初恋ノスタルジア

ichigo/小日向江麻

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1巻

1-2

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 核心をついたのは、お洒落しゃれなベビーピンクのツナギ。部活の出席率ナンバーワンの長澤葉月ながさわはづきだ。小柄で小動物系の顔立ちには、ゆらゆらと揺れる栗色のツインテールがよく似合っている。
 成陵高校は私立の進学校にしては校則が緩いことでも有名で、制服こそあれど、髪色やピアス、メイクに関しては寛大だ。
 のびのびとした自由な校風のなかで、勉学に励む――みたいな文句が、小難しい文言で生徒手帳に書かれていた気がする。

「正解。よく分かったね、葉月」
「あはは、だって梓センセが怒ってるときって、大抵は山内センセとめたときじゃないですかー」

 何も難しい問題ではない、と葉月がにこやかに答えた。

「あの男ったらね、いちいちムカつくこと言ってくれちゃって。もう話になんないんだから!」
「今回は何が原因だったんですか?」

 扉を閉めつつ、会議中にため込んでいたストレスを晴らしていると、ネイビーのツナギ――黒髪のショートカットに紫のフレームの眼鏡が印象的な小泉真由こいずみまゆが控えめに尋ねた。
 幽霊部員が多い美術部だけど、真由と葉月の二人だけは熱心に活動している。彼女たちのおかげで存続しているといってもオーバーではないくらい。

「……前にもちょっと話したことがあったでしょ。新授業改革案の件で」
「あー、実技の単位を減らして、その分英数国に回すってヤツですか?」

 職員会議で上った議題をむやみに生徒に伝えるのがよくないのは承知している。
 でも、単位数の変更は生徒にとっても重要な問題。当の生徒の意見を聞いてみたくなり、頻繁に美術室へ出入りしている彼女たちには話したことがある。
 ……いや、一方的に愚痴ぐちを聞いてもらったというほうがより正確かもしれない。もっぱら、山内への不満を吐き出しているだけ、というか。

「そう。やっぱりあなた達としても、そのほうが助かるって思うの?」
「んー……どうでしょうね。私たちは、ほら、美大に進学するつもりですから。実技の時間が減るのは困るんですけど」
「他の子たちの場合、進路に関係ないといえばないですからねぇ……」

 二人は顔を見合わせてから、交互に首をかしげた。

「……そうか。そうよね」

 ほとんどの高校がそうであるように、芸術の授業は選択制。一年から二年の間は、美術、音楽、工芸、書道から好きなものを選び、学ぶことになる。
 当然、美大に行きたい者は美術や工芸、音大に行きたい者は音楽を選ぶことになるけれど、進学校の成陵で芸術分野の進路を選択する者は極端に少ない。
 そういう生徒はどれを選んでも差し支えない上、さっきの山内の理論で言えば、芸術の授業が減ろうが減るまいが関係ない。それならいっそ減らしてしまえば、その分を他の授業に回して、学力を高めることができるんじゃないか、と。

「でも、いくら合格率を上げるためとはいえ、実技の単位を削って主要科目に回すなんて……そんなの絶対におかしいじゃない!」

 それじゃまるで、実技科目は必要ないみたいに聞こえてしまう。

『情操教育に熱心なのもいいですが、成陵はやはり名門進学校ですからね。その品位を汚さないようにしてください』

 新授業改革案のことを思い返していると……山内の当てつけがましい一言も思い出して、それがまた私の怒りをあおった。
 情操教育に熱心で何が悪いわけ? それが私の仕事なんだから当たり前でしょうが!

「まあまあセンセ。そんなにカッカしないで」
「そーですよ。美人な顔が台無しですよ~?」

 鼻息の荒い私をなだめる二人。
 私の傾向として、激しやすい割に平静に戻るのに時間がかからないことを熟知している彼女たちは、子供をあやすみたいに微笑ほほえみかけてくる。

「もう、大人をからかわないの」
「そんなんじゃないですよー。綺麗な黒髪ロングは美人の条件でしょう。モナ・リザだってそうだし」
「……も、モナ・リザ?」

 あのアルカイック・スマイルを思い浮かべながら、自分の髪をでてみる。
 指摘されたとおり、センターパートの前髪に、胸の下まで伸ばした黒いロングヘア。重たく見えないように毛先にはレイヤーを入れている。
 私が人並み以上に気を遣い、かつ評価されているパーツだと言っていいと思う。昔から、髪は綺麗だとめられていたから。
 ……でも、モナ・リザとは。
 葉月はちょっと他人とずれている部分がある、いわゆる『天然』な子だ。
 本人としては褒めたつもりなのだろうけど、いまいち嬉しくない。

