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1巻
1-3
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湧き上がるこの感情から逃れるためには、紗羅のことを一度頭の中から消してしまうしかないだろう。
だが、そうしようと思えば思うほど、唯人を見つめる紗羅の眼差し、美しく成長した彼女の姿態が頭にこびりついて消えない。
緩やかに波打つ艶やかな髪、シルクのようにきめ細かい白い肌、花が咲いたような愛らしい唇、そして唯人の手のひらから零れそうなほど豊かな乳房。
(紗羅と会っていない時間が長すぎたのだろうか? あの幼かった女の子が、いきなり大人の女性へと成長し、眩しい光を放って俺の前に現れたから?)
唯人は胸が張り裂けそうな激情に駆られた。苦悶に表情を歪めながら、瞼をギュッと閉じる。
いつも唯人のあとを追いかけていた紗羅の瞳が、今では唯人だけでなく荻島にも向けられている。
荻島が差し出した手にためらいもなく自分の手を重ね、親しげに肩に触れられても全く嫌がる素振りを見せない紗羅。
それが無性に気に障り、唯人の胸を焦がす。
「何だっていうんだ……俺は!」
そのとき、デスクに置かれた電話が鳴り、スピーカーから加賀の声が聞こえた。
『企画開発室の遠峰さんが、唯人さんにお会いしたいと来ておりますが……』
ボタンを押し、何も考えず「入れてくれ」と告げた。するとすぐにドアが開き、スレンダーな体型の美女が、黒い髪を揺らして入ってくる。
唯人を認めるなり、彼女の大きな瞳に喜びの煌めきが増した。
「唯人、お帰りなさい! やっと……会えたわね」
黒のジャケットにマーメイドラインのミニスカート、白いレース仕立てのキャミソールは、彼女の美しさを十分に引き出していた。
彼女の名は遠峰純香、唯人と同じ二十七歳で……彼の元セックスフレンド。割り切った関係と言えばいいのだろうか。彼女の所属は企画開発室だったが、バイヤーチームの彼とは違い、彼女はバイヤーやデザイナーと検討を重ね、店頭に並ぶ商品を作るのが仕事だった。
やがて二人は、アメリカで会うたびに躯の関係を結ぶようになった。
だが、純香が唯人を束縛する素振りを見せたため、彼はバイヤーへ昇格すると同時に彼女との関係を終わらせた。
純香は唯人の決断に肩をすくめ、二人は穏便に別れた。
仕事で顔を合わせることもあるため、それ以後も、友人として付き合いを続けていたが、こんな風にいきなり執務室へ乗り込んできたのは、別れてから初めてのことだった。
いつもの純香らしくない。
「純香? いったいどうしたんだ? 仕事中だというのに……」
「……やっと日本へ戻ってきたのに、あたしの誘いを断ってさっさと家に戻ったでしょう? 昨夜はそのことについて文句を言おうと電話したんだけど、ちょっと欲求不満だったみたいだから……今日はあたしが必要かなと思って」
「おい、何を言ってるんだ? 俺たちは……っ!」
唯人はそこで息を呑み、純香の行動に目を見張った。彼女は妖艶な笑みを浮かべてジャケットを脱ぎ、それを絨毯に落としながら唯人の方へ近寄ってくる。これみよがしにソファの背を指で撫で、デスクを回り、唯人の前で立ち止まって彼のネクタイを掴んだ。
「あたしがわからないとでも? 唯人が鬱積した感情を抱いているってすぐにわかったわ」
唯人の股間部分に膝をつき、軽く刺激するように押しつけながらネクタイを解く純香。
(いけない、駄目だ!)
そんなことはわかっているのに、唯人の躯を知り尽くした純香の愛撫で下半身に血が集中していく。
「わかってる……。あたしたちの関係はもう終わったって。でも、少しぐらい楽しんでもいいんじゃない? 唯人とあたしの仲なんだし」
「……純香」
純香が唯人に顔を寄せてキスをした。今まで何度こういうキスをしてきただろう。純香は〝セックスをしよう〟と誘いをかけるときは、いつも唯人の下唇を甘噛みし、舌で輪郭をなぞった。
まさに今、彼女は唯人に誘いをかけている!
「っんん、はっ、あぁ……」
キスにうっとりしたのか、純香は甘い息を漏らし、うっすらと開いた目で唯人を見つめてくる。
「ねえ、いいでしょ? あたしが……唯人の心にある燻りを取り除いてあげる。だから、今を楽しみましょう」
この燻りを取り除く? 紗羅のことを考えないようにさせてくれると? ――声にならない思いを、目で純香に伝える。
優しく、それでいて欲望を刺激する彼女の眼差しを見ていると、悪魔の囁き声が脳の奥で響いた。
昔の女に忘れさせてもらえ……と。
頭の片隅では、危険だとわかっていた。ここで誘惑に屈したらあとで厄介なことになる。
だが、唯人はもう何も考えたくなかった。荻島と紗羅の仲睦まじい姿が頭の中に浮かぶだけで渦巻く、どす黒い情念から逃れたかった。
「……あたしを見つめるその瞳に浮かぶ光。ええ、もう唯人の心がわかったわ。あなたの欲望を解き放ってあげる」
唯人のシャツのボタンをはずし始める純香のキャミソールに手を伸ばし、裾をゆっくりとめくり上げる。彼女は妖艶な笑みを零し、唯人のズボンからシャツの裾を引っ張り出した。
「唯人……、あたし……あなたを忘れたことなんて、一度もなかった」
椅子に座る唯人の膝に腰を下ろし、キスを求めてくる純香。彼女の背に両腕を回して、そのキスを受け止めた。
「唯人っ! ああ……」
純香の昂ぶりが尋常ではないことに気付きながらも、唯人は紗羅に抱く感情から逃れるために、欲望という名の濁流にそのまま呑まれていった。
――十数分後。
男女の交わった濃厚な匂いが、執務室に充満していた。
さきほどまで唯人の膝に座って快楽を貪っていた純香は、彼に背を向けて衣服の乱れを直している。唯人は椅子にだらしなく座り、その姿をぼんやりと眺めながら小さなため息を漏らした。
久しぶりに味わった悦びに嬉々としてもいいはず。
だが、純香のリズムで欲望を刺激されても、唯人の心はここにあらずの状態だった。欲望にふける男女の姿を、上から覗き込んでいるような錯覚に陥る始末。
全く高揚もせず、ただ疲労感しか覚えないセックスなんて生まれて初めてだった。
「……唯人、あたし……やっぱりあなたのことが諦められない。アメリカで別れを告げられたときは仕方ないって思ったけど、これからはこうやって頻繁に顔を合わせることができるんだから、またあの関係に戻りたい。ううん、さらに一歩進めてもいいって思ってる」
衣服を整えた純香が振り返り、満たされた悦びに瞳を輝かせて唯人を見つめた。
「あたしたち、もう一度きちんと付き合いましょう。セフレなんかじゃなくて……」
「……いや、純香とは付き合えない。誘われるままお前を抱いてしまって悪かったが、俺にはその気が全くないんだ」
唯人の言葉に、純香は軽く肩をすくめた。二年前、彼女に別れを告げたときと同じように。
「今は……ね。唯人の仕事が落ち着いてきたら、その気持ちもきっと変わるわ」
純香はにっこりと微笑んで唯人へ投げキッスをし、手を振って執務室から出ていった。
静けさを取り戻した部屋に、唯人の力ないため息が響く。
「……最悪だ。こんなことをしたって、俺の心から紗羅が消えるわけでもないのに」
この部屋にいた純香のことではなく、またも紗羅のことを気にする自分に苦笑を漏らす。
いったい俺は紗羅をどうしたいんだろうか? ――と何度も自分自身に問いかけながら、シャツのボタンをはめた。
(もしかして……、純香を抱いたように、紗羅を組み敷きたいとでも?)
