もう君を逃さない。

綾瀬麻結

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1巻

1-1

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   第一章


 豪奢ごうしゃなクリスタルシャンデリアが光り輝くホテルの会場。そこでは、色鮮やかなカクテルドレスをまとった女性たちやスーツを着た男性たちが、シャンパングラスを片手に談笑していた。
 今日の新年パーティの主催は、アパレル業界で財をなした磯山いそやまグループ。招待客たちは、誰もがこのもよおしを楽しんでいる。上質な赤色のベルベットカーテンが引かれた壁際でからだを縮こまらせる、芦名美月あしなみつき以外は。
 本来なら大学も卒業していない二十一歳の小娘が、このような華やかなパーティに出席できるはずもない。
 美月がここにいる理由は、ただ一つ。これまで男手一つで美月を育ててくれた父が、昨年の秋に磯山グループの社長令嬢と再婚したためだ。
 美月は父の再婚に大賛成だった。中学生の時に母が他界して以降、父は美月が寂しさを感じないよう、ずっと子育て第一で頑張ってきてくれた。
 そんな父が、ようやく心を開ける女性に出会えたのだ。反対する理由などない。これからは、また別の幸せを紡いでいってほしいと願っている。
 義母になった女性も再婚で、前夫との間に二人の子どもがいる。義母は、彼ら実子と分けへだてなく美月にも愛情を注いでくれるぐらい、心優しい女性だ。〝美月ちゃんにも慣れてほしいの〟と新年パーティへの出席を懇願こんがんしてきたのも、家族のきずなをさらに深めたいという気持ちがあったからだろう。
 美月の義兄妹となったのは、将来磯山グループを継ぐ二十六歳の倉崎宗介くらさきそうすけと、美月と同い年で大学四年生の倉崎愛菜まな
 再婚にあたり、義母は美月たち芦名の籍に入ったが、義兄妹は父方の倉崎の籍に残った。
 義兄は父に〝私と妹は、お義父さんの籍に入りません。私たちはあくまで倉崎家の人間だからです。また美月さんは私にとっては義妹、愛菜にとっては生まれ月の関係で同年でも義姉になりますが、私たちは、一個人として付き合わせていただきます。ただ、縁あって家族になったのだから、美月さんを気遣うとお約束いたします〟と宣言した。そして美月にも〝俺のことを義兄とは呼ばないでほしい。俺たちは皆既に成人している。今更兄妹ごっこもないだろう?〟と釘を刺したのだ。
 父は宗介の意見を尊重し〝私たちは家族だ〟と言って握手を交わした。そして美月には、義母に心配をかけないためにも、新しい家族を第一に考えてほしいと伝えたのだ。
 こうした流れはあったが、確かに宗介は、美月を気遣ってくれている。でもそれは、どちらかというと彼女が磯山家に迷惑をかけないかどうか見張っているといった態度だ。
 美月は夫婦で招待客に挨拶あいさつする父たちを眺めたあと、堂々とした所作で動き回る義兄妹に視線を移した。
 義兄妹は生まれた時から華やかな世界で生きてきたので、気後きおくれせずにいろいろな人と会話を楽しんでいる。
 しかし、美月は違う。一般家庭で生まれた美月が、彼らと同じ振る舞いなどできるはずがない。上流階級者がつどうパーティに参加すること自体初めてだし、マナーすら知らないのだから……
 そんな美月にできるのは、家族に迷惑をかけないために目立たずにいるだけだった。だからこそ誰の目にも留まらないように縮こまり、ひたすら手元のカクテルグラスに視線を落としている。
 その時、すらりと伸びる綺麗な生脚が美月の視界に入った。それは目の前でぴたりと立ち止まる。

「美月ちゃん、こんな端っこで何をしてるの? しかも一人で……」

 鈴を転がすような声が響き、美月はゆっくり顔を上げる。
 そこには緩やかに巻いた長い髪を結い上げ、華やかな薄紫のオフショルダードレスを身にまとった美しい義妹がいた。

「愛菜ちゃん」

 愛菜は微笑みながら美月に手を伸ばし、義母が見立ててくれたシャンパン色のレースチュールカクテルドレスに指をわせる。

「このドレス、絶対にあたしの方が似合うのに、ママったら〝美月ちゃんが着たら大人っぽく見える〟とか言って譲ってくれないんだもの。本当にムカつく!」

 愛菜は美月に対して、必ずこういう険のある物言いをする。義理の姉妹として美月と仲良くする気などないと、態度で堂々と示すのだ。
 美月はひるみそうになるのをぐっとこらえ、愛菜の感情を逆撫でしないように用心しつつ口を開く。

