ハンドモデルの恋人

綾瀬麻結

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1巻

1-1

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 あなたが想うよりずっと


 静寂に包まれた真っ暗な廊下。慣れた場所なので迷うことはないが、物音ひとつしない深夜に歩くのは、とても勇気がいる。
 それでも壁から手を離さなければ、必ずあの場所へたどり着ける――そう信じて、十二歳ののうは、白いネグリジェ姿のまま抜き足差し足で前に進んだ。
 こよみの上では春といっても、まだ肌寒い三月下旬。
 指先が氷のように冷たくなっても壁から手を離さず、先を目指してゆっくりと歩を進める。指先が壁の曲がり角に触れたところで曲がった。窓から射し込む月明かりが廊下の先を妖しく照らしている。
 かすかな光に紗羅は安堵の息をつくと、小走りで奥へ進み、目的の部屋の前で立ち止まった。
 躊躇ちゅうちょすることなく手を伸ばし、音を立てないように静かにレバーを押す。いつもは夜になると〝立ち入り禁止〟と宣言するように鍵が閉まっていたが、今日はすんなりと開いた。
 薄暗い部屋をほのかに照らす、間接照明。
 まるで紗羅の訪れを待っていたように、それは彼女を優しく迎え入れた。その明かりに導かれて、キングサイズのベッドへ近づく。音を立てないように、そっとベッドの端に腰を下ろし、気持ち良さそうに眠っている彼……かしゆいの顔を切ない思いで眺めた。
 唯人と初めて出会ったのは、今から六年前。目の前に突然王子様が現れたあの日のことは、今でもよく覚えている。
 あの日、紗羅は金色に輝く弁護士記章を胸に付けたしば大介だいすけに手を取られて、里子となるために児童養護施設からこの屋敷に連れてこられた。
 車から降りるなり、目に飛び込んできた洒落しゃれた大きな門扉もんぴ、そこから続くゆるやかな階段の先には公園のように広い庭、そして鳥が翼を広げたような形の豪邸。それら全てに圧倒された紗羅は萎縮いしゅくしてしまい、玄関に入ったところで一歩も動けなくなった。吹き抜けの天窓から降り注ぐ、やわらかい光のシャワーさえも、彼女の心をほぐせなかった。
 その時、二階から一人の男の子が駆け下りてきた。紗羅の前に立つと興味深そうに彼女を眺める。そして彼はにっこりと微笑み、紗羅と同じ目線になるようにしゃがみこんだ。

「君が、紗羅だね? これからは、俺が紗羅のお兄ちゃんだよ」
「……紗羅には、お兄ちゃんなんかいないもん!」

 薄汚れたテディベアを小脇に抱えた紗羅は、真柴の手を痛いぐらいに握り締めながら、兄だと口にした彼から必死に身を隠そうと、真柴の後ろにぴったりとくっついた。
 そんな紗羅の態度に彼は一瞬戸惑いをみせたが、すぐにしっかりと頷いた。

「そっか。そうだよな……。俺は紗羅のお兄ちゃんなんかじゃないよな。よし、わかった! 俺たちは大切な家族を亡くした同士だ。だから、俺のことは紗羅の好きなように呼んでいいよ」

 そう言って、彼はどんな人をも魅了する温柔おんじゅうな笑みを浮かべた。

「俺の名前は、唯人。この春から紗羅と同じ……ピカピカの一年生なんだ。紗羅は小学生、俺は中学生だけどね」
「……唯、くんも……ピカピカの一年生?」
「ああ、そうだよ」

 唯人はほがらかに笑い、紗羅の頬を指で軽く押す。それが妙にくすぐったくて、紗羅はこの家に入って初めて笑みをこぼした。

「紗羅は笑った方が可愛いね。よし、もっと楽しいものを見せてあげる。紗羅のランドセルに似せたケーキを作ってもらったんだ。俺と一緒に見に行こう。さあ、……おいで」

 目の前に差し出された手を、紗羅は見つめた。この手の持ち主を信用してもいいのかわからず、問うように真柴を見上げる。
 真柴は紗羅を安心させるように柔和な笑みを浮かべ、静かに頷いた。

「唯人くんを信じていいんだよ、紗羅ちゃん」

 児童養護施設に入っていた半年、週に一回は紗羅を訪ねてくれた真柴。
 彼の言葉なら信じられる――そう思った紗羅は真柴の手を離し、唯人が差し出す手に自分の手を滑り込ませた。