冗談のつもりだったのに、紗羅にのしかかる自分を思い浮かべた瞬間、唯人の心臓が痛いほど早鐘を打ち始めた。
純香が白い喉元を露にしながら喘ぐ姿を見たときよりも、震えが走る。ドクドクと血の流れる音が聞こえ、唯人の昂ぶりが増していった。
「ま、まさか……。俺は、紗羅を女として……見ているのか?」
そう口にした途端、唯人は思わず片手で口元を覆った。頬がどんどん熱くなるにつれて、紗羅が欲しくてたまらなくなる。
妹のように可愛がっていた紗羅に心を奪われ、さらに欲情を覚えるとは……
(そうか。だから……荻島が紗羅に触れると、どうにも我慢がならなかったのか!)
自分の胸にあるこの想いこそ、異性に対する愛だと気付いた唯人は、心の奥底から興奮を覚えた。
だがその気持ちとは裏腹に、ゆっくりと立ち上がり、陰鬱な面持ちでその場に立ち尽くす。
それでいいのか? ――と自分に問いかけた途端、唯人は慌ててデスクの周囲を歩き出した。
「……やっぱり駄目だ! 紗羅が樫井の家へ来たとき、一人ぼっちになった彼女を俺が守っていくと約束したんだ。なのに、この俺がそれを壊すような真似をしてどうする!?」
もし唯人が手を出したことで、紗羅から軽蔑の眼差しを向けられるようになったら?
唯人は激しく頭を振り、自分から去っていく紗羅の後ろ姿を脳裏から消そうとした。
「嫌だ。俺は紗羅を失いたくない!」
この想いを封じ込めなければ、とんでもないことになる。
紗羅は、唯人を兄のように思っているからこそ、昔と変わらず気軽に唯人の躯に触れてくる。腕を絡めたり、恋人のように頭を肩に載せたりできるのは、唯人を男として見ていないからだろう。
そんな紗羅をいきなり抱きしめたらどうなるだろうか?
「駄目だ!」
紗羅から憎悪に満ちた眼差しを向けられると思っただけで、心臓を鷲掴みにされるほどの痛みが襲いかかってきた。
突如浮かび上がった光景から逃れるように、唯人は激しく頭を振る。
(紗羅への想いはこのまま押し殺すべきだ。結果、胸を掻きむしりたくなるような痛みに襲われても……俺に向けられるあの艶やかな微笑みが見られなくなるよりマシだ!)
それなのに、やり切れない思いが胸を焦がすのを止められない。
「……仕事だ! そう、仕事をしよう」
悶々とした思いを振り払うように大きく息を吐き出し、仕事モードに切り替えるんだと何度も言い聞かせてデスクに戻った。
「はあ……」
自然と漏れるため息に苦笑したとき、書類の中に埋もれている小冊子が目に入る。
「これは我が社で作っているジュエリーのパンフレットだな。……うん?」
バイヤーとして働いていたのだから、普通ならジュエリーに関心を持つはずなのに、唯人の目を奪ったのは、それを身に付けたハンドモデルの華奢な〝手〟だった。
白くて透きとおるような手の甲、しなやかに伸びる指、そして美しいポージング。
(ただの手だというのに、いったい……どうしてこんなにも気になるんだ?)
