可愛くない私に価値はないのでしょう?

青空一夏

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1巻

1-3

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 すると、ポールスランド伯爵夫人が私の目の前に本をスッと差し出した。

「本が好きなようね? だったら、この本を貸してあげましょう。読み終わったら別の本も貸してあげますよ。グレイスの年齢までに読んでおくべき本はたくさんありますからね。本は自室に持っていってもいいですよ」

 綺麗な挿絵がたくさん描かれた小さい子供向けの童話だった。ベリンダが持っていた本で見かけたことがあったけれど、読ませてもらえないまま時が過ぎた。

「肝心なことを忘れていたわ。グレイス、字は読める? 読めなければ教えてあげますよ」
「大丈夫です。家にメイドがまだいた時、ちょっとだけ字と簡単な計算を教わりました。ポールスランド伯爵領の商店街に行くようになってからは、八百屋のおばさんにはお金の勘定を、文房具屋のおじさんには綴りを教えてもらい、いつも新聞を読んでいる本屋のおじさんは新聞の読み方と意味を教えてくれました」
「まぁ、とても素晴らしいわ。生活に根付いた知識は大事ですよ。グレイスを見ていると、周りの人達が力になってあげたくなるのでしょうね。とてもよくわかりますよ」

 ポールスランド伯爵夫人はそうおっしゃって褒めてくださった。
 ここではいつも誰かが褒めてくださる。
 就寝の時間になり、ポールスランド伯爵夫人がコンスタンティン様とエリザベッタ様に二階の廊下で優しく声をかけたのが印象的だった。

「良い夢を見てゆっくりお休みなさい。また明日の朝には元気なお顔を見せてちょうだいね」

 そんなような言葉だったと思う。
 なんて温かい言葉だろう。
 ポールスランド伯爵夫人からお借りした本を大事に抱えながらお部屋に持っていき、ソファで寛ぎながら挿絵を眺めた。繊細なタッチで描かれた挿絵を楽しい気分で見ていく。
 やがて侍女が来て私を寝間着に着替えさせてくれ、柔らかなベッドに横になった。
 フラメル家で寝ていた布団は湿気を帯びており、かなり使い古された物だった。私の部屋は一日中ほぼ日が当たらなかったから、壁紙のところどころにカビも生えていた。
 でもここのお布団はすごく良い香りがする。
 お日様の匂いとハーブのような香り……なんだろう? この香りは大好きだ。
 ふかふかの羽毛布団にくるまって、自然と笑みがこぼれた。
 美味しい物でお腹はいっぱいだし、気持ち良くてここはとても安心する。

「お願い、夢なら覚めないで……」

 何度もこの言葉が出てきてしまう。だって、今がとても幸せだから……目が覚めたらフラメル家のベッドだったらどうしよう、と不安になる。
 家出をしたのは確かだから、目が覚めたら路地裏で一人ぼっちだったらどうしようとか、いろいろ考えたけれど……最後にはコンスタンティン様の優しい笑顔が思い出されていつのまにか眠りに落ちていた。
 朝になり、パチリと目が覚めてあたりを見回す。
 天蓋付きベッドに横たわっている自分の頬を軽くつねった。

「痛い……夢じゃないんだ……」

 そう呟いたタイミングで扉を叩く音がし、レーアさんが入ってきた。手には昨日お借りしたものとは違うドレスを持っている。

「本日はライトブルーのドレスをお召しください。昨夜はよくお休みになられましたか?」
「えぇ。とても良い香りに包まれて、ぐっすり眠ることができました」
「それは良かったです。寝具にアロマミストを吹きかけておいたのですよ。ラベンダーやオレンジスイートにマジョラムスイート等を配合したものです。質の良い睡眠を誘うと言われています」
「だからよく眠れたのね。レーアさん、ありがとう」
「どういたしまして、喜んでいただけて嬉しいです。それと私のことはどうか呼び捨てでお呼びください。グレイス様がこちらにいる間は、私が専属侍女になりますので『さん』付けは不要です。私、自分から立候補したのですよ。グレイス様にぜひお仕えしたかったのでね」
「ありがとう、レーアさん……じゃなくて、レーア」
「もちろんですとも。誠心誠意お仕えします」

 丁寧に頭を下げる姿に恐縮した。
「私なんかに仕えてくれるなんて申し訳ないです」と、思わず言いそうになる。
 でもポールスランド伯爵夫人が昨日おっしゃったわ。嬉しい時は素直にお礼を言えば良いって。

