もう君を逃さない。

綾瀬麻結

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1巻

1-2

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 思わず身構えた時、小野塚がふっと頬を緩めた。

「悪いね。仕事柄、相手の性格や感情を見極めようとする癖がついてしまって。でもそのお陰で、誰とでも実のある議論ができるんだと思う。私はね、自分と関わる人にもそうあってほしいんだ。だから芦名さんも、私と話す時は遠慮なく感情をぶつけてくれていいんだからね」

 小野塚がどこに話を持っていこうとしているのか、よくわからない。けれど彼の柔らかい物腰に、美月のからだからも自然と力が抜けていった。
 美月は改めて小野塚に頭を下げる。

「これからどうぞよろしくお願いいたします」
「うん、楽しくやっていこうね。さてと、宮本くんから受け取った書類を見せてくれる?」

 美月はバッグからファイルを取り出し、調べる資料が箇条書きにされた用紙を手渡す。小野塚はそれに目を走らせると「なるほどね」と呟き、用紙を美月に返した。

「見たところ、必要なものは隣室の書庫と書斎のキャビネットにある。おいで、案内しよう」

 小野塚は、隣室に続くドアの前でセキュリティパネルを操作する。

「ここを開けられるのは家族だけなんだ。私がいない時は、妻に解除を頼んでほしい。でも妻も仕事をしているから、いない日もあると思う。だから書庫には、なるべく私がいる時に入ってほしい」
「わかりました」

 書庫では、目当ての蔵書がどのあたりにあるのか、だいたいの位置を教えてもらった。まず一冊見つけ、それを手にして書斎に戻る。
 するとそこには、岡島の他に、四十代ぐらいのとても素敵な女性がいた。彼女は小野塚を見るなり艶然えんぜんとした面持ちで彼に近寄る。彼もまた笑顔で両腕を広げて、女性を迎え入れた。

「ああ、帰っていたんだね。芦名さん、彼女は私の妻だ。都内でネイルサロンを経営している」

 こんなに若い人が奥さま? しかも会社の経営者!? 
 目の前に立つすらりとした女性は、ロング丈のニットワンピースに真珠しんじゅのネックレスを身に着け、髪を緩やかにアップにしていた。
 洗練された仕草の女性を眺める美月に、小野塚夫人が優しげに微笑んだ。

「はじめまして。あなたが芦名さんなのね。女性が来ると聞いて、楽しみにしていたの!」
「おいおい、芦名さんは遊びに来たんじゃないんだよ。仕事で来たんだ」
「わかってるわ。でも、この家に若い子が来てくれて嬉しいの。息子たちは全員独り立ちしちゃって、まったく家に寄りつかないし」
「私は妻と二人だけの生活に満足しているのに、君は違うのかい?」

 目の前で繰り広げられる仲睦なかむつまじいやり取りに面食らっていると、岡島が美月に顔を寄せ、そっと「お二人は海外で過ごされることが多いので、あまり人目を気にされません。慣れてくださいね」と耳打ちしてきた。
 美月が素敵な夫婦の姿を見つめながら頷いた時、小野塚が岡島の名を呼んだ。

「芦名さんが集中して作業できるように、理人りひとが使っていた書斎に案内してあげてくれないかな。芦名さん、そこで自由に仕事してくれ。何かあったら岡島さんに言ってくれればいい。彼女は君の望みどおりに動いてくれるだろう。あと……私の書斎にはいつでも入ってきていいからね」
「ありがとうございます」
「では、ご案内いたしますね」

 美月に声をかけた岡島は笑いをこらえきれない様子で、手で口元を隠している。
 その後、書斎から少し離れたところで、ようやく岡島が口を開いた。

「お二人は本当に仲がよろしいんです。もうこちらが赤面してしまうぐらいの仲の良さで……。ああいう風にわたしたちを追い出されたのは、まあ、いろいろとね」

 岡島がにごした言葉で、これから室内で何が起こるのかを想像した美月は真っ赤になったが、それを上回る勢いで羨望せんぼうが生まれる。

「年齢を重ねた今でも愛し愛される関係って、とても素晴らしいですね。わたしにはそういう特別な人がいないので」
「芦名さんはまだ大学生でしょう? 大丈夫、これから素敵な人と出会えますよ。あっ、こちらです」