「葉月ちゃん、その例えはビミョーじゃない?」

 言葉を詰まらせる私を見て、真由がフォローをしてくれた。

「モナ・リザは置いておくとして……でも、黙っていれば大和やまと撫子なでしこ風で可愛いのにーってウチの担任も言ってましたよ」
「……黙っていればって、そう言ってたのね?」
「あっ」

 苦笑しながら尋ねると、嘘をつけない性格の真由は「しまった」と口元を手で押さえた。
 三年生の真由の担任が誰だかは忘れてしまったが、会議のたびに山内とぶつかってるせいか、おおよそ他の職員からは生意気だとか面倒な女だとでも思われているんだろう。
 それでも構わない。
 実技科の先生方は皆、私と同じように新授業改革案に反対しているのだけれど、先ほどのような会議の場で意見を述べることができる先生はほぼいないと言っていい。
 なぜなら、不思議と実技科には新任だったり経験が浅い、立場の弱い先生が多いからだ。
 さらに言えば、教師の人数は実技科に比べれば主要五科のほうがはるかに多い。
 数のせいで負けるなんてことがないように、在任七年目の私がしっかりと意見を言っておかなければ。

「黙っていれば、といえばですよ」

 真由が作ったを埋めたのは葉月だ。

「山内センセも見た目はいいセンいってると思うなぁ」

 想像の中で彼の姿を描いているのか、彼女は天井を見上げるようにして言った。

「あの人が?」
「はい。山内センセ、まだ結構若いじゃないですかぁ」
「……歳はね。私と同い歳だから」

 私も彼も、今年で二十九歳。
 まだ若い……と言ってもらえる範疇はんちゅうであると信じたい。
 世間一般の学校ならまず間違いなくそうだと思うけど、この成陵高校は校長の意向で、私たちより若い先生方も多く勤めている。
 年齢が近いためか、葉月や真由のようにファーストネームで呼んでくれる生徒もいて、こんな風にフランクな会話ができるから、個人的には堅苦しくなくて楽だ。

「でもそんなこと言うなんて、葉月も趣味が悪いなぁ」
「えー、ルックスも苦手ですか?」
「うーん……」

 葉月を真似て、上を仰いだ。
 白状すると、苦手……ではない。
 私はふくよかな男性があまり好きではない。美大時代の男友達は栄養失調かと心配になるくらい、こぞってヒョロリとしていたので、それが影響しているのかもしれない。
 山内はどちらかといえば痩せ形で、身長は一七〇センチ前半。まあ普通だ。
 ややこけ気味とも言える頬で、鼻梁びりょうは高く、目尻のほうが幅広の奥二重おくぶたえ双眸そうぼうには強い意志が宿っているように感じられる。エネルギッシュなクリエイターに通じる雰囲気があり、そんな顔立ちは嫌いじゃない。
 ……が、あくまでそれは顔の印象に限定した話。
 それを帳消しにする性格の悪さを知っているために、すんなり認める気にはなれないのだ。

「授業もめちゃくちゃ評判なんですよぉ。特に、三年の選択授業」
「あぁー、『数学C』でしょ? うちのクラスでも抽選にれた子、いっぱいいました」

 二人がうんうんとうなずいて言う。
 この成陵高校一番のウリは、三年次の特別な授業形態にある。
 一年次、二年次のうちは文系・理系のすべての教科を履修することが基本だ。
 たとえば私大の文系学部を目指すことが早々に決まっていても、数学AB・ⅠⅡ、生物ⅠⅡ、化学ⅠⅡ、地学Ⅰ、物理Ⅰ……など、一通り履修しなければならない。
 ところが三年次になると、開講される様々な授業を自分の受験科目と照らし合わせ、好きに履修することが可能となる。一年早く大学の授業を体験できると言えばわかりやすいかもしれない。
 三年は勝負の年。どの教師の講座をとるかで運命が変わると言っても過言ではないので、一つの講座に生徒の人気が集中することも珍しくない。
 そういう講座では三十名なら三十名と定員を決め、抽選で受講者を決める。山内もそんな人気教師のうちの一人なのだ。

