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1巻
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お父さんがプログラマーだったこともあり、コンピュータの類をいじるのが好きだったこうちゃんは、当時まだそれほど普及していなかったインターネットを扱うのも大得意だった。
私が新しい趣味や興味の対象を見つけるたびに、彼も一緒になって調べてくれる。このときもそうだった。
「えっ、なぁに?」
「あずさが気に入ってた絵、あったろ。あの、おんなの人がカサをさしてるやつ」
「うん」
こうちゃんは得意げに人差し指を立てた。
「『ひがさをさすおんな』っていうんだけど、あの絵、じつは三まいあるんだ」
「三まいも?」
「どれもにてるんだけど、ほかの二まいはモデルがちがうんだ。おいてあるばしょもべつのところみたいだよ」
「どこどこ? みにいきたい!」
「えーっと、フランスのびじゅつかんだって。……うーん、いくのは、むずかしいな」
「えー!」
先日は学校の課外授業で見ることができたのだし、まさか海外とは予想もしていなかった。
そんなに遠く離れたところへ見には行けない。
「フランスかぁ……とおいんだね。ざんねん」
昔からすぐ顔に出ると言われていた私のことだ、よほどガッカリした顔で落ち込んでいたのだろう。
「じゃあさ」
そんな私を見たこうちゃんが言った。
「いまはダメでも、おおきくなったら、いっしょにみにいこう。フランスに」
「こうちゃんといっしょに?」
「うん。ぼくがあずさをつれていってあげる」
「……うん!」
思えばこんな小さな頃から、こうちゃんは頼もしかったんだなぁ。
私のために背伸びをしてそう言ってくれたこと――今でも思い出すと顔が綻んでしまう。
中学生になると、クラスが離れてしまったことや、お互い部活に入ったことなどで、話す機会はやや減った。
私は美術部、孝ちゃんがコンピュータ部。文化系の部活だし厳しいというほどのものではなかったけれど、この頃になると異性と付き合い始めるクラスメイトが出てくる。
男子と女子とがあまり表だって仲よくしていると、冷やかしの対象になってしまいがちで、私と孝ちゃんもその典型だった。
「結城さんって、隣のクラスの山内くんと付き合ってるってホント?」
「え?」
尋ねてきたのは、同じクラスで噂話の好きな女子。
私の想いを見透かされたみたいでドキッとした。
孝ちゃんを好きなのは本当だ。
でも、ずっと心の中に秘めていたことだし、孝ちゃんが私をどう思っているかなんて知らない。
意気地なしの私は、幼なじみという関係を壊したくなくて、ただの一度も自分の想いを彼に告げたことがなかったから。
「違うの? たまに一緒に帰ったりしてるじゃん」
「そ、それは……家が近いから」
「それだけ?」
「う、うん」
「なぁんだ、そうなの」
答える前は嬉々とした表情を浮かべていた彼女が、興味が失せた様子でふん、と鼻を鳴らす。
思春期なのだから別段珍しい会話ではなかったのかもしれないけど、周囲が私たちの関係に関心を持っていることを知って、心にさざ波が立った。
孝ちゃんと仲良くしていたらいけないんだろうか、とか。
変な噂がたったらどうしよう、とか。
そういうことが続いたら嫌われてしまうんじゃないか、とか。
だから――
「梓」
美術室の窓から見える空の色が、オレンジから薄青に溶けていく時間帯。
キャンバス上の林檎にカーマインを重ねていると、前方にある開けっ放しの扉の外から私を呼ぶ声がする。
描きかけの静物画から視線を外し、その声の主を探した。
「孝ちゃん」
木の椅子から立ち上がると、まずは周りを見渡した。室内に誰もいないことを確認してから扉まで歩いていく。
部員が少なくて気分次第で出欠を決めることができる自由な部活だったこともあり、その日は私を除いて皆帰宅していたのを知っていた。
でも、例の女子生徒に言われたことが、魚の小骨のように脳裏から離れない。
「どうしたの、部活は?」
「今日はもう終わった。梓は? 他に誰もいないみたいだけど」
言いながら、孝ちゃんは室内を覗いた。
授業で制作中らしい手の石膏や篆刻などが、棚やロッカーの上にずらりと並んでいるけれど、人影は私のそれ一つだ。
「今日は皆、先に帰っちゃったんだ」
「そうなんだ。……母親がさ、梓を、たまには夕飯に呼んだらって言ってたんだけど、どうかな?」
「佐津紀さんが?」
佐津紀さんというのは孝ちゃんのお母さん。
『孝ちゃんのおばさん』と呼ばれるのが嫌みたいで、名前で呼んでと言われて、そうしていた。
朗らかな優しい人で、いつもニコニコと笑っている愛想のいい女性だ。
私のことを娘のように可愛がってくれたな。「梓ちゃんみたいな女の子が欲しかったわ」というのが口癖なくらいに。
「んー……」
本当なら、二つ返事で遊びに行きたかった。
