38 / 68
渡辺明日奈 編
第39話「図書室の秘めごと」
しおりを挟む
【九月五日(金曜日)】
隣に佇む男は、淡々と静まり返っていて、いつもとはまるで別人だった。さっきから一言も発さない。私は居心地が悪くて、口火を切る決心をした。
「あのさ」
「何?」
「機嫌、悪いみたい」
「オレはいつもこうだよ」
「……怒ってる?」
「別に」
その彼の一言で、再び静寂が訪れる。
今日は引き続き、図書室の棚卸作業。
水曜日、大幅に作業を行ったものの、まだまだ書籍移動作業は残っているのだ。相葉君は作業中、始終むっとしていた。普段から愛想がいいとは言えないが、今日はなんだか怖いくらいだ。
なんなのよ、もう。
おそらく昨日私が、図書室へ時間通りに行かなかったことを、怒っているのだろう。
うっかりしていて、連絡するのも忘れていた。確かにそれは悪かったが、遅刻常習犯の相葉君にイラつかれたくない。
「昨日はごめん。ちょっと用事があって、百花から聞いた。私のこと探してたんだって?」
「……」
「それで、怒ってるんでしょ。悪かったわよ。謝るわよ」
「……なに、してたの」
「え?」
前日の、高橋先輩との地獄のような時間が思い出された。気分が悪くなってくる。
「用事ってなに?」
なんで、そんなこと聞くのよ?
なんの嫌がらせ?
こいつ本当は、私の心を読めるんじゃないの?
「……いや別に、相葉君には関係ないよ」
そう答えるのがやっとだった。
警察の取調べを受けてる気分だ。いや、実際に取調べなんて、受けたことはないけれど。
きっと、こんな感じに違いない。もう思い出したくもないのに、なんだってこの男は、人の傷口を抉るまねをするのだ。自覚はないだろうが、それがかえって悪質だ。無自覚な悪意ほど、始末が悪いものはない。
次に、腕に鈍い痛みが走った。
視界は宙を舞い、平衡感覚を失う。
気が付けば図書室の絨毯へしたたかに、腰を打ちつけている自分がいた。なにが起こったのか、しばらく分からなかった。
目の前には、すぐ相葉君の顔がある。こんなに近くにいるのに、彼の表情は逆光で見えなかった。一瞬が永遠のように感じられたが、次第に相葉君の体の重さが伝わってきて、自分が彼に、簡単に押し倒されてしまったことに気が付く。
――恐ろしかった。
なにが恐ろしいかも分からないほどに、混乱していたと思う。
だけど、私の心の片隅には、ヒンヤリとした冷静さが横たわっていて、二学期の始業式の日、彼が言った言葉が頭にボンヤリと浮かんだ。
『冗談じゃねーよ! なんでババア相手にっ。女なら、誰でもいいってわけじゃないのっ。オレの理想は高いのっ。胸が大きくて、スタイル抜群の、グラビアアイドルみたいなお姉さん!』
……ああ。
どうして今の流れで、こういうことになったのかは、てんで分からないが、そういうつもりなの、か?
私は驚くほど静かに、冷静に、その言葉を口にしていた。
「私と……したいの?」
永遠とも言える、刹那の時間が流れた。
次に相葉君は、バネのように私から飛びのいた。
「ばっ、ばかじゃねーのっ」
そんな捨て台詞を吐いた後、彼は私をそのままにして、図書室から足速に出て行ってしまった。図書室の床は窓からの日差しを吸収し、じんわりと暖かかった。夕陽が落ちるのは意外に早い。日が傾いてきて私の顔を照らて行く。オレンジ色の強烈な光が目に差し込んで、私はぎゅっと瞼を閉じた。
だが目を閉じようとも、オレンジ色は私の瞼に貼り付いて剥がれない。目を背けることはできない。
私は床に大の字になって、ただ天井を見上げていた。図書室には私の他には、きっと誰もいない。いたとしても、私に慰めの言葉さえ、掛ける者はいないだろう。
たぶん部屋の向こうから、乾いた馬鹿みたいな黄色い笑い声が、微かに聞こえてくるだけに違いないのだ。そう、まるで私は世界から隔絶され、気にも留められない存在。
……百花なら、相葉君も逃げはしなかっただろうか。
どうして、どうしてこんなときまで私は、彼女のことを、思い浮かべてしまうのだろう。
生暖かい涙が、頬を伝って行く。
それがなにに対する絶望なのか、はっきりと分かった気がする。
今の私ほど哀れな女は、世界中のどこを探してもいないだろう。きっと、神様でも天使でも魔法使いでも悪魔でも、私を救えやしない。
そのとき私は突然思い出した。
……一つ、一つだけあった。
ネガイカナエノホン。
そのときなにかが、私の中で音をたてて壊れていった。
つづく
隣に佇む男は、淡々と静まり返っていて、いつもとはまるで別人だった。さっきから一言も発さない。私は居心地が悪くて、口火を切る決心をした。
「あのさ」
「何?」
「機嫌、悪いみたい」
「オレはいつもこうだよ」
「……怒ってる?」
「別に」
その彼の一言で、再び静寂が訪れる。
今日は引き続き、図書室の棚卸作業。
水曜日、大幅に作業を行ったものの、まだまだ書籍移動作業は残っているのだ。相葉君は作業中、始終むっとしていた。普段から愛想がいいとは言えないが、今日はなんだか怖いくらいだ。
なんなのよ、もう。
おそらく昨日私が、図書室へ時間通りに行かなかったことを、怒っているのだろう。
うっかりしていて、連絡するのも忘れていた。確かにそれは悪かったが、遅刻常習犯の相葉君にイラつかれたくない。
「昨日はごめん。ちょっと用事があって、百花から聞いた。私のこと探してたんだって?」
「……」
「それで、怒ってるんでしょ。悪かったわよ。謝るわよ」
「……なに、してたの」
「え?」
前日の、高橋先輩との地獄のような時間が思い出された。気分が悪くなってくる。
「用事ってなに?」
なんで、そんなこと聞くのよ?
