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第七章 黄昏往く国
10-2 残酷な真実
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「……」
目を覚ますと、気遣わしげな琥珀の瞳が傍にあった。
「レオン?」
呼びかけた自分に対し、添い寝していた形になる兄は、あきらかにほっとしたような安堵のため息をついた。
「落ち着いたか?」
確かめるような言葉に頷き、リュセルはゆっくりと身を起こした。そして、同じように身を起こしたレオンハルトの、無残な様子に驚きに目を見張った。
長い胡桃色の髪はくしゃくしゃに乱れ、着ている宮廷服も所々が破けている。
そして、端正な美貌の頬に残る爪痕から滲む血の跡に、リュセルの胸を激しい後悔の念が襲う。
そっと、自分が傷つけたであろう頬の傷に触れると、震える声で謝った。
「すまない」
「リュセル」
いいのだ。というように首を振るレオンハルトの乱れた髪を、とりあえずリュセルは手櫛で整えた。
(うう)
寝台の上の、所々に落ちた幾本もの胡桃色の髪を見て、リュセルは心の中で呻いた。これも、記憶にはないが、自分の仕業だ。美しい兄の髪を抜けるほどに引っ張ったのだろう
「いくら錯乱していたとはいえ、俺はなんという事を……」
レオンハルトの麗しの美貌に爪をたて、絹糸のような胡桃色の髪を抜けるほど引っ張ったという過去の己の愚行を後悔しまくっているリュセルに、当の本人は微笑むとそれを許した。
「お前が無事なら、それでいいのだよ」
その言葉と共に顔を傾けてきた兄に答えるように、リュセルはゆっくりと顔を寄せた。なぐさめるような口づけに、リュセルはレオンハルトの背に腕を回す事で答えたのだった。
*****
カチャッ
扉を開けるわずかなその音に気づき、ローウェンとアルティスは、はっとしたように同時に顔を上げた。
「リュセル兄さん」
いつものような、隙のない美男子振りを全身から漂わせながら寝室から出てきたリュセルを見て、ローウェンの両目に見る間に涙が溜まっていった。
駆け寄って抱きついてきた少年の体を抱きとめると、リュセルは謝った。
「すまない、ローウェン」
「謝らないで。僕はリュセル兄さんが苦しんでいた時に、何も出来なかったんだから」
「でも、心配させてしまった……」
ローウェンはその言葉に顔を上げると、背の高いリュセルを見上げて言う。
「心配位させてよ。……でも、よかった。元のリュセル兄さんに戻ってくれて」
「ローウェン」
後ろから現れたレオンハルトは、そんな二人を落ち着かせる為に、今までローウェンとアルティスが座っていた部屋の中央に置かれたテーブル席へと導いた。
「とりあえず座りなさい、二人共」
その声に従うように、ローウェンはアルティスの座る長椅子の横に再び戻り、リュセルはクマ吉に傷薬を持ってくるように頼んでから、二人の向かいの椅子に座った。
ローウェンが見る限り、数刻前の狂乱振りをまったく感じさせない程、リュセルの様子は落ち着いている。
今も、クマ吉が持ってきた薬箱の中を漁り、傷薬を手に取ると、隣の椅子に腰掛けたレオンハルトの頬の傷の手当てをし始めていた。
あいかわらずの夫婦ぶりに、逆に気が抜ける。
「少ししみるぞ~」
「……そういう事は、普通、薬をつける前に言うものだろう?」
リュセルが忠告の言葉と同時に薬を頬につけたのを感じると、しみただろうに、まったく表情を変える事なく、レオンハルトは冷静に返事を返していた。
「痛かったか? よしよし、可哀想に」
「……」
子供をあやすような声に対し無言になったレオンハルトを軽く無視して、傷を保護する為にガーゼを当てると、それを留めてリュセルは治療を終了させた。
そして、薬箱をクマ吉に返して、じっとそれを見ていたアルティスに視線を移した。
「アルティスもすまなかった。驚いただろう?」
「いや、気にめされるな。ただ、何故あのように取り乱したのか聞いてもよいか?」
当然なその質問に、リュセルはその顔から笑みを消して無表情になった。
「アルっ」
アルティスの簡潔過ぎる聞き方にローウェンは慌てる。
しかし、リュセルは、それに対し、若干顔色は悪かったが、冷静に答えた。
「……お前にとって、これから俺が話す事は、かなりショックな話だと思う。でもこれは、この真実だけは、話さねばならない」