中学に入ってからゆっくり会う機会もなく、勉強のこと、クラスのこと、今描いてる絵のこと――話したいことはたくさんあった。
でも、下校途中、二人でいるところを誰かに見られたら、また何か言われるんじゃないか。
そうしたら孝ちゃんが私を煙たがるようになるんじゃないか。
思いこみにも近い余計な心配が頭をチラついて、私は首を横に振っていた。
「ごめん、もうちょっとあれを進めておきたいんだ」
あれ、と指差したのは、ついさっきまで向かい合っていたキャンバス。
「そう。じゃあ少し遅くなっても構わないよ。それなら大丈夫だろ?」
孝ちゃんは、「へぇ」という顔をしながら、扉の境界から足を踏み入れると、キャンバスのほうまで歩いていく。
「うーん……ごめんね、やっぱりやめておく」
私は、彼に身体を向けつつも、視線は逸らしていた。
「そっか……ん、わかった。仕方ないよな」
残念そうにしながら、描きかけのキャンバスを覗き込む孝ちゃん。
「――今は何を描いてるんだ?」
「林檎。ほら、前に話したでしょ」
キャンバスから手を伸ばせば届く距離。古びた木の机を指し示して言った。
籐の籠の中に、様々な品種の林檎が収まっている。
私たち美術部は、ある財団法人主催の展覧会に出品することになっていて、私はその作品を仕上げている最中だった。
何を描こうか迷ってしまい、題材が決まらなかったのだけど……よく図書室で眺めていたモネの画集から、赤と青、二色の林檎を描いた『林檎の入った籠』を見つけ、林檎なら手ごろでオーソドックスなモチーフだし、彼への敬愛の意味も込めて同じ題材にしてみようと決めた。
光の画家というだけあり、自然光を追究した風景画が多い彼には珍しい静物画。その存在を知り、一番の話し相手だった孝ちゃんに話さずにいられなかった。
「モネと同じモチーフにしたって言ってたヤツか」
「うん」
「画材は?」
「アクリル。今回は、あんまり時間がないからね」
モネのような画家を目指していた私はとりわけ油彩に強い関心を持っていて、少ないお小遣いで少しずつ油絵の画材を揃えていた。
油絵の具と違い、水で溶くアクリルガッシュは乾くのも速く、重ね方によっては油絵にも似た風合いを出すことができる。
とはいえ、どうしても油絵ほど重厚な質感は出せないからちょっと物足りない気もした――仕方ないか。描き始めが遅くなってしまったんだから。
「頑張れよ。梓の絵ならきっといいところまでいくって」
「……そうかな」
「ああ。僕は梓の絵が好きだって、ずっと言ってるだろ」
一瞬、時が戻ったのかと錯覚するくらい。
小学生の時と変わらない笑顔で、孝ちゃんが微笑んでくれた。
……変わらない。
私たちの関係は変わらないのに、知らず知らずのうちに周りだけが変わっていく。
――大人になっていく。
中学を卒業すると、秀才だった孝ちゃんは私立の進学校である美園高校へ。相変わらず勉強が苦手だった私は、偏差値が中の下くらいの公立高校へと進学した。
この頃になると、私と孝ちゃんはめったに顔を合わせなくなっていた。
学校が別々になり生活圏が離れたこともあるし、お互いに同性の友人と付き合う機会も増えたから。
けれど本当のところは、孝ちゃんを避けているのを悟られてしまったからではないかと思う。
もちろん、孝ちゃんが嫌いになったからではない。好きだからこそ、彼との距離のとり方がわからなくなってしまったのだ。
登下校のとき、人ごみの中に孝ちゃんの姿を見かけることがあったけど、美園の制服を着ている孝ちゃんは私の知らない男の子のように見えた。
身長も、肩幅も、顔立ちも、手のひらも。
毎日会ってるときは気づかなかったけれど、少しずつ大人の男性になっている。そんな彼と、私の中の孝ちゃんがうまくリンクしてくれない。
だから、駅や近所で孝ちゃんを見つけることがあっても、私からは声をかけることはなかった。
そんな折だった――父親から急な転勤を告げられたのは。
住み慣れた都会から田舎へ引っ越さなければいけなくなったわが家。高校も転校せざるを得なくなり、孝ちゃんとも離れ離れになってしまう。
いっそ、これを機に孝ちゃんに告白をしようかとも考えた。
でも、妙にギクシャクしている当時の状態では踏み切れなかったし、いなくなってしまう私から想いを告げられたら、逆に迷惑かもしれないとも思えて。
結局、孝ちゃんには引っ越すことすら伝えられずに――
「……結城先生?」
孝ちゃんと共に成長してきた学生時代。その場面場面が、映画のフィルムみたいに頭の中で再生されていた。
月島先生の声で我に返った私は目を瞠る。
「どうかしましたか?」
「……いえ、何でもないの。少し酔ったかな」
「絵画もいいですよね。高尚な趣味って感じで憧れますよ」
私が少しおどけて言うと、それまで山内と話していた千葉先生がこちらの話題へ加わってきた。
「山内先生は絵画とか興味あります?」
そしてそこに、山内をも加えようとする。
私は悪いことでもしているみたいに身体を硬くしながら、耳をそばだてた。
彼は首を捻ったりしながら、
「……さあ。僕はそういうのに滅法疎くて。さっぱりです」
嘘つき、と内心で毒づいた。
モネはもちろん、印象派と呼ばれる画家……例えば、マネやセザンヌ、ゴッホ、ルノワールなんかの有名どころの作品については、得意のパソコンで調べてもらったりもしたし、特別展が開かれる際は一緒に美術館へ見に行ったりしたこともあった。
孝ちゃんは作品そのものを楽しむというより、画家のバックグラウンドに興味があるように見えた。
なかでも特に関心を寄せていたのはゴッホで、「あれくらい常軌を逸しているからこそ、芸術家でいられるのかもな」みたいなことを言っていた。同時に「梓はそんな風にならないでくれよ」と念を押されたりもしていたな……まぁ、自分の耳を切ったりする人と一緒にされても困るわけですけど。
画材についても私が使っていたものは一通り把握しているはず。
水彩、油彩、間をとったアクリル、ちょっとマニアックな岩絵の具――よく使うメーカーや欲しい色など、もっぱら私の話相手をしてくれていた彼は、嫌でも覚えているに違いない。
つまり、何が言いたいのかというと、嗜む機会がない人に比べれば間違いなく詳しいはずなのだ。それなのに、山内は「知らない」「わからない」「興味がない」というスタンスを崩さない――それは会議でも同様。
実際のところ、本当に興味がなかったのかもしれない。それでも、仲が良かった頃は上辺だけでも楽しんでくれていたと思っていたのに。
間接的なやりとりなのに、山内から突き放された感じがした。
わかってますよ。きっとそんな日々もなかったことにしたいんだね、そっちは。
私たちの関係を知る人がこの場にいないのは、彼にとって都合がいいんだ。
「そうなんですか。じゃあ私と同じですね」
千葉先生の笑顔に応える山内の姿が目に入る。
薄めの唇が綺麗に弧を描く、愛想のいい笑み。
……何よ。そんな顔もできるんじゃない。
昔みたいに笑えるんじゃない――私が相手じゃないのなら。
晴れて美大に合格し念願の油絵学科に進んだ私は、美術科の教師になった。
それまでは愛してやまないモネのような、いわゆるファインアートの画家を目指していたけれど、これが想像の何百倍、何千倍も難しい世界だった。
美大在学中に、いくつかの美術賞に出品してみたりしたけれど、ずば抜けた才能のない私の作品は箸にも棒にも引っかからず――まあ正直、そのくらいの歳には、ファインアートで成功するなんて夢のまた夢、現実味のない話だと理解していたから、路頭に迷うことのないように教職の資格を押さえておいた。それが正しい選択だったと今は言える。
コマーシャルアートの方面で就職を考えてみたら、と友人に勧められたこともあった。確かに好きな絵を仕事にできるのは魅力的だし、そちらで稼いでいる先輩方も結構いたけれど……私の芸術の原点はクロード・モネ、つまりファインアートの世界だ。できることなら、そちらに近い世界で働きたい。
私がモネ、ひいては印象派の世界に陶酔したように、彼らの作品の素晴らしさを伝えることができたなら、それも素敵なことじゃないか、と。
教壇に私立成陵高校を選んだのは、名門校だからというブランド志向からではなく、若い教師を積極的に採用していたからだ。
校長はエネルギッシュな人で、職場の若返りを図っているらしい。勤めてみて、なるほど二十代から三十代の先生が他の高校に比べずいぶん多いように思う。生徒も素直で真面目な子が多く、充実した日々を送っていた。
そんな教師生活五年目――孝ちゃんとの再会は突然だった。
約十年ぶり。しかも、いかにも社会人らしいパリッとしたスーツ姿の彼を初めて見たものだから、最初は同姓同名の別人かと思ったくらいだ。
けど間違いなかった。かつて隣に住んでいた幼なじみの山内孝佑、その人に。
「久しぶり。私のこと、覚えてる?」
「……」
職員室での挨拶を済ませた彼を捕まえ、声を弾ませる私。
大好きだった孝ちゃんと、まさか同じ職場で働くことができる日がくるなんて。夢みたいだ。
幼なじみで、常に行動を共にしていた私たち。彼の存在の大きさを本当の意味で実感したのは、皮肉にも完全にかかわりを絶ってからだった。
思春期にぎこちない雰囲気のまま離れ離れになってしまっていたけれど、私ももう気恥ずかしさで戸惑うような年頃じゃない。
これからは、また昔のように自然な関係を築いていけるはず。
……ところが。
約十年越しの再会を喜ぶ私とは対照的に、彼は終始落ちついた様子で――いや、落ちついた、という言葉は適切じゃない。
私を見つめる瞳は、つまらないものを見るが如くどこか白けていて、冷たくすら感じた。
眉を顰めた彼は押し黙ったままだった。
「………?」
頭の中が疑問符で溢れ返る。わからないと言うのだろうか。
そんなはずはないでしょう?
あんなに長い時間を一緒に過ごしたのに?
