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本編
8 婚約者の本性3
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寝室の扉近くから話し声が聞こえた。それで目が覚めた。
「リズは、まだ眠っているのか?」
(……これは、お母様の声?)
私は寝台の上で、ぱちりと目を開けた。
寝台脇の小さな棚に置いてる時計を見ると九時を示している。いつもなら学院が休日でも七時頃には目を覚ますのに。
「は、はい。王妃様。王女様をお起こししましょうか?」
緊張したような王女の侍女長の声。
「いや、よい。リズは疲れているだろう。眠らせてやれ。あの子が目覚めたら妾に知らせてくれればいい」
私は寝台から起き上がると大急ぎで扉に向かった。
「お母様、何か御用でしょうか?」
扉を開けると窓から入る陽光は、かなり明るかった。寝室はカーテンで遮光していため薄暗かったのだ。
「ああ、リズ」
外見だけは、あでやかで麗しい王妃は私を見ると破顔した。
彼女の後ろには、いつもの五色のベールで顔を隠した五人の侍女達がいる。
王女の侍女十人全員が揃っている。王妃が来たため勢揃いしたのだろう。
私は困惑した。昨日あれだけ怒っていた王妃が、なぜ、こんなに機嫌がいいんだ?
王妃は妾妃と違って恨みや怒りを引きずる女性ではない。だが、私のしでかした事を考えると、こんなに急激に機嫌が直るものだろうか?
王妃は私を抱きしめた。王妃は女性にしては背が高く私は小柄。そのため私の顔は彼女の胸になる。妾妃ほどではないが私よりは確実にある柔らかな胸からは薔薇の香りがした。《薔薇の王妃》と讃えられる彼女は薔薇の香りがする香油や石鹸を好んで使用しているのだ。
「……あの、お母様、とりあえず着替えてきますわ。お話は、それから伺います」
母娘とはいえ相手は王妃だ。寝間着のままで話を聞くのは不敬になる。
「ああ、いいのだ。体がつらいだろう。横になっているといい」
「はい?」
体はつらくない。なぜ、王妃は、そう言うのだろう?
「早朝にアーサーが妾を訪ねてきたのだ」
王妃が思ってもいなかった事を言いだした。
「……アーサーがですか?」
瞬時に昨夜の彼とのあれこれを思い出して顔が熱くなった。なぜ、今まで忘れていたのか。……できれば記憶の中から消し去りたかったからだろう。
顔を真っ赤にしている私をどう思っているのか、王妃の娘に向ける眼差しはやけに優しかった。
「アーサーが約束もなしに早朝に訪ねてくるなど驚いたが」
(……ええ、私も昨夜は驚きました。お母様)
心の中で私は相槌を打った。
「話を聞いて納得したぞ。婚約者とはいえ結婚前に肌を重ねるなど本来なら許しがたいが」
「……はい?」
王妃の言葉が理解できなかった。
……昨日のアーサーも今目の前にいる王妃も、ちゃんとテューダ語を話しているというのに、なぜ、こうも二人の言葉が頭に入ってこないのだろう?