「このドレス、愛菜ちゃんが気に入ってたのね。気付かなくてごめんなさい。今回はわたしが着てしまったけど、これからは愛菜ちゃんが使ってくれたら――」
「あたし、誰かのお下がりって嫌いなの。特に……!」

 美月にほがらかな表情を向けてはいるが、愛菜の瞳には冷たい光が宿っている。彼女から発せられる怒気に思わず身震いすると、彼女は美月の強張った頬を指先で軽くなぞった。

「あっ、ほこりがついてる」

 そうささやいた愛菜が手を伸ばし、ふんわりと結われた美月の黒髪に触れる。その手が引かれた際、美月の頭皮に鋭い痛みが走った。

「……っ!」

 顔をしかめる美月に、愛菜が申し訳なさそうな態度を取る。一方、彼女の口角は楽しげに上がった。

「やだ、ごめんなさい。ほこりを取ろうと思っただけなのに、爪に髪の毛が引っ掛かっちゃった」

 ほんの数本ならまだしも、かなりの量の毛束が引き抜かれていた。鏡で確認しなくても、セットしてもらった髪形が崩れているのがわかる。
 酷い嫌がらせを受け、美月の目の奥にちくちくと刺すような刺激が走った。
 どうしてこんな真似をするのだろう。仲良くとまではいかなくても、父や義母のためにも、普通に付き合いたいのに……

「どうした? いったい何をしている?」

 その時、相手の心を瞬時に凍らせる冷たい声が響き、美月は恐怖で震え上がった。

「お兄ちゃん!」

 愛菜は隣に立つ宗介を見るなり、彼の腕に手をかけて甘える。そんな妹が可愛くて仕方がないと言わんばかりに、彼も目を細めて愛菜を見下ろした。
 女性の目を惹き付ける端整な顔立ちと、男性的な魅力のあふれるしなやかな体躯。
 磯山グループの跡取りとして本社の経営企画部で働く宗介は、つい先ほどまで社長である祖父のかたわらにいた。おそらく愛菜が美月の傍に立つ姿を見て、心配して飛んできたのだろう。
 二人の実父が事故で亡くなって以来、宗介は父の代わりにずっと妹を守ってきたという。そういう事情もあり、彼は妹の愛菜をことさら大切にしていた。今も彼女に対する愛情がからだ中から満ちあふれている。だが、美月に顔を向けた途端、宗介の雰囲気は一変した。美月を見る目には、冷淡な色が宿っている。

「なんてだらしない格好をしているんだ。さっさと化粧室へ行って、身なりを整えてきなさい。それぐらいの判断もできないのか?」
「お兄ちゃん、美月ちゃんに優しくしてあげて。こういう場に慣れてないんだから仕方ないわ。おじさまがママと再婚しなければ、あたしたちの世界に足を踏み入れることもなかったんだし」
「だが美月が家族になり、磯山家とつながりができたのは事実。名字が違うから俺たちと兄妹だと気付かない人もいるが、何かあった時のために慎重に行動してもらわないと。……わかるね?」
「はい、お義兄にい――」

 美月がそう言った瞬間、宗介からじろりとにらまれる。兄妹ごっこをするつもりはないと宣言したのを忘れたのかと言わんばかりだ。

「そ、宗介さん」

 言い直すと、愛菜はにやりと口角を上げ、宗介は満足げに頷いた。二人はそれ以上何も言わずに背を向け、さっさと去っていく。
 一人になると、美月の視界はみるみるうちにボヤけ始めた。
 今は泣いてはダメ。父に会った時に理由をかれでもしたら、何も答えられない! 
 こぼれそうになる涙を指の腹でぬぐった美月は、うつむいたまま早足で出入り口へ向かう。
 誰の目にも留まらないよう乱れた髪を手で隠し、シャンパングラスを持つ指に力を込めた。
 あっ、グラスを返却しないと――と、慌てて方向転換する。でも、それがいけなかった。不意に現れた男性に気付けず、勢いよくその人にぶつかってしまったのだ。

