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第2章
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街道で出会った気のいい商人たちに手を振り、俺はクリムゾン公爵領の城下町へと続く門をくぐった。
夕暮れ時。
空は茜色と深い藍色が混じり合った複雑なグラデーションを描き、普通なら家路につく人々や、食欲をそそる晩飯の匂いで満ち溢れる時間帯だ。
だが、この街は違った。
「…………なんだ、これは」
俺の口から思わず漏れたのは、そんなありきたりな感想だった。
街は、死んだように静まり返っている。
石畳の通りには、生きた人間の温かい活気が一切感じられない。
時折すれ違う住民たちは、誰もが地面に視線を落とし、まるで何かに怯えるように足早に通り過ぎていくだけ。
その顔には、労働の疲れとは質の違う、もっと根源的な『消耗』の色が浮かんでいる。
魂がすり減っている、とでも言うべきか。
道の両脇に軒を連ねる商店も、そのほとんどがすでに分厚い木の扉を固く閉ざしている。
本来ならば、香ばしいパンの香りや、煮込み料理の湯気が立ち上っているはずの食堂も、まるで廃墟のように沈黙していた。
鼻を突くのは、埃っぽい風の匂いと、どこからか漂ってくるドブの悪臭。
そして、この街全体を覆う、拭い去れない絶望の匂いだけだった。
「市場は……こっちか」
俺はわずかに人の流れが向かう方角へ、荷車を引いて歩を進める。
料理人として、まず確認すべきはその土地の台所。
市場を見れば、その街の食文化レベル、ひいては豊かさが一目で分かる。
だが、そんな俺の淡い期待は、すぐに木っ恥微塵に打ち砕かれることになった。
市場と呼ばれるその広場は、およそ『市場』と呼べる代物ではなかった。
いくつかの露店がかろうじて開いているが、そこに並べられているのは、もはや食材と呼ぶことすらはばかられるモノたちだった。
「……冗談だろ」
俺は一つの露店の前に立ち尽くす。
籠に山と積まれた葉物野菜は、そのほとんどが黄色く変色し、見るからに萎びている。
瑞々しさなど欠片もない。
カブや人参と思しき根菜には、虫が食った穴が無数に空いており、土も落とさずに無造作に転がされていた。
隣で売られている穀物の袋からは、コクゾウムシが這い出しているのが見える。
魚の干物にいたっては、ハエがたかっており、腐敗臭が俺の鼻を遠慮なく突き刺した。
これが、人間が口にするものだというのか。
ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。
それは、純粋な怒りだった。
食材には命がある。
育った大地の恵み、太陽の光、そして生産者の愛情。
それら全てが宿っているからこそ、食材は輝き、人の血肉となる。
だが、ここにあるのはなんだ?
命を冒涜された、食材の骸じゃないか。
俺は、店じまいをしようとしていた骨と皮ばかりに痩せた商人に、努めて冷静な声で話しかけた。
「おい、あんた。この街の食材は、どうしてこんなに酷いんだ? よほどの不作でもあったのか?」
商人は、見慣れない俺の顔を値踏みするように一瞥すると、まるで聞きたくもない言葉を聞いたかのように顔を歪めた。
「……よそ者さんかい。悪いことは言わねえ。こんな街、夜が明ける前にとっとと出ていきな。あんたみたいに威勢のいい若者が長居する場所じゃねえよ」
「まあ、そう言うな。俺は料理人でな。食材のことが気になっちまうタチなんだ」
俺が腰に提げた包丁ケースを示すと、商人は諦めたように重い溜息を一つ吐き、声を潜めて辺りを見回した。
「不作、ね。まあ、それも確かにある。だが、本当の原因はそんなもんじゃねえのさ。全部……全部、お貴族様が取り上げちまうからだよ」
「取り上げる?」
「ああ。この領地で採れたまともな食材は、一つ残らずクリムゾン公爵家が召し上げるんだ。みずみずしい果物も、上等な肉も、穫れたての魚もな。俺たち領民に回ってくるのは、貴族様方が見向きもしねえ、こんな残りカスだけってわけさ」
商人の言葉に、街道で聞いた噂が確信へと変わる。
「ウチの領主、アリシア・クリムゾン様は大陸一の『美食家』だそうでね。ご自分の舌を満足させるためなら、俺たちが飢えようが病気になろうが、知ったこっちゃねえのさ。領民には残飯で十分だ、とよ」
男は乾いた笑いを浮かべる。
だが、その目の奥に揺らめいているのは、長年の圧政によって育まれた、どうしようもない諦めと、心の奥底に押し殺された憎悪の光だった。
美食家、だと?