なんの嫌がらせ?
こいつ本当は、私の心を読めるんじゃないの?
「……いや別に、相葉君には関係ないよ」
そう答えるのがやっとだった。
警察の取調べを受けてる気分だ。いや、実際に取調べなんて、受けたことはないけれど。
きっと、こんな感じに違いない。もう思い出したくもないのに、なんだってこの男は、人の傷口を抉るまねをするのだ。自覚はないだろうが、それがかえって悪質だ。無自覚な悪意ほど、始末が悪いものはない。
次に、腕に鈍い痛みが走った。
視界は宙を舞い、平衡感覚を失う。
気が付けば図書室の絨毯へしたたかに、腰を打ちつけている自分がいた。なにが起こったのか、しばらく分からなかった。
目の前には、すぐ相葉君の顔がある。こんなに近くにいるのに、彼の表情は逆光で見えなかった。一瞬が永遠のように感じられたが、次第に相葉君の体の重さが伝わってきて、自分が彼に、簡単に押し倒されてしまったことに気が付く。
――恐ろしかった。
なにが恐ろしいかも分からないほどに、混乱していたと思う。
だけど、私の心の片隅には、ヒンヤリとした冷静さが横たわっていて、二学期の始業式の日、彼が言った言葉が頭にボンヤリと浮かんだ。
『冗談じゃねーよ! なんでババア相手にっ。女なら、誰でもいいってわけじゃないのっ。オレの理想は高いのっ。胸が大きくて、スタイル抜群の、グラビアアイドルみたいなお姉さん!』
……ああ。
どうして今の流れで、こういうことになったのかは、てんで分からないが、そういうつもりなの、か?
私は驚くほど静かに、冷静に、その言葉を口にしていた。
「私と……したいの?」
永遠とも言える、刹那の時間が流れた。
次に相葉君は、バネのように私から飛びのいた。
「ばっ、ばかじゃねーのっ」
そんな捨て台詞を吐いた後、彼は私をそのままにして、図書室から足速に出て行ってしまった。図書室の床は窓からの日差しを吸収し、じんわりと暖かかった。夕陽が落ちるのは意外に早い。日が傾いてきて私の顔を照らて行く。オレンジ色の強烈な光が目に差し込んで、私はぎゅっと瞼を閉じた。
だが目を閉じようとも、オレンジ色は私の瞼に貼り付いて剥がれない。目を背けることはできない。
私は床に大の字になって、ただ天井を見上げていた。図書室には私の他には、きっと誰もいない。いたとしても、私に慰めの言葉さえ、掛ける者はいないだろう。
たぶん部屋の向こうから、乾いた馬鹿みたいな黄色い笑い声が、微かに聞こえてくるだけに違いないのだ。そう、まるで私は世界から隔絶され、気にも留められない存在。
……百花なら、相葉君も逃げはしなかっただろうか。
どうして、どうしてこんなときまで私は、彼女のことを、思い浮かべてしまうのだろう。
生暖かい涙が、頬を伝って行く。
それがなにに対する絶望なのか、はっきりと分かった気がする。
今の私ほど哀れな女は、世界中のどこを探してもいないだろう。きっと、神様でも天使でも魔法使いでも悪魔でも、私を救えやしない。
そのとき私は突然思い出した。
……一つ、一つだけあった。
ネガイカナエノホン。
そのときなにかが、私の中で音をたてて壊れていった。
つづく
応援ありがとうございます!
1
お気に入りに追加
6
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる