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第三章『焔魔仙教編』

第二百十二話 琵琶を奏でるは【中】

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「威勢だけはいいけどさぁ、アンタたちが勝てるわけないでしょ?」
「やっちゃいな、おまえたち!」
「う……グ、ォオオオッ!!」

 蠱毒師の号令に、獣人たちが雄叫びを上げる。

「くっ……獣人たちを肉の壁にするつもりか!」

 早梅はやめたちは、獣人に下手な手出しができない。
 そうして早梅たちが怯んだ隙に、毒牙にかけようという算段なのだろう。

「獣人たちの動きを止めて、蠱毒師に近づくには、どうすれば……!」

 必死に考えをめぐらせる早梅だが、もはや猶予は残されていなかった。
 獣人たちは、すぐ目前まで迫っていたのだから。

「ハイジョ……コロス、殺スゥウウッ!!」

 一瞬、反応が遅れた。
 そんな早梅を、鋭い爪を剥き出しにした獣人の影が覆う。

「させません」
「なっ……」

 夜風になびく濡れ羽色の髪。
 呆然と瑠璃の瞳を見ひらいた早梅の視界を、ひろい背が遮る。

「この方には、指一本ふれさせない」
「っ、だめだ黒皇ヘイファンっ!」
「兄上っ!」

 早梅を背にかばった黒皇へ、獣人たちが襲いかかる。
 とっさに黒皇の袖を引っぱる早梅だが、黒皇はびくともしない。
 シアンが駆け寄ろうとするも、トウ族の少年を押さえつけているため、それが叶わない。
 この先に待ち受ける光景を想像して、早梅、そして爽から、さぁっと血の気が引いた。

 だが、事態は思わぬ展開をみせる。
 早梅たちに飛びかかる獣人が、突如としてすがたを消したのだ。

「なんだ……?」

 いや、消えたわけではない。
 早梅が気づいたときにはもう、獣人たちは遥か遠くの岸辺に転がっていた。
 苦しげにうめく獣人たちの全身には、鈍く光るモノが絡みついている。

「僕を忘れてもらっては困るな。残念だったね、黒皇」

 ヒュンヒュンと、夜闇を裂くような甲高い音が響く。
 黒皇は息を飲み、おのれを呼んだ声の主──一心イーシンを見た。
 かすかに笑みを浮かべ、若草色の袖をはためかせる一心の両の指からは、細い糸のようなものが伸びている。
 が何なのか、黒皇はすぐに理解できた。そして、早梅も。

「一心さま! まさか……!」
「ふふ、驚かれましたか? じつはあの子に鋼弦いとの使い方を教えたのは、僕なんです」

 あの子。一心が誰のことを言っているのか、みなまで言われずとも、早梅にはわかった。

「ただ、あの子は琵琶の弾き手でしたが、僕がたしなんでいるのは、琴でして」

 琵琶と琴。どちらも爪弾つまびく弦楽器だ。
 違いがあるとすれば──

「琵琶は四弦、琴は七弦。自分で言うのも何ですが、僕のほうが、ちょっと厄介ですよ?」

 一心の口もとが、三日月のごとく、ゆるりと弧を描く。
 琥珀色の眼光が、闇夜にまたたいた。

「はっ!」

 網の目状に張り巡らされた鋼弦いとが、蓮池に散らばる獣人たちを絡めとる。
 一心が義甲ゆびから鋼弦いとを紡ぎ、若草色の袖を振るたび、ひとり、またひとりと、網にかかった獣人が岸辺に放られた。

 圧倒的な技術だった。
 それは単に、あやつる弦の数だけによるものではない。

 ふれれば肉を裂き、骨をも断つ。それが鋼弦いとだ。
 驚異的な殺傷性能をもつ武器で、獣人に傷ひとつつけることなく、拘束するだけにとどまる。
 それは、一心が卓越した技術をもつ証明として、充分なものだった。

「おまえたち! モタモタしてないで、さっさと──」

 構わず命令を飛ばそうとする蠱毒師だが、不自然に言葉が途切れる。

 はらり、ひらり。

 ふいに、月明かりを淡く反射する『何か』が、視界を横切ったためだ。

「なんだこれ」
「つめたっ…………雪?」

 そう、音もなく舞っていた純白の結晶は、たしかに雪だった。
 夏の夜空のもとで、じつに不思議なことだ。

 花びらが舞うように、雪が闇夜を躍る。

「これは……!」

 爽の腕の隙間から、純白の冷気が入り込む。
 そしてうつ伏せに横たわる少年にふれた、その刹那。

 ピシピシピシィッ!

