、悠々と言葉を紡いでいく。
「知香ちゃん。やっぱりさ?智くんじゃ君を守りきれないよ。俺にしときな?そうしたら、君も傷付かずにすむよ?」
「……」
傷付かずに、すむ。はぐらかされるような、そんな言葉に妙に引っかかるけれど。そもそもの前提の話で。
「………ですから。私は、私です。私に、忘れられない誰かを重ねるような方はお断りです、と、何度申し上げたらわかって頂けますか?」
ぎゅう、と、高い位置にあるヘーゼル色の瞳を睨みつける。
私を見ているようで、見ていない片桐さん。今も…以前のようにマーガレットさんを重ねているのか、そうじゃないのかはわからないけれど。でも、確実に、私の向こう側に。私じゃない誰かを見ている。
私の表情に、片桐さんが困ったように眉を下げ、ふっと口の端を歪ませた。
「うう~ん。何と言ったら信じてくれるのかな。俺は知香ちゃんに出会ったあの日からずっと言い続けてるよね?知香ちゃんが欲しいって。それは俺の確かな本心だよ?」
「………」
私から見てみれば『嘘』ばかりの片桐さんの言動のなかで、それだけは本当のことなのだろう、とは思う。私が欲しい、それが彼の原動力になっているのは、真実なのだろうから。
「……例えそれが片桐さんの本心だったとしても、私は受け入れられません。誰かに誰かを重ねても、誰も幸せになれません」
私に突きつけられた彼の本心を突っぱねるように。感情を押し殺した声色を意識して、彼に言葉をぶつけた。
私は私で、マーガレットさんはマーガレットさんだ。誰かに誰かを重ねても、幸せになんかなれない。
じっと。片桐さんが、私を見つめている。そうして、静かな声色で淡々と言葉を紡いだ。
「……前に。知香ちゃんは『下に見るな』って言ったけど。知香ちゃんの方が、俺のことを下に見ているよ。俺がMargaretのことを忘れられていない、誰かを重ねている、っていう、決めつけで」
高い位置にあるヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。その視線の強さに、一瞬息が止まった。
決めつけているつもりなんて、無かった。だって、それが本当のことだと思っていたから。
「知香ちゃんは俺のその気持ちに向き合ってくれたこと、あった?いつだってMargaretのことを持ち出して、俺に真剣に向き合ってくれたことはないよね。この状況で不誠実なのは、知香ちゃんの方だ」
畳み掛けるように、片桐さんから言葉を突きつけられていく。誠実ではない、という、私を揺さぶるような……強い言葉。
思いもよらない問いかけに、その真剣な声色に。ただただ自分を失ったまま、目の前にあるヘーゼル色の瞳を見つめた。
「俺は。知香ちゃんが好きなんだ。だから、こうしてずっと……出会ったあの日から、好きだと言い続けてる」
「っ、……」
小さく。囁くように。震えるような片桐さんの声が、僅かな電灯しか灯されていないこのエントランスに響いていく。
暗闇に吸い込まれていくように消えていった、片桐さんのその言葉は。彼の胸の奥深くに潜む哀しみや苦しみや戸惑いを孕んでいるように思えた。それらの全てを、私にダイレクトにぶつけられるような気がして。
揺さぶられている。そう気がついて、ぎゅう、と。強く心臓が握られていく。気道が狭くなるような感覚があって、目眩を起こしたかのように目の前がチカチカと明滅している。
すぅ、と。ヘーゼル色の瞳が、狙いを定めるように細められる。捕まってしまった、と。そう、思ったけれど。
不意に、くんっ、と。カットソーの後ろ身頃を引っ張られた。その動作で、ハッと我に返る。
(……そう、だ…)
そう。今、この瞬間。私のそばには……私の、隣には。智がいる。愛おしい、ひとがいる。
私は―――ひとりじゃ、ない。それを思い出して、小さく息を吐いた。
体内にふたたび巡る酸素が、次第に私の意識をクリアにさせていく。
