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1巻
1-2
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「だから、そのバイトとはいったい何なんだ?」
さらに追及しようとする唯人に、紗羅は力なくため息をつく。
「そんなこと、別に……どうでもいいじゃない」
何のバイトをしているのか、それは言えなかった。守秘義務があるので、口外することは決して許されない。
これは、由美との約束でもあるから……
紗羅がこの話題を避けたがっているとわかったのだろう。彼はそれ以上追及しようとはしなかったが、口にしなくても、唯人の考えはひしひしと伝わってきた。
俺が紗羅の傍にいるのに、このまま隠し続けられるとは思っていないよな? ――声にならない言葉が聞こえてくる。
(この秘密はいったいいつまで守れるの? 一緒に暮らし出したら、絶対に隠し切れない)
紗羅は軽く目を閉じて、空いた手でスカートの生地を弄び、これからのことを考えながら階段へ向かった。
「紗羅ちゃん!」
突然聞き慣れた男性の声が階下から聞こえ、紗羅は我に返った。
スーツ姿の荻島修司が、玄関に立ってこちらに手を上げている。ミリタリーショートの髪を無造作にワックスで遊ばせた彼は、いつにも増して爽やかな笑みを紗羅に向けていた。
「修司くん? ……いったいどうして」
「修司くん、だと?」
階段を下りようとする紗羅の隣でいきなり立ち止まり、口調を荒くする唯人。どうして息巻くような言い方をするのかわからないものの、紗羅は彼をたしなめようとその腕を叩いた。
「唯くん! ダメよ、そんな言い方をしたら」
「ちょっと待て。紗羅は、いつから荻島のことを……親しく呼ぶようになったんだ? いや、その前に、どうしてあいつのことを知っている?」
小首を傾げ、紗羅は修司と出会ったときのことを思い出していた。
そう、あれは桜が散ると同時に、紗羅の心に隙間風が吹き始めた中学一年のころ。唯人がアメリカへ発ち、寂しさに耐えられなくなりそうだった紗羅の前に現れたのが荻島だった。
どんどん塞ぎ込んでいく紗羅を心配して、由美が荻島を樫井家に呼んでくれたらしい。
彼は唯人の中学時代からの同級生で、さらに親友だという。紗羅はすぐに心を開き、彼と一緒に過ごすことで、唯人が傍にいない寂しさを埋めた。
荻島もそれを心得ていたのか、唯人の代わりに紗羅の高校入学、卒業、成人式……といった節目の行事を祝ってくれた。
唯人と会えない八年もの間なんとか頑張れたのも、彼がいてくれたからだろう。
由美の態度がおかしいと感じるようになったときも、荻島がずっと傍にいて、短大へ進みたいという紗羅の気持ちを応援してくれた。
「唯くんは知らないの? 修司くんは、株式会社ジュエリーKASHIIに就職して、今では広報室の主任なのよ?」
そしてわたしの――その先に続く言葉をグッと呑み込み、紗羅は隣の唯人を仰ぎ見た。
「それは知ってる。だが、荻島は……紗羅とのことを何一つ俺には話していない」
それを聞いた荻島が、階段の下で口を開いた。
「言うはずないだろ? そんなの俺と紗羅ちゃんの問題で樫井には関係ないし。それにお前だって、紗羅ちゃんの存在をずっと俺に隠していたじゃないか」
「当たり前だ。荻島に話したら、……っ!」
そこで唯人は何かに驚いたようにハッと息を呑み、口に手を当てて、あらぬ方向を向いた。
「唯、くん?」
「いや、何でもない。何でも……」
意味深な言葉を訝しく思いつつ、紗羅は唯人を引っ張るようにして階段を下りた。唯人の腕に絡めた手に荻島の視線が落ちる。紗羅を見つめる彼を見返す勇気がなく、紗羅は苦笑を浮かべて、唯人からそっと手を離した。
荻島は知っていた。紗羅が、ずっと唯人だけを愛し続けていることを……
そのことを告げたときのことを思い出すと、胸が苦しくなる。紗羅は荻島の優しさに甘え、そして傷つけてしまったから。だからこそ、彼には誠実な態度で接するよう努めていた。
「修司くん、今日はどうしてここに?」
過去を振り払うように頭を小さく振ると、紗羅は荻島に問いかけた。
「ああ、今日樫井が戻ってくるからって、社長から招待を受けていたんだ」
「男に喜ばれても、嬉しくはないが……」
ボソッと呟く唯人に、荻島は声を上げて笑った。
「変わってないね、樫井は。なんか、俺……嬉しいよ」
やんちゃ坊主のように小突き合う姿に、紗羅も笑みを零した。
これからは、ずっと唯人が傍にいてくれる。あとは、紗羅がこの気持ちを唯人に伝えるだけ……
この先のことを考えただけで、今までに感じたことのない幸せが紗羅を包み込んでいく。同時に湧き起こるワクワク感に、紗羅の口元は自然と綻んだ。
話し続ける唯人と荻島をその場に残し、紗羅は由美が待つ応接室へ足を向けた。言葉を交わしながらも、唯人と荻島がこっそり紗羅の後ろ姿を見ていたことに、彼女は全く気付かなかった。
応接室で由美と合流し、しばらく歓談したあと、紗羅たちはダイニングルームへと移った。
テーブルいっぱいに並べられた料理に感激した唯人は、外国人のように藤江を抱きしめ、その場は笑いの渦に包まれた。
唯人の話は尽きることなく、食事を終えるまで唯人のアメリカでの生活や仕事の話が続いた。荻島も日本での話をし、四人は存分に夕食を楽しんだ。
食後のコーヒーを飲むために、再び四人は応接室へ戻った。
「あなたがアメリカへ行ってから、わたしも紗羅も寂しい思いをしたけれど、唯人はいい経験を積めたのね」
「外の世界を見せてくれた母さんには感謝してるよ。だが、これからは俺が二人の傍にいるから」
唯人は、由美から紗羅へ視線を移した。
相手の目を覗き込むように見つめるのは、海外暮らしが長かったせいだろうか?