 ドアを開ける岡島に続いて室内に入った。
 小野塚の書斎と同じく大きなデスクと座り心地の良さそうな椅子、そして製図用に特化されたドラフターがあった。

「こちらは、長男の理人さまの書斎です。既に家を出られていますので、今はどなたも使っておりません。ご自由にお過ごしください。では、のちほどまた伺います」

 岡島が出ていくと、美月はホッと息をついて部屋を見回す。
 誰も使っていないという割に、室内はとても綺麗だ。建築関係の本が詰まったキャビネットとデスクに指をすべらせるが、ほこりはない。

「息子さんがいつ帰ってきてもいいように、きちんと掃除されているのね」

 家族を大事にしていることが伝わってくる。

「本当にうらやましいな……」

 美月は自分の家族と比較してしまい、物悲しい気分になった。しかし、頭を振ってそれを吹き飛ばし、椅子に腰を下ろす。
 資料をまとめられるのは七日間しかない。集中して取り組まなければ、宮本の期待を裏切る結果になる。それだけは絶対にしたくない。
 気持ちを切り換えた美月は、リストにある書物を探したり、建物の図面をカメラでったりしていく。
 勝手が違うので、小野塚邸での仕事は大変だった。そんな美月をリラックスさせようと思ったのか、休憩時間には小野塚が顔を出し、世界各地の建築物の話をしてくれる。それはとても興味深く、美月は熱心に聞き入った。
 別の日には、小野塚夫人や岡島と女子トークを繰り広げ、盛り上がりもした。
 そうして小野塚邸に通うのも四日目になると、美月の足取りは自然と軽くなっていた。

「今日もよろしくお願いします」

 美月はほがらかに挨拶あいさつするが、この日に限って岡島が申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「芦名さま、実は旦那さまは急用で外出しておりまして。ですが、奥さまはいらっしゃいますので、いつもどおり書斎を使ってほしいとのことでした」
「ありがとうございます」

 美月は笑顔で返事をして、書斎へ向かおうとする。その時、ちょうど小野塚夫人が階段を駆け下りてきたので足を止める。

「芦名さん、いらっしゃい! あのね、私これから会社に行かなければならないの。悪いんだけど、書庫にある本が必要なら、今出してもらえるかな?」
「あっ、はい。わかりました!」

 美月は小野塚夫人と一緒に書庫へ行き、今日取り組もうと考えていた本を手にする。

「芦名さんが帰宅するまでには戻るつもりよ。でも、もし間に合わなかったら、それは岡島さんに渡してくれる?」
「わかりました」

 そうして小野塚夫人は「じゃ、行ってくるわ!」と元気よく手を振り、急いで出ていった。
 美月は書斎へ行き、作業に取りかかる。しかし、明治時代の建物についてまとめられた本を目にした途端、仕事そっちのけで読みふけってしまった。
 次のコンペでは、この路線でいきたいという宮本の胸の内がとてもわかる。
 いつの日か、わたしも西洋の建物の模型に取り組んでみたいな――そんなことを思っていると、不意に宮本から聞いた話が美月の頭をよぎった。
 小野塚邸には、小野塚が設計した建築物の模型があるということを……

「この仕事が終わったら見せてください、って頼まないと。うん!」

 美月は気合を入れ直して、仕事に戻る。
 途中、岡島から小野塚夫人の忘れ物を届けに行くと声をかけられた。美月だけになった洋館内は静まり返り、空調の音とキーボードを打つ音のみが響く。

「うーん!」

 一時間ほど経った頃、一息入れようと岡島が用意してくれたコーヒーに手を伸ばした。しかし、気付かない間に飲み干していたようだ。カップだけでなく小さなポットもからっぽになっている。
 岡島は不在だが、キッチンにはいつでも入っていいと言われていたため、美月はポットを掴んで廊下に出た。
 その時、窓の向こう側で何か黒いものが動いたのが目の端に映る。何気なく顔を向けると、そこにはアプローチを歩く黒ずくめの男性がいた。
 男性はダウンジャケットにジーンズというラフな格好で、どう見てもセールスマンには見えない。
 もしかして、泥棒!?
 そう思った瞬間、恐怖で美月のからだが凍り付く。
 今、小野塚邸にいるのは美月だけ。即座に書斎に取って返し、携帯から警察に連絡するべきだと思ったが、恐ろしさのせいで足がまったく動かない。
 そうしている間に、玄関のドアが開く。