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れる音がした。
ふざけるな。
真の美食家というものは、食材の価値を、その命の輝きを誰よりも理解し、敬意を払う人間のことを言うんだ。
領民から奪い取り、腐らせる寸前の食材を貪る行為のどこに、食への愛がある。
それは美食じゃない。
ただの醜悪な『我欲』だ。
俺が怒りに震える拳を強く、強く握りしめた、その時だった。
カツン、カツン、と石畳を打つ規則正しい金属音が聞こえてきた。
通りの向こうから、物々しい意匠の鎧に身を包んだ衛兵が二人、巡回してくる。
その歩き方は横柄で、住民たちを見下す視線には何の感情も籠っていない。
その姿を認めた瞬間、商人の顔が恐怖でサッと引きつった。
「衛兵だ!」
男は蜘蛛の子を散らすように店を片付け、慌てて路地の闇へと姿を消した。
周囲にいたわずかな住民たちも、衛兵の姿を見るや、壁際の影に張り付くように身を固くする。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
衛兵たちは、そんな住民たちの様子をせせら笑うかのように鼻を鳴らし、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
後に残されたのは、さらに深くなった街の静寂と、俺の胸の中で燃え盛る怒りの炎だけだった。
これが、クリムゾン公爵領の日常。
これが、絶望に支配された街の現実。
許せるものか。
こんな理不尽、絶対に。
――ドン!ドン!ドドン!
突如、街の向こうから、腹の底に響くような重い太鼓の音が鳴り響いた。
静寂を切り裂くように、男の甲高い声が街中に木霊する。
「領主様のお達しがあるぞーっ! 住民は残らず、中央広場に集まれーっ!」
「今宵、領主様直々の『お裁き』が行われる! 遅れる者は罰する! 急ぎ集まれーっ!」
お裁き、だと?
その不吉な言葉に、物陰に隠れていた住民たちがびくりと体を震わせる。
その顔には、先ほどまでの諦めに加え、どうしようもない恐怖の色が浮かんでいた。
面白い。
その悪名高い暴君様とやらが、一体どんなツラをして、どんな裁きを下すというのか。
この俺の目で、とっくりと拝んでやろうじゃねえか。
俺は、太鼓が鳴り響く街の中央広場へと、迷いなく歩き出した。
夕暮れ時。
空は茜色と深い藍色が混じり合った複雑なグラデーションを描き、普通なら家路につく人々や、食欲をそそる晩飯の匂いで満ち溢れる時間帯だ。
だが、この街は違った。
「…………なんだ、これは」
俺の口から思わず漏れたのは、そんなありきたりな感想だった。
街は、死んだように静まり返っている。
石畳の通りには、生きた人間の温かい活気が一切感じられない。
時折すれ違う住民たちは、誰もが地面に視線を落とし、まるで何かに怯えるように足早に通り過ぎていくだけ。
その顔には、労働の疲れとは質の違う、もっと根源的な『消耗』の色が浮かんでいる。
魂がすり減っている、とでも言うべきか。
道の両脇に軒を連ねる商店も、そのほとんどがすでに分厚い木の扉を固く閉ざしている。
本来ならば、香ばしいパンの香りや、煮込み料理の湯気が立ち上っているはずの食堂も、まるで廃墟のように沈黙していた。
鼻を突くのは、埃っぽい風の匂いと、どこからか漂ってくるドブの悪臭。
そして、この街全体を覆う、拭い去れない絶望の匂いだけだった。
「市場は……こっちか」
俺はわずかに人の流れが向かう方角へ、荷車を引いて歩を進める。
料理人として、まず確認すべきはその土地の台所。
市場を見れば、その街の食文化レベル、ひいては豊かさが一目で分かる。
だが、そんな俺の淡い期待は、すぐに木っ恥微塵に打ち砕かれることになった。
市場と呼ばれるその広場は、およそ『市場』と呼べる代物ではなかった。
いくつかの露店がかろうじて開いているが、そこに並べられているのは、もはや食材と呼ぶことすらはばかられるモノたちだった。
「……冗談だろ」
俺は一つの露店の前に立ち尽くす。
籠に山と積まれた葉物野菜は、そのほとんどが黄色く変色し、見るからに萎びている。
瑞々しさなど欠片もない。
カブや人参と思しき根菜には、虫が食った穴が無数に空いており、土も落とさずに無造作に転がされていた。
隣で売られている穀物の袋からは、コクゾウムシが這い出しているのが見える。
魚の干物にいたっては、ハエがたかっており、腐敗臭が俺の鼻を遠慮なく突き刺した。
これが、人間が口にするものだというのか。
ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。
それは、純粋な怒りだった。
食材には命がある。
育った大地の恵み、太陽の光、そして生産者の愛情。
それら全てが宿っているからこそ、食材は輝き、人の血肉となる。
だが、ここにあるのはなんだ?
