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1巻
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しおりを挟む「わかりましたとも……蓮司!」
挑戦するかのように叫んだあと、友梨はドアを開ける。
その時、久世が大声で笑い始めた。友梨が苦々しく顔を歪めると、ドアの傍に立っていた東雲が、不機嫌そうに友梨をちらっと見る。そして、友梨と入れ替わりで室内に入った。
「若!」
東雲は声を上げ、事務所のドアを閉めた。
「……若?」
友梨は東雲が口にした呼び方が気になったものの、すぐに頭の隅に追いやり、廊下を進む。従業員用のドアを開けて外に出た。
つい数十分前の冷たい風は気持ちよかったのに、今では寒気に襲われて背筋がぞくぞくする。
これからいったい何が起こるのだろうか。
そんな不安に襲われるも、友梨は前だけを向いて歩き出した。
***
「若!」
久世はまだ込み上げてくる笑いを止められなかったが、友梨と入れ替わりで入ってきた東雲の呼びかけで、表情を消す。
「その呼び方はやめろ。組を出たんだ」
「す、すみません……社長」
何年も前に捨てた呼び名で呼ばれると、未だに当時の出来事が脳裏に浮かぶ。
楽しくもあり、苦くもあった日々が……
頭に過った思いを振り払うように、久世はデスクの上のファイルを手に取り、そこから友梨の履歴書を抜き取った。
「須崎友梨と愛人契約を結ぶ」
「事前に調べもせず、懐へ迎え入れるんですか?」
久世から履歴書を受け取った東雲が、声を荒らげる。
「彼女が嘘を言っている節は見られない。何よりヤクザに騙されたのに、一般市民の女が慶済会に立ち向かったんだ。面白いと思わないか? その気概があれば、俺の傍にいても立ち向かえる。あの件も片付く……」
あの件――それは以前に付き合った女性のこと。いろいろな出来事が重なり数ヶ月で別れたが、十数年経った今でも彼女は久世と親密な関係を取り戻したいと思っている。
既に婚約者がいる身だというのに久世への執着が激しく、あの手この手を使って久世が関係を持った女性たちを精神的に追い詰めていった。
問題なのは、彼女が自分の手を汚さずに罠を仕掛けてくるという点だ。知っているのなら、久世自身が彼女を問い詰めて解決すればいい話だが、実はそれができない。
久世には、そうする権利がないためだ。
だからこそ、彼女が何かを仕掛けてきても、気丈に立ち向かえる愛人が必要だった。
久世に執着しても無駄なんだと、自ら律してほしいから……
「なんとかしたい気持ちはわかりますが、それでもやはりあの女性を信じるべきではないかと。並外れて強気なのが、余計にあやしく思えますが?」
「そっちは気にするな。俺と友梨の個人的な契約だ。それより――」
久世は、慶済会の三和と滝田が気になっていた。
友梨との件は、問題が片付くまで楽しめばいいだけだが、慶済会が絡むそっちは放っておけない。
三和という男とは面識がなく、滝田の話にも疑う余地はない。にもかかわらず、久世の頭の中で警鐘が鳴り響いている。
あまりにも穴がなさ過ぎると……
「久世社長?」
「滝田の話に嘘はない。真実を話していた。一方で、明らかに故意に口にしなかった件があるはず。そこを探れ」
「慶済会の手の者だと?」
「どうも引っ掛かる。まずは滝田だ。あと……お前の弟分、赤荻剛を呼び寄せろ。友梨の護衛に付ける」
「御意」