不思議に思いながらも、唯人はこの手の持ち主に興味を抱いた。この手で腕を撫でられるところを想像しただけで、妙に胸が高鳴る。
紗羅に感じたような胸を締めつけられる甘い痛みはないが、それでも彼女以外の女性に興味を抱くのは、とてもいいことのように思えた。
「そうだな。ほんの少しでも興味をそそられる女性がいるのなら、そちらへ目を向けた方がいいのかもしれない。そうすることで、俺自身から紗羅を守ることができる……」
紗羅以外の女性に目を向けてこの想いを殺すことで、彼女から変わらない敬慕を受けられるだろう。そう答えが出ると、唯人は安堵の息をついた。
(こうするしかないんだ。俺の欲望から紗羅を守るためには……)
唯人はパンフレットに視線を落とし、興味を抱いた手をもう一度見つめた。
ジュエリーKASHIIと契約してくれたお礼も兼ねて、この女性を食事に誘い、素敵な関係を結べないか考えてみよう。
唯人はメモ用紙に〝ハンドモデルの連絡先、加賀〟と走り書きしたが、すぐに秘書の名を消し、広告宣伝室で働いている荻島の名前に書き換えた。
紗羅の想い人が荻島だと思っただけで胸がムカムカし、彼に罵声を浴びせたくなる。そんな事態を引き起こさないために、唯人は前に進むしかない。
気持ちを仕事に向けるためにパンフレットのページを捲り始めたが、唯人は我知らずため息をついていた。
三
「紗羅? それでいいわね? ……紗羅、聞いているの?」
テーブルに置かれたカップの柄を見つめ、別れ際に見せた唯人の不可解な態度を考えていた紗羅は、その声で我に返った。
急いで面を上げて、正面に座る社長……樫井由美を見つめる。
「ご、ごめんなさい、おばさま……いえ、社長」
「大丈夫? 疲れてるのならちゃんと言ってね? 無理をさせたくはないんだから」
無理に口角を上げて頷き、心配ないと告げる。
「大丈夫です。えっと……あとはわたしが判を押せばいいのね」
問いかけるように隣に座る荻島を見ると、彼は静かに頷いた。
「そうだよ。この契約書に判を押せば、契約は成立だ」
荻島が差し出した朱肉を受け取り、紗羅は印鑑を手にした。会社の契約書は全て弁護士の真柴が目を通している。さらに紗羅のマネージャーのような存在の荻島も確認してくれているので、紗羅が身構える必要はなかった。
株式会社ジュエリーKASHII本社からほど近い場所にある、フランス料理店の個室。由美と専務と荻島が見守る中、紗羅は指定された場所に判を押した。
ここ二年ほど務めてきたハンドモデルから、新しく作られるブランド〝SARA〟のイメージモデルになるために。
「ありがとう、紗羅。無理ばかり言って本当にごめんなさいね。でも、カメラマンの泉くんが言ったように、コンセプト重視でいくならプロのモデルよりも紗羅の方がいいと思ったのよ」
「泉さんの言うとおり! 俺も紗羅ちゃんがいいと思った」
にっこりと微笑んで、紗羅を励ましてくれる荻島。それでも彼女の表情は晴れなかった。
そもそもハンドモデルとして抜擢されたときも、本当はやりたくなかった。
それでも契約をし続け、こうしてイメージモデルになることも引き受けたのは、由美に育ててもらった恩を少しでも返したいと思ったからだ。
「今秋の発表に向けて、すでに昨年からプロジェクトは進んでいる。すぐに撮影が始まるけど、泉さんの予定もあって短期間に集中して撮ると思う」
電子手帳を取り出して説明する荻島に、紗羅は強く頷いた。
「わかっています。わたし、頑張ります。ところで……」
紗羅は、柔和な表情でこちらを見つめる由美に視線を向けた。
「おばさま。わたしが……ハンドモデルになったとき、社長の身内だから優遇されていると思われないように素性を隠していたけど、それは……その、唯くんにも言ってはダメ?」
「当然でしょう! 家族といえど、契約には従ってもらわなければ。もちろん、紗羅のポスター撮りが終わって、社員たちに知られるようになればかまわないけれど。それが紗羅のためでもあるのよ。わかっているわよね?」
諭すように言う由美の言葉に、紗羅は唇を引き結んで静かに頷いた。
由美の言葉が正しいことはわかっていた。社長の里子が会社に出入りすることには、誰も文句は言わないが、ハンドモデルとして抜擢されたと広まれば、必ずそこに嫉妬が生まれ、プロでもないのにと陰口を叩かれてしまうだろう。
現在、素性を伏せることで、彼女の身は守られていた。社内で紗羅がハンドモデルをしているのを知っているのは、広報宣伝室主任の荻島をはじめとするごく少数の人のみ。そのため、社内でハンドモデルを批判する者は一人もいない。それどころか、ポージングがジュエリーを引き立てていると好評を得ている。
でも、それもあと少しだろう。SARAシリーズが発表され、紗羅がイメージモデルに抜擢されたと知られたら、今までの評価はゼロになり、陰口を叩かれることになる。
不安がないと言えば嘘になるが、判を押した以上もう覚悟を決めていた。今まで以上に一生懸命働き、会社のために頑張ろうと。
「それじゃ紗羅、わたしは一旦社に戻るわね。……そうそう、夜は百貨店への出店の件で接待があるから、帰りは遅くなるわ。ご飯は先に食べていてね。あっ、そうだわ! 荻島さんの時間が空いているなら、一緒に過ごしてきなさい。でも、午前様は許しませんからね」
意味深な笑いを浮かべた由美は、荻島に「じゃ、あとは頼んだわ」と告げて立ち上がった。
紗羅と荻島も席を立って彼女と専務を見送る。
二人きりになるとすぐに腰を下ろし、紗羅はため息をついてテーブルに突っ伏した。
「大丈夫だよ、必ず上手くいく。ずっと紗羅ちゃんを見守ってきたこの俺が言うんだから、間違いない」
「ありがとう、修司くん」
テーブルに肘をつき、屈託なく微笑む荻島を見て、紗羅は身を起こした。
「じゃ、スケジュールを説明するから」
荻島が差し出すクリアファイルを覗き込む。
「撮影は梅雨が明けた七月から始まる予定だ。パーツ撮りもあるから、今までと違って忙しくなる」
「うん……わかってる。でも、こうなったからには乗り越えるしかないわよね」
「それでこそ紗羅ちゃんだ」
いつも気を使ってくれて、本当にありがとう――そう言おうとして面を上げた紗羅は、ビックリして目を見開いた。荻島の顔が目の前にある。少し顔を傾けたらキスができそうなその距離に、紗羅は息を呑んだ。
「あ、あの……ごめんなさい!」
軽く俯き、荻島と距離を取るように身を離す。
「あっ、俺もごめん。ちょっと仕事に集中しすぎてたみたい」
苦笑を漏らした荻島はそこでふと言葉を止め、思いつめたような表情を浮かべてゆっくり紗羅の目を見つめてきた。
「……あのさ、ずっと訊きたかったことがあるんだけど」
「何?」
「紗羅ちゃん、あの家を出る気はないのかな?」
「あの家って、樫井家のこと?」
「ああ」
なぜそんなことを訊いてくるのかわからないが、紗羅はその気はないと頷いた。
「もしおばさまから……一人暮らしを勧められたらするかもしれないけど、今のところ予定はないわ。わたしね、できる限りおばさまに恩返しをしたいの。修司くんにはわからないかもしれないけど」
「……樫井が日本に戻ってきたから? あいつの傍にいたいからか?」
いきなり荻島が紗羅の心に踏み込んできた。いつもなら冷静に対応できるのに、今日は私生活に踏み込まれたことがやけに気に障って、紗羅は乱暴に椅子から立ち上がり、驚愕したように目を見張る荻島を見下ろした。
「どうしてそんなことを訊くの? ……修司くんは、わたしの気持ちが誰に向いているのか知ってるのに!」
紗羅が高校を卒業した日、荻島から〝紗羅ちゃんのことが好きだ〟と告白を受け、突然キスをされて抱きしめられた。
由美に疎まれていると悩んでいた時期だったこともあり、心が安らぎを求めていたのだろう。紗羅は彼の背に、一瞬両腕を回してしまった。
だがすぐに身を離し、紗羅は自分が誰を想っているのかはっきりと告げた。唯人だけを愛している、彼への想いを簡単に断ち切ることはできないと……
(そんなわたしの気持ちを、修司くんは知っているのに!)