 少年の手が、足が、たちまちに凍りついてしまった。

氷功ひょうこう──『花氷はなごおり』」

 静かな声音が響き、早梅は反射的に振り返った。
 その先で、凛然と水面にたたずむ桃英タオインのすがたがあった。
 ぱさりと右の袖をさばいた桃英の指先からは、凍てつく冷気と、純白の結晶がただよっている。
 兎族の少年だけではない。岸辺に放られた獣人たちも、ことごとく手足が凍りついていた。
 
「これで、身動きは取れまい。案ずるな。凍傷にかからぬよう、一定時間がたてばとけるようにしてある」
「さすが桃英さま。お見事です」

 にこりと笑みを浮かべた一心は、鋼弦いとを巻き取ると、はずした義甲ゆびを若草色の袖の中へおさめて、ぱちぱちと桃英へ拍手を送った。
 一心、桃英。両者によって、早梅たちに差し向けられた獣人は、みな動きを封じられた。

 これで残るは、蠱毒師と、ふたりが使役する毒蜘蛛のみ。

「チッ……うざいやつらだな」
「あーもう、ムカつくムカつくムカつく……」

 形勢逆転。劣勢に立たされた蠱毒師だが、戦意を喪失するどころか、ぶわりと殺気をふくれ上がらせてゆく。

「ならもう、遠慮しなくていいよな」
「さっさと、死んじゃえよ」

 とたん、肌が粟立つのを、早梅は感じた。
 蠱毒師を取り巻く空気が、豹変したのだ。

「──残酷に、殺してやる」

 蠱毒師たちが声をそろえたそのとき、月光をさえぎり、現れる影があった。
 た、たんっと危うげなく小舟に着地して見せたのは、全身黒ずくめの覆面の男たち。ざっと数えて、五人はいるだろう。

「これはまぁ……どこかで見たことがあるような、趣味の悪い服装だな」

 早梅は失笑した。
 忘れるはずもない。あれは間違いなく、二年前、飛龍フェイロンが早梅たちに差し向けた追っ手とおなじものだ。
 つまり、獣人奴隷とは比べ物にならない戦闘能力の持ち主。暗殺のプロ集団だ。

「いやいや、一心さまじゃないんだし、どこから現れたんだよ。さっきまで全然気配がなかったよ?」
「まさに、『降ってわいた』ようだったねぇ」

 ほほを引きつらせる九詩ジゥシーへ何でもないように返す一心だが、一切笑みは浮かべていない。

詩詩シーシーの言うとおり、まったく気配がなかった)

 只者ではない。早梅は全神経を研ぎ澄ませ、ひとりひとり、黒装束の男たちの動向を注視した。
 が、はたと気づく。

「……四人……?」

 一瞬たりとも、目を離したつもりはない。
 それなのに、早梅の視界には、四人の男しか映っていなかった。
 いや、違う。全部で五人いたはず。

 ──ベン。

「はっ……」

 どこかで、弦を弾くような音色が聞こえた気がして。

「呆けるな、梅雪メイシェ!」

 矢で射抜くような叱責が飛ぶ。
 それが父の言葉だと理解したとき、反射的に身をひるがえした早梅の目前で、ばちりと火花が散っていた。

 いつの間にだろうか。早梅の背後を取った『五人目の男』が、抜き放った剣で斬りかかったのだ。
 その斬撃を、軽功でいち早く駆けつけた桃英が、すんでのところで弾き返した。
 桃英の右手には、純白に輝く両刃の剣がにぎられている。
 剣罡けんこう。氷功をもとにかたちづくられた、氷の剣だ。

「私の娘を害そうものなら、ただでは済まぬぞ」
「お父さまっ……!」

 手首を返し、ぐっと踏み込む桃英。
 華麗なる一閃が繰り出されるも、氷の刃が捉えたのは、男の残像のみ。

ザオ家の娘は傷つけるな。陛下のお怒りを買うぞ」
「わかっている。すこし遊んだだけだ」
「なん、だと……!?」

 早梅は、信じられない光景を目の当たりにした。
 いまのいままで背後にいた男が、蓮池の小舟に降り立ち、悠長に仲間と言葉を交わす光景だ。

 まただ。この広い広い蓮池を、まばたきのうちに移動してみせるなど、軽功のなせる範疇はんちゅうではない。
 それこそ、一心のあやつる『空間支配能力』のようなものがなければ。
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