ウィザーズ侯爵家の血には私の理解を妨げる何かがあるのだろうか? そんな埒もない考えが浮かんできた。
「お前が自分以外の男の子を孕んだと聞いて、冷静なアーサーも、かっとなってしまったらしいな」
(……アーサーが、かっとなるなんてありえません。お母様)
今度も心の中だけで私は突っ込んだ。
実際、怒りで周囲を威圧するほどの凄みを放っていても、アーサーの言動は冷静そのものだった。怒りで我を忘れるなど彼に関してはありえない。
「お前、初めてだったのだろう? いくらアーサーの気を引きたいからって他の男の子を孕んだなどと、そんな人騒がせな嘘を吐くとは」
私は絶句した。そんな私に構わず王妃は蕩けるような美しい笑みを見せた。
「お前も反省しているから叱らないでくれとアーサーに頼まれたからな。何より二人が結ばれたのは喜ばしい事だ。結婚前だから陛下はいい顔をなさらないだろうが、そこは妾が宥めるから安心するといい」
王妃は昨日同様、言いたい事だけ言うと自分の侍女達を引き連れて帰って行った。
残されたのは思考停止になった私と何やら物言いたげな視線を送ってくる王女の侍女達。
「……あの、姫様?」
いつの間にか傍に来たケイティが恐る恐る声をかけてきた。
「……ふ、ふふふふふ……あはははは!」
私は哄笑した。
凄まじい怒気を放つアーサーにも物申せる胆力を持つケイティも、これにはぎょっとしたらしい。他の侍女達も明らかに引いている。だが私は全く気にしない。というより彼女達の姿など目に入っていなかった。
「……食事用意して。簡単なのでいいから」
数秒か数分か、笑いをおさめた私は侍女達に命じた。
「姫様?」
「王女様?」
怪訝そうな顔をする侍女達に私は衣裳部屋に向かいながら、もう一度命じた。
「食事よ。腹が減っては軍は出来ぬよ」
これから、あのアーサーに怒鳴りこむのだ。気力体力が充実しなければ昨夜のように彼の気迫に呑まれてしまう。
「……ああ、それから、ケイティ」
当然のように私の後について衣裳部屋に入ってこようとするケイティを振り返った。
「これからは妾の世話はしなくていい」
「姫様!?」
「それから、なるべく妾の視界に入るな」
私は「高慢な王女」に相応しく傲然と命じた。
言われたケイティだけでなく侍女達も驚いている。
「なぜでございますか!? 私が何かしましたか!?」
食ってかかるケイティに私は冷たい眼差しを向け昨夜のアーサーのように彼女の耳元に口を寄せた。ケイティと私は体格がさほど変わらないのでアーサーのように身を屈める必要はない。侍女達に聞かれないように囁いた。
「……解雇しない事が私の最後の恩情よ。あなたの真の主の下に還されれば殺されるか、よくて折檻でしょう。ありがたいと思いなさい」
ケイティは昨夜のように固まった。
そんな彼女を残して私は一人で衣裳部屋に入って行った。
「アーサー!」
王宮から徒歩で五分ほどの宰相府。その宰相の私室に私はノックもせず蹴破る勢いで扉を開けた。
大きな執務机の上に大量にある書類に署名をしているのは、当然ながら部屋の主である宰相。彼以外は部屋に誰もいない。
「……王女殿下」
アーサーの数年後を思わせる容姿の彼の父親、宰相ユテル・ペンドーン。息子《アーサー》同様、常に冷静沈着だが突然駆け込んできた王女には、さすがに驚いた様子だ。
宰相は今年で三十五歳。妹である王妃のひとつ年上だ。アーサーと同じ黒髪黒目、均整の取れた長身の超絶美形。
元は将軍を輩出するウィザーズ侯爵家の人間だが宰相を輩出するペンドーン侯爵家の一人娘イグレーヌ(アーサーの母親だ)と結婚し婿養子となり宰相になった。
その家の人間である事が大前提だが実力さえあれば女性でも女王や将軍にもなれる国だ。イグレーヌは聡明な女性で宰相になるのに申し分なかったが「私よりも夫のほうが相応しいですわ」と夫に譲ったのだ。
現在ウィザーズ侯爵となった兄、妹である王妃は軍人の家系らしい脳筋だが、宰相だけは息子のアーサー同様、冷静で怜悧な人だ。軍人となるより文官のほうが余程向いている。尤もイグレーヌと結婚したのは宰相になりたかったからではなく互いに恋したからだという。
「アーサーは!? いないのか!?」
ノックもせず駆け込んできて問いただすのは、王女とはいえ非礼だが頭に血が上っている私は気にしない。
アーサーは将来王配になるだけでなく父親の跡を継ぎ宰相も兼任する。ペンドーン侯爵家には彼以外兄弟がいない。それに何よりアーサー以上に宰相に相応しい人間もいないからだ。
そのために学院を飛び級で卒業後、常に宰相の父親に付き従い、その仕事を手伝っている。宰相府に行けば、かなりの確率でアーサーに会える。だが、今回は外れらしい。
「……王女殿下、貴女は謹慎中では?」
驚きから脱した宰相は尤もらしい事を言いだした。こういう所まで息子にそっくりだ。
「そんな事はどうでもいい! クソ親父には後でいくらでも怒られてやる! それよりもアーサーだ!」
他人に話す時は国王を「お父様」と言っているが今は取り繕う気にはなれなかった。
「……アーサーなら陛下の所ですが」
宰相は王女の「クソ親父」発言については取り立てて何も言わず素直に息子の居所を教えてくれた。
「お待ちを。王女殿下」
そのまま部屋から出ようとする私を宰相が思いがけないほど強い口調で呼び止めた。
「アーサーに会う前に、少し私と話しましょう」
宰相は執務机の前にあるソファを示すと座るように促した。私が座ると彼も執務机からテーブルを挟んで対面のソファに移動した。
婚約者の父親、私の伯父とはいえ、宰相とじっくり話した事などない。高慢な王女というだけでなく……息子を邪険にしているのだ。宰相の私に対する評価など最低なものに決まっている。国王が命じたのでなければ、とっくの昔に婚約解消したかったはずだ。
そんな王女相手に何を話すというのか?