紗羅はテーブルに置かれたクリアファイルを掴み、それを無造作にバッグへ突っ込んだ。
「ごめんなさい。今日は帰ります」
「紗羅ちゃん!」
慌てて立ち上がる荻島に、紗羅は手を前に突き出して拒否を示した。
「……もう仕事の話はできない。でも次に会うときには、いつものわたしに戻ってるから……」
早口で伝え、紗羅は部屋から飛び出した。広々とした螺旋階段を駆け下り、そのままレストランを出る。
陽射しに目が眩んで眼球の奥に痛みを覚えたが、立ち止まることなく逃げるように走った。
フランス料理店から二百メートルほど離れた公園でやっと足を止め、紗羅は日陰にあるベンチに腰を下ろした。
「わたしのバカ……。ムキになるようなことじゃなかったのに」
大人の対応ができなかったことを悔やみ、グッと歯を食い縛って軽く俯いた。
(お願い……、わたしのことはもう諦めて!)
言葉にできない悲痛な思いを心の中で叫ぶ。
だが、人の心は他人がどうこうできるものではない。現に、荻島が紗羅の心に入り込もうとしても、彼女は遠い地にいた唯人を選んだのだから……
紗羅はバッグからスマートフォンを取り出し、時間を確認した。
「もう午後四時なんだ……」
今夜は由美の帰りが遅いので、ショッピングでもして帰ろう。帰宅が遅くなっても、咎める人は誰もいない。
そこで紗羅はハッと息を呑んだ。
「そうよ……、わたしはもう一人じゃない。唯くんがいる!」
唯人と二人きりで、どこか素敵なレストランで食事をしたい。
すぐに連絡を取ろうと唯人の番号を表示させたが、紗羅は発信する直前でその指を止めた。
昨夜プールで知った唯人の恋人らしき存在、今朝の真実味のある夢、そして紗羅の呼びかけを無視して広告宣伝室から去っていった彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「……でも、これからがスタートなんだから! 今頑張らなくて、いつ頑張るっていうの?」
紗羅は「えいっ!」と声を出し、自分に活を入れて液晶パネルにタッチした。
呼出音が鳴る。一回、二回、三回……
胸を高鳴らせながら唯人が出てくるのを待つが、コール音が止まることはなかった。
(もしかして、会議中とか?)
そう思った紗羅は、慌てて通話を切ろうとした。耳から離そうとしたとき、いきなり呼出音が途切れる。
『紗羅? 悪い、待たせた!』
唯人の声を耳元で聞いた途端、紗羅の躯の芯に喜びの疼きが走った。彼に見られているわけでもないのに、妙に気恥ずかしさを覚えて、顔を隠すようにそっと俯く。
「ううん、ごめんなさい。もしかして……会議中だった?」
『ああ。でも、今終わったから大丈夫。俺も……紗羅に電話しようと思っていたんだ』
つまり、彼は怒っていないということだろうか? 広告宣伝室で紗羅に背を向けたときは、不機嫌そうだったけれど……
そのことに勇気を得て、紗羅は思い切って口を開いた。
「あのね、今夜……どこかで一緒にご飯を食べない? 唯くんが日本に戻ってきて、役員に昇進したお祝いをしたいの。だ、ダメ……かな?」
『紗羅が俺に奢ってくれるっていうのか? ……悪いけど』
「もしかして、ほかの人と約束が……あった? ごめんね! わたしのことは気にしなくていいから!」
唯人の断り方があまりにも夢と似ていたので、思わずその先を言わせないように早口でまくしたてた。
早く切って、この悲しみを買い物でまぎらわせよう。
そんなことを考えていたせいで、唯人が優しく声をかけ続けていることに気付かなかった。
『……紗羅? おーい、俺の声が聞こえているか?』
「あっ、えっと……何?」
クスッという笑いが聞こえ、唯人が口元を綻ばせているのがわかった。
『俺が、紗羅を食事に誘ってるんだよ。奢ってくれる……っていう気持ちは嬉しいけど、俺が紗羅に奢りたい。お祝いは……俺の隣に並んで一緒に食事をしてくれるだけでいいから』
「えっ? あの……それは……今夜わたしと一緒に出かけてくれるって意味?」
『そういうこと!』
帰国した昨日は、家族との団欒を優先させた唯人。今日は、深い関係と思われる女性とデートをしても不思議ではないのに、唯人は純香ではなく紗羅を誘ってくれている。
「……う、嬉しい!」
浮き立つ気持ちを隠すように片手で顔を覆うと、その手をゆっくり下ろして早鐘を打つ胸に置いた。
『そう言ってくれて、俺も嬉しいよ。ところで、紗羅は今どこにいるんだ?』
「わたし? 会社の近くにある公園よ」
『まだ、そんなところにいたのか? だったら、そのまま会社へおいで。今日は定時で上がれると思うから』
「わかったわ! じゃ、一階のロビーで待ってるね」
普段と変わらない声音で通話を切ったものの、紗羅は湧き上がる喜びを抑え切れず、躯を丸めるように上半身を倒した。
あまり浮かれてはいけない。
確かに唯人にとって、紗羅は特別な存在かもしれないが、それは女としてという意味ではない。絶対に勘違いをしてはダメ!