「ありがとうございます」

 だから、私はポールスランド伯爵夫人に教わったように、にこやかな笑みをたたえてお礼を言う。レーアはさらに頭を深く下げた。
 んー。ちょっと気恥ずかしいし、申し訳ない気持ちになってしまうわね。
 ドレスに着替えさせてもらい、朝食を取るために食堂に向かった。先日寛いだ居間と大食堂に挟まれているのが朝食用の小さめの食堂だった。
 レーアが扉を開けるともうすでに皆様が揃っていて、ポールスランド伯爵家の方々がにこやかな笑顔を向けてくださった。こちらの部屋は広さもテーブルの大きさも大食堂の半分ほどだ。

「おはよう、グレイス嬢。よく眠れた?」

 コンスタンティン様が気さくに話しかけてくださり、エリザベッタ様は愛らしく手を振ってくださった。

「はい、ぐっすりと眠れました」


 そう答えると、今度はポールスランド伯爵夫人が私に思いがけないことをおっしゃった。

「グレイス。このポールスランド伯爵家にずっといなさい。エリザベッタの話し相手になってもらいたいのよ。これはエリザベッタの希望でもあるの」

 話し相手? 話すだけでいいの?
 不思議な気分だった。話すだけでこんなに居心地の良い場所にいさせてもらえるなんて……

「本当にこちらにずっといていいのですか? 私のようななにも取り柄がない者が、エリザベッタ様のお話し相手になれるのでしょうか? 学園にも通ったことがありませんし、なにをすればいいのかもわかりません。申し訳ない気持ちでいっぱいです」
「グレイス。先日、私が教えたことをもう忘れてしまったの? ポールスランド伯爵家にずっといて良いと言われて、あなたは嬉しかったの? それとも迷惑だった?」
「もちろん、これ以上ないくらい嬉しくてありがたいです!」
「だったら言う言葉はわかるわね?」
「はい、ありがとうございます!」

 そうお礼を言いながらも、やっぱり申し訳ない気持ちに変わりはない。
 私に行く場所がないとわかっていて、同情でおっしゃってくださっていると思ったからだ。


 エリザベッタ様はポールスランド学園に午前中だけ通う。もう少し上の学年になると午後からも授業があるらしいけれど、今は早い時間にお戻りになる。その間はポールスランド伯爵邸で好きなことをして待っているように言われた。
 でも、エリザベッタ様がまた川に飛び込んだり木に登ったりするかもしれないと思うと心配だ。
 私は泳ぐのも木登りも得意だから、一緒に付いていってさしあげた方がいいかも。
 私は学園に通ったこともないし、近所の子と遊んだこともない。だから一人で時間がある時は、フラメル家の裏庭にある大きな木に登った。そこは私の秘密の隠れ家だった。お気に入りの本や綺麗な石やビー玉、そんなものを樹洞じゅどうに隠した。
 お母様に叱られた時やベリンダに嫌がらせをされた時にはそこで気持ちを落ち着けたし、お父様やデリク様に暴言を吐かれた時はそこで泣いた。だから木登りは大好きで得意だったのだ。
 泳ぎも木登りも得意だと話し、エリザベッタ様の送り迎えに同行したいと、ポールスランド伯爵夫人にお願いしてみた。

「確かにそうしてもらったら助かるわ。念のために騎士達も後ろから付いていかせますが、エリザベッタの無謀な行動を止められるのはグレイスだけだと思うから。エリザベッタはグレイスを慕っているようですからね」

 ポールスランド伯爵夫人はエリザベッタ様のお転婆に困っているようでもあり、楽しんでいるようでもあった。

「エリザベッタ様のそのような行動力と明るい性格が私は大好きです。ですから、私にできることはなんでもするつもりです」

 そう申し上げると、ポールスランド伯爵夫人は顔をほころばせた。


 そんなわけで私は、エリザベッタ様の専属侍女の方達に混じって一緒に学園の送り迎えをすることになった。天候が悪い日以外は、エリザベッタ様も平民の子と同じように徒歩で学園に通う。学園の行き帰りに毎日おしゃべりしているうちに、どんどんと仲良しになっていった。

「ねぇ、グレイス。手を繋いでくださらない? 私はずっとお姉様と手を繋いで学園に通う子達が羨ましかったの。いいでしょう? お願い」
「もちろんです」

 私はエリザベッタ様の小さな柔らかな手を握りしめた。
 私の顔を見上げてエリザベッタ様がお日様のように微笑んだ。
 なんて可愛いの。まるで天使のようだわ。
 天使様と一緒にいられて、さらにはあのような素晴らしいお部屋にも住めるなんて……やっぱり恐れ多くて申し訳ない。