そっと、真横に視線だけを向けた。身動ぎひとつせず、片桐さんを見据えている智だけれど。その横顔から『落ち着け』、と言われているように感じた。
智は、片桐さんの揺さぶりに飲み込まれそうな私のことを察して。私はひとりじゃない、大丈夫だ、と。そう、教えてくれたのだ。
自分を落ち着けるように、小さく吐息を吐き出す。身体の横に下げたままの手をぎゅっと握り締め、片桐さんに改めて視線を向けた。
先ほど細められたその瞳は、やはり僅かに揺れ動いているように見えて。
(やっぱり、なにか……今までと、違う…)
表現しようのない、違和感。小林くんが割って入ってくれた時に忠告してくれたあの言葉の意味は、これ、なのかもしれない。
「……ま、今回はタイミングが悪かったね~ぇ?残念だけど、俺は退散するよ」
くすり、と。片桐さんがふたたび笑みを浮かべ、私たちから視線を外し出入り口に向かって足を動かしていく。減らされたエントランスの電灯に片桐さんの明るい髪色が当たって、キラキラと煌めいた。
「片桐」
私の隣で、静かに。私と片桐さんの遣り取りを見守っていた智が、遠くなる片桐さんを呼び止めた。
低く、それでいて強い意志を纏った智の声に。片桐さんがピタリとその場に立ち止まる。
ゆっくりと。彼が、私たちを振り向いた。
「知香は。絶対に、渡さない」
智は、そのまま。片桐さんを見据えたまま。小さく、呟いた。
「……どうかな?」
ふっと口の端を歪めて。ヘーゼル色の瞳が、鮮やかに細められた。
くるり、と。片桐さんはそれだけを口にして、踵を返した。その動きで、彼の長袖のワイシャツに空気が含まれて袖が僅かに膨らんでいく。
出入り口の自動ドアが開き、それが閉じて。片桐さんの白い背中が、夜の帳に……溶け込むように。消えていった。
嗅ぎ慣れた匂い。私を抱き留めるために、智の大きな手のひらが私の二の腕に触れていた。優しく私の身体を抱き留めてくれる、愛おしい人の胸の中。頭上を見上げれば、今にも泣き出しそうなダークブラウンの瞳と視線が絡みあう。
「すまん、遅くなった。突然、池野課長が退職して」
「あ……」
見るからに疲労感の濃い、智の表情。その唇から紡がれた言葉に、目を見開く。
やっぱり。池野さんの退職は、智も知らなかったこと、なのだ。だから今日は、突如退職した彼女の後を任されることになり東奔西走し、一日中連絡が取れなかったのだろう。
私も、今日は。いつもより増して忙しかった。あのシンポジウム後の交流食事会で繋がった、新規の取引先が徐々に増えていっているから……深夜残業がつく直前まで、通関依頼を捌いていた。
「遅くなったから、あの交差点で待つよりはと思ってここに来た。この時間なら極東商社の社員もほぼ帰っているだろう。俺が知香と一緒にいても勘繰られるような状態にはならないと思って、な」
いつも待ち合わせている、交差点。このオフィスビルからも、三井商社のオフィスビルからも死角になる、あの交差点。あの待ち合わせ場所ではなくて、ここに迎えに来てくれた、ということに、今日はひどく安堵した。
唇を。奪われるかもしれない、と、思った。
倒れて、頭を打って、気絶でもすれば―――片桐さんに連れ去られる、と。
あの瞬間。私を見ているのに、私を見ていない、ヘーゼル色の瞳と視線がかち合った瞬間。
確かに、そう、思った。
あれからの片桐さんは、私を見ていたから。だから、私が嫌がることを、無理にはしないだろう、と。その考えを、たったあの一瞬で、大きくひっくり返されて。
小刻みに震える身体。私からその恐怖の感情を感じ取ったのか、私に視線を向けていた智がぐっと唇を噛み締めた。
私の二の腕に触れられていた智の手のひらが、ゆっくりと離されて。私を背中に庇うように、智が歩みを進める。
「………で。なぜ、こんな状況になっている?」