東雲が事務所を出ていくのを見て、久世は椅子に座った。腕を組み、楽な姿勢を取って目を瞑る。
何か大変なことが起こりそうな予感がする。反面、その心配を打ち消すほどの喜びが、胸の奥で渦巻いていた。
久世を前にしても動じない友梨の顔が瞼の裏に浮かび、自然とにやついてしまう。
「須崎友梨か……」
キャバ嬢のナンバーワン、ツーに比べると、派手さに欠ける。だが、友梨には目を惹き付けられるものがあった。透明感のある美しさとでもいうのか。
それ故、余計にあの勇ましい性格とのギャップに興味を引かれるのかもしれない。
「久し振りに楽しく過ごせそうだ」
悠々と目を開けた久世はスマートフォンを取り出し、部下の一人に電話をかける。
友梨の引っ越しを進めるためだった。
第二章
「友梨? ……友梨⁉」
岸田の声で友梨は我に返り、パソコンの液晶画面から目線を動かした。正面に座る岸田が、心配そうに見ている。
「どうしたの? 寝不足? ……午前中もボーッとしていたし、午後に入ってもずっと〝心ここにあらず〟なんだけど。大丈夫?」
「あっ、ごめん。大丈夫。ここ数日、寝るのが遅かったせいかも」
本当にいろいろあった。
何せ、オーナーの久世と愛人契約を結ぶ約束をしたのだから……
誰だって人生が一変するような出来事が起これば、寝付けない。
「そういう日もあるけど、ほらっ……部長が睨んでる」
岸田が目配せで五十代の部長を指す。恐る恐るそちらを窺うと、彼女の言ったとおり、友梨を咎める目で見つめていた。
上司に慌てて頭を下げた友梨は、岸田に「ありがとう」と囁き、各部署から上がってきた書類の作成を始めた。
その時、頻繁に総務部に顔を出す、営業部の沢木がやって来た。迷いなく岸田のもとへ行き、彼女の机にクリアファイルを置く。
「岸田さん、これをお願いできるかな? 定時までに」
「なんですって? 定時まで二時間しかないのに⁉」
岸田は不快な感情を隠そうともせず、顔をしかめた。
「二時間あればできるだろう?」
沢木の高飛車な態度に、もう我慢ならないとばかりに岸田が勢いよく立ち上がった。これまでになかった彼女の行動に、彼がぎょっとする。
「あたしは沢木さんの秘書ではないの。他にも仕事があって、あなただけを優先するわけにはいかない。どうしてわからないんですか? ……しかも、余裕を持って提出すらしてくれないなんて」
「営業で忙しいんだよ」
沢木の物言いに、部署内の社員たちがため息を吐いた。彼は、毎回こうやって岸田の邪魔をしては気を引こうとするからだ。まるで小学生が好きな子に意地悪をして、意識を自分に向けさせるかのように。
本当、いい大人の男が取る行動ではない。
社員たちが見守る中、岸田が再び沢木に文句を言おうとするも、椅子に座り直した。
「わかりました。予定の時間までに仕上げます。その代わり、出ていってもらえますか? 仕事の邪魔ですので」
「岸田さん!」
沢木が岸田の肩に触れようとするのを見て、友梨はぎょっとする。彼の行き過ぎた行為を止めさせるために、手にしたファイルを強めに机に置いた。
「岸田に渡したのは、先方にお渡しする覚え書きか何かでしょうか。それを定時までに欲しいのなら、彼女の邪魔をしないでください」
久世とやり合った鬱憤を晴らすかの如く、友梨は苛立ちを沢木に向ける。すると、彼は驚愕して友梨に目を向けた。
「き、君の言い方は――」
沢木が顔を真っ赤にする。友梨は親友を守るために彼に立ち向かおうとするが、それを止めるように部長が動いた。