「センター試験を受けたセンパイが、山内センセの作った予想問題が役に立ったって言ってましたから、今年の倍率は余計に増したんじゃないですかね」
「ふうん、そう」

 自ずと返事のトーンが低くなる。複雑な気分だ。
 山内は生徒たちに求められている。
 成陵の生徒が重要視しているのは、受験に直結した授業をしてくれるかのみだと言われている気がして……面白くない。

「山内センセは講義もいいけど、質問しに行くともっといいなって思いますよ」

 山内の薄笑いを頭の中から追い払っていると、葉月が言った。

「葉月ちゃん、質問しに行ったりとかするの? 偉いね」

 確かに。休み時間に質問に行くタイプには見えない――と言ったら悪いかもしれないけど、真由の意見に賛成だ。

「あはは……えっと、一回だけ赤点取っちゃったからね」

 葉月は恥ずかしそうに舌を出しつつ「でも」と続けた。

「講義が厳しいからビクビクしながら行ったんだけど、一対一だと意外と優しいんだなって思ったよ。こっちが納得するまで丁寧に教えてくれるし――」

 葉月の話を聞きながら、私の意識は記憶のアルバムの中の一ページにトリップしていた。

『分数のわり算って、よくわかんないんだもん。むずかしいよ』
『しかたないなー、まず、このばあいは……』

 テーブルの上には、B5サイズのテキストと、幅広の罫線が入ったノート。
 頭と頭がくっつきそうな距離で、私にわかるよう一生懸命に途中式を走らせている男の子の姿が、おぼろげに浮かび上がる。

『すごーい。できた』
『な、カンタンだろ?』

 手品でも見たように手を叩く私を見て、彼は得意気に鼻をこすりながら満面の笑みを見せる。
 私の大好きな笑顔を。

「……そういうところは、変わってないんだなぁ」
「何の話ですか?」

 真由が首をかしげた。葉月も不思議そうに私を見ている。

「ううん」

 無意識に余計なことを口走っていたみたいだ。
 居心地の悪さを振り払うように備え付けの時計に視線を滑らせる。

「そうだ、もうすぐ実力テストでしょう。部活もいいけど、テストも頑張ってよね。受験生の邪魔してるなんて言われちゃ、さすがに私もヘコんじゃう」

 つい先ほど、そんなプリントをもらったばかりだった。
 彼女たちは三年生なのだから、もういい加減、受験勉強にも力を入れなければならない時期だ。

「えぇ、もうですか?」
「これからノッてくるとこだったのにー」

 二人とも、眉をハの字にしながら不満げに言った。
 顔を合わせて作業するためなのか、キャンバス同士は背を向けるように置かれていた。多分、サイズはいずれも十五号。
 持って帰るのは大変だから、学校で描くことにしているのだろう。

「気持ちはわかるけど、あとで泣くのはあなた達なんだから。……全く、三年まで部活を続けるなんてよっぽどの物好きよ」

 挙げ句、彼女たちは夏まで続けるつもりだと言う。美大志望とはいえ、ご苦労なことだ。
 私だって本当は好きなように描かせてあげたい。私も、受験期には机でなくキャンバスに向かっていたから、なおさら。
 だけど、私にも立場ってものがある。この学校の教師である以上はちゃんと勉強もするように促さないといけない。

「はーい。じゃ、そろそろ片付けようか、葉月ちゃん」
「うん、そうだね」

 それは二人も理解してくれているらしい。
 聞きわけのいい返事をすると、彼女たちはイーゼルを畳んだり、絵筆をクリーナーに潜らせたりして、帰宅の準備を始めた。


 絵の具や油で汚れたツナギから制服姿に戻った二人を送り出し、一人きりになった美術室の中。
 石膏像や画集などが積まれた教卓の椅子に腰掛けると、ふうっと息を吐いた。

「……そういうところは変わってないんだなぁ」

 そして、何気なく。さきほど口走ってしまったフレーズを繰り返した。
 葉月たちにごまかしてしまったのは、知られたくなかったからじゃない。
 ……私にだってまだ信じられない。いや、信じたくないのだ。
 ゆっくりとまぶたを伏せ、引き寄せたのは形のないアルバム。
 開いたままだったそのページにもう一度思いをせる。