智が、怒気を孕んだ低い声で。エレベーターの中に立ち竦んだままの、片桐さんに言葉を投げつけた。
「なぜ、知香の身体から。お前の香水の匂いがする?」
低く、低く。智が畳み掛けるように問いかけていく。
私の身体から立ち上る、シトラスの香り。片桐さんの―――香水の、香り。嗅覚が鋭敏な智は、たったそれだけで。私の身体に片桐さんの香水の香りが移るほどの何かがあった、と。このエレベーターの中で私に何が起こったかをある程度把握した、と……そう言いたいのだろう。
ぎり、と。智の右の手のひらが小さく握られる。
「………答えろ、片桐。知香に、何をした?」
唸るような。でも、それは以前のように我を忘れたような怒声ではなかった。
冷静で、それでいて決定的な言葉を引き出そうとしているような。そんな声色だった。
ぎゅう、と。震える手で、私を庇うように立ってくれている智のワイシャツの後ろ身頃を掴む。初めて片桐さんが、私たちの自宅のエントランスで待ち伏せしていた時とは、違う。あの時の智は、我を忘れて片桐さんに今にも飛びかかりそうな雰囲気があったけれど。意外なことに、今は―――ひどく、冷静に見える。
片桐さんは茫然とした表情で、私と智を見つめている、ように……見えたのだけど。
ゆっくりと。鮮やかに。口元と、そのヘーゼル色の瞳が歪んでいく。そうして。
「やぁ、智くん。昇進、おめでとう?」
へにゃり、と。上のエレベーターホールで私を待っていた時のような、人懐っこい笑みを浮かべた。
カンカン、と。片桐さんが歩みを進めていく音がする。エレベーターの中に立ち竦んでいた彼が、ゆっくりとエレベーターから足を踏み出した。
「何をした?って、当たり前のこと聞かないで欲しいね~ぇ?俺、お前に宣戦布告したでしょ?」
片桐さんが、心底愉しそうに。右の手のひらを軽く握って、その曲げた人差し指を口元に当てながら、こてん、と。小さく首を傾げた。無機質な音が響いて、片桐さんの背後の、エレベーターの扉が閉まっていく。
「お前が迎えに来るのがあんまり遅いからさ?心配になっちゃったんだ。俺ならこうして……知香ちゃんの仕事が終わればそばにいて、片時もひとりきりにさせないよ、って事を……彼女に伝えようと思っただけだよ?」
くすくす、と。嘲笑うように私たちを見つめている。あくまでも、自分のしたことはコミュニケーションのひとつである、とでも言いたげな。いかにも……智を挑発しているような。そんな口調だ。
「………」
智は、ただただじっと。片桐さんの挑発に乗ることもなく拳を握り締めたまま、真っ直ぐに。彼を静かに睨みつけている。
「あ~あ、惜しかった。もう少しだったんだけどなぁ……」
微動だにしない智を、ふたたび挑発するかのように。くすり、と。片桐さんはそのヘーゼル色の瞳を僅かに細めた。
「ま、タイミングが悪かったってコトだよね~ぇ?ちょ~っともたついたし。次はもう少しスマートにいくコトにするよ」
愉しそうな笑い声を片桐さんがあげ、言葉を続けていく。紡がれた『もたついた』という言葉に、ハッと我に返った。
(ち、がう……)
さっきの。エレベーターの中での彼の言動には。明確な意思があるようには思えなかった。言うなれば、智ではなくて片桐さんが。我を忘れているような、そんな言動に思えた。
ふい、と。少しだけ視線を落として、先ほどの出来事を反芻する。あれだけ心臓が跳ねていたのに智が来てくれたというだけで、鼓動も落ち着きを取り戻しつつある。小さく息を吸って、混乱していた思考を落ち着けてゆっくりと巡らせていく。
『私が好きなのだ』と、繰り返し口にして、自分自身に言い聞かせているような。脳内に浮かんだ違う考えを、その言葉を口にすることで打ち消しているような。そんな雰囲気があった。だから、今の片桐さん、は。
「……嘘、ついてる。そうでしょう、片桐さん」