最初は、のほほんと考えていたが、今この時、宰相が王女に言いたい事などひとつしかない。ようやく私はそれに気づいた。
「何もなかったからな!」
侍女達からだけではない。宰相府に来るまで物言いたげな大勢の視線にさらされた。アーサーへの怒りがなければ自室に閉じこもっていただろう。アーサーか王妃、どちらかが(あるいは両方が)言い触らしたのか。とにかく私と彼の間に何かあったのだと誤解されたのだ。
「何やら噂になっているが、何もなかったからな!」
もう一度念押しする私に宰相は醒めた眼差しだ。
「実際に何かあったにしろ、なかったにしろ、これだけ噂になった以上、今更否定しても無駄ですよ」
「それでも、わた……妾は否定するぞ! 何かあったと思われるなど耐えられないからな!」
「……婚約者以外の男の子を妊娠したと思われるのは構わないんですね」
思わず黙り込んだ私に、宰相は「しまった」という顔になった。
「……申し訳ありません。嫌味ではなく、つい口から出てしまっただけです」
私も思わず口から言葉が飛び出していた。
「……あなたの息子にした事を思えば、何を言われても仕方ないわ」
私の素の話し方に、宰相は、さして驚かず話を続けた。
「私が話したかったのは、『昨夜、貴女とアーサーの間に起こった事』ではありません」
それ以外で、宰相が私に何を話したいというのだろう?
「人は生まれる所を選べません。王女殿下」
宰相は唐突に、そんな事を言いだした。
……やはりウィザーズ侯爵家には私の理解を妨げる何かがあるのだろうか?
「それでも王女として生まれてしまった以上、その義務や責任を果たさなければならない。それが貴女に課せられた宿命です」
宰相が何を思って、こんな発言をしたのかは分からない。だが、彼は何か重要な事を私に伝えようとしている。それだけは分かった。だから――。
「……私しか国王になれる人間がいないのなら受け入れたわ。でも、アルバートやアーサーがいる」
私は宰相の発言を無視する気も、「妾モード」で話す気にもなれなかった。
「アルバートは愚鈍な人間じゃない。……あの女が価値観の基準なのは不安だけど、少なくとも彼女はこの国の改革を目指しているから大丈夫。
何より、アーサーがいる。王配にならなくても宰相となってアルバートを支えて、この国を今よりずっとよくしてくれるわ」
私のこの発言も王女の責務放棄だと分かっている。弟とアーサーに重責を全て押しつけているのだから。
「……だが、それも、貴女がアーサーの妻になってこそです」
宰相は私の発言に対して意外な事を言いだした。
「……何?」
「貴女が手に入らないのなら、アーサーは何のためらいもなく故郷を棄てますよ」
「……何言っているのよ?」
アーサーも宰相も、なぜ、こうも私の理解不能な事ばかり言うのか?
強張った顔でアーサーによく似た宰相の美貌を見るだけの私の耳に扉をノックする音が聞こえた。
宰相の「入れ」という言葉の後、入室してきたのは、アーサーだった。
「リズは、まだ眠っているのか?」
(……これは、お母様の声?)
