127柱目の人柱

ど三一

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学舎編 一

稲葉が選ばれた理由

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本匠は何を思って稲葉を推すのか。一介の使用人に問われても“主様が稲葉を選ばれた”の一点張りで、その本意を知るのは主様や御蔭等、屋敷でも上澄みのごく一部なのだろう。厨房頭という地位は内部情報が回ってくる程高位ではない。しかし、屋敷に長年仕え、主様や重鎮達の事情はある程度知っている自分になら、全てとは言わずとも話せる事もあるのではないかと思っていた。

「あんたの考えを教えてくれよ。十年百年の浅い付き合いじゃあないだろう?」

本匠は厨房頭の言葉を聞いて、僅かに口元を緩めると、静かに「まあな」と呟いた。使用人達を束ねる立場上、必要以上に優しすぎず厳しすぎず、仲を深めすぎないよう、口を引き結んで一線を引いた所にいる男の微細な変化。主様に忠実かつ冷静で、個人の考えが読めないこの男との間にある友情の存在を何十年かぶりに感じて、厨房頭はほんの少しむず痒い気持ちになり、痒くも無いのに鼻梁を指で擦った。

「……主様が稲葉を気に入って選んだのは本当だ」
「そりゃわかってるよ。愛嬌のある子だ」
「御蔭にも話していない事だが、実は……主様付使用人の候補は私が選んだ」
「ほう、そりゃあ秘密の話だね。御蔭は主様にべったりだから、稲葉みたいな出来が悪くて可愛がられる奴を選ぶとはどうしても思えなかった。主様が選んだって聞いて、一応の納得はしたが……合点がいったよ。ちなみに他の面子は誰だったんだい?」
「聞いても仕方ないと思うぞ。私は、きっと主様は稲葉を選ばれると最初から思っていた」
「その根拠は?」
「身の回りの世話は御蔭で十分。主様の武功故か、使用人、配下共に畏敬、畏怖の念が先行し萎縮してしまう。主様は聡く、御優しい方……どうしても使用人に気遣ってしまうだろう。しかし、稲葉は…」

厨房頭は答えに思い当たり、肩の力を抜いた。

「最初は恐怖するだろうが……物覚えも良くないし、話している内に忘れるだろうな」
「ふ……使用人としては未熟者であるが、稲葉個人として良い所はたくさんあり、心根も悪くない。気遣いはまだまだだが人懐っこく、好奇心旺盛で流行にも通じる話し好き。中々外に出掛けられない主様の話し相手にはもってこいだ。他の神様であったら屋敷を追放されてもおかしくない無礼も見受けられるが」
「誰に対しても稲葉のまんまだから、主様も色々考えずに済んで気疲れしないんだろうな」

本匠が語った、屋敷中が疑問に思っていた稲葉の主様付使用人登用の理由は、主様の性格を考えれば案外思いつく事だった。

「何だかんだ稲葉の事、買ってるんだね」
「未熟は未熟だがな」
「おっ、照れ隠しかい?」

本匠と厨房頭は隣で会話しながら御殿を後にした。それぞれの居場所に通じる分かれ道に立った時、厨房頭は久方振りに垣間見た友情に気を良くして最後の会話に冗談を交える。

「もしかしたらあんたは、主様好みの稲葉を使って屋敷での実権を虎視眈々と狙ってんじゃないか?…とも考えたが、まあ、稲葉に政治なんて出来る筈ないからな。俺だったら稲葉と洛中は選ばん」
「……私が御蔭の地位に登ろうとするならば、よほどの理由が無い限り、私自ら主様の側に侍る」
「はは、それが一番確かだよなぁ!」

厨房頭は再び忠義者の顔に戻った本匠の肩を数回叩いて分かれ道の先に進み、手を挙げて別れの挨拶とした。本匠は曲がり角に消えていく古い友人の後姿を見送り、使用人達が集まる部屋に向かった。
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