「これからは、俺が紗羅を守ってあげる。……だから、もう何も心配しなくていいからね。二人でケーキを食べたら、一緒に真柴のおじさんと母さんがいるところへ行こう」
「うん!」

 いつくしむような表情を向ける唯人。
 この先、自分を幸せにしてくれる王子様は唯人しかいないと、思った瞬間だった。
 あれからたった六年しか経っていないのに、唯人は明日、紗羅を残してアメリカへ発ってしまう。
 唯人と離れ離れになると思っただけで、紗羅の目に映る彼の顔はどんどんぼやけていった。
 両親が事故で亡くなったと理解したときでさえ、こんなに泣かなかった。悲しむ暇がないほど唯人が可愛がってくれたし、唯人の母も実の娘のように愛情を注いでくれたからだ。
 でも今は胸が張り裂けそうなほど痛くて、苦しくて……取り乱してしまいそうだった。
 このアメリカ行きが唯人にとってとても大事だということは、紗羅にも十分に理解できた。
 彼の父が亡くなるまで経営していたジュエリー会社は、現在彼の母が社長を務めているが、遅かれ早かれ、その社長の椅子には唯人が座ることになるだろう。
 海外で経営学を学び、ダイヤモンド市場をその目で確認し、さらに会社を発展させるために留学するのだ。
 遊びに行くわけではないとわかっているのに、〝紗羅を一人にしないで!〟と駄々をこねてしまいたいほど、彼と離れ離れになることが辛かった。
 唯人は紗羅の初恋の人だから……
 上掛けをギュッと握り締め、紗羅は声を出さずに涙を流した。
 このまま彼の寝顔を見ていたら、泣き崩れてしまうかもしれない。それだけは絶対にしたくない。
 明日の朝、〝アメリカの大学でいっぱい勉強してきてね〟と笑顔で送り出すために、このもんは心の奥深くへ押し込めておかなければ。
 にもかかわらず、紗羅は唯人の温もりを求めて手を伸ばし、彼の頬に触れようとした。だが寸前で手を止め、引き戻す。
 そして、彼の方へゆっくり身を傾けて、柔らかそうな唇に視線を落とした。

「唯くん……」
(大好き。……本当に大好きなの!)

 さらに顔を近づけて、まるで想いを吐き出すように、紗羅は眠っている唯人に口づけた。彼の柔らかな唇の感触が伝わってきた途端、心臓が激しく高鳴る。
 初めてのキスに、紗羅の胸は歓喜におどり、沸騰しそうなほど熱くなった血が冷えたからだ火照ほてらせていく。
 ただ唇を触れ合わせただけのキス、しかも一方的なキスだということはわかっていた。それでも口づけをしたことで、唯人への気持ちが大きく膨らんでいく。

(絶対に素敵な女性になるから、唯くんが戻ってきたらわたしを恋人にしてね)

 彼の寝顔を見ながら、心の中でささやく。
 無防備な唯人をもっと眺めていたいが、彼が目を覚ましてしまう前に自分の部屋へ戻るべきだろう。
 紗羅はゆっくり彼から離れて立ち上がった。
 一度背を向けて数歩進んだが、後ろ髪を引かれる思いでもう一度だけ振り返る。

「……辛い時期を乗り越えられたら、必ず良い未来が待っている」

 唯人の留学が決まってからというもの、紗羅はこの言葉をよく口にするようになっていた。
 紗羅はその言葉を噛みしめながら手の甲で涙をぬぐい、静かに彼の部屋を出ていった。


   ***


 ――八年後。
 庭に植えてある紫陽花あじさい装飾そうしょくが開いてきた、梅雨つゆ入り間近の六月上旬。
 紗羅は、今耳にしたことをもう一度き直そうと、二階のバルコニーから身を乗り出した。

「おばさま? 今……なんておっしゃったの!?」

 プライベートプールの傍らに作られたインドネシア風の東屋バレで、アフタヌーンティーを楽しんでいる唯人の母、樫井由美ゆみを見下ろす。

「今日、唯人がアメリカから戻ってくるって言ったのよ。あの子も役員の一人として、本社で経営を学ばなければいけないから。昨夜も言ったのに……紗羅はわたしの話を聞いていなかったの?」

 由美の言葉が鋭い矢となって、紗羅の心臓に突き刺さる。その痛みに思わず紗羅は顔をゆがめた。

「……わたし、きっと聞き逃していたのね。おばさま、本当にごめんなさい」
「いいのよ、そういうこともあるわ。一時間ほど前に関西国際空港に着いたと連絡があったから、もうそろそろ到着するんじゃないかしら?」
(い、一時間前? もう日本に着いていて、唯くんはこっちへ向かってるってこと!?)