「きゃあっ!」

 グラスの中のシャンパンが勢いよくね、男性の胸元にかかる。
 その失態に、美月の顔から一瞬にして血の気が引いていった。

「す、すみません! すぐに……いたっ!」

 慌てて離れようとするものの、頭皮に痛みが走って止まる。先ほど愛菜に乱された髪が、男性のえりに留められた記章に絡まっていた。とんでもない失態続きに、羞恥しゅうちで美月の頬がカーッと上気していく。

「嘘、どうしよう……」

 焦れば焦るほど髪の毛は絡まり、時間だけが過ぎていく。同時に男性のスーツの染みも広がっていった。申し訳なさと自分への苛立ちがまざり合い、美月の感情はもうぐちゃぐちゃだ。

「すみません、本当にすみません」
「大丈夫だよ。落ち着いて」

 謝ることしかできない美月の腰に、男性が腕を回してきた。
 突然の出来事に、美月は大きく息を呑む。こんな風に男性と接触した経験がないせいで、どう対応すればいいのかわからない。
 パニックになった美月に、男性は気付かない。慣れた仕草で彼女のグラスを取り上げた。

「あっ!」

 驚きのあまり声を上げると、男性が美月を安心させるように微笑んだ。

「こういう時は、一つずつ解決していけばいいんだよ。俺に触れられて気まずいかもしれないけど、君の髪を引きちぎってしまわないためにも、少し協力してくれるかな?」
「あ、はい……」
「ここだと皆の注目を浴びてしまう、壁際に寄ろう。さあ、体重をかけていいから俺に合わせて歩いて」

 互いの距離が離れないよう、男性は美月の腰をしっかり抱いたまま歩き出す。その近さに緊張感が極限まで高まったが、なんとか無事に壁際までたどり着けた。
 ホッとしたのも束の間、今度は男性が美月の頭を掻き抱き自分の胸元へ引き寄せる。先ほどよりも一段と濃厚な密着に、美月の心臓が早鐘を打ち始めた。

「このままでいて。髪の毛が緩んでいる方が、記章を外しやすいから……と、よし、取れた!」

 取れたと聞いて、美月は男性の胸を押して距離を取ろうとしたが、途中でぴたりと止める。手のひらに伝わるれたシャツの感触で、現実に引き戻されたからだ。
 このようなパーティで粗相をしてしまった場合、どういう振る舞いをするのが正しいのか、見当もつかない。しかし美月は、考えるよりも先に動き出していた。クラッチバッグからハンカチを取り出して、スーツにみたシャンパンをぬぐう。

「わたし……本当にすみませんでした」
「君はずっと謝っているね。俺は気にしてないよ。それに俺もぼんやりしてて悪かったし。だけど、そうやって心配してもらえるのは嬉しいな。とはいえ、君に恐縮させてばかりでは申し訳ないから、これ以上謝らないでほしい。いいね。君の謝罪はもう受け入れたんだ」
「……はい」

 美月が素直に返事をすると、男性はふっと笑い、ハンカチを持つ彼女の手に触れた。

「借りるね」

 かすかに震える美月の手からハンカチを取った男性は、自分でシャツのみを軽く拭き始める。

「ところで、君はどういう事情でこのパーティに? 社会人には……見えないけど」

 マナーがなっていないと暗にとがめられた気がして、美月はくちもってしまう。でも、これ以上失礼な真似をしたくない。勇気を出して、背の高い男性を仰ぎ見た。

「おっしゃるとおり、わたしはまだ大学生です。でも、今春には卒業して社会人になります」
「大学四年か……。じゃ、今が一番楽しい時だね。いや、卒論の時期と重なって忙しいのかな」

 男性は目を細めて、まるで美月が後輩であるかのように優しく接してきた。
 この時、美月は初めて男性の顔をまじまじと眺めた。
 宗介と同じく背が高く、顔立ちも整っている。ただ義兄と違い、彼は男性としての支配力を前面に出すタイプではなく、恋愛映画などで主役を務める俳優に似たさわやかさがあった。
 綺麗な目元、真っすぐな鼻梁びりょう、そして相手に柔らかな印象を与える唇。どれをとっても、本当に素敵な男性だ。
 パーティという場所柄か、整髪料で後ろに撫で付けている髪形はやや威圧的に見えなくもない。だが、有り余る色気がそれを打ち消していた。
 次の瞬間、男性と視線が絡まった。ぶしつけに彼を観察してしまった自分が恥ずかしくなり、美月はそっとうつむく。