「ほら、私だよ。梓、結城梓」
「……」
名前を繰り返す私の横を、スッとすり抜けていく。
わからないわけがない。家族同然の付き合いをしてきた私を覚えていないなんて、到底思えない。
孝ちゃんから拒絶されていると気がつくまでには時間がかかった。
だけどその理由がわからない。
高校の頃には接する機会もほとんどなくなってしまったけど……十年ぶりなのだ。しかも職場の同僚としての再会というレアケース。
私がそうであるように、少しでも懐かしさを感じてくれたってよさそうなものなのに。
孝ちゃんの態度に納得がいかないまま、彼との間に決定的な亀裂が入る。
それは、新授業改革案が最初に出たときだった。
例の、受験科目に含まれない技術家庭や芸術などの実技科目の単位の一部を、ペーパーテストの要である英数国に回すという案。
「実技科目には実技科目としての必要性があるんです! 情緒のわかる心の豊かな人間に教育することも、学力を高めるのと同じくらい重要なことです!」
最初から大反対だった私は、噛みつくように意見した。
勉強一辺倒になっちゃうなんて、生徒たちによくない。これを通すわけにはいかない。
他の教職員が私の剣幕にたじろいでいる中、真っ向から反論してきたのは、なんと孝ちゃん――山内先生だった。
「ですが、一流大学への進学率が落ちている今、最も重要なのは学力の底上げです。このままの状態が続くことのないように、早急に手を打たなければならない」
「え……?」
「限られた単位数の中で行うには、他の科目から単位を回していただくより他はありません。成陵に入学する生徒の多くは、国立や難関私立大学への進学率の高さに魅力を感じているのでしょう。成陵の名にかけて、この現状を打破していかなければ」
「お、仰ることはわからなくもありません。しかし、実技科目には実技科目のカリキュラムがありますから!」
「それも重々承知の上です。ですが、成陵高校は進学校ですから、学校全体の偏差値を高めるのが先決でしょう。そうすればおのずと一流大学への進学率も上昇するはずです」
私は少なからず動揺していた。
初めてまともに交わした会話が、職員会議で――しかも、対立意見。
再会してからというもの、どうしてか孝ちゃんは私を避けていたので、こちらから積極的にかかわりを持とうとはしなかった。
今回の件では私と彼が相反する立場であるのはわかってるし、ケンカとは違うってことも理解している。
でも、どうしてだろう。心の中に、暗くモヤモヤしたものが立ちこめる。
孝ちゃんの理路整然とした物言いが、なぜか他人行儀に感じられて。
私に対する敵意をまとっているように思えて仕方なかったのだ。
「でもそれはそちらの都合でしょう? 進学率が落ちているなら――数学なら数学の授業内でどうにかするべきなんじゃありませんか?」
「それは僕に限らず、他の先生方に対するご意見であると受け取っても?」
そう指摘され、痛恨のミスをしたことに気がついた。
今の言い方だと、進学率の低下が英数国の先生方の授業の仕方にあると言っているようなものだ。
当たり前のことながら、教師の数は実技科よりも主要三科目の人間のほうが遥かに多い。誤解を招く表現をしてしまったことで、私は彼ら全員を敵に回した形となった。
「それは聞き捨てなりませんね。我々も、与えられた時間の中で精一杯やらせてもらっていますよ」
「そのとおりです。我々の怠慢であるような言い方は控えていただきたい」
反論する声が聞こえてくる。危ぶんだとおり、あちら側の教師の反感を買ってしまった。
「いえ、そういうつもりでは――」
慌てて首を振りながら、助けを求めて孝ちゃんの顔を見た。
彼だってきっと、悪意がなかったことは認めてくれるだろうと――でも。
「!」
見てしまった。私をせせら笑っている彼の姿を。
……わざとだ、と直感した。
彼は失言をいいことに、私の立場を悪くして新授業改革案を推し進めようとしている。
何で、どうして?
答えの出ない問いが、サーキットみたいに頭の中をぐるぐる回る。
気のせいなんかじゃない。これは悪意だ。
孝ちゃんは明らかに、私に対して良くない感情を抱いている。
頭の中が真っ白になった。指の先から凍っていくみたいに、感覚がなくなっていく。
この人は誰? 本当に孝ちゃんなの?
私の好きだった孝ちゃんは、いつでも味方だった。
私を優しく見守ってくれる、頼もしい男の子だったのに。
これじゃまるで、全く別の人が孝ちゃんという服を着てそこにいるみたいな――
波打ち際の砂の城さながら、『幼なじみの孝ちゃん』が、音を立てて崩れていく。
ショックなのは笑われたことじゃない。
大好きだった彼に裏切られたこと。
……酷い。酷いよ。あんまりだよ。
彼を好きだった時間さえも否定された気分だ。
孝ちゃんだけを思い続けた、あの時間を返してよ!
悔しさで、悲しみよりも怒りのボルテージが上昇していくのがわかる。
わかったよ。そっちがそのつもりなら、構わない。
私の好きだった孝ちゃんはもういない。
目の前にいる山内孝佑は、関係のない、赤の他人だ。
金輪際、こんな男とはかかわらない。かかわってやるものか!