 ある日のこと、ポールスランド伯爵邸の居間で侍女達もたくさん控えている時に、エリザベッタ様がおもむろに話し始めた。

「学園のお友達のお話よ。その子はね、二人だけでお話している時はとても優しくて良い子だなって思うの。でも、もう一人増えると態度が変わってしまうの。これってお友達なのかしら?」

 唐突にそう聞いてくるエリザベッタ様に侍女達は慣れているようだ。
 私は学園に通ったことがないし、家の手伝いで忙しかったのでお友達がいない。エリザベッタ様のおっしゃっている意味がよくわからなかった。

「どういう意味ですか? もう一人増えると態度が変わってしまうとはどうなるのでしょうか?」
「もう一人共通のお友達が来ると、その子とばかりお話をするのよ。三人で話していてもその子の話にはしきりにあいづちを打つけれど、私の話には否定したり、聞こえていないふりをしたりすることもあるわ。でもまた二人に戻ると、とてもにこにこしていて優しいの」

 これは複雑な状況だと思った。いわゆる仲間はずれの一種なのかもしれない。

「それは三人という数が良くないのですわ。そもそも女性は三人のグループでは、二対一に分かれる傾向があるのです」

 侍女の一人がそう言った。

「そのような態度を取られると悲しいですね。信頼できなくなります」

 別の侍女の言葉だ。

「グレイスはどう思う? この二人は私の友達といえるのかしら?」

 友達かどうかと問われればその判断は難しい。
 でもわかることが一つだけある。大切に思っている人間にはそのようなまねは決してしないということだ。

「もし私に大切に思う友人がいて、ずっと仲良くしてもらいたいと思ったらほかに親しいお友達が加わってもそんなことはできません。だって嫌われたくありませんし、自分がされたら悲しいと思うことはしないはずです」
「うん、そうよね。つまり、私はその子にとって大切なお友達ではないということよね? ……なにかいつもそんな態度を取られると虚しい気分なのよ。一つ一つは些細なことなのだけど、積み重なるとちょっと重く受け止めてしまうの」
「まぁ、なぜエリザベッタはその二人にこだわるのかしら? ほかにも生徒はたくさんいますよね? その子が後から加わった共通の友人にばかり話しかけるのなら、二人はとても気が合うのでしょう。だったら自分も、もっと気の合う友人を探せばいいわ。そこから離れて別の子に話しかけてもいいし、外なら景色を楽しむなり、学園内なら図書室に行って本を読んでもいいでしょう」

 お話の途中からいらっしゃったポールスランド伯爵夫人が、ゆったりとした優しい笑みを浮かべた。

「お母様のおっしゃることはわかりますが、そこから離れて別の子に話しかけるのは、その子達に変なふうに思われませんか?」
「そのように思う子達なら思わせておけば良いのです。自分の機嫌は自分でとることに慣れなさい。もやもやする人達の相手をする時間を、楽しい気分になる時間に変えることができるのは自分の行動だけですよ。ですが、もやもやした思いをしたことも良い経験ですけれどね」
「このような気持ちになることが良い経験なのですか? 少しも楽しくありませんわ」
「そのようなことを自分はしないように気をつけることができるし、人は必ずしも自分の思い通りの言動はしてくれないのだとわかったでしょう? 家の中だけにいたらわからなかったことですよ。ポールスランド学園は身分や家柄に関係なく伸び伸びと学ばせる校風です。だからエリザベッタもそのような経験ができました。王都のマッキントッシュ学園では身分がとても重んじられるので、また違った経験をしたことでしょうね」
「違った経験?」
「エリザベッタ様はおそらくとてもちやほやされたということですよ。ポールスランド伯爵家は筆頭伯爵家で、領地も広大でとても豊かです。しかもエリザベッタ様のお母様は、名門ウォルフェンデン侯爵家の唯一のご息女ですから、お兄様のコンスタンティン様はいずれウォルフェンデン侯爵もお継ぎになられるでしょう。それにアンドレアス王太子殿下のご学友です。マッキントッシュ学園でエリザベッタ様にさきほどのようなことをできるご令嬢はまずいないでしょうね」