ピクリ、と。片桐さんが私の声に、小さく身動ぎをしたことを視界の端で捉えた。
「………嘘をつくことは、嫌いだったんじゃないんですか?どうして嘘をつくの?」
そこまでを口にして、ゆっくりと……視線を上げて。掴んでいた智のワイシャツから手を離して私を庇うように立っている智の真横に歩みを進め、ヘーゼル色の瞳を見つめた。
片桐さんは人懐っこい笑みを浮かべたまま、だけれど。先週、池野さんに借りていたライターを手渡されていたときのような。いつもの笑みが印字されたシールを、ぺたり、と。顔面に隙間なく貼り付けたような。そんな表情を崩さない。
(動揺、してる)
いつだって、本心を他人に読ませない片桐さんだけれど。私の言葉に、確実に動揺している。片桐さんの心の機敏を感じ取って、ゆっくりと、言葉を投げかけた。
「片桐さん。今のあなたは、目が違う。前と同じ。あなたは、私を見ているようで、私を見ていない」
私のその言葉に、片桐さんがふたたび小さく身動ぎをした。
片桐さんは亡くなったマーガレットさんを忘れられず、その代わりに私を欲しているだけ、だった。けれど、それがいつの間にか私を見ていた。そうして、またそれがひっくり返って―――私を、見ていない。そんな瞳をしている。
だから、彼は嘘をついている。さっきの行動は、私を強引に手に入れようとしたわけじゃない。私を口説くための行動じゃない。彼になにかがあって、衝動的にさっきの行動に出てしまった。そんな風に思える。
先ほどから変わらない仮面か何かを貼り付けたような彼の表情。動揺したように思えるその表情を、嘘が嫌いだと口にしていた彼の嘘を暴くように。じっと睨めつけた。
私のそんな様子にも構わず、片桐さんは飄々とした雰囲気を精悍な顔に貼り付けたまま、悠々と言葉を紡いでいく。
「知香ちゃん。やっぱりさ?智くんじゃ君を守りきれないよ。俺にしときな?そうしたら、君も傷付かずにすむよ?」
「……」
傷付かずに、すむ。はぐらかされるような、そんな言葉に妙に引っかかるけれど。そもそもの前提の話で。
「………ですから。私は、私です。私に、忘れられない誰かを重ねるような方はお断りです、と、何度申し上げたらわかって頂けますか?」
ぎゅう、と、高い位置にあるヘーゼル色の瞳を睨みつける。
私を見ているようで、見ていない片桐さん。今も…以前のようにマーガレットさんを重ねているのか、そうじゃないのかはわからないけれど。でも、確実に、私の向こう側に。私じゃない誰かを見ている。
私の表情に、片桐さんが困ったように眉を下げ、ふっと口の端を歪ませた。
「うう~ん。何と言ったら信じてくれるのかな。俺は知香ちゃんに出会ったあの日からずっと言い続けてるよね?知香ちゃんが欲しいって。それは俺の確かな本心だよ?」
「………」
私から見てみれば『嘘』ばかりの片桐さんの言動のなかで、それだけは本当のことなのだろう、とは思う。私が欲しい、それが彼の原動力になっているのは、真実なのだろうから。
「……例えそれが片桐さんの本心だったとしても、私は受け入れられません。誰かに誰かを重ねても、誰も幸せになれません」
私に突きつけられた彼の本心を突っぱねるように。感情を押し殺した声色を意識して、彼に言葉をぶつけた。
私は私で、マーガレットさんはマーガレットさんだ。誰かに誰かを重ねても、幸せになんかなれない。
じっと。片桐さんが、私を見つめている。そうして、静かな声色で淡々と言葉を紡いだ。
「……前に。知香ちゃんは『下に見るな』って言ったけど。知香ちゃんの方が、俺のことを下に見ているよ。俺がMargaretのことを忘れられていない、誰かを重ねている、っていう、決めつけで」
高い位置にあるヘーゼル色の瞳が、真っ直ぐに私を貫いていく。その視線の強さに、一瞬息が止まった。
決めつけているつもりなんて、無かった。だって、それが本当のことだと思っていたから。