『あずさは本当に算数がニガテだな』
『分数のわり算って、よくわかんないんだもん。むずかしいよ』
『しかたないなー、まず、このばあいは……』
『すごーい。できた』
『な、カンタンだろ?』
『ありがとう、こうちゃん。こうちゃんは、おしえるのがじょうずだね』

 私の初恋の人――こうちゃん。
 同じクラスの誰よりも頭が良くて、正義感があって、面倒見がよくて。
 自慢の幼なじみだった彼を、生まれて初めて異性として好きになった。
 あの頃は本当に楽しかった。
 こうちゃんと一緒に見るもの、触れるもののすべてが、太陽の光に透けたみず飛沫しぶきみたいにキラキラしてて、まぶしかった。
 だけどその想いを伝える機会もないままに、彼はいつしか別人のようになってしまっていた。
 こうちゃんのフルネームは、山内孝佑こうすけ
 ――あの数学科の山内こそ、私の大好きなこうちゃん、その人だったのだ。



   2


 その職員会議から数日後――

「へぇ、じゃあ月島先生と千葉ちば先生は小学校からのお友達だったんですね」

 場所は、成陵高校近くの繁華街にある、洋風居酒屋の個室。
 個室といっても座席は四人掛けのテーブルの端を繋ぎ合わせただけで、席の切れ目ごとにそれとなく会話も分散している状態だった。
 私は正面に座る彼女たちを見比べると、周囲の笑い声にき消されないよう、少し声を張って驚いてみせた。

「そうなんです。教師としては、月島先生よりも一年出遅れてしまったんですけど」

 恥ずかしそうな笑みを浮かべながら答えたのは、私から見て斜向はすむかいに座る千葉先生。
 今年、成陵に着任したばかりの新しい先生で、担当は家庭科だ。
 茶髪のスパイラルパーマがよく似合い、華やかで凛とした彼女は、いい意味で家庭的なイメージからはかけ離れている。グラスの中身を飲み干す白い喉までもがまぶしく、美しい。
 今夜は、この千葉先生をはじめとした新しい職員方の歓迎会なのだ。

「で、でも千葉先生、全校生徒への挨拶も堂々としてたし、すごいなぁって思った。……私なんか最初の挨拶は緊張して、声が震えちゃったもの」

 アルコールに弱いのか、頬を赤く染めながら真正面で左胸に手を当てているのが月島先生。昨年、この成陵にやってきた音楽科の教師だ。
 黒髪で丸みのあるボブが童顔を引き立たせている彼女は、千葉先生とは逆に、おとなしくて守ってあげたくなる雰囲気がある。
 職員室のデスクが隣なので、ランチが一緒になったときはよく話す。

「でも、長い付き合いの幼なじみと同じ職場だなんて、面白いのね」
「はい。学生時代に戻ったみたいだよねって話してたところです」
「うん、ねぇ。こういうパターンって、めったにないでしょうから」

 私は焼酎のグレープフルーツ割りを片手にうなずきながら、横目で肩を並べる人物を見た。
 ソイツは聞いているのかいないのか、素知らぬ顔でビールをあおっている。
 ……ここにも一組います、なんて言ったら驚かれるだろうな。
 いつもは、こういう場では他の教師が気を利かせ、『混ぜるな、危険』とばかりに私と山内を離してくれる。それも、お互いの顔が見えない位置にしてくれるという徹底ぶり。
 本当はそこまで緊迫した関係じゃないけど、周囲はそういう目で見ているということだろう。
 普段ならばもっと距離を空けてもらえるはずが、タイミングの問題なのか、はたまた何かの手違いなのか、まさかの隣同士。ありえない席順となってしまった。
 できることなら入店まで時間を巻き戻したいと思ったけど、所詮しょせんは後の祭り。おめでたい席だし、今は極力、空気が悪くならないように努めるだけだ。
 去年一年間、私と山内の仲の悪さを嫌というほど見てきたであろう月島先生もこの空間に緊迫感を感じているらしく、私と山内を見る目が明らかにおびえている。
 新任の千葉先生がいるにもかかわらず、あえて仕事の話はしないように気遣ってもくれて――職員会議での応酬を無駄に繰り返すことがないように、だ。
 窮屈きゅうくつな思いをさせてしまって、彼女には申し訳ない。

