おやばと

はーこ

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*2* 知らない場所で

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 深海に暮らす魚が、いきなり地上へ引きあげられたとしたら、こんな感じなんだろうか。

 いっそ辛いほどのまばゆさ。真白の静寂。
 こわごわと光を網膜に取り入れて、じっと明順応を待つ。

「……っ」

 知らない。身に覚えがない。
 まっさらな天井も、間接照明も、横たわった世界すべてが。

 ぱた、ぱた、ぱた……

 凪いだ水面に、規則的な滴下音が届く。鼓膜をふるわせ、波紋を落として。
 ようやく定まった焦点で、力なく投げ出された一本の腕。
 それに食い込んだ〝なにか〟が映し出され、にわかに覚醒した。

「うぁっ……!」

 でもろくに脚を動かすこともできず、もつれた勢いのまま床へ雪崩なだれ込む。
 したたかに打ち付けた四肢。散らばったシーツ。
 もがくように白い布を跳ねのけ、上体を起こした。

「どこだ……」

 うわごとがこぼれて、ガラスのキャンバスを見上げた男の存在に気づく。
 額縁の中で唇を噛みしめた彼は、とびの羽根を思わせる赤暗い茶色の髪に、色素の薄いブルーの瞳を持っていた。
 ぺたりと右手を頬に当てれば、彼も左手で同様にする。

「だれ、だ……」

 驚き。戸惑い。焦り。
 ひと言では形容しがたい感情の高波が、思考を飲み込みながら渦を巻く。

「だれなんだ、おれは……っ」

 知らない。わからない。なにも。
 誰よりも知っているはずのじぶん自身が、なにも持ってはいなかった。からっぽだった。

「おれは、だれで……どうして……っ」

 理解するほど、言葉にするほど、耐えがたい焦りと不安の荒波で揉みくちゃにされる。
 心拍数が跳ね上がり、ドクドクと拍動音がやたら近くにある。

 口が渇く。ひび割れてしまう。
 胸が、苦しい。
 どうして、どうしたら……誰か、だれか!

「どうされましたか!?」

 自分ではない、男の声。
 反射的に振りあおいだそこ、スライド式のドアを開け放って、誰かが駆け寄ってくる。
 かろうじて視界に認めたのは、ひるがえる白い裾。

「はッ、はッ、はぁッ……!」

「大丈夫だから、息を吐こうね」

 くり返しなにかを呼びかけられている。それはわかる。
 けれども腹の底から込み上げてきたのは、安心感より嫌悪感だった。
 だって、うるさい。どこかで鳴り響いている電子音が。

 うるさい、うるさい、あぁ、うるさいうるさいうるさい……!

「ふぅっ……ぐ、ア、ぁあッ!!」

「っ、点滴のルートが!」

 意味のないうなり声を上げながら、右腕に噛みついていた違和感の元凶を、力任せに引きちぎる。
 透明な蛇がシーツに叩きつけられ、解放感の後に、熱の奔流が噴き出す。
 くり返される呼び声に、ソプラノのトーンが重なった。

「なにがあったの!?」

「パニックで過換気になってる。俺が抑えとくから、ドクターコールと、バイタル!」

「所長ならすぐ来るから! 止血任せて!」

 アカ、あか、赤。
 右肘の真ん中の、一番太い血管から、赤黒いものが流れ出る。どんどん。たくさん。

 比例して呼吸が薄く、速くなる。
 身体にこもる熱を発散したい一心で、がむしゃらに羽交い締めを振りほどく。

「はァッ、ぐぅ、うぁあああッ!!」

「はーい、落ち着いて、ゆっくり息しようねー」

「吸うのは勝手にできますからね。吐くほうを意識して、はい、ふぅー!」

 ふたりがかりで抑えつけられて、暴れまくったロボットは、最後どうなるのか。
 そんなの決まってる。バッテリー切れでシャットダウンするんだ。プツンと、死んだみたいに。
 そうか……俺は、死ぬの、かな。

「――目を閉じて」

 けたたましいノイズに混じって高い声音が届いたのは、そんなときだ。
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