「沢木さん。定時までにお届けできるよう尽力するので、時間をください」
部長は白髪まじりの頭をほんの僅か下げ、丁寧に告げる。
年配の男性にそうされたら我を通せないと思ったのだろう。
「わかりました。では、よろしくお願いします」
沢木はさりげなく岸田を見て、総務部をあとにした。
「部長! 沢木さんの態度について、営業部に文句を言ってくださいよ。この夏以降、だんだん図に乗ってきてるんですから」
「そうしよう。さすがに彼の素行は目に余る。ところで――」
そう言った部長が、友梨に目線を移す。
「岸田さんを守ろうとする気持ちはわかる。だが、あんな風に盾突かれたら、彼も引くに引けなくなるだろう? これまで同様、上手くあしらいなさい」
「はい。申し訳ありません」
友梨が素直に謝ると、部長が頷く。彼は自分の席に戻っていくが、途中で振り返り、友梨たちを見回した。
「ただ、私もこれ以上は看過できない。営業部部長に話をつける。もうしばらく我慢してほしい」
「ありがとうございます!」
同僚たちはそれぞれ安堵の笑みを浮かべ、胸を撫で下ろす。友梨もそのうちの一人だったが、部長に厳しい目を向けられて姿勢を正した。
「今日はいつもより集中力がなかったみたいだね。岸田さんの仕事を手伝いなさい」
「わかりました」
友梨はデスクを回り、岸田の横に立った。ファイルを持つと、彼女がそっと友梨の腕に触れる。
「ごめん……」
謝る岸田に気にしないでと伝えるように軽く頭を振り、友梨は自分の席に戻った。
仕事に取り掛かるが、なかなか量が減っていかない。すると、自分の仕事を終えた同僚たちが友梨を手伝ってくれた。
そのお陰で、ぎりぎり定時で今日の仕事が終わった。
「忙しいのに手伝ってくれてありがとうございます! あの……行ける人だけでいいので、皆でご飯に行きませんか?」
岸田が同僚たちに声をかけ、参加者を募る。そうして、予定のある者以外で夕食に行くことになった。
友梨たちはオフィスビルを出て、皆でわいわいしながら歩く。しかし、途中で先ほどの仕事の話になると、岸田が急に拳を振り上げた。
「今まで黙って耐えてきたけど、もう我慢ならない!」
「岸田さんが、沢木さんの想いに応えてあげたらいいんじゃない? 頭を撫で撫でして」
先輩が面白おかしく言うと、岸田がとんでもないと顔を真っ青にする。
「無理! 有能で、女性の目を惹き付けるほどの容姿でも、あの子どもっぽい性格は受け入れられない。先輩だって無理でしょう⁉」
「無理っていうより、あたしには彼氏がいるし」
そう言って彼女は左手を挙げて、薬指で輝くリングを見せる。
岸田が「羨ましい!」と本気で悔しがる姿に、皆で笑い合った。
「今夜は飲みたい気分だから、たくさん飲めるところがいいな。居酒屋? 焼き鳥屋?」
「だったらいいお店が――」
先輩たちと岸田のやり取りに、友梨も加わった時、歩道の脇に黒塗りの車が横付けされた。何気なくそちらに目を向けると、後部座席の窓が滑らかに下がっていく。
車内にいる人物――久世蓮司の顔が目に入るや否や、友梨の心臓が痛いぐらいに跳ね上がった。喉の筋肉が強張り、息をするのも苦しくなる。
久世は鋭い目を友梨だけに向けていた。
「な、何? あたしたちの方を見てるみたいだけど」
「でも素敵な人じゃない? 妙に惹き付けられる。男の魅力? 色気っていうか……」
同僚たちが色めき立つ中、友梨だけが久世から目を逸らせない。