 再び紗羅の胸に、圧迫するような痛みが襲ってきた。
 今はまだダメ――由美の視線を意識しながら、込み上げる痛みを必死にこらえる。

「だったら……藤江ふじえさんは今ごろキッチンで忙しくしているわね。じゃ、わたしも彼女のお手伝いをしてくるわ」

 家政婦の名を出し、紗羅はきびすを返して部屋に戻った。
 だが、あまりにも唐突な話にからだが震え、窓際で立ち止まりうつむいた。身動きができないのは、唯人と会う心の準備ができていないからだろう。
 唯人はアメリカの大学を卒業したあと、株式会社ジュエリーKASHIIに入社し、そのままバイヤーアシスタントとしてアメリカ勤務を命じられた。
 二十四歳まで、アシスタント業務、鑑定に従事していたがその後はバイヤーに昇格。だが、彼はそれ以降もずっとアメリカに行ったきりだった。いつ日本へ戻るのだろうと気になっていたが……とうとう唯人が帰ってくる! 
 お洒落しゃれをして唯人を迎えたい。彼の顔を見て話すのは八年ぶりだから、素敵な女性に成長したと思われたかった。
 だが由美の手前、それは控えた方がいいだろう。波風を立てたくないと、紗羅が本気で思っているのであれば……
 紗羅はゆっくり歩き出して、まっすぐにドレッサーへと向かった。グロスを取り上げ、薄く塗る。緩やかなパーマをかけた長い髪を胸元へ流したあと、姿見で自分の服装を確認した。
 ストライプのマキシ丈ワンピース、その上に羽織った七分袖の透かし編みカーディガン。
 本当だったら、唯人をドキッとさせるためにショートパンツを穿いて生足を出したいところだったが……

「大丈夫、このままでも十分……女の子らしく見える! ただ、唯くんの目にどう映るのか、それだけが心配だけど」

 ドアを開けようとしてレバーに触れたとき、白いシルクの手袋が手を覆っていることに気付いた。慌てて手袋を脱ぎ、ソファの上へ放り投げる。

「危ない、危ない」

 ホッと安堵の息をついた紗羅は、スカート生地を指でつまみ、部屋をあとにした。
 階下のキッチンへ入るなり、古くから樫井家で働く藤江に駆け寄る。

「藤江さん、唯くんが戻ってくるんですって!」

 若くして夫を亡くし、子供もいなかった藤江は、家政婦協会を通じて樫井家の住み込み家政婦となった。幼い紗羅が里子として引き取られてから、彼女はずっと実の娘のように可愛がってくれている。

「ええ、一週間ほど前に、奥様から聞きましたよ。今日の夕食は唯人さんが好きだったものをテーブルいっぱいに並べてほしいと言われて、もうバタバタですよ」

 忙しくしているのに嬉しそうに微笑むということは、藤江も唯人の帰国を喜んでいるということ。
 同じ気持ちだと知ってにっこりしたものの、紗羅の心には冷たい隙間風が吹いていた。
 藤江には一週間も前に唯人の帰国を告げていたのに、由美は、紗羅には教えてくれなかった。

(どうしてこんな風になってしまったの?)