「そういえば、山内先生って美園みその高校のご出身だったんでしたっけ?」

 そんななか、千葉先生だけは物怖じしない軽快な話しぶりだった。 

「はい」

 山内がジョッキを置きながらうなずく。

「美園って、成陵に負けず劣らずの名門校じゃないですか。すごい、尊敬しちゃいますね」
「ありがとうございます。でも、それほどでもないですよ」

 暗黙の了解で、私が会話に参加しているときは山内が貝になる。今は山内が話しているので逆のパターン。
 山内のヤツ、私には嫌味でネチネチした反応しかできないくせして、他の職員とは至って平和に会話を成立させている。相手が大学を出たばかりの若くて綺麗な女性だと、余計にそうなんだろう。
 私には見せない微笑――もちろん、善意のって意味で――なんかを見せたりするあたり、私って相当嫌われているんだな。
 ふん、余裕ぶった謙遜なんかしてるけど、こっちは知ってるんだから。
 その高校に入るため、睡眠時間を三時間まで減らして勉強してたこと、内申点を上げるために、苦手だった音楽や美術の授業も必死に頑張ってたことも。
 特に、写生会のときは私の絵を参考にしたいからって、わざわざ男の子のグループから抜けて一緒に描いたこともあった。
 ……そんなの、口が裂けても言わないけど。

「そういえば来月からモネの美術展が始まりますね。結城先生もやっぱり行かれるんですか?」

 山内のことは千葉先生に任せたとばかりに、月島先生が私に話しかけてくれる。

「そのつもりです」

 私は頷きながら言った。

「そうですか。私もまた、会期中に一度は行きたいなって思ってるんですよ」

「また」と言うあたり、過去のモネ展に足を運んだりしているのだろう。
 彼女も芸術科の教師なだけあって、音楽だけにとどまらず絵画の世界にも興味があるらしい。

「結城先生は、モネに憧れて絵を描かれるようになったんでしたっけ」
「ええ。覚えててくれたのね」

 以前、何かの折にその話をしたことがあった。
 あれほど強烈な感覚におちいった経験はなかったなぁ――と、当時を振り返る。
 太陽が照りつける夏の暑い日。初めての課外授業で訪れた美術館の中は、午前ということもあり人もまばらで、空調もよく効いていた。涼しい風が汗ばんだ肌を包み込み、火照ほてった身体を優しく冷やしてくれる。
 催しは『印象派の画家展』というようなものだったと記憶している。その展示の一角で、私は運命の出会いをした。
 まだ小学一年生だった私には、難しいことはわからないし、専門的な知識もなかったけど、その色遣いが、存在感が、私の思考のすべてを奪っていったのだ。
 彼の名前はクロード・モネ。フランスの画家だ。私は、一目で彼の作品のとりこになってしまった。
 特にきつけられたのは、名作『日傘を差す女』。
 そして――

『それじゃあ、わたし、「がか」になる』
『なれるよ、ぜったい』
『ほんと?』
『うん。ぼく、あずさの絵、すきだよ』

 物心ついた頃から一緒だったこうちゃんに、何故かドキドキしたあの一瞬。
 心から後押ししてくれた彼に、特別な想いが芽生え始めたのだ。


 こうちゃんへ恋心を抱くようになっても私たちは変わらず仲よしで、女の子の友達からの誘いを断って彼と遊ぶことも多かった。
 小学校から帰ると、ランドセルのままどちらかの家に上がり込み、宿題をしたり、ゲームをしたり、おやつを食べたりして日暮れまで過ごす。

「あずさは本当に算数がニガテだな」
「分数のわり算って、よくわかんないんだもん。むずかしいよ」
「しかたないなー、まず、このばあいは……」

 私はこうちゃんとは真逆。勉強がからきしできなかったから、一番苦手だった算数を中心によく教えてもらったっけ。
「しかたない」と口では言いながらも、私が納得するまで根気よく付き合ってくれた。

「すごーい。できた」
「な、カンタンだろ?」
「ありがとう、こうちゃん。こうちゃんは、おしえるのがじょうずだね」

 こうちゃんは物事を理論立てて説明するのがとてもうまかった。
 葉月や真由が口にしていたとおり、成陵高校の数学科の中でも授業の人気が抜群に高い彼は、当時からその才能を遺憾なく発揮していたと言える。私は、この頃から教師に向いているんじゃないかと思っていた。
 彼のもう一つのすごいところは、飽くなき探究心だ。

「あずさが好きだって言ってたから、モネについてべんきょうしてみたんだ。そしたら、おもしろいことがわかったよ」


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