彼の強い眼差しに胸が熱くなり、紗羅は頬を染めてそっと視線をコーヒーカップに落とした。
「ありがとう、唯人。でもね、これからはわたしだけでいいのよ。紗羅の傍にはいつも荻島さんがいて守ってくれているし、あと数年もしたら……幸せなお嫁さんになっていると思うわ」
「か、母さん?」
困惑した声で問いかける唯人と共に、紗羅も由美の真意を探るように視線を向けた。
「そうでしょ? 紗羅?」
まさか、みんながいる前で紗羅に訊き返すとは思ってもみなかった。もちろん由美は優しい笑みを浮かべているので、他意はないように思われる。
だが、紗羅はもうわかっていた。
(どうしてわたしが唯くんに近づくのを許さないの?)
声にならない言葉を呑み込み、紗羅は無理やり笑みを浮かべる。
「……そうね。唯くんがアメリカへ行ってから、修司くんは兄のようにわたしをずっと守ってくれていた」
満足そうに頷く由美と誇らしげな顔をする荻島が、紗羅の目の端に入る。それでも、彼女は唯人だけを見つめていた。
〝兄のように〟という言葉に気付いてと願うように……
「そうなのよ、唯人! 紗羅ったら、あなたがアメリカへ行ったあと、ひどく塞ぎ込んでしまってね。そのとき、荻島さんのことを思い出して紗羅に彼を紹介したのよ」
「……ふぅ~ん」
興味がなさそうに相槌を打つ唯人の目は、紗羅だけを見つめていた。
「そのあと、荻島さんも積極的に紗羅を訪ねるようになってくれて。紗羅の入学式や卒業式の写真には必ず一緒に写っているわ。そうそう、成人式のときも紗羅を迎えにきてくれて、その日はずっと二人は一緒だったのよ」
紗羅はハッと息を呑み、おもむろに俯いた。
唯人がいない間、紗羅と荻島がまるで恋人のように付き合っていたと、由美が暗に告げていることに気付いたからだ。
(もしかして、唯くんも勘違いをしている?)
紗羅は面を上げて唯人に目を向けるが、彼は面白くなさそうな表情でコーヒーカップに視線を落としている。
「ゆ、」
唯くん――そう呼びかけるつもりだったのに、それを遮るように、由美が「そうだわ!」と手を打った。
「ほら、紗羅。荻島さんと庭に出て、色づき始めた紫陽花でも見てきたら? せっかく時間を割いて来てくれたんだから、彼のお相手をしてあげなくてはね」
「でも」
当惑しながら唯人へ目を向けるが、彼は内心を読ませない表情で紗羅を見つめている。
(その瞳に浮かぶ影はいったい何? わたしに何を伝えたいの?)
紗羅はどうすればいいのかわからず、まごつきながら目を泳がせた。
「わたし、あの……」
「ほら、紗羅ちゃん。庭へ行こう」
荻島がソファから立ち上がり、紗羅に手を差し出した。このまま押し問答をしていたら、さらに悪い方向へ進むような気がして、紗羅は仕方なく荻島の手に自分の手を載せて立ち上がる。
「じゃ、社長。紗羅ちゃんをお借りします」
「ゆっくりしてきていいのよ」
ほがらかな笑みを浮かべる由美に送り出された荻島は、紗羅を急きたてるようにして庭へ向かった。
手を引っ張られながら、一瞬だけ後ろを振り返る。由美は喜色満面で紗羅に手を振り、唯人は手に持ったコーヒーカップに視線を落としていた。
外に出るとすでに陽は落ちていたが、庭はライトアップされていて鑑賞に問題はない。
応接室からも楽しめるように作られた、薔薇の花壇。
その先をしばらく進めば紫陽花を見られるが、あえて紗羅は応接室から近い場所で立ち止まった。
「修司くん」
荻島の名を囁きながら彼の腕に触れ、しっかりと握られた手をゆっくり引き抜く。
「俺さ……」
荻島は軽く息をつき、両手をズボンのポケットに入れて天を仰いだ。だがすぐに、思い詰めた表情で紗羅を見下ろす。
「紗羅ちゃんが、樫井のことを今でも一途に想っていることは知ってる。でもさ、俺の前で露骨に好きだというオーラを出されると、俺……あいつに挑戦したくなる」
紗羅は息を呑み、真摯な眼差しを向ける荻島に小さく頭を振った。
「わかってるよ。紗羅ちゃんが高校三年だったあの日、俺は見事に玉砕した。この想いが届かなくても、紗羅ちゃんの傍にいられるだけでいい……俺はずっとそう思っていた。その願いが叶って、俺は今や……紗羅ちゃんの一番近くにいる。樫井には決して話せないことを知るまでに……」
「それは」
(修司くんがわたしにとって特別な男性だから、知ってるわけじゃないわ!)
気持ちを伝えようとしたとき、ガサガサと草が揺れる音がした。
(誰かが、わたしたちの話を聞いていた?)
紗羅はすぐに後ろを振り返ったが、そこに人の気配はない。
「紗羅ちゃん? どうかした?」
「ううん、今……何か音が聞こえて」
もう一度耳をすますと、今度こそ石畳がカツンカツンとリズム良く鳴る音が聞こえた。
「紗羅!」
鈴を転がしたような可愛らしい声に紗羅は破顔して、木陰から現れた玉岡逸美に目を向けた。
「逸美ちゃん、来てくれたのね!」
紗羅は両腕を広げて、短大時代からの友人である逸美を抱きしめた。彼女のショートボブの髪が、紗羅の頬を優しくくすぐる。
「当然でしょ! ……荻島さんも来てるって書いてあったら」
紗羅の耳元で囁く逸美に、紗羅は「逸美ちゃんを応援したいもの」と返した。
「こんばんは、荻島さん」
抱擁を解いた逸美は、魅力溢れる笑みを荻島へ向けた。
「やあ、玉岡さん」
紗羅が短大の入学式で知り合い、すぐに意気投合した大親友の逸美は、ジュエリーKASHIIに就職し、今ではジュエリーアドバイザーとして神戸本店で働いている。
先ほど荻島と顔を合わせたあと、紗羅はこっそり逸美に「修司くんが来てるから、遊びに来て」とメールで伝えたのだ。だが、仕事で行けないと断られてしまった。
でも、絶対に顔を見せると思っていた。逸美は荻島に恋をしているから……
逸美と荻島が知り合って三年目ということもあり、二人は楽しそうに話していた。この場を離れても大丈夫だと確信した紗羅は、こっそり二人から遠ざかり応接室へ戻る。
シャンデリアが煌々と灯っていたため、暗がりからでも室内が覗けたが、そこには誰もいなかった。テーブルに四客のコーヒーカップが置かれたままになっている。
(唯くん、いったいどこへ行ったの? 部屋へ戻った?)
