調香師・フェオドーラの事件簿 ~香りのパレット~

鶯埜 餡

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1.少女のハンドクリーム

確執と思慕、願い

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「もちろん、私の父親は前アイゼル=ワード大公ユルゲンだ」


 そういうテレーゼの瞳には、何にも感情が映っていなかった。

「だけれど、あの人は自分の娘を『娘』だと思わなかった。まあ、そうだろうな。『軍事のアイゼル=ワード』と言うだけあって、ゆくゆくは自分の子供を優秀な軍人に仕上げたかったようだ。だから、幼い時から私はあの人の『息子』として生きてきた。母親が幼い時に死んでからは、よりひどくなったんじゃないかな。
 チャンバラごっこではない、本当の剣というものを叩きこまされたし、帝王学というものも叩き込まされた。

 もちろん、それ自体を恨んではいないさ。

 今の私、今のアイゼル=ワード大公国に繋がっているわけだからね。

 でも、父親としての情を感じたことはない。
 あの人は私が模擬試合で重傷を負った時だって、雪の日の訓練で高熱を出した時だって、見舞いなんか一度たりとも無いし、ましてや手当てをする、なんていう気遣いなんて一度もしたことがなかった。

 その代わり、ゲオルグが私をずっと見てくれた。あの人にも何回か進言してくれたこともあるみたいだ。だが、それでもあの人は変わることはなく、それはあっけなく死ぬ間際まで続いたよ」



 ドーラを見ているようで、彼女を見ていないテレーゼの言葉に、ドーラは胸が痛くなった。

 彼女が父親に厳しく育てられることがなければ、アイゼル=ワード大公国は、ほかの四大公国や帝国に吸収されていた可能性もあり、もし仮にそうなった時には、五大公国内での同盟は破棄され、戦乱の日々が続いたことだろう。
 しかし、五大公の一人としての責務を果たせている以上、『極めて有能なアイゼル=ワード家当主』という評価になる。

 だが、一人の『娘』としての彼女は、どうなのだろうか。
 母親にも先立たれ、父親からは嫡子としての情のみしか与えられていない。『娘』としての評価は、元から存在していなかったようなものだろう。

 両親や伯母、幼馴染からスポンサーの侯爵までの多くから、自分自身を見てくれ、調香師になる、という夢を叶えさせてくれた自分とは大違いだ。

 ドーラは彼女のおかれた複雑な立場に、押し黙るしかなかった。
 自分とは立場の違うテレーゼだ。簡単に同意することできないし、憐れむ立場でもない。

 だけれど、彼女の話を聞くことぐらいはできるだろう。
 そう思って、ドーラはただ彼女の話を聞いていた。

「父親以上に、様々な愚痴も聞いてくれたし、時には激励もしてくれた」

 彼女視線が遠い場所から、ここに戻って来たようだった。ドーラに微笑んだ彼女は年相応の柔らかさだった。


「だから、私はゲオルグが作ってくれる様々なクラフトには、一切、文句を言わないことに決めたんだ。

 だって、私のせいでゲオルグが路頭に迷ったら困るしね。

 もちろん、キミたちのような調香師からすれば、愚の骨頂にしか見えないと思うし、私だって、それが君主として好ましくないのは分かっている」

 そう言うテレーゼの目は、今まで以上にまっすぐなものだった。


「だけれど、キミが例えば病人で、父親のような医者から薬を処方されたときに、それを疑いながら飲むのか? そして、薬で体調が悪くなった時、無条件・・・でその医者を疑うのか?」


 テレーゼの質問にドーラは納得した。

 確かに、父親同然の医者から処方された薬を、疑いながら飲むことはしないし、体調が悪化した時でも、多少は別の原因を考えると思ってしまった。


 それと同じように、テレーゼは最初の時は疑うこともせずに使ったのだろう。

 それでも、しばらく経っても、手荒れが治らなかったから、最初に出されたものとは別のハンドオイルだって作ってもらっているわけだし、それでも治らなかったから、他の癒身師のところへ通った。

 そこまで考えると、『父親のような存在』であるゲオルグをアイゼル=ワード大公家専属から外さないためには、そして、彼がテレーゼの症状を知って、自ら認定調香師の地位から退こうとしても、テレーゼは父親のような存在を失いたくないようにするためには、こうするしかなかったのだろう。

 ドーラは、立ち入ったことをお聞きして申し訳ありませんでした、と謝った。
 テレーゼはいいや、むしろ、聞いてくれてありがとう、とにっこり笑ってくれた。

「宰相や大臣に話すことではないし、あいつらに話したら最後、私は失格の烙印を押される。逆に護衛たちは知っていると思うが、あいつらは踏み込んでこない。だから、私も心行くまで話したことがなくて、ね」