この日を境にしてだった――孝ちゃんを山内と呼ぶようになったのは。
かつての想い人をぼんやりと眺めていると、椅子の背もたれに置いたバッグからかすかな振動を感じる。携帯電話だろう。ずいぶん長いこと震えているのは着信中ということか。
取り出して確認してみる――思ったとおり。発信元は尚也だ。
私は月島先生に断ってから席を立つと、電話を受けた。
「もしもし」
「梓ちゃん? オレだけど」
耳元で聞こえたのは、男性にしてはハイトーンな声。
よく通るその声は何かいいことでもあったかのようにウキウキと弾んでいて、自分の心境との差を感じる。
「……うん、どうしたの?」
そっと個室の外に出ると、手洗い場まで通じる廊下の壁に寄りかかり、用件を尋ねた。
「どうしたのって、用事がないと電話しちゃだめ? 彼氏なのに?」
おどけて訊いてくる尚也。本人がそう言うとおり、一応、私の彼氏ということになっている。
「ううん、そんなことないけど。で、何?」
「ははっ、相変わらずだなぁ。でもオレ、梓ちゃんのそういうそっけないとこも好きだよ」
「……それはどうも」
私が新しい趣味や興味の対象を見つけるたびに、彼も一緒になって調べてくれる。このときもそうだった。
「えっ、なぁに?」
「あずさが気に入ってた絵、あったろ。あの、おんなの人がカサをさしてるやつ」
「うん」
こうちゃんは得意げに人差し指を立てた。
「『ひがさをさすおんな』っていうんだけど、あの絵、じつは三まいあるんだ」
「三まいも?」
「どれもにてるんだけど、ほかの二まいはモデルがちがうんだ。おいてあるばしょもべつのところみたいだよ」
「どこどこ? みにいきたい!」
「えーっと、フランスのびじゅつかんだって。……うーん、いくのは、むずかしいな」
「えー!」
先日は学校の課外授業で見ることができたのだし、まさか海外とは予想もしていなかった。
そんなに遠く離れたところへ見には行けない。
「フランスかぁ……とおいんだね。ざんねん」
昔からすぐ顔に出ると言われていた私のことだ、よほどガッカリした顔で落ち込んでいたのだろう。
「じゃあさ」
そんな私を見たこうちゃんが言った。
「いまはダメでも、おおきくなったら、いっしょにみにいこう。フランスに」
「こうちゃんといっしょに?」
「うん。ぼくがあずさをつれていってあげる」
「……うん!」
思えばこんな小さな頃から、こうちゃんは頼もしかったんだなぁ。
私のために背伸びをしてそう言ってくれたこと――今でも思い出すと顔が綻んでしまう。
中学生になると、クラスが離れてしまったことや、お互い部活に入ったことなどで、話す機会はやや減った。
私は美術部、孝ちゃんがコンピュータ部。文化系の部活だし厳しいというほどのものではなかったけれど、この頃になると異性と付き合い始めるクラスメイトが出てくる。
男子と女子とがあまり表だって仲よくしていると、冷やかしの対象になってしまいがちで、私と孝ちゃんもその典型だった。
「結城さんって、隣のクラスの山内くんと付き合ってるってホント?」
「え?」
尋ねてきたのは、同じクラスで噂話の好きな女子。
私の想いを見透かされたみたいでドキッとした。
孝ちゃんを好きなのは本当だ。
でも、ずっと心の中に秘めていたことだし、孝ちゃんが私をどう思っているかなんて知らない。
意気地なしの私は、幼なじみという関係を壊したくなくて、ただの一度も自分の想いを彼に告げたことがなかったから。
「違うの? たまに一緒に帰ったりしてるじゃん」
「そ、それは……家が近いから」
「それだけ?」
「う、うん」
「なぁんだ、そうなの」
答える前は嬉々とした表情を浮かべていた彼女が、興味が失せた様子でふん、と鼻を鳴らす。
思春期なのだから別段珍しい会話ではなかったのかもしれないけど、周囲が私たちの関係に関心を持っていることを知って、心にさざ波が立った。
孝ちゃんと仲良くしていたらいけないんだろうか、とか。
変な噂がたったらどうしよう、とか。
そういうことが続いたら嫌われてしまうんじゃないか、とか。
だから――
「梓」
美術室の窓から見える空の色が、オレンジから薄青に溶けていく時間帯。
キャンバス上の林檎にカーマインを重ねていると、前方にある開けっ放しの扉の外から私を呼ぶ声がする。
描きかけの静物画から視線を外し、その声の主を探した。
「孝ちゃん」
木の椅子から立ち上がると、まずは周りを見渡した。室内に誰もいないことを確認してから扉まで歩いていく。
部員が少なくて気分次第で出欠を決めることができる自由な部活だったこともあり、その日は私を除いて皆帰宅していたのを知っていた。
でも、例の女子生徒に言われたことが、魚の小骨のように脳裏から離れない。
「どうしたの、部活は?」
「今日はもう終わった。梓は? 他に誰もいないみたいだけど」
言いながら、孝ちゃんは室内を覗いた。
授業で制作中らしい手の石膏や篆刻などが、棚やロッカーの上にずらりと並んでいるけれど、人影は私のそれ一つだ。
「今日は皆、先に帰っちゃったんだ」
「そうなんだ。……母親がさ、梓を、たまには夕飯に呼んだらって言ってたんだけど、どうかな?」
