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本編・第三部

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 かたん、と小さな音を立てて、注文したハンバーグ定食が乗ったトレーを社員食堂のテーブルに置く。

「……つかれた……」

 小さく呟きながら、ぐったりと身体を弛緩させた。


 昨日。深夜残業が付く直前まで残業していたのは、あのシンポジウム後に開かれた交流食事会にて繋がった取引先からの通関依頼が入っていたから。私はこの件で、昨年秋に総合職に転換して以降初めて成果を上げられた。午前中、一気に数件の新規顧客を獲得したことを田邉部長にも褒められ、嬉しかった。


 社員食堂の椅子に腰かけ背中を丸めたまま、膝の上に置いた右の手のひらにそっと視線を落とす。

(私の力だけじゃない。智が色々教えてくれた営業トークも使ったし、あの場で取引先を紹介して回れるようにペアを組んでくれた深川係長がいたから……)

 あの場でペアを組む、ということを農産販売部単体での打ち合わせで提案していたのは、という事実には、今はちょっと素直に感謝出来ない。

(……後で深川係長にもお礼の社内メール送ろう。ご実家のお皿も使ってますってことも添えて…)

 心の中で軽く頭を振り、意識的にあのヘーゼル色の瞳を意識から追い出す。

 成果を上げられたことを褒められた、それは嬉しかったけれど。まだ火曜日だというのに心身ともに疲弊しているのを感じる。



 明らかに。昨日の、エレベーターの中での出来事が尾を引いている。心の中に大きな重石が積み上げられたようだ。



 丸めていた背中を伸ばしてトレーの上に置かれた箸を手に取り、ハンバーグ定食に添えられたサラダのお椀に手を伸ばす。

(……今日は、さすがに。帰り、待っていない、でしょう……)

 黒川さんから救って貰ったこと。不正取引の証拠を提供して貰ったこと。これは確かに感謝している、けれど。

 昨夜。片桐さんがこれまでとは違う行動に出た。密室であるエレベーターの中で私に触れない、という約束を反故にした。あまつさえ、唇を奪おうとした。あれが衝動的な行動だったとしても、約束を破ったことは変えられない事実だ。だから、あの片桐さんでも合わす顔がないと判断して、今日はさすがにあのエレベーターホールで待っていることはないと思う。あんなことをされて同じエレベーターにふたたび乗るほど私も阿呆ではない。

(……あ、そうだ。阿呆の真似。……十二夜、だったよね?)

 一昨日、小林くんに教えてもらった……池野さんが片桐さんに投げかけた言葉のヒント。調べようと思っていたけれど、バタついていて調べられていない。食事を摂り終えたら調べよう、と心に決めて、トレーの中央のハンバーグに箸を入れた。

(智、今日もきっと遅いよね……)

 池野さんが三井商社を突如退職され、その後を任された智はなんと『企画開発部 部長 兼 営業課 課長』という役職に昇進した。驚くべきことに三井商社の社員さんたちも、池野さんが退職されるということはご存じなかった。智自身も混乱したまま仕事を進め、東奔西走していた、ということを……昨晩、帰宅してからポツポツと聞いた。

 まさか、31歳初出勤の日にそんなことが起こるなど夢にも思わなかった。智自身もよく飲み込めていないようだけれど。

(お祝い。何にしよう)

 思いも寄らないタイミングでの昇進だったけれど、智の頑張りがきちんと評価されている、というのは心の底から嬉しいと感じる。誕生日のお祝いはネクタイを贈ったから、それ以外のなにかでまたお祝いを考えよう。

(………昨日、あそこまで迎えに来てくれて…良かった……)

 はふ、と。口に含んだハンバーグの熱を逃がす動作に合わせて小さくため息を吐き出した。

 智は、よほどほっとしたのか。あれからの帰り道、会話はなくそれでも心地よい沈黙が続き、一瞬も繋いだ手を離されずにふたりで帰宅した。あの狭い改札を通る瞬間ですら手を離されなかったのには少しだけ笑えたけれど。

(すごく……冷静、だったなぁ、昨日の智)

 これまでの智とは雰囲気が違ったように思えた。今までの智だったら、あんな場面ではもっと片桐さんに自分を失って強い口調で詰め寄っていただろう。それをしなかったのは、唐突に池野さんの後を任されて、智の心身に強い疲労感が滲んでいたから、疲れていたから、ということではなくて。……智自身の何かが根本から変化しているように思えた。