命を冒涜された、食材の骸じゃないか。
俺は、店じまいをしようとしていた骨と皮ばかりに痩せた商人に、努めて冷静な声で話しかけた。
「おい、あんた。この街の食材は、どうしてこんなに酷いんだ? よほどの不作でもあったのか?」
商人は、見慣れない俺の顔を値踏みするように一瞥すると、まるで聞きたくもない言葉を聞いたかのように顔を歪めた。
「……よそ者さんかい。悪いことは言わねえ。こんな街、夜が明ける前にとっとと出ていきな。あんたみたいに威勢のいい若者が長居する場所じゃねえよ」
「まあ、そう言うな。俺は料理人でな。食材のことが気になっちまうタチなんだ」
俺が腰に提げた包丁ケースを示すと、商人は諦めたように重い溜息を一つ吐き、声を潜めて辺りを見回した。
「不作、ね。まあ、それも確かにある。だが、本当の原因はそんなもんじゃねえのさ。全部……全部、お貴族様が取り上げちまうからだよ」
「取り上げる?」
「ああ。この領地で採れたまともな食材は、一つ残らずクリムゾン公爵家が召し上げるんだ。みずみずしい果物も、上等な肉も、穫れたての魚もな。俺たち領民に回ってくるのは、貴族様方が見向きもしねえ、こんな残りカスだけってわけさ」
商人の言葉に、街道で聞いた噂が確信へと変わる。
「ウチの領主、アリシア・クリムゾン様は大陸一の『美食家』だそうでね。ご自分の舌を満足させるためなら、俺たちが飢えようが病気になろうが、知ったこっちゃねえのさ。領民には残飯で十分だ、とよ」
男は乾いた笑いを浮かべる。
だが、その目の奥に揺らめいているのは、長年の圧政によって育まれた、どうしようもない諦めと、心の奥底に押し殺された憎悪の光だった。
美食家、だと?
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツリと切れる音がした。
ふざけるな。
真の美食家というものは、食材の価値を、その命の輝きを誰よりも理解し、敬意を払う人間のことを言うんだ。
領民から奪い取り、腐らせる寸前の食材を貪る行為のどこに、食への愛がある。
それは美食じゃない。
ただの醜悪な『我欲』だ。
俺が怒りに震える拳を強く、強く握りしめた、その時だった。
カツン、カツン、と石畳を打つ規則正しい金属音が聞こえてきた。
通りの向こうから、物々しい意匠の鎧に身を包んだ衛兵が二人、巡回してくる。
その歩き方は横柄で、住民たちを見下す視線には何の感情も籠っていない。
その姿を認めた瞬間、商人の顔が恐怖でサッと引きつった。
「衛兵だ!」
男は蜘蛛の子を散らすように店を片付け、慌てて路地の闇へと姿を消した。
周囲にいたわずかな住民たちも、衛兵の姿を見るや、壁際の影に張り付くように身を固くする。
まるで蛇に睨まれた蛙だ。
衛兵たちは、そんな住民たちの様子をせせら笑うかのように鼻を鳴らし、何事もなかったかのように通り過ぎていった。
後に残されたのは、さらに深くなった街の静寂と、俺の胸の中で燃え盛る怒りの炎だけだった。
これが、クリムゾン公爵領の日常。
これが、絶望に支配された街の現実。
許せるものか。
こんな理不尽、絶対に。
――ドン!ドン!ドドン!
突如、街の向こうから、腹の底に響くような重い太鼓の音が鳴り響いた。
静寂を切り裂くように、男の甲高い声が街中に木霊する。
「領主様のお達しがあるぞーっ! 住民は残らず、中央広場に集まれーっ!」
「今宵、領主様直々の『お裁き』が行われる! 遅れる者は罰する! 急ぎ集まれーっ!」
お裁き、だと?
その不吉な言葉に、物陰に隠れていた住民たちがびくりと体を震わせる。
その顔には、先ほどまでの諦めに加え、どうしようもない恐怖の色が浮かんでいた。
面白い。
その悪名高い暴君様とやらが、一体どんなツラをして、どんな裁きを下すというのか。
この俺の目で、とっくりと拝んでやろうじゃねえか。
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