「佐津紀さんが?」
佐津紀さんというのは孝ちゃんのお母さん。
『孝ちゃんのおばさん』と呼ばれるのが嫌みたいで、名前で呼んでと言われて、そうしていた。
朗らかな優しい人で、いつもニコニコと笑っている愛想のいい女性だ。
私のことを娘のように可愛がってくれたな。「梓ちゃんみたいな女の子が欲しかったわ」というのが口癖なくらいに。
「んー……」
本当なら、二つ返事で遊びに行きたかった。
中学に入ってからゆっくり会う機会もなく、勉強のこと、クラスのこと、今描いてる絵のこと――話したいことはたくさんあった。
でも、下校途中、二人でいるところを誰かに見られたら、また何か言われるんじゃないか。
そうしたら孝ちゃんが私を煙たがるようになるんじゃないか。
思いこみにも近い余計な心配が頭をチラついて、私は首を横に振っていた。
「ごめん、もうちょっとあれを進めておきたいんだ」
あれ、と指差したのは、ついさっきまで向かい合っていたキャンバス。
「そう。じゃあ少し遅くなっても構わないよ。それなら大丈夫だろ?」
孝ちゃんは、「へぇ」という顔をしながら、扉の境界から足を踏み入れると、キャンバスのほうまで歩いていく。
「うーん……ごめんね、やっぱりやめておく」
私は、彼に身体を向けつつも、視線は逸らしていた。
「そっか……ん、わかった。仕方ないよな」
残念そうにしながら、描きかけのキャンバスを覗き込む孝ちゃん。
「――今は何を描いてるんだ?」
「林檎。ほら、前に話したでしょ」
キャンバスから手を伸ばせば届く距離。古びた木の机を指し示して言った。
籐の籠の中に、様々な品種の林檎が収まっている。
私たち美術部は、ある財団法人主催の展覧会に出品することになっていて、私はその作品を仕上げている最中だった。
何を描こうか迷ってしまい、題材が決まらなかったのだけど……よく図書室で眺めていたモネの画集から、赤と青、二色の林檎を描いた『林檎の入った籠』を見つけ、林檎なら手ごろでオーソドックスなモチーフだし、彼への敬愛の意味も込めて同じ題材にしてみようと決めた。
光の画家というだけあり、自然光を追究した風景画が多い彼には珍しい静物画。その存在を知り、一番の話し相手だった孝ちゃんに話さずにいられなかった。
「モネと同じモチーフにしたって言ってたヤツか」
「うん」
「画材は?」
「アクリル。今回は、あんまり時間がないからね」
モネのような画家を目指していた私はとりわけ油彩に強い関心を持っていて、少ないお小遣いで少しずつ油絵の画材を揃えていた。
油絵の具と違い、水で溶くアクリルガッシュは乾くのも速く、重ね方によっては油絵にも似た風合いを出すことができる。
とはいえ、どうしても油絵ほど重厚な質感は出せないからちょっと物足りない気もした――仕方ないか。描き始めが遅くなってしまったんだから。
「頑張れよ。梓の絵ならきっといいところまでいくって」
「……そうかな」
「ああ。僕は梓の絵が好きだって、ずっと言ってるだろ」
一瞬、時が戻ったのかと錯覚するくらい。
小学生の時と変わらない笑顔で、孝ちゃんが微笑んでくれた。
……変わらない。
私たちの関係は変わらないのに、知らず知らずのうちに周りだけが変わっていく。
――大人になっていく。
中学を卒業すると、秀才だった孝ちゃんは私立の進学校である美園高校へ。相変わらず勉強が苦手だった私は、偏差値が中の下くらいの公立高校へと進学した。
この頃になると、私と孝ちゃんはめったに顔を合わせなくなっていた。
学校が別々になり生活圏が離れたこともあるし、お互いに同性の友人と付き合う機会も増えたから。
けれど本当のところは、孝ちゃんを避けているのを悟られてしまったからではないかと思う。
もちろん、孝ちゃんが嫌いになったからではない。好きだからこそ、彼との距離のとり方がわからなくなってしまったのだ。
登下校のとき、人ごみの中に孝ちゃんの姿を見かけることがあったけど、美園の制服を着ている孝ちゃんは私の知らない男の子のように見えた。
身長も、肩幅も、顔立ちも、手のひらも。
毎日会ってるときは気づかなかったけれど、少しずつ大人の男性になっている。そんな彼と、私の中の孝ちゃんがうまくリンクしてくれない。
だから、駅や近所で孝ちゃんを見つけることがあっても、私からは声をかけることはなかった。
そんな折だった――父親から急な転勤を告げられたのは。
住み慣れた都会から田舎へ引っ越さなければいけなくなったわが家。高校も転校せざるを得なくなり、孝ちゃんとも離れ離れになってしまう。
いっそ、これを機に孝ちゃんに告白をしようかとも考えた。
でも、妙にギクシャクしている当時の状態では踏み切れなかったし、いなくなってしまう私から想いを告げられたら、逆に迷惑かもしれないとも思えて。
結局、孝ちゃんには引っ越すことすら伝えられずに――
「……結城先生?」
孝ちゃんと共に成長してきた学生時代。その場面場面が、映画のフィルムみたいに頭の中で再生されていた。
月島先生の声で我に返った私は目を瞠る。
「どうかしましたか?」
「……いえ、何でもないの。少し酔ったかな」
「絵画もいいですよね。高尚な趣味って感じで憧れますよ」