 それとは対照的に自分を失っているように見えた、片桐さん。口調こそ今までの片桐さんだったけれど、あの瞳を見れば一目瞭然だった。

(……何を、考えていたんだろう。片桐さん)

 彼が何を考えていたかはわからない。けれど確実に言えるのは、彼も……彼自身の何かが根本から変化しているように思えること。この感覚を言語化するのはひどく難しい。
 そんなことをぼんやり考えていたら、加藤さんが以前と同じように私の隣の席に座っていいかと問いかけてきた。もちろんよ、と返答し、彼女が私の隣に腰かけるの眺めていると、加藤さんが意外そうな表情で声をかけてくる。

「……主任がこの社員食堂で何かを注文しているのを初めて見た気がします」

「え、そうだっけ」

 加藤さんからの思いもよらない言葉にパチパチと目を瞬かせる。よくよく考えれば、確かに南里くんと加藤さんが配属されて以降、これまでお弁当を持参しない日はほとんどなく、その上にそういった時は1階のカフェに足を運んでいた。今日はそのカフェに行く道中やそのカフェで片桐さんに遭遇してしまう可能性が嫌で、きっと無意識のうちにこの社員食堂で注文する、という選択をしたのだろうと自分の中でも納得する。

「加藤さんがハマってるでしょう?加藤さんが食べてるの見てたら私もハンバーグ定食が食べたくなっちゃったの。食べてて思うけど、やっぱりここのハンバーグが一番美味しいと思う」

 加藤さんをこの件に巻き込みたくない。その一心で、心の中で出した結論は封じ込めることにした。当たり障りの無い、それでも私の中では嘘では無い答えを口にして右隣に座る加藤さんに笑顔を向けた。

「確かに、先月注文した時……このハンバーグ本当に美味しいなって思いました。商品開発部や畜産販売部のバイヤーさんたちのおかげですね……」

 ほう、と。加藤さんが感嘆のため息を小さく漏らした。あれ以降、加藤さんは社員食堂で注文する時は必ずハンバーグ定食なのだ。確実にハマっているとわかるのが微笑ましい。

(……微笑ましい、といえば)

 あの時。加藤さんが贈り物の意味を教えてくれた時。ネクタイピンを贈ってしまったのかと加藤さんに問われて、真っ赤になっていた三木ちゃん。まさか、彼女が―――小林くんと付き合っていた、だなんて。夢にも思わなかった。そんな三木ちゃんは今日はお昼休み前から銀行に行っているから、きっと外で食べてくるだろう。

 加藤さんと会話を続けながら、少しだけ視線を彷徨わせて、脳裏に浮かべた小林くんを探す。私たちが座る席の斜め前に畜産販売部の人たちと固まって食事を摂っている小林くんをすぐに見つけられた。彼は所作が特に綺麗だから見つけやすい。

 あどけない少年のような顔立ち。感情を表に出さない彼だけれど、周りの人たちとの会話で時折、ふっと、緩やかに口元を緩めている。異動先の畜産販売部での人間関係も良好なのだと察した。

(………上手くいくといいな。幸せになって欲しいし)

 彼らに関しては心の底からそう思う。ふたりとも自分が教育を担当したからか、なんだか親にでもなった気分だ。

「……主任。その」

 食事をしながら、加藤さんが唐突に私を呼び止める。その声に、白米が盛られたお椀を片手にきょとん、と彼女を見つめる。

「どうしたの?」

 私の問いかけに、加藤さんが。お人形さんのような顔をほんのりと赤くして視線を彷徨わせる。言い辛い内容なのだろうか、と思っていると、嬉しい報告の言葉が飛び出してきた。

「…………例の、人と…日曜日から。ちゃんとお付き合いすることになりまして」

「……えっ、ほんとに!?」

 お椀を手に持ったまま、喜びの声が飛び出ていく。

 彼女と藤宮くんを引き合わせたのは私と智だ。我が事のように嬉しく感じる。いい形になって良かった、と、心底そう思う。

 加藤さんがはにかんだように微笑んだ。そうして、ぺこりと小さく頭を下げていく。

「はい……本当に、色々とありがとうございました。主任と、彼氏さんのおかげです」

 さらり、と彼女の黒髪が揺れる。そうして、ほわん、と。金木犀の香りが漂う。彼女の香水の匂い。不意にシトラスの香りが漂った気がして、意識が違う場所に飛んで行きそうになる。彼はここには来ていないはず、これは幻臭だ、と、心の中で大きく頭を振った。