「えっと……はい。でも今は、卒業が待ち遠しいです。早く実家から独り立ちしたいので」
「しっかりしてるんだね。学生の君がこのパーティに出席してるのは、磯山グループに就職が決まっている……ということ?」
「いいえ。わたしが招待されたのは、磯山グループで働く父が――」

 と、そこまで答えた時、誰かに呼ばれたのか、目の前の男性が急に後ろを振り返った。美月がつられるように意識を向けると、彼の肩越しにこちらを不機嫌そうに注視する義兄と目が合う。かなり距離があるにもかかわらず、いまだに会場に残っている美月をよく思っていないのがひしひしと伝わってきた。

「今、行く! あっ、君は――」

 知り合いに返事をした男性が、すぐに美月に意識を戻して何かを言いかける。だが、美月はそれをさえぎるように一歩下がり、彼と距離を取った。

「どうぞ行ってください。あの、お話ができて楽しかったです。……失礼します」

 会釈えしゃくすると、美月は小走りで男性の横を通り過ぎる。

「待って、君!」

 男性の呼びかけにも振り返らず、美月はパーティ会場を出て化粧室に飛び込んだ。そこで鏡に映る無様ぶざまな自分の姿を見るなり、思わず手で顔をおおう。
 義妹に乱された髪が酷い有様になっている。こんな姿であの素敵な男性の前に立っていたかと思うと、恥ずかしくてたまらなかった。
 美月は、愛菜のようにその場にたたずんでいるだけで男性を魅了できるほど美しい容姿ではない。義兄妹となった二人とは比べものにならないほど平凡な外見は、誰の目にも留まらない。特に今日のパーティでは、それが如実にあらわれていた。なのに、あの男性はそんな美月に最後まで親切にしてくれたのだ。

「あんなに素敵な人とは、もう二度と出会えないよね……」

 少し寂しさは覚えるが、それが美月の人生。今の自分を受け入れて前に進まなければ……
 美月は落ち込みかけた気持ちをふるい立たせ、ピンを使って乱れた髪を整えた。
 再びパーティ会場へ戻ると、早速宗介に見つかり説教が始まる。解放されたそのあとも、美月はずっと一人で過ごした。予想したとおり、あの男性と再び会うことはなかった。


   ***


 ――数週間後。

「あっ、雪……」

 宮本みやもと誠一せいいち建築事務所でアルバイト中の美月の視界に、ちらちらと舞う小雪が映る。
 今日は冷え込みが強い。午後には雨が雪に変わるかもしれないという天気予報は見事的中したようだ。しかも近々大寒波が日本列島をおおうとかで、全国各地で大雪になる恐れがあるらしい。
 先日も大雪で交通網が麻痺まひしたのに、来週もまた雪で大変なことになるのだろうか。
 美月は作業の手を止め、立ち上がって窓際に近寄った。

「良かった、積もる雪じゃなさそう」

 地面に落ちた雪が間を置かずに溶けていく。その光景に安心した美月は、再びデスクに戻って作業を始めた。
 美月は、大学入学時から、ここでアルバイトをしている。
 最初は主に事務作業の補助をおこなっていたが、しばらくして所長の宮本から建築模型の製作にたずさわってみないかと誘われた。挑戦してみると、たちまちその魅力に取りかれ、建築模型士の資格を取得。卒業後は、正式に入所することが決まっている。
 工房に籠もっての作業がほとんどのため、多少は孤独を感じなくもないが、美月に不満はなかった。クライアントの喜ぶ姿を見られるように、全力を尽くすだけだ。

「さあ、午後も頑張らないとね! 岩城いわしろさんもそろそろ出先から戻ってくるし」

 建築模型士の岩城に指示された作業に戻った時、ドアをノックする音が聞こえた。

「芦名さん、ちょっといいかな?」

 ドアの傍には、所長の宮本が立っていた。外を指でさす彼に、美月は即座に「はい」と返事をして、工房を出る。そして彼のあとに続き、所長室へ入った。

「今の進捗しんちょくはどうなってる?」
「岩城さんが作成されたスケジュールどおりに進んでいます」

 美月は普段と変わらない態度をよそおいつつも、実際は宮本の動きに戸惑っていた。彼が美月を見もせずにキャビネットから分厚いファイルを取り出し、それを旅行バッグに詰めていくからだ。

「そうか。それなら芦名さんに頼んでも大丈夫かな。バイトとはいえ働いて四年だし、君はもううちの即戦力になれる」
「あの、おっしゃってる意味が――」
「ああ、悪かった」