「……っ!」

 美月は声にならない悲鳴を呑み込み、身を隠すようにしゃがみ込んだ。耳を澄ますと、足音が近づいてくるのがわかる。
 ひょっとして小野塚が所蔵している貴重な本が目当てなのだろうか。

「ま、守らないと……!」

 美月は武器にならなそうな小さなポットを置いて立ち上がり、数歩離れたコンソールテーブルにある重たそうな花瓶を両手で持った。
 徐々に大きくなる足音に合わせて、心音が耳元で鳴り響く。恐怖に我を忘れそうになるが、それを必死に耐えて廊下の曲がり角に身を隠した。
 緊迫した状況に、美月の息遣いが浅くなってしまう。その呼吸音が泥棒に聞こえやしないかと不安に駆られて、今度は息が詰まりそうになる。
 ああ、こんなの耐えらない! 
 下肢がわなわなと震え、花瓶の水がぴちゃぴちゃと揺れ始めた頃、衣服のれる音が響いてきた。泥棒が近くまできたのだ。
 呼吸が止まりそうになるのを感じたが、美月はそれを無視して花瓶を頭上へ持ち上げる。そしてダウンジャケットが目に入った刹那せつな、一気に振り下ろした。

「うわあぁぁっ!!」

 泥棒の悲鳴に、美月のからだに余計な力が入る。それがいけなかった。
 花瓶を泥棒の頭に落として相手を気絶させるつもりだったのに、手が離れず、花と水をぶっかける形になってしまったのだ。

「あっ……」

 作戦が見事に失敗し、愕然がくぜんとなる。ずぶれの泥棒を見つめる美月の手から力が抜け、花瓶が絨毯じゅうたんの上に転がった。
 美月は唇を震わせて、花や水を乱暴にぬぐう相手を凝視する。しかしすぐに我に返り、身をひるがえして走り出した。

「おい、待て!」

 泥棒に呼びかけられるが、美月はそれを無視し、何度も転びそうになりながら書斎に飛び込む。素早く鍵をかけようとしたところで、ドアを強く押された。

「きゃあぁ!」

 後ろに倒れて尻餅をついた美月は、泥棒から身を守るものがないかと周囲を見回す。でも、何もない。
 どうしよう、どうしよう! 
 焦りで歯ががちがちとぶつかる。舌に広がる血の味で唇を切ったのがわかったが、構っている余裕はない。美月はとにかく逃げなければと思った。なのに恐怖でからだを動かせない。自分の弱さが悔しくて、まぶたの裏が熱くなる。
 たまらず手を握り締めた時、突然泥棒が目の前に片膝をついた。
 何かされると想像した美月は、ぎゅっと硬く目をつぶってしまう。

「君……、もしかしてあのパーティにいた子?」

 えっ? 今の声って……
 聞き覚えのある声音に、美月の心臓が痛いほど打った。同時に胸に火が灯り、温かいものが広がっていく。先ほどとはまた違う胸の高鳴りを覚えながら、美月はゆっくり顔を上げた。
 そこにいたのは、磯山グループのパーティで出会ったあの男性だった。

「ど、どうして……あなたが?」
「それはこっちの台詞せりふだよ。どうして君が俺の実家に?」
「実家? ……あの、泥棒じゃ?」

 美月がそう言った途端、男性がぷっと噴き出した。こんなに楽しい間違いは初めてだと言わんばかりに笑い、れた髪を手で掻き上げる。

「自分の家に帰ってきて、泥棒に間違われるとは思ってもみなかった。そうか、俺たちは自己紹介がまだだったね。あの日、きちんと名乗り合っていたらこんな再会にならずに済んだのに」

 男性はジーンズの後ろポケットから財布を取り出すと、美月の目の前に免許証を差し出した。

「俺は小野塚理人、二十九歳。父の事務所で一級建築士として働いている。あのパーティは、父の代理で出席していたんだ」
「小野塚さんの息子さん?」

 免許証に〝小野塚理人〟と書いてあるのを見て、ようやく納得がいった。彼は泥棒ではなく小野塚の息子だから、簡単に家に入ってこれたのだ。

「……君は? 大学生なのは知っているけど」

 数週間前にほんの少し会話を交わしただけなのに、自分を覚えてくれていたなんて……
 泣きたくなるほどの嬉しさが胸に広がっていく。それを必死にこらえて、美月は免許証から顔を上げた。