紗羅は数歩下がって、二階を見上げた。ここからは小さな窓しか見えないが、唯人の部屋にはまだ明かりが点いていない。
「唯くん、どこへ行ったの?」
紗羅はそこを離れ、荻島と逸美がいる場所とは逆の方向へ歩き出した。玄関へ続く石畳を通り過ぎ、プライベートプールがある方向へ進む。
照明で照らされたプールサイドに目を向けると、目の端に黒い人影が入った。さらに近づくことで、その黒い人影が唯人だとわかった。
彼はプール際に座り、水の波紋をぼんやりと眺めている。
その横顔が心なしか寂しそうに見えるのは、紗羅の目がおかしいのだろうか?
八年ぶりの再会だったのに、唯人を置いて庭に出るべきではなかった。彼への恋慕を抑えきれず、紗羅は彼のもとへ駆け寄ろうとした。
だが、その足は数歩進んだところでピタッと止まった。
唯人がただ物思いに沈み、水の波紋を眺めているわけではないとわかったからだ。
彼が少し躯を動かしたことで、何かを耳に押し当てている姿が見えた。
「……八年って、意外と長いんだな。俺は俺で……まっ、楽しくしていたんだけど」
そこで言葉を止めた唯人は、紗羅が見たこともないような冷笑を浮かべ、つまらなさそうに声を漏らした。
「はいはい。……純香にはいい思いをさせてもらいました」
唯人の口から発せられた女性の名前に、紗羅の心臓が飛び跳ねる。
どういった関係なのだろう? 恋人? 日本にいるころは、女性の影などなかったのに?
「なんか……今日の俺、頭の中がグルグルしてる。この日を待ち望んでいたはずなのに、なぜか当り散らしたくなるんだ。何かで紛らわそうとしても、どうやっていいかわからないっていうか……」
唯人は薄笑いを浮かべて、素足でプールの水を蹴った。
「俺は、セックス狂いじゃない。もちろん、男としての欲望はあるけどな」
紗羅は唇を噛みしめながら手で喉元を覆い、苦しみから逃れるように軽く俯いた。喉の奥に妙な痛みを覚えて、上手く息ができない。
セックスの話ができる女性ということは、とても親しい間柄なのだろう。自分には決して入り込めない関係に胸が熱くなり、そのまま焼け焦げてしまいそうな苦しみが襲ってくる。
もしかして、告白する前から……玉砕?
紗羅はそっと空を見上げた。
真っ暗な闇の中にぼんやりと浮かぶ三日月。神々しく輝くその月が、どんどん朧月に変わっていく。
「ゆ、い……くん」
紗羅は囁くように彼の名を呟き、そのまま瞼を閉じた。目尻から熱い雫が伝い落ちてもその場にじっと佇み、唯人に声をかけることはなかった。
***
「悪いけど、俺さ……、紗羅のことは妹としか見られない」
胸を鷲掴みにされたような痛みに、紗羅は泣きたくなった。
「でも言ったじゃない! 初めて会ったとき、俺には妹はいないって」
「当然だろ? 警戒している紗羅の心をほぐすには、ああ言うしかなかったんだ」
哀れむような眼差しに、紗羅は顔を強張らせて頭を振る。
「やめて、そんな目で見ないで……。わたし、唯くんのことが好きなの!」
「……ごめんな、紗羅。俺には、好きな人がいるんだ。彼女は純香といって」
「い、イヤーーー!」
紗羅は自分の悲鳴に驚き、目をカッと見開いた。全力疾走のあとのように、口から荒い息が断続的に漏れる。生々しい映像に躯が震えたが、見慣れた天井、部屋を満たす朝の光、躯に触れる上掛けの感触に、やっと強張った躯から力を抜いて、長い息をついた。
「ゆ、夢だったのね……」
なんて嫌な夢なのだろう。あまりにもリアルすぎて気分が悪くなる。それほど純香という女性のことが、心に引っかかっているということだろう。
紗羅はベッドから身を起こし、汗でじっとりと濡れた額を手の甲で拭った。何度も深呼吸をして、不規則に打つ鼓動を落ち着かせようする。
そのとき、何かが彼女の視界に入った。
「うん?」
おもむろにナイトテーブルへ視線を向ける。そこにあるのは、一枚の白いメモ用紙と、バスケットボール大のテディベア。
「何、これ?」
メモ用紙を手に取り、そこに書かれた字を読む。
〝紗羅が二十歳の女性だということを忘れて、ぬいぐるみを買ってしまった。俺が持っていても仕方ないから受け取ってほしい。あと、お昼を一緒にしないか? 会社へ寄ってくれ。唯人〟
「えっ? ……えっ!?」
紗羅は頬を染めて、何度も手に持ったメモ用紙とぬいぐるみとを交互に見つめる。
「ど、どうしよう……、すごく嬉しい!」
感極まって目の奥がチクチクしてきたが、すぐに涙を振り払ってテディベアに手を伸ばす。だが、柔らかな感触が手に触れる寸前で、紗羅の動きがピタッと止まった。
「待って。……このメモとテディベアは、いつここに置かれたの?」
もしかして、唯人本人が部屋に入ってきた? ベッドで寝ている紗羅を、唯人は眺めていた?