「知香ちゃんは俺のその気持ちに向き合ってくれたこと、あった?いつだってMargaretのことを持ち出して、俺に真剣に向き合ってくれたことはないよね。この状況で不誠実なのは、知香ちゃんの方だ」
畳み掛けるように、片桐さんから言葉を突きつけられていく。誠実ではない、という、私を揺さぶるような……強い言葉。
思いもよらない問いかけに、その真剣な声色に。ただただ自分を失ったまま、目の前にあるヘーゼル色の瞳を見つめた。
「俺は。知香ちゃんが好きなんだ。だから、こうしてずっと……出会ったあの日から、好きだと言い続けてる」
「っ、……」
小さく。囁くように。震えるような片桐さんの声が、僅かな電灯しか灯されていないこのエントランスに響いていく。
暗闇に吸い込まれていくように消えていった、片桐さんのその言葉は。彼の胸の奥深くに潜む哀しみや苦しみや戸惑いを孕んでいるように思えた。それらの全てを、私にダイレクトにぶつけられるような気がして。
揺さぶられている。そう気がついて、ぎゅう、と。強く心臓が握られていく。気道が狭くなるような感覚があって、目眩を起こしたかのように目の前がチカチカと明滅している。
すぅ、と。ヘーゼル色の瞳が、狙いを定めるように細められる。捕まってしまった、と。そう、思ったけれど。
不意に、くんっ、と。カットソーの後ろ身頃を引っ張られた。その動作で、ハッと我に返る。
(……そう、だ…)
そう。今、この瞬間。私のそばには……私の、隣には。智がいる。愛おしい、ひとがいる。
私は―――ひとりじゃ、ない。それを思い出して、小さく息を吐いた。
体内にふたたび巡る酸素が、次第に私の意識をクリアにさせていく。
そっと、真横に視線だけを向けた。身動ぎひとつせず、片桐さんを見据えている智だけれど。その横顔から『落ち着け』、と言われているように感じた。
智は、片桐さんの揺さぶりに飲み込まれそうな私のことを察して。私はひとりじゃない、大丈夫だ、と。そう、教えてくれたのだ。
自分を落ち着けるように、小さく吐息を吐き出す。身体の横に下げたままの手をぎゅっと握り締め、片桐さんに改めて視線を向けた。
先ほど細められたその瞳は、やはり僅かに揺れ動いているように見えて。
(やっぱり、なにか……今までと、違う…)
表現しようのない、違和感。小林くんが割って入ってくれた時に忠告してくれたあの言葉の意味は、これ、なのかもしれない。
「……ま、今回はタイミングが悪かったね~ぇ?残念だけど、俺は退散するよ」
くすり、と。片桐さんがふたたび笑みを浮かべ、私たちから視線を外し出入り口に向かって足を動かしていく。減らされたエントランスの電灯に片桐さんの明るい髪色が当たって、キラキラと煌めいた。
「片桐」
私の隣で、静かに。私と片桐さんの遣り取りを見守っていた智が、遠くなる片桐さんを呼び止めた。
低く、それでいて強い意志を纏った智の声に。片桐さんがピタリとその場に立ち止まる。
ゆっくりと。彼が、私たちを振り向いた。
「知香は。絶対に、渡さない」
智は、そのまま。片桐さんを見据えたまま。小さく、呟いた。
「……どうかな?」
ふっと口の端を歪めて。ヘーゼル色の瞳が、鮮やかに細められた。
くるり、と。片桐さんはそれだけを口にして、踵を返した。その動きで、彼の長袖のワイシャツに空気が含まれて袖が僅かに膨らんでいく。
出入り口の自動ドアが開き、それが閉じて。片桐さんの白い背中が、夜の帳に……溶け込むように。消えていった。
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その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
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