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第五章 陰の日
5-2 行為の後
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食欲を誘うような、いい匂いがする……。
リュセルは闇の底に沈んでいた意識をようやく覚醒させると、唾をごくりと飲み込んだ。ともかく、腹が減っていた。部屋の外からする香ばしい匂いを嗅ぎつけ、盛大な音をたてて腹が鳴る。
「ぅ……今は、夜? それとも昼、か?」
起き上がろうとした時、ようやく、自分の今の体勢に気づき、顔を引きつらせた。
横向きで裸のまま、後ろから抱き込まれていたのだ。背中に当たる感触から、相手も裸である事がわかる。顔は見えないが、いや、見なくとも、自分の身にからみついた長いその胡桃色の髪で、それが、兄、レオンハルトである事もわかった。
(一体、あれからどれ位たったんだろう)
ため息をつくと、ぼんやりと考える。体のあちこちが痛いし、全体的にひどくだるい。
それに……
「腹が減った……」
ものすごく、空腹だったのである。
そして、何故か、部屋の外からは食欲を誘ういい匂いが……。
リュセルは、自分の体にきつく巻きついたレオンハルトの腕を、渾身の力でどけ、寝台の上に片手をついて、力の入らない体を無理矢理起き上がらせた。そして、体にかかっていたシーツが肩から落ちるのを目の端に入れると、隣で眠るレオンハルトを見つめた。
どこか艶かしさを感じさせる様に、ドキリとする。
そして、そんな兄の顔の前で片手を振るが、まったく起きる気配がない。人の気配に敏感なレオンハルトではありえない事である。
その腕に抱かれている間、ずっと金色に輝いていた瞳は固く閉じられていたが、安らかな表情をしているので大丈夫だろう。
ほっと息を吐いたリュセルは、そのまま寝台の下に落ちていた上着を身に着けようとして、動きを止める。見るも無残に、引き裂かれていたのだ。
「……」
無言で、仕方なく、同じように寝台の下に落ちていたレオンハルトの上着を羽織り、下衣をのろのろと身に着ける。
そうして、寝台を降りようとして、そのままそこに倒れ込んだ。ずっと酷使されていた体が、悲鳴をあげていた。
「腰が……」
痛い。
リュセルは涙目になりながらも、寝室の扉へと這い蹲って進んだ。寝室を出ると、壁に寄りかかりって立ち上がり、そのまま、壁伝いに部屋の扉へと、ものすごくゆっくりと進む。その時、暗い室内に気づき、今が夜だという事もわかった。
少しの距離を歩くのに、かなり息を切らせながら、たどり着いた扉の鍵を開け、扉を開く。
「リュセル!」
驚いたような、印象深い声が聞こえた。
「ジュリナ殿」
リュセルが喘ぎ過ぎてひどくしゃがれた声に眉をしかめた瞬間、ジュリナは部屋の中に入ると素早く扉を閉めた。
「大丈夫か!?」
真剣な声に、リュセルは力なく笑うと言った。
「大丈夫そうに見えるか?」
「いや、見えない」
きっぱりとそう言い切ったジュリナに対し、「なら聞くな」と突っ込みをいれる。
その後、ジュリナはフラフラしているリュセルに肩を貸すと、部屋の中央のソファに座らせて、持って来ていたワゴンに乗っていた食事をテーブルの上に並べ始めた。
食べ物を目にした途端、目をギラギラとさせ始めたリュセルに食べるように促す。
ガツガツガツガツ
普段の王子らしい優雅な所作はどこへやら。貪るように食事をとるリュセルをジュリナは観察した。
月の美貌の中に憔悴が混じっているのがよくわかる。
泣き過ぎたのか、目は腫れているし、銀の髪は乱れきっている。その上、着ている服は、何故かレオンハルトの服だ。
彼の身に何が起こったのかと聞くのは、愚問というものだった。
「?」
わずかに開いた襟から覗くものが気になって、ジュリナはリュセルの襟をわずかに引っ張った。
(すごいね、これは……)
食事に集中し過ぎて、自分が嘆息したのにも気づかないリュセルに対し、ジュリナは同情する。襟を引っ張って覗いた白い首筋、そこに残されていたのは、無数の歯形だった。ひどいものには内出血しているものや、出血した痕のようなものもある。
ジュリナは、とりあえず、リュセルの襟を元に戻してやり、彼の食事が終わるのを待つ事にした。話はそれからでもできる。一体、レオンハルトは、どうして、気を変えてリュセルを抱いたのか……。しかも、見るからに、かなり乱暴にしたようだ。
「発情期?」
食事の後、陰の日の説明を受けたリュセルは、眉をしかめた。
「簡単に言えばな」
説明をしたジュリナは、そう言って小さく頷く
(猫かよ)