 侍女達が口を揃えてそう言った。
 貴族の中では厳格に身分が分かれているのね。そして子供もそれに従って行動しないといけないわけね。
 私は雲の上の方達のお話をとても興味深く聞いていた。
 それからも女の友情論が続き、とても勉強になった。私だったら三人になったら三人で盛り上がれるお話をしたいし、仲間はずれに自分がするよりもされた方が気楽だと思う。今までだって家族の中では仲間はずれのようなものだったし、その頃だって木に登って気分転換をしたり、ポールスランド商店街のおばさん達とおしゃべりができた。
 ポールスランド伯爵夫人のおっしゃったように『自分の機嫌は自分でとる』ということは大事だな、と思ったのだった。


     ❀ ❀ ❀


 わたしはコンスタンティン・ポールスランド。
 ポールスランド伯爵家の長男で、王都にあるマッキントッシュ学園に通うため、七歳から十七歳までは王都のタウンハウスで過ごすことが多かった。
 少し長めの休みがある時だけ帰るわたしなのに、妹のエリザベッタはとても懐いてくれた。ポールスランド伯爵邸から学園に戻ったわたしに、たまに綴りを間違えながらも可愛い手紙をよく送ってくれたものだ。
 わたしは去年マッキントッシュ学園を卒業し、ポールスランド伯爵領に戻ってきて間もない。エリザベッタはマッキントッシュ学園に通わなくてはいけない年齢ではあったが、わたしと入れ違いに王都に行くのをためらった。

「エリザベッタは領地内のポールスランド学園にしばらく通えばいいさ。コンスタンティンが大好きな子だから、そばにいさせてあげよう。子供達の仲が良いことは素晴らしいことさ」

 エリザベッタに甘い父上はすぐに妥協案を出した。

「そうね。女の子ですし、無理に王都のマッキントッシュ学園に行かせなくてもいいでしょう。途中から編入させても良いですしね」

 代々ポールスランド伯爵領では教育に力を入れていたので、ポールスランド学園内の施設はマッキントッシュ学園に負けず劣らず充実していた。ポールスランド記念講堂は二千人を超える収容人数を誇るし、体育館に音楽室や美術室などには運動器具や楽器類、画材なども種類豊富に揃っている。だからエリザベッタがマッキントッシュ学園にわざわざ通わなくても、ポールスランド学園で充分な教養が身につくはずなのだ。

「嬉しいわ。だって私がマッキントッシュ学園に通うことになったら、お兄様とまた離ればなれになっちゃうもの。しばらくはポールスランド伯爵領でお兄様に甘えたいわ」

 エリザベッタは、はち切れんばかりの笑顔を見せた。
 そんなわけでエリザベッタは領地内のポールスランド学園に通っていた。わたしは妹をとても溺愛していた。


 ある日のこと、エリザベッタは午前中だけの授業を終えた帰り道で、猫が川で溺れかける場面に遭遇したらしい。自分が泳げないのも忘れて無謀にも川に飛び込み、自分も溺れそうになったところを一人の女性に助けられたという。

「なんて無茶なことをしたのだ? もしその女性に助けられなかったら、死んでいたかもしれないのだよ」

 濡れたワンピースのまま猫を抱きしめて帰ってきたエリザベッタを、わたしは叱りながらもタオルで拭いた。専属侍女達の説明に平常心を失いかけるほど動揺したのだ。その女性が通りかからなかったらエリザベッタは死んでいたかもしれない……想像するだけで、恐怖で胸が押しつぶされそうだ。

「すぐに入浴の準備をして、エリザベッタの身体を温めてほしい。まったく外出中の母上や父上が聞いたら卒倒するよ」
「申し訳ございません! 私共が目を離した隙にあっという間に飛び込んでしまわれて。私達がお助けしなければいけないのに、流れが速い川でしたから、とても飛び込めなくて」
「いいや、お前達を責めてはいないよ。無謀なエリザベッタに怒っていたのさ。その助けてくれた女性のことを詳しく教えておくれ。お礼を言いに行きたい。大事な妹の命の恩人だからね」

 エリザベッタの専属侍女達からその女性のことを詳細に聞き出して、すぐさまラファッシニに向かった。店員はずぶ濡れの女性がお目当ての菓子を買えず、うなだれて帰っていったと教えてくれた。

「倍の金を出すからそれを今から焼いてくれないか? わたしはコンスタンティン・ポールスランドで、ポールスランド伯爵家の長男だ。その女性は妹の命の恩人なのだよ」
「……かしこまりました。すぐに焼きます!」
「我が儘を言ってすまないね」