「あの……わたしは、芦名美月と申します。宮本誠一建築事務所でバイトをしているんですが、今は宮本の代わりにこちらに毎日通って、必要なデータを取らせていただいてます」
「なるほど。それで俺の実家にいるんだね。でも、毎日? そんなにバイトをしていたら、彼氏が怒らない?」

 美月は頭を振って否定し、自嘲じちょうするように笑った。

「そういう人はいません。今まで男性に、特別な感情を抱いたことがなくて。それに――」

 父と二人暮らしをしていた時は、美月が家事全般をになっていたため忙しかった。今は義兄妹の不興を買わないよう過ごすのに必死だ。
 そんな状況下で、男性に対して特別な気持ちを抱く余裕などない。
 そう思っていたのに、理人は違う。たった一回しか会っていないのに、彼を見ただけでこれまで感じたことのない想いが湧き起こってくる。胸の奥がむずむずするほどだ。
 それはうずきになり、下腹部の深奥しんおうへと伝染していった。そこに熱が集中して妙な気怠けだるさすら覚える。なのに、何故かもっと感じていたいという衝動に駆られた。
 これはいったいどういう感情なのだろうか。
 美月は呼吸のリズムが少し速くなっていることに気付かないまま、柔らかな表情でこちらをうかがう理人を見つめた。

「そうなの? 俺は芦名さんが気になっていたのに。もちろん、今日の出会いにも心を惹かれてるけどね。俺たち、深い縁があるのかな。一度目はシャンパンをかけられ、二度目は花瓶の花と水をぶっかけられた」
「あっ!」

 どうして忘れていたのだろう。理人はびしょれになっているというのに……

「すみません! 本当に!」

 バッグに入っているタオルを取ろうと腰を浮かしたところで、理人が美月の腕を掴んだ。

「あの日は髪の毛をアップにしていたからわからなかったけど、こんなにも長かったんだね。巻いた髪が女性らしくて、芦名さんに似合っている」

 美月の長い髪を見て、理人が頬を緩める。かと思えば、今度は彼の目線が美月の唇に移動する。そしてあごを指で掴んだ。

「小野塚さん? あ、あの――」
「俺が怖がらせてしまったせいだ」

 そう言った次の瞬間、唇に理人の指が触れた。突然のことに美月は目を見張るが、彼は気にせず指を動かし始める。

「唇が傷ついている。俺が原因で……」

 思わず美月は唇を舐めた。もう血の味はしない。

「大丈夫です。血は止まっているので……あの、小野塚さん?」

 美月の呼びかけに、理人が息を長く吐き出した。そして上目遣いで美月と視線を合わせる。

「芦名さんが心配だよ。今のは無意識なものだとわかっているのに、君から目が離せない。庇護欲をくすぐられる」
「あ、あの……?」

 肌にまとわりつくようなしっとりとした口調に、美月の呼吸はどんどん浅くなる。血がゆっくりと沸き立ち、胸の奥が熱くなっていくのを止められない。

「どうしてかな。芦名さんと初めて会った時も感じたけど、今はあの日以上に、君に――」

 理人が何かを告げようとした瞬間、彼の背後で大きな物音がした。そちらへ目を向けると、口を手でおおった岡島が、目を丸くして美月たちを見つめている。

「理人さま、何をされているんです!? その方は、ど、泥棒ではありませんよ! 彼女はお仕事で旦那さまのもとに通われている、芦名さんです!」

 岡島の悲鳴に似たかすれ声が書斎に響き渡る。すると、理人が笑いながら美月の手を取って立ち上がった。

「わかってるよ。どちらかというと、俺が泥棒と間違われてこのザマなんだけどね」

 理人のれた髪とダウンジャケットに気付いた岡島が、口をあんぐりと開ける。

「俺は上で着替えてくる。岡島さんは、芦名さんと俺のお茶をここに持ってきてくれるかな?」
うけたまわりました」

 そうして書斎を出ていく理人と入れ替わりに、岡島が駆け寄ってくる。

「あの本当に大丈夫でしたか? 理人さまがご迷惑をおかけしませんでしたか?」
「はい。むしろわたしが彼を泥棒と間違えて、失礼な態度を取ってしまって……。実は、花瓶の中身をかけてしまったんです。……あっ、廊下が汚れたままに!」
「気になさらないでください。あとで私が片付けておきます。では、お茶をれてきますね」