リュセルは心の中でそう突っ込みを入れると、デザートのタルトを手づかみで食べる。レオンハルトが見たら、目くじらを立てて叱責してきそうだ。
そして、ふと、ある事に気づいた。
「じゃあ、あの匂いも……」
「なんだ?」
「レオンから、甘い、不思議な香りがしたのだが」
現在はまったく香らないので、あれは夢だったのかと思っていたのだ。
「ああ。陰の日を迎えた女神の子供が発する、特有の芳香の事だね。甘い香りで獲物を引き寄せて、逃さないようにするのさ」
にやりと笑って言ったジュリナに、リュセルは顔を引きつらせた。
「お前がこの部屋を訪れたのは、陰の日を病気と勘違いして、レオンハルトが心配になったからなのだとしても……。あいつ、お前を欲望の捌け口にするつもりはないとか、なんとか、格好いい事をしゃあしゃあと言っていたんだぞ」
腕を組んで、向かいに座る、あきらかにこの数日、無理をさせられてヨレヨレなリュセルを、じっとジュリナは見た。
「レオンがそんな事を」
感動したようにそう言ったリュセルは、三日前にこの部屋を訪れた時の事を思い出した。
「確かに、最初帰れとか、どうとか……しきりに俺を遠ざけてたな。……ああ、そうだ。確か、途中で、何故か逆鱗に触れたんだ」
「逆鱗?」
「口づけ(キス)した後、だったかな?」
リュセルの言葉を聞いたジュリナは、さーっと青ざめた。リュセルに分からなくとも、ジュリナには分かる。レオンハルトは、リュセルの中に残った娼婦の口づけを、敏感に感じ取ったのだ。
(すまない、リュセル)
つまり、リュセルの、この現状の元々の原因は、自分にあるという事でありまして……。
前回の件といい、また、己の半身によけいな痕を残した事をレオンハルトが知ったら、自分達は全面戦争に突入するだろう。
(とりあえず、リュセルには悪いが黙っておこう)
そう心に誓う、身勝手なジュリナだった。
一方、ジュリナがそんな誓いを立てているとは思いもしていないリュセルは、考えを巡らしていた。自分と同じ位の間食事をしていない兄が気になっていたのだ。
(起こすべきか?)
リュセルが、そんな事を考えているのを感じ取ったのか、ジュリナは言った。
「レオンハルトは、しばらく起きないから、そのままにしておけ。陰の日が去ると、強制的に眠りに入るんだ。心配しなくとも、明日には目覚めるよ」
「そうか」
そう答えながら満腹になったリュセルは、眠気に襲われていた。
「俺も、もう少し休む」
そう言って立ち上がったリュセルを見上げ、ジュリナは頷いた。
「戻るか?」
元の部屋。つまり、レオンハルトのいない部屋へ。
「いや、ここで休む」
そう呟いて、ふらつきながらも寝室へと消えていったリュセルを見送ったジュリナは、苦笑した。
そしてリュセルは、寝室に戻ると、レオンハルトの服を着たままベッドの上へと乗り上げ、眠るレオンハルトの顔を見つめる。
(病気でなくてよかった)
そう思いながら、そっと兄の口元に自分の唇を寄せ、軽く口づけたのだった。
そして、その後、深く眠っていたレオンハルトが目覚めたのは、次の日の昼頃になってからだ。
リュセルの、最悪な状態の目覚めとは逆に、実にすっきりとしたさわやかな目覚めである。隣で眠る弟の姿を認めると、レオンハルトは首を傾げた。
(何故、こいつは私の服を着ているんだ?)
そう思いながらも、弟の首から覗く、無数の歯形の痕を見つめ、軽い自己嫌悪に陥る。無残につけられた情痕は、自分がつけたものだ。最も愛しい己が半身に、こんな痕を残すなどと、レオンハルトはその時の自分の行為を悔やむ。
しかし、それと同時にどこか満足している自分がいるのが、始末に終えない。
ようやく、手に入れた。
昏い悦びに支配されるのを止められないのだ。
「薬をつけてやらねばな」
仄暗い悦びを胸の奥に隠し、ため息をついたレオンハルトは、裸のまま寝台から降りて、寝室のクローゼットから略式の宮廷服を出し、それを素早く着込む。
いつもの、まったく隙のない、聖人のような雰囲気の青年になると、今度は眠るリュセルを夜着に着替えさせる事にした。
行為の後、愛し合った残滓はすべて拭き去っておいたのだが、首の歯型や胸元、内股、手首など、そこかしこに散った、花びらのような鬱血の後までは消す事は出来なかった。レオンハルトはそれを無表情に見ながらも、弟から自分の服を脱がせて、クローゼットに入っていた備え付けの夜着に着替えさせてやった。そして、常備していた傷薬を自分の荷物の中から出し、出血の後が見られるリュセルの白い首筋の歯型の傷に、それを丁寧に塗りつける。
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