言葉を選ぶような言い方をするリュセルに対し、アルティスは眉をひそめる。
「お祖父様の事か?」
「ああ」
小さく頷くと、リュセルは迷うような目をした。
「隠さなくてよい。全て教えてくれ」
決意を込めたかのようなアルティスの声を聞いたリュセルは、困ったように隣の兄に視線を移す。
「大丈夫だ」
そんな力強い言葉に後押しされ、リュセルは視線を戻し、真っ直ぐにアルティスを見た。
「わかった」
そして、一拍置いて、リュセルは、あの瞬間、自分が感知した事を話し始めた。
「……まず、あの時、俺が聞いたのは、幾百もの怨嗟の声だった。ルルドの葉の犠牲者達の、悲哀と苦しみの絶叫だ。彼らは、死した後も、女神の御許へと帰る事も出来ずに、この国と自分が死ぬ元凶となったメルティス前王を呪っている」
「メルティス様が原因って……? ルルドの葉を広めているのは、国王陛下じゃないの!?」
リュセルの言葉を聞いた途端、ローウェンは驚きの声を上げる。
「広めているのは、ミゼール王だろう。だが、おそらく、ルルドの葉の事については何も知らないのだと思う。彼の中で、ルルドの葉は、富を生む麻薬という認識しかないんだ。当然、自分が広めた麻薬が、邪気によって成長した木の葉だという事も知らない。ただただ、自分の欲望と贅沢の為に麻薬を金に換え、それが広まってしまっただけなんだよ」
「じゃあ……、ほ、本当に、メルティス様が?」
信じられないというようにローウェンは大きく首を振り、リュセルは頷く。
「彼は、死したその体をルルドの葉の中毒となった者達の生命力を奪い取って、己の中のルルドの木の養分とする事で生き永らえているに過ぎない」
アルティスの漆黒の瞳が大きく見開かれるのを見つめたまま、リュセルは残酷な事実を口にした。
「あの方は、死人だ」
*****
「あの剣鍵は、すべてを知ってしまったのだろう」
震えを隠してそう呟いたメルティスに、いつもの尊厳さはまったく見受けられない。肩を落として、椅子に腰掛けるその姿は、ただの老いた男だった。
リュセル達と別れた後、どうやって自室に戻ったのか記憶にない。
気づいたらこの部屋にいて、椅子に腰掛けていたのだ。
まさか……、まさか、気づかれるとは!
自分の犯した過ちを知られてしまうとは!
「まあねぇ。あそこまで、彼の感知能力が高かったのは、あたしからしても、予測していなかった事だわ」
いつも、傍で自分の動向を見張っている侍女。
ウエーブを描く焦げ茶色の髪。侍女の制服である黒い着物の上からでもわかる、悩ましいボディライン。テラテラと光る赤い唇。
彼女が人間でない事を、メルティスはよく知っていた。
知っていた上で契約したのだ。
己の命を長らえさせる為に……。
「でも、そんな事関係ないわ。あなたは、今まで通り、たっぷり邪気を含んだルルドの木の苗床として、幹を太らせ葉を茂らせてちょうだい」
女がメルティスの着物の袂の隙間から右手を差し入れると、彼女が触れた肌は、滑らかな人間の肌ではなく、固い木の幹のような感触であった。
「……っ」
手に触れたメルティスの固い肌を、着物を一気にまくって空気にさらさせると、赤いマニキュアの塗られた爪を茶けた肌にたてた。そのまま肌を縦に引き裂くと、血の代わりに流れ落ちた緑の液体が、床に落ちる前に形を変える。
「ほうら、出来た」
床の上に落ちた、どこにでもある木の葉と変わらない葉っぱを拾うと、女は嬉しそうにクスクスと笑った。
「そんな顔しても、あなたは、人である事を捨ててまで生きたいと願い、それをあたしは叶えてあげただけ。そんなに、この国を、あの馬鹿息子に譲りたくなかったの?」
「ミゼールは、国政の事など、まったく考えておらん。私がいなくなれば、たちまちこの国が沈み往くのが目に見えておったのだ。だから、私は死ぬ訳にはいかなかった。だが……」
「どの道、この葉の影響で、この国は沈み往くわよ?」
面白そうな女の声に、メルティスは苦々しい思いで目を閉じた。
そう……、邪鬼と契約など、結んではならなかったのだ。邪鬼が人間の願いを叶えてくれる事など、あるはずない。だが、あの時の自分は、そこまで考えが及ばぬ程、追い詰められていた。何せ、命が尽きかけていたのだから。
死にたくなかった。
死ねなかった。
アルティスという、正統なる血統の、自分が育て上げた真の後継者を王座につけるまでは。