 岡島は慌てふためく美月を安心させるように表情をやわらげたあと、退出した。
 書斎に一人になるなり、美月は化粧ポーチから鏡を取り出して唇を確認した。
 血は止まっているが、まるで虫に噛まれたみたいにぷっくりと膨らんでいる。
 れた唇にそっと触れると、理人にそこを優しく撫でられた感触がよみがえった。彼の指を思い出すだけで、からだの芯が熱くなり、げるようなうずきが生まれる。
 たまらず視線を上げた美月は、鏡に映った自分の顔を見て唖然とした。

「何、この表情……」

 そこには、これまでに見たことのない自分がいた。瞳はうるんで輝き、頬は薔薇ばら色に染まっている。
 美月は手の甲で口元をおおい、みずからの変化を感じながらまぶたを閉じた。
 それからしばらくして、岡島がコーヒーと軽食を手にして書斎に戻ってくる。そのタイミングを見計らったかのように、理人もドアを軽くノックして入ってきた。
 新しい服に着替えて髪をワックスで整えた理人が、美月に微笑みかける。
 これが普段の姿に違いない。パーティの際にしていた髪型も、大人の色気があって素敵だったけれど、今はその時とは違って親しみやすい雰囲気がただよっている。
 春の陽だまりみたいに温かい……

「岡島さん、ありがとう」
「いいえ。ところで理人さま。芦名さんはお仕事で来られているんです。それをお忘れにならないでください」
「わかってるよ。さあ、出ていって」

 岡島はドアを開けたまま書斎をあとにした。
 二人きりになると、美月は理人にうながされてソファに座った。

「岡島さん、芦名さんのことが好きなんだね。君を俺から守ろうとして、仕事だって念を押してくるんだから」

 岡島の気遣いを思い出して、自然と美月の頬が緩んだ。それを隠すように、コーヒーカップを口元へ持ち上げる。

「そうでしょうか。わたしを守るというより、むしろわたしが小野塚さんの優しさを勘違いしないか心配しているんだと思います。わたしが男性に慣れていないのを、岡島さんも知っていますから。あっ、安心してくださいね。間違っても自分のいいように解釈はしません」
「そんな風に、最初から決めつけないでほしいな」
「はい?」

 き返す美月に、理人はなんでもないと肩をすくめた。

「毎日通っていると言っていたけど、いつまで?」
「今日を除くとあと三日伺います。土日は休みなので、来週までですね」

 理人は意味深に「三日……」と呟いたあと、急に実家に寄った理由を話し始めた。
 実家暮らしをしていた頃、理人は美月が使っている書斎でいろいろなアイデアをしたためていたという。その時にまとめたデータを取りに来たかったが、父親が家にいる時は避けていたらしい。なんでも、一旦足を踏み入れると、必ず泊まるように言われて帰してもらえないそうだ。それだけならまだいいが、いつ身を固めるのか、いつ恋人を紹介してくれるのかと、根掘り葉掘りいてくるという。

「父の望みはわかっている。早く結婚して、一緒に海外に出てほしいんだよ。建築家として仕事に集中してほしいと思ってるんだ。でも俺はまだやるべきことがある。そうそう、海外と言えば――」

 続いて、父親の海外出張に付いていった話を始めた。
 興味深い海外の建築事情を聞きながら、楽しい時間を過ごす。それはほんの一時いっときだったが、理人の人となりを知り、美月は乾いたスポンジが水を吸うように急速に彼に惹かれていった。
 帰る際に美月を最寄り駅まで送ってくれた所作も、とてもスマートだ。終始、美月を大人の女性として扱ってくれたことも嬉しい。
 自分は男性の目を引く美女でもないのに……
 そんな風に真正面から美月と向き合ってくれた理人。でも、もう二度と会えないだろう。今日で二人の接点はなくなり、これでお別れになる。
 そう意識した途端、美月の胸に再び悩ましい気持ちが湧き起こった。それは週末になっても心に留まり、週明け小野塚邸へ向かう間もずっとうず巻いていた。