 この店は王都にもある一番人気菓子店の支店で、ポールスランド伯爵領の民にも気軽に食べてほしくて、わたしが本店オーナーに持ちかけて出店してもらった経緯があった。王都にまで出向くことなく食べられる都会の味に、伯爵領近辺の領地からも買い求めに来る客は多かった。
 探すべき少女の名前はグレイス・フラメル。
 ポールスランド伯爵領の商店街まで、毎日のように買い物に来ているという情報は商店街の店主達から聞き出した。住まいは隣のフィントン男爵領とわかり、道行く人に聞きながらも彼女の家を探す。
 やがて、一人で街頭の下に佇んでいる女性を偶然見つけた。

「ちょっと、そこの君! グレイス・フラメル嬢の家を知っていたら教えてほしい」
「グレイス・フラメル……それは私ですけれど、どのようなご用件でしょうか?」

 声をかけると偶然にも当人に出会えた。運が良い。
 事情を説明し、彼女が探し求めていた菓子を手渡す。
 ところが、てっきり喜んでくれると思ったのに、あまり嬉しそうではない。

「……ありがとうございます。でも、もう必要なくなりました」

 俯きながら小さな声でそう言った。

「グレイス嬢、よく顔を見せてごらん。……頬が腫れているよ。エリザベッタの命の恩人を殴った奴は誰だい?」
「……殴られてはいません。ただ自分で転んだだけですから」

 頬だけ怪我をするように転ぶなんてできるわけがないと思う。
 家まで送ると言ったが彼女は戻りたくないと言った。
 彼女の様子を見てわたしは伯爵家へ誘う。
 ここに置き去りにはできないし、頬の赤みが気になって放っておけない。
 彼女に手を差し出し馬車に乗せようとすると、アカギレの目立つ指に驚いた。

「ごめんなさい。私の手が汚かったですか?」

 汚いなんて思うはずがない。必死に働く者の手をバカにする者がいるとしたら、その者こそが愚か者だ。
 後で香油をあげると言うと、当たり前のことをしただけだからそんな貴重な物はもらえない、と言った。心のまっすぐな優しい子だと思う。
 妹の話し相手としても良い人材だ。きっと両親も歓迎してくれるはず。
 馬車に乗せてまもなくすると、彼女はうとうとと眠りに落ちたけれど、わたしはその小さな呟きに心を締め付けられ、思わず彼女の髪を撫でた。

「……これが夢なら……どうか覚めないで」

 彼女はそう言ったのだ。とても切ない悲しげな口調で。

「夢じゃないさ。君の目が覚めてもわたしはここにいるよ」

 まるで愛の告白みたいな言葉を、わたしはこの初めて会った少女に囁いていた。

「素敵な声、この声すっごく好き……」

 ポールスランド伯爵邸に着き、わたしが起こそうと声をかけると、寝ぼけながらもわたしの方に手を伸ばしてきた。

「お願い。起こさないで……まだ夢から覚めたくないの」

 わたしはそう呟いたグレイス嬢を甘やかすことにした。
 わたしが抱き上げると驚きのあまりすっかり目が覚めてしまったようだが、構わずそのままポールスランド伯爵邸に移動した。

「わたしの声が好きと言ってくれてありがとう。褒めてくれたから、もう少し寝ていてもいいよ。このままポールスランド伯爵邸に運んであげよう」
「……嘘……ここはポールスランド伯爵邸なのですか?」
「そうだよ。わたしはポールスランド伯爵家の長男、コンスタンティンだ。よろしくね。ちなみに年齢はまだ十八歳だけれど、いつももっと年上に間違われるよ」

 グレイス嬢はポールスランド伯爵邸の外観の壮麗さにまず驚き、豪華絢爛な内装にも目を見張った。私の腕の中で落ち着かない様子であたりをしきりに見回しているのが可愛い。

「ポールスランド伯爵邸は中庭を中央において、ぐるりと部屋がある構造になっているのさ。正面の庭と中庭には大きな噴水もあるし、ふかふかのソファを置いた広めのガゼボもあるから後で案内してあげよう。壁側に掛かっている肖像画は歴代のポールスランド伯爵夫人だよ」

 わたしが説明しながら歩いていくと、廊下の遙か先からパタパタと足音をさせてエリザベッタが走ってくるのが見えた。

「お帰りなさいませ、お兄様! あなたは今日、私を助けてくださったお姉様ですね? あの時は助けてくださってありがとう! 私はエリザベッタです。え……? 頬が……赤くなっていますよ……唇には血の痕もあるわ」

 その後、エリザベッタがグレイス嬢の足の怪我に気がつき、幼い頃によく侍女達に言われた言葉をかけていた。
 ただそれだけのことなのに涙を流すグレイス嬢は、優しくされることに慣れていないようだった。


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