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第三章『焔魔仙教編』

第百三十話 氷風はすさぶ【中】

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 燈角とうかくの街へやってきて数日。
 最近わかったことなのだが、どうやらマオ族は、朝のあいさつが独特なようだ。

「おはようございます、五音ウーオンさま」
「あぁ、梅雪メイシェさま!」

 朝食の帰りのこと。茶に黒のまじったキジトラ髪の青年と、回廊でばったり。
 つねに笑っているような糸目の五音は、早梅はやめにならって軽く頭を下げる。そこまではいい。

 五音はおなじ目線までかがむと、おもむろに早梅のほほをつつみ込み、前髪を掻きあげてひたいとひたいをくっつける。

 顔をはなすと、今度は右手を取る。指先で手首のあたりをなぞり、最後は手のひらの付け根へ唇をふれあわせ、

「おはようございます。よい朝ですね」

 と笑いかけてくる。
 ひたいをくっつけてくるのも、手首に口づけをするのも、五音だけではない。

六夜リゥイさま、一心イーシンさま、それに藍藍ランラン詩詩シーシーも毎朝おなじことをするから、猫族独自のあいさつなのかもしれないな)

 早梅はそう解釈して、深くは考えなかった。

 とくに一心、六夜、五音が『あいさつ』をしてくると真顔になる黒皇ヘイファン、威嚇し始める晴風チンフォンを、「ちょっとしたスキンシップだろうに、大げさだなぁ」とながめていたほどだ。

 それが大きな間違いだったことを、唐突に思い知ることになろうとは。

「梅雪さま、へやのなかにばっかいると、退屈しません? 俺とちょっと運動でもしましょうよ」

 事の発端は、ある昼下がりに六夜が客室をたずねてきたことによる。

「わぁ、鍛錬ですか? もちろん、ぜひごいっしょさせてください!」

 刺繍より、剣を振っているほうが好きな早梅である。要するに、脳のつくりが文系ではなく体育会系。

 子育てに追われていた早梅にとって、六夜の提案はじつに魅力的なものであり、ふたつ返事で了承する。
 晴風は蓮虎リェンフーとお昼寝中だから、声をかけなくてもいいだろう。

「それじゃ軽功けいこうの練習がてら、かけっこでもしますかね。最初は俺が逃げるんで、つかまえてください。行きますよっ!」

 爽やかに笑みを炸裂させた瞬間、六夜のすがたがかき消えた。これは、アレである。

(いにしえの、5G回線──!)

 こうなってくると、わくわくが止まらない早梅。

「ちょっとだけ小蓮シャオリェンをお願いします! 行ってきまーす!」

 近所の友だちから遊びにさそわれたノリで、颯爽と青い空に向かって駆けだすのだった。

「まったく、あの子はいつまでもお転婆だな。──黒皇」
「はい、旦那さま」
「私が同行するから、蓮虎とお祖父様をたのむ」
「……かしこまりました」


  *  *  *


 木から木へ。
 それは、難しいことはなにも考えずに、雪山を駆け回っていたあのころの感覚と似ている。
 違うのは、むかしよりはやく、風とならべること。

 ──ザザッ。

 木の葉がざわめく音を、背後にきく。
 ヒュルリと変わった風の流れを読み、早梅はふみ込んだ枝をバネにして、落とし込んだからだを宙高くへ跳ね上げた。

「みぃつけ……あれっ?」
「残念でしたっ!」

 一拍遅れで、六夜の手が少女の残像を引っかく。
 すぐさまあおいだ頭上で、翡翠の髪がたなびいた。

「そーれっ!」

 落下の重力に身をまかせながら、袖をふる早梅。
 白魚のごとき指先からはじけた氷の結晶が、木もれ陽を反射し、六夜へと降りそそぐ。

「うわっ、つめてっ!」
「ふふ、おまけです」

 六夜を避けるばかりか、氷功ひょうこうをあびせ、見事してやったり。
 着地まで決めるつもりだったが、六夜もやられたままではいられないたちのようで。
 
「こんの、おりゃっ!」
「んっ? あら~っ?」

 六夜は足底に力をこめ、ぐん、と跳躍すると、空中で体勢を立て直そうとした早梅の腕をかっさらい、危うげなく着地した。
 あまりに一瞬のことで、米俵のごとく六夜の肩に担がれた早梅は、瑠璃の瞳をぱちくりさせる。

「お米さまだっこをされてしまった」
「そんじゃ、お米さまをお姫さまにしてやりましょうかね」

 六夜はそういって、担いだ早梅を両腕で横抱きにする。そこは地面へおろしてほしいところだ。

「六夜さま、私の足が『土が恋しい』といっています」
「ふーん。却下」
「なんでですか! 歩けますよ!」
「つかまったお姫さまは、おとなしくしてないとね」
「ぐぬぬ……!」

 遊ばれている。
 六夜をつかまえ、今度は早梅が逃げる側となったが、どちらにしろ六夜に『手加減されていた』とわかり、悔しいのなんの。

「もしかして、お姫さまだっこのままお屋敷にもどります?」
「そうだけど?」
「六夜さま、ちょっとお話をしましょう」
「なんで? やなの?」
「とてもお屋敷にもどりたくない気分です」

 この体勢のままでは。
 なぜなら、公開処刑も甚だしいからである。

「へぇ……いいよ、お話しよっか」
「ありがとうございます……?」

 どうやら最悪の事態は免れたらしい。
 が、にぃっと口もとをもち上げた六夜の笑みに、ぶるりと身がふるえてしまい。どうしたというのだろう。
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