どうして会社にまで? 今夜はキャバクラに寄って、久世と連絡を取るつもりでいたのに……
久世に見つめられるうちに、クラクションの音、岸田たちの話し声などの喧騒がどんどん遠のいていく。歩道を歩く人たちでさえ視界に入らない。もう彼のことしか考えられなくなる。
そんな風になる自分が怖い――と思った瞬間、久世が目で車内を示し〝ここに来い〟と合図を送った。
久世はここに来て、友梨を連れて行こうと思えばそうできるのに、あえてそれをしない。
もしかして、友梨が同僚たちの前で慌てないようにしてくれたのだろうか。
「友梨、行こう!」
岸田に声をかけられ、友梨は我に返った。先を進む同僚たちを目で追い、岸田と向き合う。
「あの、用事があったのをすっかり忘れてた。次は参加するからって、皆に言ってくれる?」
「えっ、そうなの? ……わかった。じゃ、また明日ね」
不可解な表情をしつつも、岸田は同僚たちのもとへ走る。
彼女たちの後ろ姿が目に入らなくなると、友梨は久世の乗った車へ歩き出した。
助手席からスーツを着た男性が降り立ち、後部座席のドアを開ける。これから何が起こるのかと身構えつつ、友梨は久世の隣に身を滑らせた。
車はすぐに発進するが、久世は一言も発しない。友梨は不安を押し殺しながら、前方に座る男性たちに目をやった。
運転手は面識のある東雲だ。助手席の男性には見覚えがないが、東雲よりやや若い。
この二人を連れて、今からどこへ行こうというのか。
久世を窺うと、それを待っていたかのように、彼が友梨の膝に大きな封筒を置いた。
「愛人契約の書類だ。目を通して判を捺してもらう。借金返済については、こちらで用意した弁護士に任せる。いいな?」
「はい」
そう返事する他ない。ただ、東雲は別としても、助手席に座る男性にまで、愛人契約を知らせる必要はないのにと思わずにはいられなかった。
友梨は手にした封筒をきつく掴むも、小さく息を吐いて気持ちを切り替える。
「確認して持っていきます。駅で降ろしてもらう前に、連絡先を教えてください」
「連絡先? あとで教えよう」
「あとで? ……つまり、これからどこかへ行くと? ひょっとしてキャバクラ?」
友梨の問いに、久世がおかしそうに片頬を上げた。
「すぐにわかる」
久世の思わせ振りな態度に心拍数が上がった時、スモークガラスの向こう側に、友梨も知る有名な高層マンションが見えてきた。
湾岸の方? どうしてそっちに行くの? ――そう思っていると、車は高層マンションへ向かい、あろうことか、そこのエントランスの前で停車した。
驚く友梨を尻目に、助手席に座っていた男性が外へ出て、久世側のドアを開ける。久世は流れるような動きで車を降り、友梨に目を向けた。
「いったいどこへ――」
友梨は声をかけるが、車外に出た男性たちに一斉に見つめられて口を閉じる。
ここで問い詰めてもどうなるものでもないと覚悟を決めた友梨は、しぶしぶ車を降りた。
「こっちだ」
久世に促されて、マンションのエントランスに入る。
友梨の目に、大理石が敷き詰められた床や壁、玄関ホールを照らす豪奢なシャンデリア、応接セットが飛び込んできた。広いカウンターの中には、四十代ぐらいの男性コンシェルジュが立っている。
「久世さま、お帰りなさいませ」
コンシェルジュの挨拶に、久世は軽く頷き、友梨をエレベーターホールへ導く。最上階で降り、数戸しかないドアの一つを開けた。
広々とした玄関も、マンションのホールに劣らない。
ここはいったいどういう部屋?