無防備な姿を唯人に見られたかと思うと、恥ずかしくてたまらなくなった。紗羅は頬を染め、よだれを垂らしていなかったか確認するために慌てて口角に触れる。
「だ、大丈夫よね」
安堵の息をついて肩から力を抜くと、時計に目を向けた。時刻は、八時三十分。由美と唯人は、もう仕事で出かけているだろう。
紗羅が高校を卒業してからは、平日の朝食は各々で取ることになっていたので、寝坊しても咎められることはなかったが、せめて今日ぐらいは早起きすれば良かったと思わずにはいられなかった。
そのとき、紗羅はハッと息を呑み、天井を仰いだ。
「そうだった。せっかく唯くんが誘ってくれたのに、今日は昼食を兼ねた打ち合わせが!」
唯人に連絡を入れようかと思ったが、どうせ本社へ行くことになっているので、直接会って話した方がいいかもしれない。
「お土産のお礼も、唯くんの顔を見て言いたいし……」
そうと決まれば、今日こそは唯人のためにお洒落をしよう。昨日よりもっと素敵な女性と思ってもらえるように。
昨夜のプールでの出来事と、今しがた見た夢に不安を覚えて、紗羅は痛む胸にそっと手を置いた。
ここで諦めてはダメなんだからね――しっかりと自分に言い聞かせて、紗羅はベッドから飛び降り、裸足のままバスルームへ向かった。
兵庫県のJR三ノ宮駅で下車した紗羅は、数分歩いた場所にある六階建てのビルに入った。
そこが、株式会社ジュエリーKASHIIの本社ビルだった。隣には、店舗第一号の神戸本店がある。
親友の逸美が出社しているか確認したかったが、まずは仕事を優先するべきだと思い、紗羅は本社ビル三階の広告宣伝室へ向かった。
紗羅は社員ではなかったが、社長が娘同然に可愛がっている里子として知られているので、社内を好き勝手に歩いていても咎められることはない。
「こんにちは」
広告宣伝室に入った途端、荻島がデスクから立ち上がった。にこやかな笑みを浮かべて紗羅の方へ駆け寄り、彼女の肩に手を載せる。
「紗羅ちゃん、今日は早いね! 約束の時間まであと一時間もあるのに。まっ、俺は早く君に会えて嬉しいけどさ」
「ちょっと……、六階にも行っておこうかなと思って」
そう告げた途端、荻島の眉間に皺が寄った。
「六階って、樫井のところ? 家で会えるのに、会社でもあいつに会いたいんだ?」
「違う、そうじゃなくてね……」
顔の前で手を振り、唯人に会いたくて行くのではないと告げる。
もちろん、本音を言えば会いたくてたまらない。だが、荻島の前で唯人への想いをあからさまにしてはいけないとわかっているので、あえて心に蓋をした。
「失礼いたします。本日付けで常務に就任しました、樫井唯人を紹介します」
(えっ? ゆ、唯くん!?)
ドアに背を向けていた紗羅は、慌てて後ろを振り返った。入り口にいるのは、由美の第三秘書として働いている加賀宗彦。彼が室内を見回して紗羅に視線を止めた瞬間、彼の後ろから唯人が入ってきた。
「仕事の手を止めさせてしまって……」
唯人の声がそこで止まる。部屋を見回していた彼の目が、紗羅を見るなり大きく見開かれる。
「どうして、紗羅が……」
彼の目が彼女の隣に移り、一瞬にして無表情になった。
「……常務に就任いたしました樫井です。これからは私も最終確認をさせてもらうことになります。消費者の心を動かすような広告を目指して頑張ってください」
社員の拍手を受けたあと、唯人は紗羅のもとへ歩いてきた。
「紗羅、どうして広告宣伝室にいるんだ? まっすぐ上へ来たら良かったのに」
そっと手首を取られ、彼に引き寄せられる。肩から荻島の手の温もりが消えたのもわからないまま、紗羅は唯人を見上げた。
「あっ、ごめんなさい」
「ふぅ~ん、紗羅は社長から特別入館証を作ってもらってるんだ?」
手を伸ばし、紗羅が首からかけた入館証に触れる唯人。彼の指が、かすかに紗羅の胸に触れた。ただ軽く当たっただけなのに、恥ずかしくて頬が火照ってくる。
紗羅は顔を隠すように俯き、髪を耳にかけながら「うん」と伝えた。
「……昼食の件で来てくれたんだろ? 少し早めに切り上げるから、外で」
途端、紗羅の躯が後ろへ引っ張られた。
「あっ!」
背中に何かが当たり、ビックリして振り返る。紗羅の肩を掴んだ荻島が唯人を見ていた。
「それは無理。紗羅ちゃんは先約があるんだ」
「先約?」
「そう……この俺と」
荻島の言葉に、紗羅は目をぱちくりさせた。確かに、彼の言葉は正しい。今日のお昼は荻島と一緒にとることになっている。でも、二人きりではない。社長である由美も同席するからだ。
「紗羅……、荻島と昼の約束を?」
「……うん、そうなの。でもね」
由美も一緒だと言おうとした紗羅に、唯人はいきなりにこやかな笑みを浮かべて頷く。
「そうか。それなら早く言えばいいのに。じゃ、荻島とランチを楽しんでおいで」
唯人の目を見て、紗羅の背筋に寒気が走った。
彼の話し方は優しく、声音もいつもより柔らかい。にもかかわらず、今まで見たことのない冷たい光が彼の瞳に宿っていた。
「ゆ、唯くん……!」
用件は済んだとばかりに、唯人は紗羅に背を向けた。彼女が呼びかけても振り返らず、そのまま出ていく。
紗羅の呼びかけを無視するなんて、今までにあっただろうか?
戸惑いを隠せない紗羅は、唯人が視界から消えるまで、ずっと彼の背中を見続けていた。
二
唯人付きの秘書となった加賀と社内の挨拶回りを終えたあと、唯人は新しくあてがわれた六階の常務室に戻っていた。
デスクには稟議書や契約書が積まれており、早く仕事をしろとせっつかれているように感じたが、唯人はそれに手を伸ばすことができなかった。
こんな感情を、今までに抱いたことがあっただろうか?