「人間って、本当にお馬鹿さん。そんな風に自分を犠牲にしても、どうせ、この国は滅びる運命なのよ。邪気に支配されて、この、玉守りの王国は黄昏往くの。でも、安心して。女神の宝の一つ、この国の神宝、女神の玉は、このスイ様が粉々に粉砕してあげる」
女……、邪気の塊たる邪鬼、スイの言葉に、メルティスは、絶望のあまり、その顔から一切の表情を無くした。
「あ~、そういえば、サイレンが何か言ってたわね。確か、余裕があったら、剣鍵を連れ帰れって。感知能力が高すぎて傍に近寄れないのに、どうしろっていうのよねぇ」
スイ程の邪鬼ともなれば、巧妙に邪気を隠して、結界の弱まっているサンジェイラ国王都に侵入する事は簡単だし、玉鍵たるアルティス相手にも、邪気を気取らせる事はなかった。
しかし、あの剣鍵相手では無理だろう。
メルティスの体に同化させた、ルルドの木のほんのかすかな邪気にさえ反応したのだ。
「おいしそうな子だったのに、近くにも寄れないなんて」
離れの館の中から見るのが、精一杯の距離だった。それも、メルティスに気を取られていたおかげで、スイの邪気は感知されなかったという可能性の方が高い。
この世界を創造した創世の女神の子供達は、邪鬼たるスイからしてみれば、皆、綺麗で可愛くて美味しそうなのだが、彼らの持つ女神の宝が恐ろしくて近寄れないのだ。
「指先を、一かじり……。いえ、血の一滴でもいいから、啜ってみたいわぁ」
毎日毎日、この館に来るアルティスを前にして、どれだけ自制した事か。
「これで、ルルドの木の居所がわかった訳だし、向こうもこっちに接触してくるわよね。チャンスがあれば、剣鍵をマスターの元に連れ帰って……って、そういえば、無傷でとは言われてないわ」
スイは猫のように目を細めると、舌舐めずりをした。
「あの子の血が飲みたいわぁ。あの子がダメなら、他の女神の子供でもいい。あんなに美味しそうなんだもの」
邪鬼の欲望に満ちた言葉を聞き、今まで抜け殻のようだったメルティスは、嫌悪の表情を宿してスイを睨み見た。
「悪魔めっ!」
「あらん。違うわよ、私は邪鬼。あなたの忌み嫌う……、ふふ、邪神の欠片よ」
スイは愚かな前王をあざ笑うように、そうささやいたのだった。
目を覚ますと、気遣わしげな琥珀の瞳が傍にあった。
「レオン?」
呼びかけた自分に対し、添い寝していた形になる兄は、あきらかにほっとしたような安堵のため息をついた。
「落ち着いたか?」
確かめるような言葉に頷き、リュセルはゆっくりと身を起こした。そして、同じように身を起こしたレオンハルトの、無残な様子に驚きに目を見張った。
長い胡桃色の髪はくしゃくしゃに乱れ、着ている宮廷服も所々が破けている。
そして、端正な美貌の頬に残る爪痕から滲む血の跡に、リュセルの胸を激しい後悔の念が襲う。
そっと、自分が傷つけたであろう頬の傷に触れると、震える声で謝った。
「すまない」
「リュセル」
いいのだ。というように首を振るレオンハルトの乱れた髪を、とりあえずリュセルは手櫛で整えた。
(うう)
寝台の上の、所々に落ちた幾本もの胡桃色の髪を見て、リュセルは心の中で呻いた。これも、記憶にはないが、自分の仕業だ。美しい兄の髪を抜けるほどに引っ張ったのだろう
「いくら錯乱していたとはいえ、俺はなんという事を……」
レオンハルトの麗しの美貌に爪をたて、絹糸のような胡桃色の髪を抜けるほど引っ張ったという過去の己の愚行を後悔しまくっているリュセルに、当の本人は微笑むとそれを許した。
「お前が無事なら、それでいいのだよ」
その言葉と共に顔を傾けてきた兄に答えるように、リュセルはゆっくりと顔を寄せた。なぐさめるような口づけに、リュセルはレオンハルトの背に腕を回す事で答えたのだった。
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カチャッ
扉を開けるわずかなその音に気づき、ローウェンとアルティスは、はっとしたように同時に顔を上げた。
「リュセル兄さん」
いつものような、隙のない美男子振りを全身から漂わせながら寝室から出てきたリュセルを見て、ローウェンの両目に見る間に涙が溜まっていった。
駆け寄って抱きついてきた少年の体を抱きとめると、リュセルは謝った。
「すまない、ローウェン」
「謝らないで。僕はリュセル兄さんが苦しんでいた時に、何も出来なかったんだから」