紗羅はベンチに座ったまま、心を静めるために何度も自分に言い聞かせた。
それから数分後、少し気持ちが落ち着いた紗羅は勢いよくベンチから立ち上がり、自分の服装に目を向けた。
太めのベルトでアクセントをつけた生成りのレースのミニワンピース、赤く塗ったペディキュアが覗けるグラディエーターブーツに、軽く頷く。
だが、そうしようと思えば思うほど、唯人を見つめる紗羅の眼差し、美しく成長した彼女の姿態が頭にこびりついて消えない。
緩やかに波打つ艶やかな髪、シルクのようにきめ細かい白い肌、花が咲いたような愛らしい唇、そして唯人の手のひらから零れそうなほど豊かな乳房。
(紗羅と会っていない時間が長すぎたのだろうか? あの幼かった女の子が、いきなり大人の女性へと成長し、眩しい光を放って俺の前に現れたから?)
唯人は胸が張り裂けそうな激情に駆られた。苦悶に表情を歪めながら、瞼をギュッと閉じる。
いつも唯人のあとを追いかけていた紗羅の瞳が、今では唯人だけでなく荻島にも向けられている。
荻島が差し出した手にためらいもなく自分の手を重ね、親しげに肩に触れられても全く嫌がる素振りを見せない紗羅。
それが無性に気に障り、唯人の胸を焦がす。
「何だっていうんだ……俺は!」
そのとき、デスクに置かれた電話が鳴り、スピーカーから加賀の声が聞こえた。
『企画開発室の遠峰さんが、唯人さんにお会いしたいと来ておりますが……』
ボタンを押し、何も考えず「入れてくれ」と告げた。するとすぐにドアが開き、スレンダーな体型の美女が、黒い髪を揺らして入ってくる。
唯人を認めるなり、彼女の大きな瞳に喜びの煌めきが増した。
「唯人、お帰りなさい! やっと……会えたわね」
黒のジャケットにマーメイドラインのミニスカート、白いレース仕立てのキャミソールは、彼女の美しさを十分に引き出していた。
彼女の名は遠峰純香、唯人と同じ二十七歳で……彼の元セックスフレンド。割り切った関係と言えばいいのだろうか。彼女の所属は企画開発室だったが、バイヤーチームの彼とは違い、彼女はバイヤーやデザイナーと検討を重ね、店頭に並ぶ商品を作るのが仕事だった。
やがて二人は、アメリカで会うたびに躯の関係を結ぶようになった。
だが、純香が唯人を束縛する素振りを見せたため、彼はバイヤーへ昇格すると同時に彼女との関係を終わらせた。
純香は唯人の決断に肩をすくめ、二人は穏便に別れた。
仕事で顔を合わせることもあるため、それ以後も、友人として付き合いを続けていたが、こんな風にいきなり執務室へ乗り込んできたのは、別れてから初めてのことだった。
いつもの純香らしくない。
「純香? いったいどうしたんだ? 仕事中だというのに……」
「……やっと日本へ戻ってきたのに、あたしの誘いを断ってさっさと家に戻ったでしょう? 昨夜はそのことについて文句を言おうと電話したんだけど、ちょっと欲求不満だったみたいだから……今日はあたしが必要かなと思って」
「おい、何を言ってるんだ? 俺たちは……っ!」
唯人はそこで息を呑み、純香の行動に目を見張った。彼女は妖艶な笑みを浮かべてジャケットを脱ぎ、それを絨毯に落としながら唯人の方へ近寄ってくる。これみよがしにソファの背を指で撫で、デスクを回り、唯人の前で立ち止まって彼のネクタイを掴んだ。
「あたしがわからないとでも? 唯人が鬱積した感情を抱いているってすぐにわかったわ」
唯人の股間部分に膝をつき、軽く刺激するように押しつけながらネクタイを解く純香。
(いけない、駄目だ!)
そんなことはわかっているのに、唯人の躯を知り尽くした純香の愛撫で下半身に血が集中していく。
「わかってる……。あたしたちの関係はもう終わったって。でも、少しぐらい楽しんでもいいんじゃない? 唯人とあたしの仲なんだし」
「……純香」
純香が唯人に顔を寄せてキスをした。今まで何度こういうキスをしてきただろう。純香は〝セックスをしよう〟と誘いをかけるときは、いつも唯人の下唇を甘噛みし、舌で輪郭をなぞった。
まさに今、彼女は唯人に誘いをかけている!
「っんん、はっ、あぁ……」
キスにうっとりしたのか、純香は甘い息を漏らし、うっすらと開いた目で唯人を見つめてくる。
「ねえ、いいでしょ? あたしが……唯人の心にある燻りを取り除いてあげる。だから、今を楽しみましょう」
この燻りを取り除く? 紗羅のことを考えないようにさせてくれると? ――声にならない思いを、目で純香に伝える。
優しく、それでいて欲望を刺激する彼女の眼差しを見ていると、悪魔の囁き声が脳の奥で響いた。
昔の女に忘れさせてもらえ……と。
頭の片隅では、危険だとわかっていた。ここで誘惑に屈したらあとで厄介なことになる。
だが、唯人はもう何も考えたくなかった。荻島と紗羅の仲睦まじい姿が頭の中に浮かぶだけで渦巻く、どす黒い情念から逃れたかった。
「……あたしを見つめるその瞳に浮かぶ光。ええ、もう唯人の心がわかったわ。あなたの欲望を解き放ってあげる」
唯人のシャツのボタンをはずし始める純香のキャミソールに手を伸ばし、裾をゆっくりとめくり上げる。彼女は妖艶な笑みを零し、唯人のズボンからシャツの裾を引っ張り出した。
「唯人……、あたし……あなたを忘れたことなんて、一度もなかった」
椅子に座る唯人の膝に腰を下ろし、キスを求めてくる純香。彼女の背に両腕を回して、そのキスを受け止めた。
「唯人っ! ああ……」
純香の昂ぶりが尋常ではないことに気付きながらも、唯人は紗羅に抱く感情から逃れるために、欲望という名の濁流にそのまま呑まれていった。
――十数分後。
男女の交わった濃厚な匂いが、執務室に充満していた。
さきほどまで唯人の膝に座って快楽を貪っていた純香は、彼に背を向けて衣服の乱れを直している。唯人は椅子にだらしなく座り、その姿をぼんやりと眺めながら小さなため息を漏らした。
久しぶりに味わった悦びに嬉々としてもいいはず。
だが、純香のリズムで欲望を刺激されても、唯人の心はここにあらずの状態だった。欲望にふける男女の姿を、上から覗き込んでいるような錯覚に陥る始末。
全く高揚もせず、ただ疲労感しか覚えないセックスなんて生まれて初めてだった。
「……唯人、あたし……やっぱりあなたのことが諦められない。アメリカで別れを告げられたときは仕方ないって思ったけど、これからはこうやって頻繁に顔を合わせることができるんだから、またあの関係に戻りたい。ううん、さらに一歩進めてもいいって思ってる」
衣服を整えた純香が振り返り、満たされた悦びに瞳を輝かせて唯人を見つめた。
「あたしたち、もう一度きちんと付き合いましょう。セフレなんかじゃなくて……」
「……いや、純香とは付き合えない。誘われるままお前を抱いてしまって悪かったが、俺にはその気が全くないんだ」
唯人の言葉に、純香は軽く肩をすくめた。二年前、彼女に別れを告げたときと同じように。
「今は……ね。唯人の仕事が落ち着いてきたら、その気持ちもきっと変わるわ」
純香はにっこりと微笑んで唯人へ投げキッスをし、手を振って執務室から出ていった。
静けさを取り戻した部屋に、唯人の力ないため息が響く。
「……最悪だ。こんなことをしたって、俺の心から紗羅が消えるわけでもないのに」
この部屋にいた純香のことではなく、またも紗羅のことを気にする自分に苦笑を漏らす。
いったい俺は紗羅をどうしたいんだろうか? ――と何度も自分自身に問いかけながら、シャツのボタンをはめた。
(もしかして……、純香を抱いたように、紗羅を組み敷きたいとでも?)