事務所なら、高層マンションの最上階に置く必要はない。もっと出入りしやすいビルにするはずだ。
もしかして、久世が誰かと密会する部屋なのだろうか。
友梨は注意深く周囲を見回し、先を進む久世のあとを追う。その後ろを、男性二人が続いた。
まるでどこかへ連行される錯覚に陥り、友梨の手のひらが湿り気を帯びてくる。込み上げる生唾を呑み込んだ時、久世が廊下の先にあるドアを開けた。
途端、何十畳もの広さがあるLDKの部屋が視界に飛び込んできた。壁に掛かるテレビと絵画、柔らかそうなソファ、十人は座れるダイニングテーブルなどがある。大きな窓の向こうには、都心の眩い夜景が煌めいていた。
「座れ」
ソファに腰を落とした久世が、傍のソファを顎で指す。
友梨はどうしようか迷うものの、ここまで来て逆らうのは得策ではない。おずおずソファに座ると、東雲が久世の傍に、もう一人の男性が友梨の背後に立った。
久世が友梨の後ろに立つ男性に何か合図を送ったあと、彼は友梨の持つ封筒に視線を落とした。
「友梨、今からそれをチェックしてもらう」
「今⁉」
「そうだ」
「家で契約内容を確認する時間すら与えてくれないの?」
友梨の物言いに、久世が軽く顎を引いて失笑した。
「家? 契約の間は同棲すると言っただろう? 今夜から俺の自宅で……ここで暮らしてもらう」
「自宅⁉」
友梨が目を見開くも、久世は動じない。それどころかゆったりとした所作で脚を組み、友梨の心の奥にある心情に深く入り込もうとするかのような目つきをした。
「君の部屋にあった荷物は、業者に頼んで既にここに運び込ませた」
「なんですって⁉」
「不要な家具は貸倉庫に入れてある。契約満了してここを出ていく時、新居に運び入れよう」
勝手な行動をされて怒りが湧き起こってくる。しかしそれを吐露する前に、東雲に〝こうなった責任はあなたにあるんですよ?〟と言わんばかりの冷たい目で射られた。
友梨はすぐに平静に戻る。東雲が訴えるとおり、友梨の借金が原因だからだ。
「友梨の後ろにいるのは、俺のアシスタント……東雲猛の弟分、赤荻剛だ。この先、君の護衛をさせる」
「護衛? ……わたしには必要ないです」
「まだわかってないのか? 俺は、暴力団と繋がりがあるフロント企業の社長だ。同系の会社から恨みを買うのも多い。それで、気概のある君と契約を結ぶことにしたんだが」
「結局、そういう女性なら誰でも良かったって意味ね」
ボソッと呟くと、久世がおかしげに口元を緩めて立ち上がった。それに合わせて、東雲がその場を去る。
一瞬そちらに気を取られるが、久世が友梨の傍に数歩で近づき上体を屈めてきたため、再び彼に意識を戻した。
「なんだ? 容姿を褒めてもらえなくて残念だった?」
「……えっ? ち、違っ! わたしは――」
狼狽えながらも反論すると、久世が友梨の耳元に口を寄せてきた。
「君が気に入ったと言っただろう? 今夜、証明しよう」
今夜証明する? それってどういう……?
友梨が顔をしかめる中、久世はゆっくり顔を上げて距離を取った。
「俺は所用で出掛ける。その間に契約書に目を通し、拇印を捺すんだ。それが終われば、この家の中を見て回ればいい。帰宅時間は遅くなる。夕食は俺の帰りを待たず、好きなものを頼んで済ませておいてくれ。但し、外へは一歩も出るな」
「そんな! わたし――」
「いいな」
久世に念を押されて、友梨は仕方なく口を噤む。
その直後、東雲と五十代ぐらいの恰幅のいい男性が入ってきた。
「社長、到着されました」
久世は頷き、男性を自分が座っていた場所へ促す。
「友梨、彼はうちの顧問弁護士、高井弁護士だ。わからないところがあれば、彼に訊けばいい。また借金返済については、彼が表立って対応する。もう二度と三和と会う必要はない。わかったな?」
久世の説明に、友梨は静かに頷く。
もう二度と三和に会わなくていいのだ。彼から解放されると思っただけで、安堵の息が零れる。
「剛、俺が戻るまであとは頼む」
「御意」
東雲の弟分だと紹介された赤荻が、首を縦に振る。
久世はそんな赤荻をじっと見つめたのち、東雲を伴って部屋を出ていった。