私は寝台の上で、ぱちりと目を開けた。
寝台脇の小さな棚に置いてる時計を見ると九時を示している。いつもなら学院が休日でも七時頃には目を覚ますのに。
「は、はい。王妃様。王女様をお起こししましょうか?」
緊張したような王女の侍女長の声。
「いや、よい。リズは疲れているだろう。眠らせてやれ。あの子が目覚めたら妾に知らせてくれればいい」
私は寝台から起き上がると大急ぎで扉に向かった。
「お母様、何か御用でしょうか?」
扉を開けると窓から入る陽光は、かなり明るかった。寝室はカーテンで遮光していため薄暗かったのだ。
「ああ、リズ」
外見だけは、あでやかで麗しい王妃は私を見ると破顔した。
彼女の後ろには、いつもの五色のベールで顔を隠した五人の侍女達がいる。
王女の侍女十人全員が揃っている。王妃が来たため勢揃いしたのだろう。
私は困惑した。昨日あれだけ怒っていた王妃が、なぜ、こんなに機嫌がいいんだ?
王妃は妾妃と違って恨みや怒りを引きずる女性ではない。だが、私のしでかした事を考えると、こんなに急激に機嫌が直るものだろうか?
王妃は私を抱きしめた。王妃は女性にしては背が高く私は小柄。そのため私の顔は彼女の胸になる。妾妃ほどではないが私よりは確実にある柔らかな胸からは薔薇の香りがした。《薔薇の王妃》と讃えられる彼女は薔薇の香りがする香油や石鹸を好んで使用しているのだ。
「……あの、お母様、とりあえず着替えてきますわ。お話は、それから伺います」
母娘とはいえ相手は王妃だ。寝間着のままで話を聞くのは不敬になる。
「ああ、いいのだ。体がつらいだろう。横になっているといい」
「はい?」
体はつらくない。なぜ、王妃は、そう言うのだろう?
「早朝にアーサーが妾を訪ねてきたのだ」
王妃が思ってもいなかった事を言いだした。
「……アーサーがですか?」
瞬時に昨夜の彼とのあれこれを思い出して顔が熱くなった。なぜ、今まで忘れていたのか。……できれば記憶の中から消し去りたかったからだろう。
顔を真っ赤にしている私をどう思っているのか、王妃の娘に向ける眼差しはやけに優しかった。
「アーサーが約束もなしに早朝に訪ねてくるなど驚いたが」
(……ええ、私も昨夜は驚きました。お母様)
心の中で私は相槌を打った。
「話を聞いて納得したぞ。婚約者とはいえ結婚前に肌を重ねるなど本来なら許しがたいが」
「……はい?」
王妃の言葉が理解できなかった。
……昨日のアーサーも今目の前にいる王妃も、ちゃんとテューダ語を話しているというのに、なぜ、こうも二人の言葉が頭に入ってこないのだろう?