「でも、心配させてしまった……」
ローウェンはその言葉に顔を上げると、背の高いリュセルを見上げて言う。
「心配位させてよ。……でも、よかった。元のリュセル兄さんに戻ってくれて」
「ローウェン」
後ろから現れたレオンハルトは、そんな二人を落ち着かせる為に、今までローウェンとアルティスが座っていた部屋の中央に置かれたテーブル席へと導いた。
「とりあえず座りなさい、二人共」
その声に従うように、ローウェンはアルティスの座る長椅子の横に再び戻り、リュセルはクマ吉に傷薬を持ってくるように頼んでから、二人の向かいの椅子に座った。
ローウェンが見る限り、数刻前の狂乱振りをまったく感じさせない程、リュセルの様子は落ち着いている。
今も、クマ吉が持ってきた薬箱の中を漁り、傷薬を手に取ると、隣の椅子に腰掛けたレオンハルトの頬の傷の手当てをし始めていた。
あいかわらずの夫婦ぶりに、逆に気が抜ける。
「少ししみるぞ~」
「……そういう事は、普通、薬をつける前に言うものだろう?」
リュセルが忠告の言葉と同時に薬を頬につけたのを感じると、しみただろうに、まったく表情を変える事なく、レオンハルトは冷静に返事を返していた。
「痛かったか? よしよし、可哀想に」
「……」
子供をあやすような声に対し無言になったレオンハルトを軽く無視して、傷を保護する為にガーゼを当てると、それを留めてリュセルは治療を終了させた。
そして、薬箱をクマ吉に返して、じっとそれを見ていたアルティスに視線を移した。
「アルティスもすまなかった。驚いただろう?」
「いや、気にめされるな。ただ、何故あのように取り乱したのか聞いてもよいか?」
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「アルっ」
アルティスの簡潔過ぎる聞き方にローウェンは慌てる。
しかし、リュセルは、それに対し、若干顔色は悪かったが、冷静に答えた。
「……お前にとって、これから俺が話す事は、かなりショックな話だと思う。でもこれは、この真実だけは、話さねばならない」
言葉を選ぶような言い方をするリュセルに対し、アルティスは眉をひそめる。
「お祖父様の事か?」
「ああ」
小さく頷くと、リュセルは迷うような目をした。
「隠さなくてよい。全て教えてくれ」
決意を込めたかのようなアルティスの声を聞いたリュセルは、困ったように隣の兄に視線を移す。
「大丈夫だ」
そんな力強い言葉に後押しされ、リュセルは視線を戻し、真っ直ぐにアルティスを見た。
「わかった」
そして、一拍置いて、リュセルは、あの瞬間、自分が感知した事を話し始めた。
「……まず、あの時、俺が聞いたのは、幾百もの怨嗟の声だった。ルルドの葉の犠牲者達の、悲哀と苦しみの絶叫だ。彼らは、死した後も、女神の御許へと帰る事も出来ずに、この国と自分が死ぬ元凶となったメルティス前王を呪っている」
「メルティス様が原因って……? ルルドの葉を広めているのは、国王陛下じゃないの!?」
リュセルの言葉を聞いた途端、ローウェンは驚きの声を上げる。
「広めているのは、ミゼール王だろう。だが、おそらく、ルルドの葉の事については何も知らないのだと思う。彼の中で、ルルドの葉は、富を生む麻薬という認識しかないんだ。当然、自分が広めた麻薬が、邪気によって成長した木の葉だという事も知らない。ただただ、自分の欲望と贅沢の為に麻薬を金に換え、それが広まってしまっただけなんだよ」
「じゃあ……、ほ、本当に、メルティス様が?」
信じられないというようにローウェンは大きく首を振り、リュセルは頷く。
「彼は、死したその体をルルドの葉の中毒となった者達の生命力を奪い取って、己の中のルルドの木の養分とする事で生き永らえているに過ぎない」
アルティスの漆黒の瞳が大きく見開かれるのを見つめたまま、リュセルは残酷な事実を口にした。
「あの方は、死人だ」
*****
「あの剣鍵は、すべてを知ってしまったのだろう」
震えを隠してそう呟いたメルティスに、いつもの尊厳さはまったく見受けられない。肩を落として、椅子に腰掛けるその姿は、ただの老いた男だった。
リュセル達と別れた後、どうやって自室に戻ったのか記憶にない。
気づいたらこの部屋にいて、椅子に腰掛けていたのだ。
まさか……、まさか、気づかれるとは!