紗羅と再会してから二十四時間も経っていないのに、薄汚れた黒い煙のようなものが、心の中でグルグルと渦巻いている。胸を焦がすほどの熱をもっているものもあれば、氷のように冷たく、凍傷のような痛みをもたらすものもあった。
「ク……ッ!」
シャツが皺になるのもかまわず胸元を手で掴み、唯人は呻き声を抑えようと歯を食いしばった。
さらに追及しようとする唯人に、紗羅は力なくため息をつく。
「そんなこと、別に……どうでもいいじゃない」
何のバイトをしているのか、それは言えなかった。守秘義務があるので、口外することは決して許されない。
これは、由美との約束でもあるから……
紗羅がこの話題を避けたがっているとわかったのだろう。彼はそれ以上追及しようとはしなかったが、口にしなくても、唯人の考えはひしひしと伝わってきた。
俺が紗羅の傍にいるのに、このまま隠し続けられるとは思っていないよな? ――声にならない言葉が聞こえてくる。
(この秘密はいったいいつまで守れるの? 一緒に暮らし出したら、絶対に隠し切れない)
紗羅は軽く目を閉じて、空いた手でスカートの生地を弄び、これからのことを考えながら階段へ向かった。
「紗羅ちゃん!」
突然聞き慣れた男性の声が階下から聞こえ、紗羅は我に返った。
スーツ姿の荻島修司が、玄関に立ってこちらに手を上げている。ミリタリーショートの髪を無造作にワックスで遊ばせた彼は、いつにも増して爽やかな笑みを紗羅に向けていた。
「修司くん? ……いったいどうして」
「修司くん、だと?」
階段を下りようとする紗羅の隣でいきなり立ち止まり、口調を荒くする唯人。どうして息巻くような言い方をするのかわからないものの、紗羅は彼をたしなめようとその腕を叩いた。
「唯くん! ダメよ、そんな言い方をしたら」
「ちょっと待て。紗羅は、いつから荻島のことを……親しく呼ぶようになったんだ? いや、その前に、どうしてあいつのことを知っている?」
小首を傾げ、紗羅は修司と出会ったときのことを思い出していた。
そう、あれは桜が散ると同時に、紗羅の心に隙間風が吹き始めた中学一年のころ。唯人がアメリカへ発ち、寂しさに耐えられなくなりそうだった紗羅の前に現れたのが荻島だった。
どんどん塞ぎ込んでいく紗羅を心配して、由美が荻島を樫井家に呼んでくれたらしい。
彼は唯人の中学時代からの同級生で、さらに親友だという。紗羅はすぐに心を開き、彼と一緒に過ごすことで、唯人が傍にいない寂しさを埋めた。
荻島もそれを心得ていたのか、唯人の代わりに紗羅の高校入学、卒業、成人式……といった節目の行事を祝ってくれた。
唯人と会えない八年もの間なんとか頑張れたのも、彼がいてくれたからだろう。
由美の態度がおかしいと感じるようになったときも、荻島がずっと傍にいて、短大へ進みたいという紗羅の気持ちを応援してくれた。
「唯くんは知らないの? 修司くんは、株式会社ジュエリーKASHIIに就職して、今では広報室の主任なのよ?」
そしてわたしの――その先に続く言葉をグッと呑み込み、紗羅は隣の唯人を仰ぎ見た。
「それは知ってる。だが、荻島は……紗羅とのことを何一つ俺には話していない」
それを聞いた荻島が、階段の下で口を開いた。
「言うはずないだろ? そんなの俺と紗羅ちゃんの問題で樫井には関係ないし。それにお前だって、紗羅ちゃんの存在をずっと俺に隠していたじゃないか」
「当たり前だ。荻島に話したら、……っ!」
そこで唯人は何かに驚いたようにハッと息を呑み、口に手を当てて、あらぬ方向を向いた。
「唯、くん?」
「いや、何でもない。何でも……」
意味深な言葉を訝しく思いつつ、紗羅は唯人を引っ張るようにして階段を下りた。唯人の腕に絡めた手に荻島の視線が落ちる。紗羅を見つめる彼を見返す勇気がなく、紗羅は苦笑を浮かべて、唯人からそっと手を離した。
荻島は知っていた。紗羅が、ずっと唯人だけを愛し続けていることを……
そのことを告げたときのことを思い出すと、胸が苦しくなる。紗羅は荻島の優しさに甘え、そして傷つけてしまったから。だからこそ、彼には誠実な態度で接するよう努めていた。
「修司くん、今日はどうしてここに?」
過去を振り払うように頭を小さく振ると、紗羅は荻島に問いかけた。
「ああ、今日樫井が戻ってくるからって、社長から招待を受けていたんだ」
「男に喜ばれても、嬉しくはないが……」
ボソッと呟く唯人に、荻島は声を上げて笑った。
「変わってないね、樫井は。なんか、俺……嬉しいよ」
やんちゃ坊主のように小突き合う姿に、紗羅も笑みを零した。
これからは、ずっと唯人が傍にいてくれる。あとは、紗羅がこの気持ちを唯人に伝えるだけ……
この先のことを考えただけで、今までに感じたことのない幸せが紗羅を包み込んでいく。同時に湧き起こるワクワク感に、紗羅の口元は自然と綻んだ。
話し続ける唯人と荻島をその場に残し、紗羅は由美が待つ応接室へ足を向けた。言葉を交わしながらも、唯人と荻島がこっそり紗羅の後ろ姿を見ていたことに、彼女は全く気付かなかった。
応接室で由美と合流し、しばらく歓談したあと、紗羅たちはダイニングルームへと移った。
テーブルいっぱいに並べられた料理に感激した唯人は、外国人のように藤江を抱きしめ、その場は笑いの渦に包まれた。
唯人の話は尽きることなく、食事を終えるまで唯人のアメリカでの生活や仕事の話が続いた。荻島も日本での話をし、四人は存分に夕食を楽しんだ。
食後のコーヒーを飲むために、再び四人は応接室へ戻った。
「あなたがアメリカへ行ってから、わたしも紗羅も寂しい思いをしたけれど、唯人はいい経験を積めたのね」
「外の世界を見せてくれた母さんには感謝してるよ。だが、これからは俺が二人の傍にいるから」
唯人は、由美から紗羅へ視線を移した。
相手の目を覗き込むように見つめるのは、海外暮らしが長かったせいだろうか?