冗談のつもりだったのに、紗羅にのしかかる自分を思い浮かべた瞬間、唯人の心臓が痛いほど早鐘を打ち始めた。
純香が白い喉元を露にしながら喘ぐ姿を見たときよりも、震えが走る。ドクドクと血の流れる音が聞こえ、唯人の昂ぶりが増していった。
「ま、まさか……。俺は、紗羅を女として……見ているのか?」
そう口にした途端、唯人は思わず片手で口元を覆った。頬がどんどん熱くなるにつれて、紗羅が欲しくてたまらなくなる。
妹のように可愛がっていた紗羅に心を奪われ、さらに欲情を覚えるとは……
(そうか。だから……荻島が紗羅に触れると、どうにも我慢がならなかったのか!)
自分の胸にあるこの想いこそ、異性に対する愛だと気付いた唯人は、心の奥底から興奮を覚えた。
だがその気持ちとは裏腹に、ゆっくりと立ち上がり、陰鬱な面持ちでその場に立ち尽くす。
それでいいのか? ――と自分に問いかけた途端、唯人は慌ててデスクの周囲を歩き出した。
「……やっぱり駄目だ! 紗羅が樫井の家へ来たとき、一人ぼっちになった彼女を俺が守っていくと約束したんだ。なのに、この俺がそれを壊すような真似をしてどうする!?」
もし唯人が手を出したことで、紗羅から軽蔑の眼差しを向けられるようになったら?
唯人は激しく頭を振り、自分から去っていく紗羅の後ろ姿を脳裏から消そうとした。
「嫌だ。俺は紗羅を失いたくない!」
この想いを封じ込めなければ、とんでもないことになる。
紗羅は、唯人を兄のように思っているからこそ、昔と変わらず気軽に唯人の躯に触れてくる。腕を絡めたり、恋人のように頭を肩に載せたりできるのは、唯人を男として見ていないからだろう。
そんな紗羅をいきなり抱きしめたらどうなるだろうか?
「駄目だ!」
紗羅から憎悪に満ちた眼差しを向けられると思っただけで、心臓を鷲掴みにされるほどの痛みが襲いかかってきた。
突如浮かび上がった光景から逃れるように、唯人は激しく頭を振る。
(紗羅への想いはこのまま押し殺すべきだ。結果、胸を掻きむしりたくなるような痛みに襲われても……俺に向けられるあの艶やかな微笑みが見られなくなるよりマシだ!)
それなのに、やり切れない思いが胸を焦がすのを止められない。
「……仕事だ! そう、仕事をしよう」
悶々とした思いを振り払うように大きく息を吐き出し、仕事モードに切り替えるんだと何度も言い聞かせてデスクに戻った。
「はあ……」
自然と漏れるため息に苦笑したとき、書類の中に埋もれている小冊子が目に入る。
「これは我が社で作っているジュエリーのパンフレットだな。……うん?」
バイヤーとして働いていたのだから、普通ならジュエリーに関心を持つはずなのに、唯人の目を奪ったのは、それを身に付けたハンドモデルの華奢な〝手〟だった。
白くて透きとおるような手の甲、しなやかに伸びる指、そして美しいポージング。
(ただの手だというのに、いったい……どうしてこんなにも気になるんだ?)
