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第一章『忍び寄る影編』

第十二話 熱を甘噛む【後】

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 まず手始めに、ズボン
 上にあわせるきものは、ゆったりとした藍染のもの。
 雪道でも長く使えるよう、履物は丈夫なブーツに。

「なにを着ても似合うねぇ!」

 ハヤメは上機嫌だった。憂炎ユーエンに服を買ってあげることができたからだ。
 兎の毛皮でできた襟巻きは、駄目押しのプレゼントだ。
 白いふわふわにつつまれて、思う存分ぬくぬくしてほしい。

「……ごめんね」

 そんなハヤメの思いとは裏腹に、憂炎の表情は影を落としていた。

「あれま、なんで謝るの?」
「だって、梅姐姐メイおねえちゃんの簪が……」

 あぁ、と合点がいく。
 かねを手に入れ、すぐさま衣服を一式そろえたのだ。
 憂炎のなかでは、「おれのせいで梅姐姐が簪を売った」と解釈しているのだろう。

「憂炎のせいじゃない。憂炎のため、だ。私が好きでしていることなんだよ」
「すき、で……?」
「そう。だからこういうときは、お礼のほうがうれしいな」

 腰をかがめ、うつむいた憂炎をのぞき込む。

「……ごめんね、ごめんなさい……」

 だけれども、謝罪はかさねられた。
 か細く絞りだされた声で、悲痛なほどに。

「おれ、なんにももってない……世間知らずで、力もなくて、梅姐姐に守ってもらってばっかり……」
「それも君のせいじゃないだろう、憂炎」

 ──獣人は獣として生まれ、三歳までに人の姿を得る。
 それが常識。例外などなかったはずなのに、五歳になっても人にはなれず。

 だから親に崖から落とされ捨てられたのだと、涙ながらに告白があったのは、きのうのこと。
 幼いこどもの口から聞かされるには、あまりにも不憫な話だ。

 人々からは迫害され、唯一のよりどころだった家族からは見放され。
 どれほど絶望したことだろう。
 その傷を、知ったように語ることはできないけれども。

「君は強い子だよ。生きることをあきらめなかったじゃないか」

 それだけは、知っている。ハヤメだけが、知っている。
 何度だって言おう。

「なにより、私を信じてくれてありがとうね、憂炎」

 君がいなければ、私は独りだっただろう。
 君がいるから、私は逃げださずにいられる。

 ほほ笑んで、そっとつつみ込めば、痛いくらいに背へ腕を回される。

「おれのなまえ呼んで、なでてくれたのは、梅姐姐だけ……もう、梅姐姐だけでいいよ。ほかには、なんにもいらないよ」
「憂炎……?」
「言うこときく、いいこにしてるから、どこにもいかないで。ずっといっしょにいて。ねぇおねがい、梅姐姐……」

 憂炎はこれから自分がどうなるのか、理解していないのだろうか。
 思わずうなずいてしまいそうになるけれど、唇を噛みしめてこらえた。

人間わたしでは、あるべき場所へと導いてやることができない……)

 どうか許してほしい。
 その一生まで背負う覚悟のない、薄情者を。

「梅姐姐、なんでだまってるの……?」

 ハヤメを呼ぶ声が、不安げにゆれている。
 わずかに身体を離し、それから。

「そうだなぁ。憂炎が、可愛いから?」
「っ……梅姐姐……!」

 きらきらと朝露のにじんだ目じりを親指でぬぐってやれば、ほほから耳まで、かぁっと朱に染まる憂炎。

「嫌かい?」
「……いやじゃ、ない……ムズムズ、するだけ」
「ムズムズ?」

 くしゃみでもこらえているのだろうか。
 そういえば、急に顔が紅潮してきたように思う。
 本調子ではなかった? 発熱したのでは?

「憂炎、おでこをみせてごらん。どれ……」

 熱をはかろうと、膝を折ってのぞき込む。と。

「……さわって」

 ぽうっと熱をおびた柘榴の瞳が、まぬけ顔を映し込んでいた。

「おれも……さわりたい」

 すこしだけ空いていた距離は、ちいさな一歩でうめられる。
 かかとを浮かせた少年が、両の細腕をハヤメの首へ回した。

「ん……」

 ほほをふれあわせるたび、くぐもった吐息が耳もとでこぼれる。
 とっさにその小柄な背をいだく。
 憂炎の体温が、あきらかに上昇しているのがわかった。

「憂炎、やっぱり熱が……」
「や!」

 みなまで言わせてもらえなかった。
 いやいやと首をふった憂炎に、よりいっそうしがみつかれてしまう。

「なでて。おれのこと、ぎゅってしてよ……」

 人肌が恋しいのか。
 ここまでくれば、ハヤメもやっと納得した。
 お望みどおり、月白の髪に指を通してあげるとするか。

「はぅ……んん……梅姐姐……」

 きもちよさそうな声が、鼓膜にとける。
 ひときわ熱っぽいひびきで名を呼ばれた後。

 かぷ……と。

 左のほほに、ほのかな痛み。

 憂炎の、人間のものよりするどい犬歯で食まれているのだと理解したのは、三拍ほど遅れてから。

 肉を食いちぎるような荒々しさはない。
 飼い主にすり寄る子犬のような、いじらしさはあるけれども。

 やわやわと甘噛まれた箇所を、こんどは熱くてやわらかいものが這う。
 ぺろ、ぺろりと、赤い舌にくり返しほほをなぞられた。

「梅姐姐……」

 冷たい冬の外気にさらされた往来にあって、まったく寒さを感じない。

「おれの……だいすきなひと」

 北風が入り込む一分の隙さえも、そこにはなかった。
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