彼の強い眼差しに胸が熱くなり、紗羅は頬を染めてそっと視線をコーヒーカップに落とした。
「ありがとう、唯人。でもね、これからはわたしだけでいいのよ。紗羅の傍にはいつも荻島さんがいて守ってくれているし、あと数年もしたら……幸せなお嫁さんになっていると思うわ」
「か、母さん?」
困惑した声で問いかける唯人と共に、紗羅も由美の真意を探るように視線を向けた。
「そうでしょ? 紗羅?」
まさか、みんながいる前で紗羅に訊き返すとは思ってもみなかった。もちろん由美は優しい笑みを浮かべているので、他意はないように思われる。
だが、紗羅はもうわかっていた。
(どうしてわたしが唯くんに近づくのを許さないの?)
声にならない言葉を呑み込み、紗羅は無理やり笑みを浮かべる。
「……そうね。唯くんがアメリカへ行ってから、修司くんは兄のようにわたしをずっと守ってくれていた」
満足そうに頷く由美と誇らしげな顔をする荻島が、紗羅の目の端に入る。それでも、彼女は唯人だけを見つめていた。
〝兄のように〟という言葉に気付いてと願うように……
「そうなのよ、唯人! 紗羅ったら、あなたがアメリカへ行ったあと、ひどく塞ぎ込んでしまってね。そのとき、荻島さんのことを思い出して紗羅に彼を紹介したのよ」
「……ふぅ~ん」
興味がなさそうに相槌を打つ唯人の目は、紗羅だけを見つめていた。
「そのあと、荻島さんも積極的に紗羅を訪ねるようになってくれて。紗羅の入学式や卒業式の写真には必ず一緒に写っているわ。そうそう、成人式のときも紗羅を迎えにきてくれて、その日はずっと二人は一緒だったのよ」
紗羅はハッと息を呑み、おもむろに俯いた。
唯人がいない間、紗羅と荻島がまるで恋人のように付き合っていたと、由美が暗に告げていることに気付いたからだ。
(もしかして、唯くんも勘違いをしている?)
紗羅は面を上げて唯人に目を向けるが、彼は面白くなさそうな表情でコーヒーカップに視線を落としている。
「ゆ、」
唯くん――そう呼びかけるつもりだったのに、それを遮るように、由美が「そうだわ!」と手を打った。
「ほら、紗羅。荻島さんと庭に出て、色づき始めた紫陽花でも見てきたら? せっかく時間を割いて来てくれたんだから、彼のお相手をしてあげなくてはね」
「でも」
当惑しながら唯人へ目を向けるが、彼は内心を読ませない表情で紗羅を見つめている。
(その瞳に浮かぶ影はいったい何? わたしに何を伝えたいの?)
紗羅はどうすればいいのかわからず、まごつきながら目を泳がせた。
「わたし、あの……」
「ほら、紗羅ちゃん。庭へ行こう」
荻島がソファから立ち上がり、紗羅に手を差し出した。このまま押し問答をしていたら、さらに悪い方向へ進むような気がして、紗羅は仕方なく荻島の手に自分の手を載せて立ち上がる。
「じゃ、社長。紗羅ちゃんをお借りします」
「ゆっくりしてきていいのよ」
ほがらかな笑みを浮かべる由美に送り出された荻島は、紗羅を急きたてるようにして庭へ向かった。
手を引っ張られながら、一瞬だけ後ろを振り返る。由美は喜色満面で紗羅に手を振り、唯人は手に持ったコーヒーカップに視線を落としていた。
外に出るとすでに陽は落ちていたが、庭はライトアップされていて鑑賞に問題はない。
応接室からも楽しめるように作られた、薔薇の花壇。
その先をしばらく進めば紫陽花を見られるが、あえて紗羅は応接室から近い場所で立ち止まった。
「修司くん」
荻島の名を囁きながら彼の腕に触れ、しっかりと握られた手をゆっくり引き抜く。
「俺さ……」
荻島は軽く息をつき、両手をズボンのポケットに入れて天を仰いだ。だがすぐに、思い詰めた表情で紗羅を見下ろす。
「紗羅ちゃんが、樫井のことを今でも一途に想っていることは知ってる。でもさ、俺の前で露骨に好きだというオーラを出されると、俺……あいつに挑戦したくなる」
紗羅は息を呑み、真摯な眼差しを向ける荻島に小さく頭を振った。
「わかってるよ。紗羅ちゃんが高校三年だったあの日、俺は見事に玉砕した。この想いが届かなくても、紗羅ちゃんの傍にいられるだけでいい……俺はずっとそう思っていた。その願いが叶って、俺は今や……紗羅ちゃんの一番近くにいる。樫井には決して話せないことを知るまでに……」
「それは」
(修司くんがわたしにとって特別な男性だから、知ってるわけじゃないわ!)
気持ちを伝えようとしたとき、ガサガサと草が揺れる音がした。
(誰かが、わたしたちの話を聞いていた?)
紗羅はすぐに後ろを振り返ったが、そこに人の気配はない。
「紗羅ちゃん? どうかした?」
「ううん、今……何か音が聞こえて」
もう一度耳をすますと、今度こそ石畳がカツンカツンとリズム良く鳴る音が聞こえた。
「紗羅!」
鈴を転がしたような可愛らしい声に紗羅は破顔して、木陰から現れた玉岡逸美に目を向けた。
「逸美ちゃん、来てくれたのね!」
紗羅は両腕を広げて、短大時代からの友人である逸美を抱きしめた。彼女のショートボブの髪が、紗羅の頬を優しくくすぐる。
「当然でしょ! ……荻島さんも来てるって書いてあったら」
紗羅の耳元で囁く逸美に、紗羅は「逸美ちゃんを応援したいもの」と返した。
「こんばんは、荻島さん」
抱擁を解いた逸美は、魅力溢れる笑みを荻島へ向けた。
「やあ、玉岡さん」
紗羅が短大の入学式で知り合い、すぐに意気投合した大親友の逸美は、ジュエリーKASHIIに就職し、今ではジュエリーアドバイザーとして神戸本店で働いている。
先ほど荻島と顔を合わせたあと、紗羅はこっそり逸美に「修司くんが来てるから、遊びに来て」とメールで伝えたのだ。だが、仕事で行けないと断られてしまった。
でも、絶対に顔を見せると思っていた。逸美は荻島に恋をしているから……
逸美と荻島が知り合って三年目ということもあり、二人は楽しそうに話していた。この場を離れても大丈夫だと確信した紗羅は、こっそり二人から遠ざかり応接室へ戻る。
シャンデリアが煌々と灯っていたため、暗がりからでも室内が覗けたが、そこには誰もいなかった。テーブルに四客のコーヒーカップが置かれたままになっている。
(唯くん、いったいどこへ行ったの? 部屋へ戻った?)