ウィザーズ侯爵家の血には私の理解を妨げる何かがあるのだろうか? そんな埒もない考えが浮かんできた。
「お前が自分以外の男の子を孕んだと聞いて、冷静なアーサーも、かっとなってしまったらしいな」
(……アーサーが、かっとなるなんてありえません。お母様)
今度も心の中だけで私は突っ込んだ。
実際、怒りで周囲を威圧するほどの凄みを放っていても、アーサーの言動は冷静そのものだった。怒りで我を忘れるなど彼に関してはありえない。
「お前、初めてだったのだろう? いくらアーサーの気を引きたいからって他の男の子を孕んだなどと、そんな人騒がせな嘘を吐くとは」
私は絶句した。そんな私に構わず王妃は蕩けるような美しい笑みを見せた。
「お前も反省しているから叱らないでくれとアーサーに頼まれたからな。何より二人が結ばれたのは喜ばしい事だ。結婚前だから陛下はいい顔をなさらないだろうが、そこは妾が宥めるから安心するといい」
王妃は昨日同様、言いたい事だけ言うと自分の侍女達を引き連れて帰って行った。
残されたのは思考停止になった私と何やら物言いたげな視線を送ってくる王女の侍女達。
「……あの、姫様?」
いつの間にか傍に来たケイティが恐る恐る声をかけてきた。
「……ふ、ふふふふふ……あはははは!」
私は哄笑した。
凄まじい怒気を放つアーサーにも物申せる胆力を持つケイティも、これにはぎょっとしたらしい。他の侍女達も明らかに引いている。だが私は全く気にしない。というより彼女達の姿など目に入っていなかった。
「……食事用意して。簡単なのでいいから」
数秒か数分か、笑いをおさめた私は侍女達に命じた。
「姫様?」
「王女様?」
怪訝そうな顔をする侍女達に私は衣裳部屋に向かいながら、もう一度命じた。
「食事よ。腹が減っては軍は出来ぬよ」
これから、あのアーサーに怒鳴りこむのだ。気力体力が充実しなければ昨夜のように彼の気迫に呑まれてしまう。
「……ああ、それから、ケイティ」
当然のように私の後について衣裳部屋に入ってこようとするケイティを振り返った。
「これからは妾の世話はしなくていい」
「姫様!?」
「それから、なるべく妾の視界に入るな」
私は「高慢な王女」に相応しく傲然と命じた。
言われたケイティだけでなく侍女達も驚いている。
「なぜでございますか!? 私が何かしましたか!?」
食ってかかるケイティに私は冷たい眼差しを向け昨夜のアーサーのように彼女の耳元に口を寄せた。ケイティと私は体格がさほど変わらないのでアーサーのように身を屈める必要はない。侍女達に聞かれないように囁いた。
「……解雇しない事が私の最後の恩情よ。あなたの真の主の下に還されれば殺されるか、よくて折檻でしょう。ありがたいと思いなさい」
ケイティは昨夜のように固まった。
そんな彼女を残して私は一人で衣裳部屋に入って行った。
「アーサー!」
王宮から徒歩で五分ほどの宰相府。その宰相の私室に私はノックもせず蹴破る勢いで扉を開けた。
大きな執務机の上に大量にある書類に署名をしているのは、当然ながら部屋の主である宰相。彼以外は部屋に誰もいない。
「……王女殿下」
アーサーの数年後を思わせる容姿の彼の父親、宰相ユテル・ペンドーン。息子《アーサー》同様、常に冷静沈着だが突然駆け込んできた王女には、さすがに驚いた様子だ。
宰相は今年で三十五歳。妹である王妃のひとつ年上だ。アーサーと同じ黒髪黒目、均整の取れた長身の超絶美形。
元は将軍を輩出するウィザーズ侯爵家の人間だが宰相を輩出するペンドーン侯爵家の一人娘イグレーヌ(アーサーの母親だ)と結婚し婿養子となり宰相になった。
その家の人間である事が大前提だが実力さえあれば女性でも女王や将軍にもなれる国だ。イグレーヌは聡明な女性で宰相になるのに申し分なかったが「私よりも夫のほうが相応しいですわ」と夫に譲ったのだ。
現在ウィザーズ侯爵となった兄、妹である王妃は軍人の家系らしい脳筋だが、宰相だけは息子のアーサー同様、冷静で怜悧な人だ。軍人となるより文官のほうが余程向いている。尤もイグレーヌと結婚したのは宰相になりたかったからではなく互いに恋したからだという。
「アーサーは!? いないのか!?」
ノックもせず駆け込んできて問いただすのは、王女とはいえ非礼だが頭に血が上っている私は気にしない。
アーサーは将来王配になるだけでなく父親の跡を継ぎ宰相も兼任する。ペンドーン侯爵家には彼以外兄弟がいない。それに何よりアーサー以上に宰相に相応しい人間もいないからだ。
そのために学院を飛び級で卒業後、常に宰相の父親に付き従い、その仕事を手伝っている。宰相府に行けば、かなりの確率でアーサーに会える。だが、今回は外れらしい。
「……王女殿下、貴女は謹慎中では?」
驚きから脱した宰相は尤もらしい事を言いだした。こういう所まで息子にそっくりだ。
「そんな事はどうでもいい! クソ親父には後でいくらでも怒られてやる! それよりもアーサーだ!」
他人に話す時は国王を「お父様」と言っているが今は取り繕う気にはなれなかった。
「……アーサーなら陛下の所ですが」
宰相は王女の「クソ親父」発言については取り立てて何も言わず素直に息子の居所を教えてくれた。
「お待ちを。王女殿下」
そのまま部屋から出ようとする私を宰相が思いがけないほど強い口調で呼び止めた。
「アーサーに会う前に、少し私と話しましょう」
宰相は執務机の前にあるソファを示すと座るように促した。私が座ると彼も執務机からテーブルを挟んで対面のソファに移動した。
婚約者の父親、私の伯父とはいえ、宰相とじっくり話した事などない。高慢な王女というだけでなく……息子を邪険にしているのだ。宰相の私に対する評価など最低なものに決まっている。国王が命じたのでなければ、とっくの昔に婚約解消したかったはずだ。
そんな王女相手に何を話すというのか?