馴染んでもいない家に、見知らぬ男性二人と共に残された友梨。赤荻に監視されているのを肌で感じながら、高井弁護士に顔を向けた。
「初めまして、高井と申します。まずは契約書に目を通してください」
友梨は言われるがまま契約書を取り出した。
愛人の取り決めを他人に知られるのは恥ずかしいが、そうも言っていられない。友梨は割り切り、時間をかけてじっくりと読み進める。
そこで初めて、久世が三十歳で、有名私立大学の経済学部を卒業していると知った。しかも、彼の事業は会社経営から株投資まで幅広く、友梨の予想を遥かに超えている。キャバクラの経営はその内の一つに過ぎなかった。
財力があるため、友梨の借金を簡単に肩代わりできるのだろう。
久世の素性を契約書で読み取ったあと、本来確認しなければならない部分に移る。わからないところは、高井弁護士に訊ねた。
その間、赤荻がキッチンに立ち、二人にコーヒーを淹れてくれた。
赤荻さんってそつなく動ける人なのね――と横目で見ながらも、友梨は書類の確認を進める。
高井弁護士の話から察するに、まさに公正な取引内容のようだった。
「こういう契約を結ばれる際、大抵、女性側が不利になります。ですが、社長は公明正大だ。須崎さんに対し、彼を戒める制約も入れるとは……。それに対しての罰金も明確にされてます。こういう特殊な契約であっても、誠実であろうとしているのでしょう」
高井弁護士の言うとおりだ。愛人契約は、お互いが納得した上で公平に交わすもの。なのに、久世は自分が約束を破った時にのみ罰金を科した。
何故、友梨が契約の履行を拒んだ場合の罰則は、明記しなかったのか。
不思議でならなかったが、友梨に久世の考えなどわかるはずがない。ひとまず自分を苦しめる制約がないのなら、いい契約と言えるだろう。
「さあ、問題なければ、ここと、ここに……」
高井弁護士が示した箇所に、友梨は拇印を捺す。
「私はこのあと、須崎さんの代理人として、借金の返済に行ってきます」
「えっ? 今からですか?」
「こういうのは早くしないと……。久世社長より迅速に対応してほしいと言い付かっておりますしね。須崎さんも早々にあちらとの縁を切った方がいいと思いますから。では」
「よろしくお願いします」
友梨は高井弁護士を玄関まで送った。
「これで、あなたは社長の愛人ですね」
背後から深い声音が響き、友梨はさっと振り返った。真剣な目を向ける赤荻と、視線がぶつかる。
初めて赤荻を真正面から見据えた。髪を短く刈った彼の体躯は、細身ながらも引き締まっている。剣道や空手といった俊敏な動きが求められる武道をしているのかもしれない。
友梨に気付かれず、いつの間にか真後ろに立っていたのだから……
「愛人役よ。間違えないで」
友梨は赤荻を一瞥してから、リビングルームに戻る。追ってきた彼が、まだ話し足りないとばかりに友梨の正面に回った。
「一緒では? 男と女、ベッドに入ればやることは同じなのだし」
「……護衛の域を越えた質問ね」
友梨が窘めるように言った途端、赤荻の表情が一変した。楽しそうに口角を上げる彼は、先ほどまでの様子と全然違う。とても朗らかな顔つきで、友梨に微笑みかけた。
「東雲さんの言ったとおり、一筋縄ではいかないお方だ。確かに、久世社長の愛人にはこういう方でないと、あの人には太刀打ち――」
そう言って、赤荻は慌てて口を噤む。しまったという顔をして、そわそわと落ち着かない。
「赤荻さん、どうしたの? ……あの人って?」
友梨は首を小さく捻って赤荻に近寄るが、彼はこれ以上訊かないでくれとばかりに一歩下がる。
その時、部屋にチャイム音が響き渡った。
「夕食が届いたようだ!」
赤荻はいそいそと玄関へ走っていった。
友梨が不思議に思っていると、早々に彼が引き返してきた。手にした箱を持ち上げる。
「人気イタリアン店のデリバリーです。とても美味しいという評判で、店はいつも満席だとか。きっと須崎さんも気に入るかと」
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