不思議に思いながらも、唯人はこの手の持ち主に興味を抱いた。この手で腕を撫でられるところを想像しただけで、妙に胸が高鳴る。
紗羅に感じたような胸を締めつけられる甘い痛みはないが、それでも彼女以外の女性に興味を抱くのは、とてもいいことのように思えた。
「そうだな。ほんの少しでも興味をそそられる女性がいるのなら、そちらへ目を向けた方がいいのかもしれない。そうすることで、俺自身から紗羅を守ることができる……」
紗羅以外の女性に目を向けてこの想いを殺すことで、彼女から変わらない敬慕を受けられるだろう。そう答えが出ると、唯人は安堵の息をついた。
(こうするしかないんだ。俺の欲望から紗羅を守るためには……)
唯人はパンフレットに視線を落とし、興味を抱いた手をもう一度見つめた。
ジュエリーKASHIIと契約してくれたお礼も兼ねて、この女性を食事に誘い、素敵な関係を結べないか考えてみよう。
唯人はメモ用紙に〝ハンドモデルの連絡先、加賀〟と走り書きしたが、すぐに秘書の名を消し、広告宣伝室で働いている荻島の名前に書き換えた。
紗羅の想い人が荻島だと思っただけで胸がムカムカし、彼に罵声を浴びせたくなる。そんな事態を引き起こさないために、唯人は前に進むしかない。
気持ちを仕事に向けるためにパンフレットのページを捲り始めたが、唯人は我知らずため息をついていた。
三
「紗羅? それでいいわね? ……紗羅、聞いているの?」
テーブルに置かれたカップの柄を見つめ、別れ際に見せた唯人の不可解な態度を考えていた紗羅は、その声で我に返った。
急いで面を上げて、正面に座る社長……樫井由美を見つめる。
「ご、ごめんなさい、おばさま……いえ、社長」
「大丈夫? 疲れてるのならちゃんと言ってね? 無理をさせたくはないんだから」
無理に口角を上げて頷き、心配ないと告げる。
「大丈夫です。えっと……あとはわたしが判を押せばいいのね」
問いかけるように隣に座る荻島を見ると、彼は静かに頷いた。
「そうだよ。この契約書に判を押せば、契約は成立だ」
荻島が差し出した朱肉を受け取り、紗羅は印鑑を手にした。会社の契約書は全て弁護士の真柴が目を通している。さらに紗羅のマネージャーのような存在の荻島も確認してくれているので、紗羅が身構える必要はなかった。
株式会社ジュエリーKASHII本社からほど近い場所にある、フランス料理店の個室。由美と専務と荻島が見守る中、紗羅は指定された場所に判を押した。
ここ二年ほど務めてきたハンドモデルから、新しく作られるブランド〝SARA〟のイメージモデルになるために。
「ありがとう、紗羅。無理ばかり言って本当にごめんなさいね。でも、カメラマンの泉くんが言ったように、コンセプト重視でいくならプロのモデルよりも紗羅の方がいいと思ったのよ」
「泉さんの言うとおり! 俺も紗羅ちゃんがいいと思った」
にっこりと微笑んで、紗羅を励ましてくれる荻島。それでも彼女の表情は晴れなかった。
そもそもハンドモデルとして抜擢されたときも、本当はやりたくなかった。
それでも契約をし続け、こうしてイメージモデルになることも引き受けたのは、由美に育ててもらった恩を少しでも返したいと思ったからだ。
「今秋の発表に向けて、すでに昨年からプロジェクトは進んでいる。すぐに撮影が始まるけど、泉さんの予定もあって短期間に集中して撮ると思う」
電子手帳を取り出して説明する荻島に、紗羅は強く頷いた。
「わかっています。わたし、頑張ります。ところで……」
紗羅は、柔和な表情でこちらを見つめる由美に視線を向けた。
「おばさま。わたしが……ハンドモデルになったとき、社長の身内だから優遇されていると思われないように素性を隠していたけど、それは……その、唯くんにも言ってはダメ?」
「当然でしょう! 家族といえど、契約には従ってもらわなければ。もちろん、紗羅のポスター撮りが終わって、社員たちに知られるようになればかまわないけれど。それが紗羅のためでもあるのよ。わかっているわよね?」
諭すように言う由美の言葉に、紗羅は唇を引き結んで静かに頷いた。
由美の言葉が正しいことはわかっていた。社長の里子が会社に出入りすることには、誰も文句は言わないが、ハンドモデルとして抜擢されたと広まれば、必ずそこに嫉妬が生まれ、プロでもないのにと陰口を叩かれてしまうだろう。
現在、素性を伏せることで、彼女の身は守られていた。社内で紗羅がハンドモデルをしているのを知っているのは、広報宣伝室主任の荻島をはじめとするごく少数の人のみ。そのため、社内でハンドモデルを批判する者は一人もいない。それどころか、ポージングがジュエリーを引き立てていると好評を得ている。
でも、それもあと少しだろう。SARAシリーズが発表され、紗羅がイメージモデルに抜擢されたと知られたら、今までの評価はゼロになり、陰口を叩かれることになる。
不安がないと言えば嘘になるが、判を押した以上もう覚悟を決めていた。今まで以上に一生懸命働き、会社のために頑張ろうと。
「それじゃ紗羅、わたしは一旦社に戻るわね。……そうそう、夜は百貨店への出店の件で接待があるから、帰りは遅くなるわ。ご飯は先に食べていてね。あっ、そうだわ! 荻島さんの時間が空いているなら、一緒に過ごしてきなさい。でも、午前様は許しませんからね」
意味深な笑いを浮かべた由美は、荻島に「じゃ、あとは頼んだわ」と告げて立ち上がった。
紗羅と荻島も席を立って彼女と専務を見送る。
二人きりになるとすぐに腰を下ろし、紗羅はため息をついてテーブルに突っ伏した。
「大丈夫だよ、必ず上手くいく。ずっと紗羅ちゃんを見守ってきたこの俺が言うんだから、間違いない」
「ありがとう、修司くん」
テーブルに肘をつき、屈託なく微笑む荻島を見て、紗羅は身を起こした。
「じゃ、スケジュールを説明するから」
荻島が差し出すクリアファイルを覗き込む。
「撮影は梅雨が明けた七月から始まる予定だ。パーツ撮りもあるから、今までと違って忙しくなる」
「うん……わかってる。でも、こうなったからには乗り越えるしかないわよね」
「それでこそ紗羅ちゃんだ」
いつも気を使ってくれて、本当にありがとう――そう言おうとして面を上げた紗羅は、ビックリして目を見開いた。荻島の顔が目の前にある。少し顔を傾けたらキスができそうなその距離に、紗羅は息を呑んだ。
「あ、あの……ごめんなさい!」
軽く俯き、荻島と距離を取るように身を離す。
「あっ、俺もごめん。ちょっと仕事に集中しすぎてたみたい」
苦笑を漏らした荻島はそこでふと言葉を止め、思いつめたような表情を浮かべてゆっくり紗羅の目を見つめてきた。
「……あのさ、ずっと訊きたかったことがあるんだけど」
「何?」
「紗羅ちゃん、あの家を出る気はないのかな?」
「あの家って、樫井家のこと?」
「ああ」
なぜそんなことを訊いてくるのかわからないが、紗羅はその気はないと頷いた。
「もしおばさまから……一人暮らしを勧められたらするかもしれないけど、今のところ予定はないわ。わたしね、できる限りおばさまに恩返しをしたいの。修司くんにはわからないかもしれないけど」
「……樫井が日本に戻ってきたから? あいつの傍にいたいからか?」
いきなり荻島が紗羅の心に踏み込んできた。いつもなら冷静に対応できるのに、今日は私生活に踏み込まれたことがやけに気に障って、紗羅は乱暴に椅子から立ち上がり、驚愕したように目を見張る荻島を見下ろした。
「どうしてそんなことを訊くの? ……修司くんは、わたしの気持ちが誰に向いているのか知ってるのに!」
紗羅が高校を卒業した日、荻島から〝紗羅ちゃんのことが好きだ〟と告白を受け、突然キスをされて抱きしめられた。
由美に疎まれていると悩んでいた時期だったこともあり、心が安らぎを求めていたのだろう。紗羅は彼の背に、一瞬両腕を回してしまった。
だがすぐに身を離し、紗羅は自分が誰を想っているのかはっきりと告げた。唯人だけを愛している、彼への想いを簡単に断ち切ることはできないと……
(そんなわたしの気持ちを、修司くんは知っているのに!)