最初は、のほほんと考えていたが、今この時、宰相が王女に言いたい事などひとつしかない。ようやく私はそれに気づいた。
「何もなかったからな!」
侍女達からだけではない。宰相府に来るまで物言いたげな大勢の視線にさらされた。アーサーへの怒りがなければ自室に閉じこもっていただろう。アーサーか王妃、どちらかが(あるいは両方が)言い触らしたのか。とにかく私と彼の間に何かあったのだと誤解されたのだ。
「何やら噂になっているが、何もなかったからな!」
もう一度念押しする私に宰相は醒めた眼差しだ。
「実際に何かあったにしろ、なかったにしろ、これだけ噂になった以上、今更否定しても無駄ですよ」
「それでも、わた……妾は否定するぞ! 何かあったと思われるなど耐えられないからな!」
「……婚約者以外の男の子を妊娠したと思われるのは構わないんですね」
思わず黙り込んだ私に、宰相は「しまった」という顔になった。
「……申し訳ありません。嫌味ではなく、つい口から出てしまっただけです」
私も思わず口から言葉が飛び出していた。
「……あなたの息子にした事を思えば、何を言われても仕方ないわ」
私の素の話し方に、宰相は、さして驚かず話を続けた。
「私が話したかったのは、『昨夜、貴女とアーサーの間に起こった事』ではありません」
それ以外で、宰相が私に何を話したいというのだろう?
「人は生まれる所を選べません。王女殿下」
宰相は唐突に、そんな事を言いだした。
……やはりウィザーズ侯爵家には私の理解を妨げる何かがあるのだろうか?
「それでも王女として生まれてしまった以上、その義務や責任を果たさなければならない。それが貴女に課せられた宿命です」
宰相が何を思って、こんな発言をしたのかは分からない。だが、彼は何か重要な事を私に伝えようとしている。それだけは分かった。だから――。
「……私しか国王になれる人間がいないのなら受け入れたわ。でも、アルバートやアーサーがいる」
私は宰相の発言を無視する気も、「妾モード」で話す気にもなれなかった。
「アルバートは愚鈍な人間じゃない。……あの女が価値観の基準なのは不安だけど、少なくとも彼女はこの国の改革を目指しているから大丈夫。
何より、アーサーがいる。王配にならなくても宰相となってアルバートを支えて、この国を今よりずっとよくしてくれるわ」
私のこの発言も王女の責務放棄だと分かっている。弟とアーサーに重責を全て押しつけているのだから。
「……だが、それも、貴女がアーサーの妻になってこそです」
宰相は私の発言に対して意外な事を言いだした。
「……何?」
「貴女が手に入らないのなら、アーサーは何のためらいもなく故郷を棄てますよ」
「……何言っているのよ?」
アーサーも宰相も、なぜ、こうも私の理解不能な事ばかり言うのか?
強張った顔でアーサーによく似た宰相の美貌を見るだけの私の耳に扉をノックする音が聞こえた。
宰相の「入れ」という言葉の後、入室してきたのは、アーサーだった。
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