自分の犯した過ちを知られてしまうとは!
「まあねぇ。あそこまで、彼の感知能力が高かったのは、あたしからしても、予測していなかった事だわ」
いつも、傍で自分の動向を見張っている侍女。
ウエーブを描く焦げ茶色の髪。侍女の制服である黒い着物の上からでもわかる、悩ましいボディライン。テラテラと光る赤い唇。
彼女が人間でない事を、メルティスはよく知っていた。
知っていた上で契約したのだ。
己の命を長らえさせる為に……。
「でも、そんな事関係ないわ。あなたは、今まで通り、たっぷり邪気を含んだルルドの木の苗床として、幹を太らせ葉を茂らせてちょうだい」
女がメルティスの着物の袂の隙間から右手を差し入れると、彼女が触れた肌は、滑らかな人間の肌ではなく、固い木の幹のような感触であった。
「……っ」
手に触れたメルティスの固い肌を、着物を一気にまくって空気にさらさせると、赤いマニキュアの塗られた爪を茶けた肌にたてた。そのまま肌を縦に引き裂くと、血の代わりに流れ落ちた緑の液体が、床に落ちる前に形を変える。
「ほうら、出来た」
床の上に落ちた、どこにでもある木の葉と変わらない葉っぱを拾うと、女は嬉しそうにクスクスと笑った。
「そんな顔しても、あなたは、人である事を捨ててまで生きたいと願い、それをあたしは叶えてあげただけ。そんなに、この国を、あの馬鹿息子に譲りたくなかったの?」
「ミゼールは、国政の事など、まったく考えておらん。私がいなくなれば、たちまちこの国が沈み往くのが目に見えておったのだ。だから、私は死ぬ訳にはいかなかった。だが……」
「どの道、この葉の影響で、この国は沈み往くわよ?」
面白そうな女の声に、メルティスは苦々しい思いで目を閉じた。
そう……、邪鬼と契約など、結んではならなかったのだ。邪鬼が人間の願いを叶えてくれる事など、あるはずない。だが、あの時の自分は、そこまで考えが及ばぬ程、追い詰められていた。何せ、命が尽きかけていたのだから。
死にたくなかった。
死ねなかった。
アルティスという、正統なる血統の、自分が育て上げた真の後継者を王座につけるまでは。
「人間って、本当にお馬鹿さん。そんな風に自分を犠牲にしても、どうせ、この国は滅びる運命なのよ。邪気に支配されて、この、玉守りの王国は黄昏往くの。でも、安心して。女神の宝の一つ、この国の神宝、女神の玉は、このスイ様が粉々に粉砕してあげる」
女……、邪気の塊たる邪鬼、スイの言葉に、メルティスは、絶望のあまり、その顔から一切の表情を無くした。
「あ~、そういえば、サイレンが何か言ってたわね。確か、余裕があったら、剣鍵を連れ帰れって。感知能力が高すぎて傍に近寄れないのに、どうしろっていうのよねぇ」
スイ程の邪鬼ともなれば、巧妙に邪気を隠して、結界の弱まっているサンジェイラ国王都に侵入する事は簡単だし、玉鍵たるアルティス相手にも、邪気を気取らせる事はなかった。
しかし、あの剣鍵相手では無理だろう。
メルティスの体に同化させた、ルルドの木のほんのかすかな邪気にさえ反応したのだ。
「おいしそうな子だったのに、近くにも寄れないなんて」
離れの館の中から見るのが、精一杯の距離だった。それも、メルティスに気を取られていたおかげで、スイの邪気は感知されなかったという可能性の方が高い。
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「指先を、一かじり……。いえ、血の一滴でもいいから、啜ってみたいわぁ」
毎日毎日、この館に来るアルティスを前にして、どれだけ自制した事か。
「これで、ルルドの木の居所がわかった訳だし、向こうもこっちに接触してくるわよね。チャンスがあれば、剣鍵をマスターの元に連れ帰って……って、そういえば、無傷でとは言われてないわ」
スイは猫のように目を細めると、舌舐めずりをした。
「あの子の血が飲みたいわぁ。あの子がダメなら、他の女神の子供でもいい。あんなに美味しそうなんだもの」
邪鬼の欲望に満ちた言葉を聞き、今まで抜け殻のようだったメルティスは、嫌悪の表情を宿してスイを睨み見た。
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