 彼女はふう、とため息をついて笑った。

「やっぱり――――キミを選んでよかった。これからもよろしく頼む」

 テレーゼはそう言うと、頭を下げた。
 大公なのに頭を下げすぎではないのかと、ドーラは余計な心配したが、そういえば、もう一人、大公なのに頭を良く下げる人がいたのだと思い出し、今の五大公はそんな人が多いのではないかと思ってしまった。

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
 ドーラは柔らかく微笑んだ。



 そういえば、とドーラは先ほど、触診した感想をテレーゼに伝えた。

「まだ、新しいハンドオイルをつけ始めてから数日しかたっていませんが、手の端の軽度の肌荒れ部分は、少し収まってきたようですね」

 テレーゼはそうか、と言葉少なに言っただけだったが、心なしか嬉しそうだった。

「そういえば、これはあくまでも私自身の所感なのですが、前にゲオルグさんに処方してもらったというハンドオイル、これには毒は含まれていないと思います」

 そういえばと、この数日間でドーラ自身が身をもって・・・・・実験してみたことを伝えた。
「多分ですけれど、ほら、見てください」
「――――――――――どういうことだ?」

 その言葉に、テレーゼは眉をひそめた彼女に構わず、そう言って右腕の袖を捲った。彼女の上腕部には包帯が巻かれており、それを取ると、小さなガーゼが露わになったが、その下の素肌はテレーゼのように赤く変化していなかった。
 ドーラは毎晩のように腕に例のオイルを肌に塗り、そこがどう変化するか試していた。

「―――――――まさか」

 ドーラが何をそこに塗布したのか、匂いで気づいたテレーゼの顔が驚愕に変わる。しかし、ドーラは気にすることなく、続けた。

「もちろん、最初は仮にハンドオイルに入っていたものが毒だとした場合のことを考えました。でも、それだったら、なんてリスクの高い殺害計画をしたんだろうかと思ったんです。

 だって、テレーゼさんは訓練を受けていらっしゃる。だから、テレーゼさんは毒には耐性があるはずであり、よっぽど身近な者であり、テレーゼさんが訓練を受ける毒の種類を知っていないとそれはできない。

 そして何より、毒を手に入れるリスクの方が高い。

 でも、かぶれさせるだけだったら、別に毒でなくてもいいことに思い当たりました」

 そう言って、ドーラは棚の奥から布で包まれた一つのを出した。
 それには、黒色の背景に煌びやかな装飾が施されていた。

「この器の黒い部分には、東方の大陸にはウルシという植物の樹液が使われているって聞いたことがあります。
 ですが、この樹液は人の手に触れるとたちまち炎症を起こすのです」

 そうドーラが言うと、肌荒れした部分をこわごわさするテレーゼ。

「ええ、ですが、安心してください。乾燥してしまえば十分、その成分は取れますし、それが入っていることもおそらくないでしょう。なぜなら、このハンドオイルが透明だから。

 もちろん、かぶれさせる成分だけを抽出して入れる、ということも出来るかもしれませんが、それをわざわざ取り寄せる手間暇、そして何よりもリスクを考えるのならば、『香り』、いいえ、『香り』以外で殺人を行った方が早い。

 私がゲオルグさんならば、そう考えます」

 ドーラはそっと目を伏せてそう言った。テレーゼはそうか、とだけ呟いた。
 己をむしばんでいたものが毒ではないと安堵したのだろうか。
 もしくは、父のように信頼しているゲオルグが自分の命を狙っているのではないと知って、安心したのだろうか。


「私が分かったのは、そこまでです」
 ここまで時間をかけてしまったのに、これ以上、お答えできなくて申し訳ありません、と頭を下げると、いいや、それだけでも分ければ十分さ、とテレーゼは返した。

「私のために体を張ってくれて、ありがとう」

 テレーゼはそう続けた。いえ、それも調香師の役割の一つです、そう言ったドーラは穏やかな笑みだった。


 その後は仕事の愚痴や将来の展望を、一般人であるドーラに喋れる部分だけ喋った後、テレーゼは帰っていった。

 彼女は以前来た時よりも数段、明るくなっている。

 それを間近で感じられるドーラは良かったと思うと同時に、早くアイゼル=ワード大公国から連絡が来ないかと不安になった。
 テレーゼには言ってはいないが、ドーラはテレーゼの手荒れの原因を絞りかけていた。

 だから、できるだけ早く、自分がアイゼル=ワード大公国に向かいたくなっていたのだ。
 なぜ、調香師として人一倍、厳しいゲオルグがそんなミスを犯すのか、その理由を自分の目で確かめたく。



 お願い、早く帰ってきて。

 そう、ドーラは願わずにはいられなかった。
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