紗羅は数歩下がって、二階を見上げた。ここからは小さな窓しか見えないが、唯人の部屋にはまだ明かりが点いていない。
「唯くん、どこへ行ったの?」
紗羅はそこを離れ、荻島と逸美がいる場所とは逆の方向へ歩き出した。玄関へ続く石畳を通り過ぎ、プライベートプールがある方向へ進む。
照明で照らされたプールサイドに目を向けると、目の端に黒い人影が入った。さらに近づくことで、その黒い人影が唯人だとわかった。
彼はプール際に座り、水の波紋をぼんやりと眺めている。
その横顔が心なしか寂しそうに見えるのは、紗羅の目がおかしいのだろうか?
八年ぶりの再会だったのに、唯人を置いて庭に出るべきではなかった。彼への恋慕を抑えきれず、紗羅は彼のもとへ駆け寄ろうとした。
だが、その足は数歩進んだところでピタッと止まった。
唯人がただ物思いに沈み、水の波紋を眺めているわけではないとわかったからだ。
彼が少し躯を動かしたことで、何かを耳に押し当てている姿が見えた。
「……八年って、意外と長いんだな。俺は俺で……まっ、楽しくしていたんだけど」
そこで言葉を止めた唯人は、紗羅が見たこともないような冷笑を浮かべ、つまらなさそうに声を漏らした。
「はいはい。……純香にはいい思いをさせてもらいました」
唯人の口から発せられた女性の名前に、紗羅の心臓が飛び跳ねる。
どういった関係なのだろう? 恋人? 日本にいるころは、女性の影などなかったのに?
「なんか……今日の俺、頭の中がグルグルしてる。この日を待ち望んでいたはずなのに、なぜか当り散らしたくなるんだ。何かで紛らわそうとしても、どうやっていいかわからないっていうか……」
唯人は薄笑いを浮かべて、素足でプールの水を蹴った。
「俺は、セックス狂いじゃない。もちろん、男としての欲望はあるけどな」
紗羅は唇を噛みしめながら手で喉元を覆い、苦しみから逃れるように軽く俯いた。喉の奥に妙な痛みを覚えて、上手く息ができない。
セックスの話ができる女性ということは、とても親しい間柄なのだろう。自分には決して入り込めない関係に胸が熱くなり、そのまま焼け焦げてしまいそうな苦しみが襲ってくる。
もしかして、告白する前から……玉砕?
紗羅はそっと空を見上げた。
真っ暗な闇の中にぼんやりと浮かぶ三日月。神々しく輝くその月が、どんどん朧月に変わっていく。
「ゆ、い……くん」
紗羅は囁くように彼の名を呟き、そのまま瞼を閉じた。目尻から熱い雫が伝い落ちてもその場にじっと佇み、唯人に声をかけることはなかった。
***
「悪いけど、俺さ……、紗羅のことは妹としか見られない」
胸を鷲掴みにされたような痛みに、紗羅は泣きたくなった。
「でも言ったじゃない! 初めて会ったとき、俺には妹はいないって」
「当然だろ? 警戒している紗羅の心をほぐすには、ああ言うしかなかったんだ」
哀れむような眼差しに、紗羅は顔を強張らせて頭を振る。
「やめて、そんな目で見ないで……。わたし、唯くんのことが好きなの!」
「……ごめんな、紗羅。俺には、好きな人がいるんだ。彼女は純香といって」
「い、イヤーーー!」
紗羅は自分の悲鳴に驚き、目をカッと見開いた。全力疾走のあとのように、口から荒い息が断続的に漏れる。生々しい映像に躯が震えたが、見慣れた天井、部屋を満たす朝の光、躯に触れる上掛けの感触に、やっと強張った躯から力を抜いて、長い息をついた。
「ゆ、夢だったのね……」
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紗羅はベッドから身を起こし、汗でじっとりと濡れた額を手の甲で拭った。何度も深呼吸をして、不規則に打つ鼓動を落ち着かせようする。
そのとき、何かが彼女の視界に入った。
「うん?」
おもむろにナイトテーブルへ視線を向ける。そこにあるのは、一枚の白いメモ用紙と、バスケットボール大のテディベア。
「何、これ?」
メモ用紙を手に取り、そこに書かれた字を読む。
〝紗羅が二十歳の女性だということを忘れて、ぬいぐるみを買ってしまった。俺が持っていても仕方ないから受け取ってほしい。あと、お昼を一緒にしないか? 会社へ寄ってくれ。唯人〟
「えっ? ……えっ!?」
紗羅は頬を染めて、何度も手に持ったメモ用紙とぬいぐるみとを交互に見つめる。
「ど、どうしよう……、すごく嬉しい!」
感極まって目の奥がチクチクしてきたが、すぐに涙を振り払ってテディベアに手を伸ばす。だが、柔らかな感触が手に触れる寸前で、紗羅の動きがピタッと止まった。
「待って。……このメモとテディベアは、いつここに置かれたの?」
もしかして、唯人本人が部屋に入ってきた? ベッドで寝ている紗羅を、唯人は眺めていた?