私が少しおどけて言うと、それまで山内と話していた千葉先生がこちらの話題へ加わってきた。
「山内先生は絵画とか興味あります?」
そしてそこに、山内をも加えようとする。
私は悪いことでもしているみたいに身体を硬くしながら、耳をそばだてた。
彼は首を捻ったりしながら、
「……さあ。僕はそういうのに滅法疎くて。さっぱりです」
嘘つき、と内心で毒づいた。
モネはもちろん、印象派と呼ばれる画家……例えば、マネやセザンヌ、ゴッホ、ルノワールなんかの有名どころの作品については、得意のパソコンで調べてもらったりもしたし、特別展が開かれる際は一緒に美術館へ見に行ったりしたこともあった。
孝ちゃんは作品そのものを楽しむというより、画家のバックグラウンドに興味があるように見えた。
なかでも特に関心を寄せていたのはゴッホで、「あれくらい常軌を逸しているからこそ、芸術家でいられるのかもな」みたいなことを言っていた。同時に「梓はそんな風にならないでくれよ」と念を押されたりもしていたな……まぁ、自分の耳を切ったりする人と一緒にされても困るわけですけど。
画材についても私が使っていたものは一通り把握しているはず。
水彩、油彩、間をとったアクリル、ちょっとマニアックな岩絵の具――よく使うメーカーや欲しい色など、もっぱら私の話相手をしてくれていた彼は、嫌でも覚えているに違いない。
つまり、何が言いたいのかというと、嗜む機会がない人に比べれば間違いなく詳しいはずなのだ。それなのに、山内は「知らない」「わからない」「興味がない」というスタンスを崩さない――それは会議でも同様。
実際のところ、本当に興味がなかったのかもしれない。それでも、仲が良かった頃は上辺だけでも楽しんでくれていたと思っていたのに。
間接的なやりとりなのに、山内から突き放された感じがした。
わかってますよ。きっとそんな日々もなかったことにしたいんだね、そっちは。
私たちの関係を知る人がこの場にいないのは、彼にとって都合がいいんだ。
「そうなんですか。じゃあ私と同じですね」
千葉先生の笑顔に応える山内の姿が目に入る。
薄めの唇が綺麗に弧を描く、愛想のいい笑み。
……何よ。そんな顔もできるんじゃない。
昔みたいに笑えるんじゃない――私が相手じゃないのなら。
晴れて美大に合格し念願の油絵学科に進んだ私は、美術科の教師になった。
それまでは愛してやまないモネのような、いわゆるファインアートの画家を目指していたけれど、これが想像の何百倍、何千倍も難しい世界だった。
美大在学中に、いくつかの美術賞に出品してみたりしたけれど、ずば抜けた才能のない私の作品は箸にも棒にも引っかからず――まあ正直、そのくらいの歳には、ファインアートで成功するなんて夢のまた夢、現実味のない話だと理解していたから、路頭に迷うことのないように教職の資格を押さえておいた。それが正しい選択だったと今は言える。
コマーシャルアートの方面で就職を考えてみたら、と友人に勧められたこともあった。確かに好きな絵を仕事にできるのは魅力的だし、そちらで稼いでいる先輩方も結構いたけれど……私の芸術の原点はクロード・モネ、つまりファインアートの世界だ。できることなら、そちらに近い世界で働きたい。
私がモネ、ひいては印象派の世界に陶酔したように、彼らの作品の素晴らしさを伝えることができたなら、それも素敵なことじゃないか、と。
教壇に私立成陵高校を選んだのは、名門校だからというブランド志向からではなく、若い教師を積極的に採用していたからだ。
校長はエネルギッシュな人で、職場の若返りを図っているらしい。勤めてみて、なるほど二十代から三十代の先生が他の高校に比べずいぶん多いように思う。生徒も素直で真面目な子が多く、充実した日々を送っていた。
そんな教師生活五年目――孝ちゃんとの再会は突然だった。
約十年ぶり。しかも、いかにも社会人らしいパリッとしたスーツ姿の彼を初めて見たものだから、最初は同姓同名の別人かと思ったくらいだ。
けど間違いなかった。かつて隣に住んでいた幼なじみの山内孝佑、その人に。
「久しぶり。私のこと、覚えてる?」
「……」
職員室での挨拶を済ませた彼を捕まえ、声を弾ませる私。
大好きだった孝ちゃんと、まさか同じ職場で働くことができる日がくるなんて。夢みたいだ。
幼なじみで、常に行動を共にしていた私たち。彼の存在の大きさを本当の意味で実感したのは、皮肉にも完全にかかわりを絶ってからだった。
思春期にぎこちない雰囲気のまま離れ離れになってしまっていたけれど、私ももう気恥ずかしさで戸惑うような年頃じゃない。
これからは、また昔のように自然な関係を築いていけるはず。
……ところが。
約十年越しの再会を喜ぶ私とは対照的に、彼は終始落ちついた様子で――いや、落ちついた、という言葉は適切じゃない。
私を見つめる瞳は、つまらないものを見るが如くどこか白けていて、冷たくすら感じた。
眉を顰めた彼は押し黙ったままだった。
「………?」
頭の中が疑問符で溢れ返る。わからないと言うのだろうか。
そんなはずはないでしょう?
あんなに長い時間を一緒に過ごしたのに?