 くるっと振り返り、ようやく美月を見た宮本が決まり悪そうに苦笑した。

小野塚おのづか氏の家に行って、私が指定する資料をまとめてきてくれないかな?」
「えっ? 小野塚氏って……あの、世界で活躍されている有名建築家の?」
「そうだよ、私が尊敬する建築家の一人だ」

 建築事務所に勤める者なら誰でも知っている名前に、言葉を失う。すると、そうなるのもわかると言いたげに、宮本は何度も頷いた。

「小野塚氏は、自宅に貴重な書物を所蔵している。今度のコンペで参考にしたいと思って、それを見せてもらえないかと打診していたんだ。それで無理を言って七日間予定をけてもらったのに、私にどうしても外せない出張が入ってしまった」

 これから出発するのか、先ほどファイルを詰めた旅行バッグとスーツケースを宮本は身振りで示す。
 確かに出張では仕方がない。だが、資料作成も大事な仕事だ。日程をずらしてでも、宮本が自分で取り組むのがいいのではないだろうか。

「所長が出張から戻ってきてから伺うのでは、ダメなんですか?」
「それも考えたよ。だけど私が戻る頃には、小野塚氏は海外出張で日本を離れている。都合がつくのは今しかないんだ。それで芦名さんに声をかけさせてもらった」

 宮本はデスクの上にある封筒を取り、美月に差し出す。

「調べてほしい内容はリストにまとめてある。自分用に書き記したものだが、芦名さんにもわかると思う。どう? 引き受けてくれるかな?」

 美月は封筒を受け取りつつも、やはり正式な所員でもない自分が行っていいものなのかと不安に襲われた。そんな迷いを感じ取ったのか、宮本が美月を安心させるように頬を緩める。

「今回の仕事は大変かもしれない。でも、きっとそれだけではないから安心して」
「どういう意味ですか?」
「小野塚氏が今まで手がけた建築物の模型が、彼の家にいくつか置いてある」
「えっ? 模型が置いてあるんですか!?」

 目を輝かせる美月に、宮本がぷっと噴き出した。あまりにも美月の食いつきが良かったからだろう。
 肩を揺らして笑う宮本は、恥ずかしさでちぢこまる美月を見て、少しずつ笑い声を収めた。

「小野塚氏には私から、うちの建築模型士が代わりに伺うむねを知らせておく。休憩時間を利用して模型を見せてもらうといい。きっと芦名さんのためにもなる」
「ありがとうございます! では、所長のお役に立てるよう頑張ってきます!」

 美月が応じると、宮本は詳細なスケジュールを話してくれた。
 明日から土日を除いた七日間、美月は小野塚邸へ通う。時間は十三時から十八時まで。小野塚が不在にしていても、夫人か家政婦は必ずいるので気にせず訪れていいとのことだった。

「芦名さんは、現在週四でバイトに入ってくれてるけど、その日以外も出てこられそう? 単位や卒論は大丈夫?」
「はい、大丈夫です。何かあっても、午後には小野塚邸に向かいます」
「よし、それならしっかり調べてきてくれ。よろしく頼む」

 宮本はそう言うと、用意したバッグを手にした。美月は先回りしてドアを開け、彼と一緒に事務所の外へ出る。

「じゃ、行ってくる。芦名さんも頑張ってきて」

 美月が頷くのを見てから、宮本は待たせていたタクシーに乗り込んだ。
 その後、美月は工房に戻り、宮本から受け取った封筒を開ける。中に入っていた書類に目を通すと、どの資料を探せばいいのか箇条書きされており、何をまとめたいのかという目的も細分化してあった。
 この業界にまだそこまで詳しくない美月でも、宮本の求める内容が手に取るようにわかる。
 自分なりに頑張ってみようと覚悟を決め、美月は再び岩城に任された仕事に戻った。


 ――翌日。
 午前中は大学に顔を出したが、午後は小野塚邸へおもむくため早々に出た。電車とバスを乗り継ぎ、高台の新興住宅地にある停留所で降りる。
 肌を刺す冷たい風に、美月は身震いした。マフラーをきつく巻いても、寒さからは逃れられない。手袋をしていない手をこすり合わせたり吐息で温めたりしながら、周囲を見回した。
 先日の大雪の名残なごりが、道路の隅や街路樹の根元に見える。日陰だからなのかもしれないが、都心はここまで雪が残っていない。溶けずに硬い氷となっているのは、ここの気温が都心よりも低いせいだろう。