無防備な姿を唯人に見られたかと思うと、恥ずかしくてたまらなくなった。紗羅は頬を染め、よだれを垂らしていなかったか確認するために慌てて口角に触れる。
「だ、大丈夫よね」
安堵の息をついて肩から力を抜くと、時計に目を向けた。時刻は、八時三十分。由美と唯人は、もう仕事で出かけているだろう。
紗羅が高校を卒業してからは、平日の朝食は各々で取ることになっていたので、寝坊しても咎められることはなかったが、せめて今日ぐらいは早起きすれば良かったと思わずにはいられなかった。
そのとき、紗羅はハッと息を呑み、天井を仰いだ。
「そうだった。せっかく唯くんが誘ってくれたのに、今日は昼食を兼ねた打ち合わせが!」
唯人に連絡を入れようかと思ったが、どうせ本社へ行くことになっているので、直接会って話した方がいいかもしれない。
「お土産のお礼も、唯くんの顔を見て言いたいし……」
そうと決まれば、今日こそは唯人のためにお洒落をしよう。昨日よりもっと素敵な女性と思ってもらえるように。
昨夜のプールでの出来事と、今しがた見た夢に不安を覚えて、紗羅は痛む胸にそっと手を置いた。
ここで諦めてはダメなんだからね――しっかりと自分に言い聞かせて、紗羅はベッドから飛び降り、裸足のままバスルームへ向かった。
兵庫県のJR三ノ宮駅で下車した紗羅は、数分歩いた場所にある六階建てのビルに入った。
そこが、株式会社ジュエリーKASHIIの本社ビルだった。隣には、店舗第一号の神戸本店がある。
親友の逸美が出社しているか確認したかったが、まずは仕事を優先するべきだと思い、紗羅は本社ビル三階の広告宣伝室へ向かった。
紗羅は社員ではなかったが、社長が娘同然に可愛がっている里子として知られているので、社内を好き勝手に歩いていても咎められることはない。
「こんにちは」
広告宣伝室に入った途端、荻島がデスクから立ち上がった。にこやかな笑みを浮かべて紗羅の方へ駆け寄り、彼女の肩に手を載せる。
「紗羅ちゃん、今日は早いね! 約束の時間まであと一時間もあるのに。まっ、俺は早く君に会えて嬉しいけどさ」
「ちょっと……、六階にも行っておこうかなと思って」
そう告げた途端、荻島の眉間に皺が寄った。
「六階って、樫井のところ? 家で会えるのに、会社でもあいつに会いたいんだ?」
「違う、そうじゃなくてね……」
顔の前で手を振り、唯人に会いたくて行くのではないと告げる。
もちろん、本音を言えば会いたくてたまらない。だが、荻島の前で唯人への想いをあからさまにしてはいけないとわかっているので、あえて心に蓋をした。
「失礼いたします。本日付けで常務に就任しました、樫井唯人を紹介します」
(えっ? ゆ、唯くん!?)
ドアに背を向けていた紗羅は、慌てて後ろを振り返った。入り口にいるのは、由美の第三秘書として働いている加賀宗彦。彼が室内を見回して紗羅に視線を止めた瞬間、彼の後ろから唯人が入ってきた。
「仕事の手を止めさせてしまって……」
唯人の声がそこで止まる。部屋を見回していた彼の目が、紗羅を見るなり大きく見開かれる。
「どうして、紗羅が……」
彼の目が彼女の隣に移り、一瞬にして無表情になった。
「……常務に就任いたしました樫井です。これからは私も最終確認をさせてもらうことになります。消費者の心を動かすような広告を目指して頑張ってください」
社員の拍手を受けたあと、唯人は紗羅のもとへ歩いてきた。
「紗羅、どうして広告宣伝室にいるんだ? まっすぐ上へ来たら良かったのに」
そっと手首を取られ、彼に引き寄せられる。肩から荻島の手の温もりが消えたのもわからないまま、紗羅は唯人を見上げた。
「あっ、ごめんなさい」
「ふぅ~ん、紗羅は社長から特別入館証を作ってもらってるんだ?」
手を伸ばし、紗羅が首からかけた入館証に触れる唯人。彼の指が、かすかに紗羅の胸に触れた。ただ軽く当たっただけなのに、恥ずかしくて頬が火照ってくる。
紗羅は顔を隠すように俯き、髪を耳にかけながら「うん」と伝えた。
「……昼食の件で来てくれたんだろ? 少し早めに切り上げるから、外で」
途端、紗羅の躯が後ろへ引っ張られた。
「あっ!」
背中に何かが当たり、ビックリして振り返る。紗羅の肩を掴んだ荻島が唯人を見ていた。
「それは無理。紗羅ちゃんは先約があるんだ」
「先約?」
「そう……この俺と」
荻島の言葉に、紗羅は目をぱちくりさせた。確かに、彼の言葉は正しい。今日のお昼は荻島と一緒にとることになっている。でも、二人きりではない。社長である由美も同席するからだ。
「紗羅……、荻島と昼の約束を?」
「……うん、そうなの。でもね」
由美も一緒だと言おうとした紗羅に、唯人はいきなりにこやかな笑みを浮かべて頷く。
「そうか。それなら早く言えばいいのに。じゃ、荻島とランチを楽しんでおいで」
唯人の目を見て、紗羅の背筋に寒気が走った。
彼の話し方は優しく、声音もいつもより柔らかい。にもかかわらず、今まで見たことのない冷たい光が彼の瞳に宿っていた。
「ゆ、唯くん……!」
用件は済んだとばかりに、唯人は紗羅に背を向けた。彼女が呼びかけても振り返らず、そのまま出ていく。
紗羅の呼びかけを無視するなんて、今までにあっただろうか?
戸惑いを隠せない紗羅は、唯人が視界から消えるまで、ずっと彼の背中を見続けていた。
二
唯人付きの秘書となった加賀と社内の挨拶回りを終えたあと、唯人は新しくあてがわれた六階の常務室に戻っていた。
デスクには稟議書や契約書が積まれており、早く仕事をしろとせっつかれているように感じたが、唯人はそれに手を伸ばすことができなかった。
こんな感情を、今までに抱いたことがあっただろうか?
紗羅と再会してから二十四時間も経っていないのに、薄汚れた黒い煙のようなものが、心の中でグルグルと渦巻いている。胸を焦がすほどの熱をもっているものもあれば、氷のように冷たく、凍傷のような痛みをもたらすものもあった。
「ク……ッ!」
シャツが皺になるのもかまわず胸元を手で掴み、唯人は呻き声を抑えようと歯を食いしばった。
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