紗羅はテーブルに置かれたクリアファイルを掴み、それを無造作にバッグへ突っ込んだ。
「ごめんなさい。今日は帰ります」
「紗羅ちゃん!」
慌てて立ち上がる荻島に、紗羅は手を前に突き出して拒否を示した。
「……もう仕事の話はできない。でも次に会うときには、いつものわたしに戻ってるから……」
早口で伝え、紗羅は部屋から飛び出した。広々とした螺旋階段を駆け下り、そのままレストランを出る。
陽射しに目が眩んで眼球の奥に痛みを覚えたが、立ち止まることなく逃げるように走った。
フランス料理店から二百メートルほど離れた公園でやっと足を止め、紗羅は日陰にあるベンチに腰を下ろした。
「わたしのバカ……。ムキになるようなことじゃなかったのに」
大人の対応ができなかったことを悔やみ、グッと歯を食い縛って軽く俯いた。
(お願い……、わたしのことはもう諦めて!)
言葉にできない悲痛な思いを心の中で叫ぶ。
だが、人の心は他人がどうこうできるものではない。現に、荻島が紗羅の心に入り込もうとしても、彼女は遠い地にいた唯人を選んだのだから……
紗羅はバッグからスマートフォンを取り出し、時間を確認した。
「もう午後四時なんだ……」
今夜は由美の帰りが遅いので、ショッピングでもして帰ろう。帰宅が遅くなっても、咎める人は誰もいない。
そこで紗羅はハッと息を呑んだ。
「そうよ……、わたしはもう一人じゃない。唯くんがいる!」
唯人と二人きりで、どこか素敵なレストランで食事をしたい。
すぐに連絡を取ろうと唯人の番号を表示させたが、紗羅は発信する直前でその指を止めた。
昨夜プールで知った唯人の恋人らしき存在、今朝の真実味のある夢、そして紗羅の呼びかけを無視して広告宣伝室から去っていった彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「……でも、これからがスタートなんだから! 今頑張らなくて、いつ頑張るっていうの?」
紗羅は「えいっ!」と声を出し、自分に活を入れて液晶パネルにタッチした。
呼出音が鳴る。一回、二回、三回……
胸を高鳴らせながら唯人が出てくるのを待つが、コール音が止まることはなかった。
(もしかして、会議中とか?)
そう思った紗羅は、慌てて通話を切ろうとした。耳から離そうとしたとき、いきなり呼出音が途切れる。
『紗羅? 悪い、待たせた!』
唯人の声を耳元で聞いた途端、紗羅の躯の芯に喜びの疼きが走った。彼に見られているわけでもないのに、妙に気恥ずかしさを覚えて、顔を隠すようにそっと俯く。
「ううん、ごめんなさい。もしかして……会議中だった?」
『ああ。でも、今終わったから大丈夫。俺も……紗羅に電話しようと思っていたんだ』
つまり、彼は怒っていないということだろうか? 広告宣伝室で紗羅に背を向けたときは、不機嫌そうだったけれど……
そのことに勇気を得て、紗羅は思い切って口を開いた。
「あのね、今夜……どこかで一緒にご飯を食べない? 唯くんが日本に戻ってきて、役員に昇進したお祝いをしたいの。だ、ダメ……かな?」
『紗羅が俺に奢ってくれるっていうのか? ……悪いけど』
「もしかして、ほかの人と約束が……あった? ごめんね! わたしのことは気にしなくていいから!」
唯人の断り方があまりにも夢と似ていたので、思わずその先を言わせないように早口でまくしたてた。
早く切って、この悲しみを買い物でまぎらわせよう。
そんなことを考えていたせいで、唯人が優しく声をかけ続けていることに気付かなかった。
『……紗羅? おーい、俺の声が聞こえているか?』
「あっ、えっと……何?」
クスッという笑いが聞こえ、唯人が口元を綻ばせているのがわかった。
『俺が、紗羅を食事に誘ってるんだよ。奢ってくれる……っていう気持ちは嬉しいけど、俺が紗羅に奢りたい。お祝いは……俺の隣に並んで一緒に食事をしてくれるだけでいいから』
「えっ? あの……それは……今夜わたしと一緒に出かけてくれるって意味?」
『そういうこと!』
帰国した昨日は、家族との団欒を優先させた唯人。今日は、深い関係と思われる女性とデートをしても不思議ではないのに、唯人は純香ではなく紗羅を誘ってくれている。
「……う、嬉しい!」
浮き立つ気持ちを隠すように片手で顔を覆うと、その手をゆっくり下ろして早鐘を打つ胸に置いた。
『そう言ってくれて、俺も嬉しいよ。ところで、紗羅は今どこにいるんだ?』
「わたし? 会社の近くにある公園よ」
『まだ、そんなところにいたのか? だったら、そのまま会社へおいで。今日は定時で上がれると思うから』
「わかったわ! じゃ、一階のロビーで待ってるね」
普段と変わらない声音で通話を切ったものの、紗羅は湧き上がる喜びを抑え切れず、躯を丸めるように上半身を倒した。
あまり浮かれてはいけない。
確かに唯人にとって、紗羅は特別な存在かもしれないが、それは女としてという意味ではない。絶対に勘違いをしてはダメ!
紗羅はベンチに座ったまま、心を静めるために何度も自分に言い聞かせた。
それから数分後、少し気持ちが落ち着いた紗羅は勢いよくベンチから立ち上がり、自分の服装に目を向けた。
太めのベルトでアクセントをつけた生成りのレースのミニワンピース、赤く塗ったペディキュアが覗けるグラディエーターブーツに、軽く頷く。
応援ありがとうございます!
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