「これからは、もう少し着込まないと」

 風邪を引いて寝込みでもしたら、義兄や義妹に何を言われるか……
 義兄妹間で波風を立てずに過ごすには、美月が彼らから叱責されないようにすることが大事だ。
 それを再び自分に言い聞かせ、美月は携帯の地図で確認しながら坂を上がり、立派な門構えの前で止まった。

「……ここなの!?」

 明治時代の洋館を彷彿ほうふつとさせる大きな邸宅に、美月は圧倒されてしまう。
 美月が現在家族と住んでいる、磯山グループの社長が用意してくれた家も充分大きいが、目の前の邸宅はそれ以上だ。
 気圧けおされそうになりつつも、美月は勇気を出してインターホンを押した。

『はい』
「宮本誠一建築事務所から来ました、芦名と申します。小野塚さまとお約束をさせていただいておりますが、ご在宅でしょうか」
『伺っております。どうぞ中へお進みください』

 自動で門が開いたので、美月は敷地に入り階段を上がった。目の前に広がる手入れの行き届いた庭園も素敵だが、それよりも両翼を広げたような形の豪壮な邸宅に目が吸い寄せられる。
 その時、玄関のドアが開いた。
 我に返った美月は背筋を伸ばし、小走りでそちらへ向かう。五十代ぐらいの恰幅かっぷくのよい女性が、美月を見るなり穏やかな笑みを浮かべた。

「私は家政婦の岡島おかじまと申します。旦那さまは書斎にいらっしゃいますので、ご案内いたしますね」
「芦名です。どうぞよろしくお願いいたします」

 岡島に続いて屋敷に足を踏み入れる。外観に似合う洋風の内装に、美月はまたも目が釘付けになる。
 床には幾何学きかがく模様の色鮮やかな絨毯じゅうたんが敷かれ、玄関には細かな彫り細工がほどこされた花瓶が置かれ大輪の薔薇ばらが生けられている。ゴブラン織りの生地で作られた豪奢ごうしゃな椅子も置いてあった。
 物の価値がわからない美月にも、そこにある全ての品が高価だろうことは理解できる。
 絨毯じゅうたんに足を引っ掛けて転ばないようにしなければ……
 美月は緊張の面持ちでブーツを脱ぎ、自由に使っていいと言われたワードローブにコートとマフラーを掛けた。

「書斎はこちら側のむねでございます」

 岡島がとあるドアの前で足を止めると、美月もそれにならった。

「旦那さま、宮本誠一建築事務所より芦名さまがいらっしゃいました」
「お通しして」

 岡島がドアを開け、どうぞと手振りで室内を示す。美月は彼女に会釈えしゃくして、書斎に足を踏み入れた。

「はじめまして、芦名と申します。宮本の代わりに、こちらに通わせていただきます」
「ああ、聞いているよ」

 書斎のデスクの横に立ち、何かの本を手にしている人物こそ、世界で活躍する有名建築家の小野塚だ。年齢は六十代に入ったばかりだと聞いているが、スラックスにセーターというラフな格好で、五十代の宮本より年下に見える。彼と違って髪の毛が黒々としており、肌艶はだつやもいい。精力的に海外へおもむいて仕事をしているのが若さの秘訣なのだろうか。
 そんなことを考えながら小野塚を見つめる美月に、彼はおかしそうにクスッと笑った。
 あれ? この笑い方、どこかで見た気が……
 記憶を探るようにほんの少し小首を傾げている間に、小野塚が手の中の本を閉じてデスクに置いた。

「宮本くんは、面白そうな子を雇っているんだね」
「えっ?」
「この業界では、何事にも物怖じせず、鋭い観察眼を持った子が役に立つ。ほんの些細ささいなミスも許されないからね。だが――」

 小野塚は数歩美月に近づくと、彼女の頭のてっぺんから爪先つまさきまでをまじまじと眺めた。そして残念そうに顔をしかめる。

「芦名さんは、もっと本当の自分を前面に出した方がいいね。どこか抑圧された雰囲気を身にまとっている。周囲に迷惑をかけるぐらいなら、自分が我慢すればいい……とか思ってない?」

 小野塚の言葉に、美月はドキッとした。心当たりは特にないのに、核心を突かれた気がしたためだ。


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