「わたしも手伝うわ」と言い、藤江からボウルを受け取りつつも、紗羅はそっとうつむいた。


 株式会社ジュエリーKASHIIの企画開発室で働いていた父が、家族同伴の出張でコロンビアへ行くことになったのは、紗羅が六歳のときだった。
 両親は紗羅をアメリカの託児所に預けてコロンビアへ向かったが、二人はジュエリーKASHIIの社長と共に鉱山の落盤事故に遭い、紗羅を残して亡くなった。
 事故のことを聞かされぬまま紗羅は日本大使館の職員と帰国し、その後半年間児童養護施設に入っていた。そんな彼女を里子として引き取ってくれた人こそ、唯人の母の樫井由美だった。同じ事故で由美も夫を亡くしていたので、本当は他人に構っている余裕なんてなかっただろう。
 だが半年かけて里親の認定を取り、由美は紗羅を樫井家に迎え入れてくれたのだ。
 それからというもの、由美は実の母のように紗羅を愛してくれた。紗羅がかなづちと知ってわざわざ庭を潰してプールを作ってくれたり、将来を考えて習い事にも通わせてくれたり、本当に心を砕いてくれた。
 そんな由美の心を引き裂いてしまったから、彼女は唯人と紗羅を引き離そうとしたのかもしれない。
 由美が勧める大学ではなく、自分で選んだ短大へ進みたいと口答えをしてしまったせいで……
 だが、もう上流階級の子息令嬢が通う学校には進みたくなかった。
 由美が勧めるまま私立の小学校へ編入し、エスカレーターで高校まで進んだものの、年を重ねれば重ねるほど、紗羅は自分が不似合いな学校へ通っていることを思い知らされた。
 同級生から仲間はずれにされることはなかったが、紗羅はいつも感じていた。気高い白鳥の中にみにくいあひるがまぎれこんでしまったようだと……
 紗羅が樫井の名を継ぐ養女ではなく、ただ養われているだけの里子という立場だったことも原因だったのかもしれない。
 遠巻きにする同級生たちの中で、どれほど寂しい思いを味わったことか。
 一時期、どうして樫井の姓を与えてくれないのかと哀しく思っていた。
 だが、里子であれ養女であれ、由美と唯人から注がれる愛情に変わりはないと気付いて以降は、あまり気にならなくなった。
 それがいけなかったのだろうか? 実の母のように愛してくれるのをいいことに、由美の勧める大学には行きたくないと言ったから、紗羅に失望したのではないだろうか。だから、唯人が数年ぶりに日本の土を踏むというときも、教えてくれなかったのかもしれない。
 語学研修旅行、スキー合宿と数えあげたらきりがないが、由美に勧められて家を空けたときに限って、唯人は日本へ戻ってくる。
 紗羅の成人を祝うために、唯人が一時帰国したときもそうだった。そのことを知らされていなかった紗羅は、短大の友人たちと卒業旅行へ出かけていた。
 その結果、唯人に「俺って、紗羅に嫌われてるのかな?」と言わせてしまう始末。
 彼がそう思うのも当然だろう。唯人が日本へ帰国すると、紗羅は必ず家を空けていたのだから。
 隣に座って会話を聞いている由美の手前、反論することもできず、紗羅は電話口でひたすら彼に謝った。
 それが三年間も続いた。メールのやりとりでは、紗羅を嫌ってるようには感じられなかったが、こんな状態が続いたのだから、唯人もいい印象は持っていないはず。
 だからこそ、唯人と再会するそのときは、素敵な女の子として彼の前に立ちたかった。


「……さん、紗羅さん!」

 物思いにふけっていた紗羅は、藤江の声でハッと我に返った。

「な、……何?」
「帰ってきたみたいですよ、唯人さんが」
「えっ?」

 紗羅はとっに耳をすました。
 広い家だが静かなため、玄関の話し声がキッチンにいる紗羅の耳にも届いた。由美の嬉しそうな声と、低い男性の声が。

「ど、ど、どうしよう! わたし……」

 手に持っていたボウルをテーブルに置き、紗羅は急いで髪を撫でた。そんな彼女に、藤江が口元をほころばせる。

「どこもおかしくありませんよ。紗羅さんはとても綺麗ですから、そのまま唯人さんに会っても大丈夫です」

 藤江の言葉に、紗羅は身贔屓みびいきもいいところだと笑ってしまいそうになった。でもそれが、彼女を勇気づけてくれる。

「ありがとう。あの、唯くんのところへ……行ってもいい?」
「ええ、どうぞどうぞ。ここは藤江一人でも十分ですからね」

 にこやかな笑みで背中を押してくれる藤江に頷き、紗羅はキッチンから飛び出した。
 紗羅が思い浮かべる唯人の顔は、アメリカへ留学した十八歳のままだ。彼女が知る限り、彼の写真が樫井家に送られてくることは一度もなかったので、二十七歳になった今どういう大人になっているのかわからない。
 はやる気持ちを抑えられないまま、紗羅は玄関ホールへ向かった。角を曲がろうとしたところで、唯人と由美の話し声が耳に届き、ピタッと足を止める。