 ――月曜日。

「やあ、こんにちは」

 突如聞こえた深い声音に、美月は読んでいた本からさっと顔を上げる。そして、来るはずのない理人がそこにいるのを見て、目を丸くした。

「小野塚さん? ど、どうして?」
「父が海外出張へ行くだろう? その事前調整で、父に会いに来たんだ。じゃ、またあとで」

 そう言った理人はにこやかに手を振って、廊下の先にある小野塚の書斎へ向かった。
 理人が姿を消すのと同時に美月の心臓が早鐘を打ち始め、一瞬にしてからだが発火するのではないかと思うほど熱くなる。

「何、これ……。いったい何!?」

 美月は高鳴る胸に手を置きながら、理人の姿を追うようにドアを見つめていた。
 そのあと、落ち着かない気持ちのまま仕事を進めていると、理人が美月のもとへ戻ってきた。そして、ソファに座り印刷した製図のチェックを始める。
 忙しいはずなのに、理人は美月が手を休めると話しかけてきたり、気分を変えるために家の中を案内してくれたりした。
 親切にしてくれるのは、小野塚のもとで慣れない仕事をする美月を気遣ってくれているからだろう。しかし、こうも真綿でくるむように接せられては、勘違いをしそうになる。
 ……えっ? 勘違い? 
 美月は自分の発想に目をぱちくりさせて、仕事に集中する理人を見つめた。それに気付いた彼が、手元から目を上げる。

「芦名さん? ……休憩する?」
「あっ、いえ……」

 こっそり見ていたのを知られたためか、それとも理人の目がほがらかに細められたためか、美月の頬が火照ほてっていく。
 美月はそれを隠すように立ち上がり、デスクの上に置いてある本を腕に抱えた。

「本を戻してきます」

 理人に断りを入れてから書斎を出ると、小野塚の書斎へ向かう。
 美月は出張準備で忙しく動く回る小野塚に会釈えしゃくし、借りた本をキャビネットに返す。すると、不意に彼が話しかけてきた。

「理人はどういう理由で実家に来たんだろうね」
「小野塚さんが海外出張へ行かれるので、事前調整をおこなうためと伺ってます」

 美月の答えに、小野塚は楽しそうに笑った。

「うん、そう言ってたね。口実が必要なほど必死になる息子を見られるなんて、芦名さんに感謝しなければ。まるで昔の自分を見ているようだ」
「あの、わたしは何もしていませんが……」
「それでいいんだよ」

 そう言って小野塚は急に立ち上がり、美月に「ついておいで」と手招きする。そして奥へ通じる廊下を進み、突き当たりのドアのセキュリティを解除した。

「さあ、入りなさい」

 小野塚にうながされて室内に入った瞬間、目を見開いた。二十畳以上あるだろう広い室内に建築模型がずらりと飾られてある。あまりの壮観さに、二の句が継げない。
 精巧に作られた模型を間近で観察していると、小野塚がライトを点けた。光の射し込み具合から、細部まで計算された設計なのがよくわかる。

「このデザインはね――」

 設計の意図を小野塚が一つずつ丁寧に説明してくれた。

「宮本くんに、ここにある模型を芦名さんに見せてあげてほしいと頼まれていたのに、遅くなってすまなかったね」
「とんでもないです! 大切な模型を拝見させてもらえるだけで、本当に嬉しいです!」
「そう言ってもらえて、私も嬉しいよ」

 小野塚に微笑み返したあと、美月は目の前の模型へ再び意識を集中した。
 そうして時間をかけて見て回り、細かな手作業に何度も感嘆の声をらす。そんな美月の隣にいた小野塚が、不意に「芦名さん」と声をかけてきた。
 美月は模型から目を離し、上体を起こして彼を見上げる。

「こんな時に悪いんだが……実は、一日早く出張先に向かうことにしたよ。知ってのとおり、明日の夕方から雪が本降りになると予想されている。そうなれば交通網が麻痺まひするかもしれない。なので申し訳ないが、芦名さんが書庫に入れるのは今日までになる。妻も私に同行するんでね」


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