「ほら、私だよ。梓、結城梓」
「……」
名前を繰り返す私の横を、スッとすり抜けていく。
わからないわけがない。家族同然の付き合いをしてきた私を覚えていないなんて、到底思えない。
孝ちゃんから拒絶されていると気がつくまでには時間がかかった。
だけどその理由がわからない。
高校の頃には接する機会もほとんどなくなってしまったけど……十年ぶりなのだ。しかも職場の同僚としての再会というレアケース。
私がそうであるように、少しでも懐かしさを感じてくれたってよさそうなものなのに。
孝ちゃんの態度に納得がいかないまま、彼との間に決定的な亀裂が入る。
それは、新授業改革案が最初に出たときだった。
例の、受験科目に含まれない技術家庭や芸術などの実技科目の単位の一部を、ペーパーテストの要である英数国に回すという案。
「実技科目には実技科目としての必要性があるんです! 情緒のわかる心の豊かな人間に教育することも、学力を高めるのと同じくらい重要なことです!」
最初から大反対だった私は、噛みつくように意見した。
勉強一辺倒になっちゃうなんて、生徒たちによくない。これを通すわけにはいかない。
他の教職員が私の剣幕にたじろいでいる中、真っ向から反論してきたのは、なんと孝ちゃん――山内先生だった。
「ですが、一流大学への進学率が落ちている今、最も重要なのは学力の底上げです。このままの状態が続くことのないように、早急に手を打たなければならない」
「え……?」
「限られた単位数の中で行うには、他の科目から単位を回していただくより他はありません。成陵に入学する生徒の多くは、国立や難関私立大学への進学率の高さに魅力を感じているのでしょう。成陵の名にかけて、この現状を打破していかなければ」
「お、仰ることはわからなくもありません。しかし、実技科目には実技科目のカリキュラムがありますから!」
「それも重々承知の上です。ですが、成陵高校は進学校ですから、学校全体の偏差値を高めるのが先決でしょう。そうすればおのずと一流大学への進学率も上昇するはずです」
私は少なからず動揺していた。
初めてまともに交わした会話が、職員会議で――しかも、対立意見。
再会してからというもの、どうしてか孝ちゃんは私を避けていたので、こちらから積極的にかかわりを持とうとはしなかった。
今回の件では私と彼が相反する立場であるのはわかってるし、ケンカとは違うってことも理解している。
でも、どうしてだろう。心の中に、暗くモヤモヤしたものが立ちこめる。
孝ちゃんの理路整然とした物言いが、なぜか他人行儀に感じられて。
私に対する敵意をまとっているように思えて仕方なかったのだ。
「でもそれはそちらの都合でしょう? 進学率が落ちているなら――数学なら数学の授業内でどうにかするべきなんじゃありませんか?」
「それは僕に限らず、他の先生方に対するご意見であると受け取っても?」
そう指摘され、痛恨のミスをしたことに気がついた。
今の言い方だと、進学率の低下が英数国の先生方の授業の仕方にあると言っているようなものだ。
当たり前のことながら、教師の数は実技科よりも主要三科目の人間のほうが遥かに多い。誤解を招く表現をしてしまったことで、私は彼ら全員を敵に回した形となった。
「それは聞き捨てなりませんね。我々も、与えられた時間の中で精一杯やらせてもらっていますよ」
「そのとおりです。我々の怠慢であるような言い方は控えていただきたい」
反論する声が聞こえてくる。危ぶんだとおり、あちら側の教師の反感を買ってしまった。
「いえ、そういうつもりでは――」
慌てて首を振りながら、助けを求めて孝ちゃんの顔を見た。
彼だってきっと、悪意がなかったことは認めてくれるだろうと――でも。
「!」
見てしまった。私をせせら笑っている彼の姿を。
……わざとだ、と直感した。
彼は失言をいいことに、私の立場を悪くして新授業改革案を推し進めようとしている。
何で、どうして?
答えの出ない問いが、サーキットみたいに頭の中をぐるぐる回る。
気のせいなんかじゃない。これは悪意だ。
孝ちゃんは明らかに、私に対して良くない感情を抱いている。
頭の中が真っ白になった。指の先から凍っていくみたいに、感覚がなくなっていく。
この人は誰? 本当に孝ちゃんなの?
私の好きだった孝ちゃんは、いつでも味方だった。
私を優しく見守ってくれる、頼もしい男の子だったのに。
これじゃまるで、全く別の人が孝ちゃんという服を着てそこにいるみたいな――
波打ち際の砂の城さながら、『幼なじみの孝ちゃん』が、音を立てて崩れていく。
ショックなのは笑われたことじゃない。
大好きだった彼に裏切られたこと。
……酷い。酷いよ。あんまりだよ。
彼を好きだった時間さえも否定された気分だ。
孝ちゃんだけを思い続けた、あの時間を返してよ!
悔しさで、悲しみよりも怒りのボルテージが上昇していくのがわかる。
わかったよ。そっちがそのつもりなら、構わない。
私の好きだった孝ちゃんはもういない。
目の前にいる山内孝佑は、関係のない、赤の他人だ。
金輪際、こんな男とはかかわらない。かかわってやるものか!
この日を境にしてだった――孝ちゃんを山内と呼ぶようになったのは。
かつての想い人をぼんやりと眺めていると、椅子の背もたれに置いたバッグからかすかな振動を感じる。携帯電話だろう。ずいぶん長いこと震えているのは着信中ということか。
取り出して確認してみる――思ったとおり。発信元は尚也だ。
私は月島先生に断ってから席を立つと、電話を受けた。
「もしもし」
「梓ちゃん? オレだけど」
耳元で聞こえたのは、男性にしてはハイトーンな声。
よく通るその声は何かいいことでもあったかのようにウキウキと弾んでいて、自分の心境との差を感じる。
「……うん、どうしたの?」
そっと個室の外に出ると、手洗い場まで通じる廊下の壁に寄りかかり、用件を尋ねた。
「どうしたのって、用事がないと電話しちゃだめ? 彼氏なのに?」
おどけて訊いてくる尚也。本人がそう言うとおり、一応、私の彼氏ということになっている。
「ううん、そんなことないけど。で、何?」
「ははっ、相変わらずだなぁ。でもオレ、梓ちゃんのそういうそっけないとこも好きだよ」
「……それはどうも」
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