「……ところで、今日こそ紗羅は家にいるんだろうな?」
「何、その言い方。まるで、お母さんが紗羅を隠しているみたいに……」
「だって、そうだろ? 俺が日本へ戻ってくる日に限って、紗羅は家にいなかったんだ。俺がそう思っても不思議じゃない」
「タイミングが悪かっただけなのに、唯人はお母さんのせいにするのね!」
「あのさ、俺がどれほど長い間紗羅に会っていなかったと思う? あいつが中学生になる前から会っていないんだ。また次会えるだろう……そう思っていたら、いつの間にか八年も経ってしまった。紗羅、……二階にいるんだろ?」

 階段を駆け上がる音に、紗羅は慌てて玄関ホールに入った。

「唯くん!」

 唯人の名を叫び、紗羅は彼を求めて二階へ続く階段を見上げる。途中で動きを止め、こちらを見下ろす唯人と視線がぶつかった。

「……さ、紗羅? 本当にあの……おチビちゃん?」

 目を白黒させて、紗羅をまじまじと眺める唯人。
 だが紗羅もまた驚愕していた。精悍せいかんな男性へと成長した彼の姿に、心臓が痛いぐらいに早鐘を打ち、骨にまで震えが走る。
 十九歳の誕生日を迎える直前に唯人はアメリカへ発ったが、すでにそのころから大人の片鱗へんりんを見せていた。今では、男の色香が匂い立つ、素敵な男性になっていた。
 モデルかと思うほどの容姿、一八〇センチは超えているだろう長身、そして柔らかな物腰。想像していた以上の男ぶりに、胸の高まりが収まらない。

「やっと、……やっと会えたね、唯くん」

 泣くつもりなんかなかったのに、目の奥がツンと痛み、どんどん涙腺が緩んでいく。走り寄って唯人に抱きつくつもりが、足が床に張りついてしまい、思うように動けなかった。

「紗羅!」

 唯人が階段を駆け下りてきた。大股で紗羅に近づき、両腕を広げて彼女をギュッと抱きしめる。だが、すぐに我に返ったように、その抱擁ほうようを解いた。

「悪かった! ……紗羅は、もう子供じゃないのにな」

 唯人は照れくさそうに笑いを浮かべたが、急に表情を引き締めてまじまじと紗羅を見下ろした。

「とても……、とても綺麗だよ。俺の想像をはるかに超えて、美しい女性になったな」
「唯くんは、いつからそんなにお世辞が上手くなったの? あっ、もしかしてプレイボーイとか?」

 浮き立つ気持ちを隠さず、紗羅は微笑んだ。
 こういう会話をしてみたいと、ずっと夢見ていた。幼い妹として見られるのではなく、男と女として会話を楽しみたいと。それがようやく叶って、紗羅の胸は小鳥が羽ばたくようにざわめく。
 だが、その喜びは一瞬にして消えた。

「紗羅! 唯人に向かってなんてこと言うの!」

 傍に由美がいることをすっかり忘れていた紗羅は不意をつかれ、うろたえたまま唯人から一歩引いた。由美へ視線を向けると、紗羅にしかわからないとがめの色が、彼女の瞳に宿っている。

「おばさま、そんな……つもりではなかったの」

 慌てて謝る紗羅に、唯人がいぶかしげな視線を送ってきたが、彼の目を見返すことはできなかった。

「母さん、何をごちゃごちゃ言ってるんだよ。俺と紗羅の仲で、こんな些細ささいな軽口を気にする必要がいったいどこにある?」
「それは……そうなんだけど、もう昔とは違うんだから」
「はいはい、わかりました」

 由美に対しておざなりな返事をした唯人は、紗羅に視線を向けた。

「紗羅、こっちへおいで。この八年間のことをいろいろ聞かせてほしいんだ」
「えっ?」

 唯人は紗羅の手を取って階段へ向かった。引っ張られる形で階段を上がる紗羅の目に、心配そうに二人を見つめる由美の顔が映る。とっに、紗羅は階下にいる彼女に声をかけた。

「おばさま! すぐに唯くんと下へ行くから……」

 由美を安心させようとしただけなのに、紗羅の手を握る唯人の力が強くなる。紗羅は痛みに顔をしかめて、彼をあおぎ見た。

「二人とも、早く下へいらっしゃいね!」

 懇願するような声が耳に届いたが、紗羅は返事ができなかった。まるで走り出しそうな勢いで進む唯人についていくだけで、精一杯だったからだ。

「唯くん! お願い、もうちょっと……ゆっくり歩いて」

 それでも唯人は速度をゆるめることなく廊下を進み、自室に入ったところでやっと紗羅を解放した。
 唯人の部屋に二人きり。こんな状況は、寝ている彼に密かにキスして以来だ。
 紗羅は急に恥ずかしさを覚えて、居ても立ってもいられず、陽が射し込む窓際まで歩いた。