「そんなことないわ?加藤さんと彼のフィーリングが合ったからこそのご縁だもの」

 手に持ったお椀とお箸を一旦をトレーに置き身体を少しだけ斜めにして、加藤さんの方向に視線を向けながらそう口にする。

 人との出会いはご縁だ。進展するかしないかも、ご縁。だから、私が片桐さんでなく智と付き合っていることも、ご縁のひとつ。昨晩のようにどんなに片桐さんに好きだと言われても、私と彼はご縁が無かった。きっと、それだけなのだと思う。

「それで、実は私……その、お付き合いとかいうのが初めてで。少しアドバイスが頂きたくて」

 加藤さんも私に倣うようにお箸をトレーに置いた。初めての恋人だからこそ、不安なこともいっぱいあるだろう。小林くんや三木ちゃんと同じように、彼女だって私の大切な後輩だ。幸せになって欲しいから、彼女の相談にはたくさん乗ってあげたい。

「来月の中頃の……花火大会に誘われていて。やっぱり、浴衣……のほうがいいのでしょうか……」

 おずおずと、戸惑うように問いかけられたその言葉。早速夏の定番のイベントに誘うとは、筋トレが趣味だなんて言っていた藤宮くんもやるなぁと心の中で感心しながら返答していく。

「そりゃぁお祭りだし、雰囲気も込みで楽しむって意味を含めても浴衣の方がいいと思うわよ?」

 私の言葉に、加藤さんは、やっぱり、というような表情を見せた。落胆して視線を落としていくその様子に、再度きょとんとしていると。

「その……着付けができないので、洋服でもいいかなって……」

 小さく。不安げに加藤さんが呟く。着付けが出来ない、ということが問題なのであれば。

「じゃぁ、着付けお手伝いしようか?私、祖母に習ったから」

 母方の祖母は女学校の出身で、昔で言うところの『花嫁学校』を卒業していた。故に、和裁や洋裁、料理等に長けているのだ。故に着付けもお手の物。

 高校生の時に、同級生と夏祭りに行く時に祖母から着付けを習った。自装と他装は正確にいえば色々と違うけれど、多少なりとも加藤さんの着付けのお手伝いは出来るはず。

 そういえば……心臓の手術で入院期間が長かったお母さんも、祖母から教わった和裁や刺繍をしながら病室で過ごしていたなぁ、と、病室でのお母さんの穏やかな笑顔が朧気に蘇る。

「ええっ、そこまではさすがに……通関士試験の勉強もされている主任にご迷惑をおかけするわけには」

 おろおろと視線を彷徨わせている加藤さん。彼女も総合職だから、来年の10月には受験となる。そういう事情も相まって、加藤さんも南里くんも、来月からテキストを勉強していく予定にはなっていた。

「ん~……じゃぁ、加藤さんも通関士試験の勉強をするついでに、着付けの練習に付き合う。わからない部分があれば私もわかる範囲で補足するし。これでどう?」

 初めての彼氏との初めての花火大会。楽しんで欲しいし、何より、プライベートが充実すれば仕事にも良い影響が出るということは南里くんで実証済みだ。人によるだろうけれど、きっと彼女もまたそのタイプだろうと推察してのこと。

「そ、それも気が引けます」

「いいのいいの。着付け、やらないと忘れるから。私も彼と行く時に着たいし、練習したいのよ。だから加藤さん、私と一緒に練習付き合ってくれない?」

 智と付き合うようになって、冬を越し春を過ぎて、夏の定番イベントを楽しみにしていたけれど。管理職に昇進したばかりの智に花火大会に行く余裕なんて正直ないだろう、と予想はしている。だから私も加藤さんと一緒に自装の練習をしたところで、無駄になるかもしれない。でも、縮こまっている彼女を納得させるにはそれしかない。そう言いながら、強引に押し切った。

「色々と、ありがとうございます……主任」

「いえいえ、いいのよ」

 謝意を口にしながら、浴衣デートは半ば諦めていたから嬉しい、と、はにかんだように微笑む加藤さん。その姿がなんとも可愛らしい。

 三木ちゃんも、小林くんも、加藤さんも……南里くんも。みんなみんな、本当に可愛い後輩だと改めて実感する。

(……智、今日も遅いだろうから。帰ったらちょっと浴衣引っ張り出してコツ思い出せるようにしておこうかな)

 今日帰宅したあとの家事の合間での楽しみができた。そのことに、昨晩の出来事で重石が乗せられた心が、少しだけ軽くなった気がした。
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