「いったいどうしたの? この八年だって……電話で話していたし、メールでも近況を伝えていたと思うんだけど……」
「ああ、そうだな。だが、俺の知っている紗羅は十二歳で止まったままだから、今必死に子供の紗羅と二十歳の紗羅を融合させようとしているんだ」

 今の言葉から唯人が本当に驚愕していることが感じ取れた。
 この八年、会うことができなかったが、それがかえって良かったのかもしれない。今、こうして唯人は、紗羅を女性として見てくれているから。

「わたしは、何も変わってないわ……」

 口元をほころばせて、紗羅は振り返った。その瞬間、目を見張ってハッと息を呑む。
 まさか唯人が紗羅の真後ろに立ち、真剣な眼差しで彼女を見下ろしているとは思っていなかったからだ。

「どう、変わっていない?」
「……何も、かも」

 こういう展開に不慣れだとバレないように、紗羅は必死に平静を装おうとした。
 だが紗羅の声はかすれ、唯人に聞こえてしまうのではと思うぐらい心臓が激しく高鳴り出した。頬も、どんどん火照ほてってくる。
 それでも紗羅は軽く顎を上げ、唯人の目をまっすぐに見つめ返した。

「俺を、嫌ってはいない?」

 唯人の言葉に目を見開いた紗羅は、強く頷いた。

「もちろん! わたしが唯くんを嫌うなんて、そんなことは絶対に有り得ないわ」
「……じゃ、どうして俺が日本へ戻ってきたとき、家にいなかった?」
「そのことは何度も謝ったのに、まだ……気にしているの?」

 紗羅は作り笑いを浮かべて唯人の腕にそっと触れてから、ドアへ向かって歩き出した。
 嘘はつきたくはないが、唯人に由美のことを言うわけにはいかない。もし真実を知れば、彼は絶対に紗羅を守ろうとする。
 大好きな二人が紗羅のことで険悪になるのは避けたかった。

「俺がいない間、……母さんと何かあったのか?」
「まさか! 何もないわ。おばさまがわたしに良くしてくれているのは、唯くんも知っているでしょう?」

 振り返り、唯人を安心させるように微笑む。その言葉は偽りではなく、真実だ。
 由美は紗羅を実の娘のように愛し、優しく接してくれる。唯人が絡んでいなければ……

「そうなのか? ……母さんとは上手くいっているのか?」

 眉をひそめた唯人が、紗羅の方へ歩み寄ってくる。紗羅は、彼が彼女に触れそうなほど近付いてきても身動きしなかった。ショートウルフカットにした柔らかそうな髪、意志の強そうなきりりとした眉、そしてその下にある切れ長の双の瞳を見つめた。さらに、まっすぐに伸びた鼻筋、そして、かつてキスをした唇に視線を落とす。

「紗羅?」

 紗羅はすぐに視線を上げて、唯人と目を合わせた。

「ええ、何も……問題はないわ」
「そうか。それならいいんだが……」
「……そろそろ下へ行かないとね。おばさまも待っているし、藤江さんも唯くんに会いたがっていたわ」
「そうだな。みんなでお茶でもしよう」

 紗羅は唯人の腕に手を滑り込ませて、引っ張るようにして部屋をあとにした。こうして腕を組んで歩けることが嬉しくて、紗羅は唯人をあおぎ見てにっこりと微笑む。当然彼も微笑み返してくれると思ったのに、なぜか思案顔で紗羅を見下ろしていた。

「唯くん、どうかした?」
「……紗羅は、今何をしているんだ? 短大を卒業して三ヶ月だろ?」
「メールで伝えたとおり、わたし……短大時代から続けているバイトをしているの」

 これまでいろいろな人に繰り返してきた台詞せりふを言う。でも今は、それで納得してもらえるのかわからなかった。


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