秘密

阿波野治

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 悲しみも、涙もない。ただただ巨大な喪失感と空虚感だけがあった。
 胸に穴が開いたようなという表現は、今の僕の状態を表すのだろう。僕は人が変わったように無気力になってしまった。

 窓外が暗くなるまで、ベッドに仰向けに横になって、ずっと天井を見つめていた。染みの数を数えるだとか、今後自分がとるべき行動について考えるだとか、意味があるような、ないようなことをしながら。
 由佳との別れを惜しんだり、不在を悲しんだりする気持ちが生まれることは、ない。
 非実在の存在とはいえ、六年以上もともに過ごした相手が消えたというのに、なにも感じない。僕は薄情なやつなのかもしれない。そんな思いがたびたび胸を過ぎった。

 我ながらひどく末期的な症状に思えたけど、それでも心は、時間が経つにつれて徐々に回復していった。世界が闇に包まれるころには、ベッドから机に移動して授業のノートを見返し、夕食の時間には、一階に下りてダイニングテーブルに着いた。大切な人との別れを経験したあとでも、いっときは起き上がれなくなったほどの感情に支配されても、おなかは空くものらしい。

 ただ、やはり本調子からは遠いようで、
「どうしたんだ、遥斗。なにかあったのか」
 一口目のおかずを口に運ぶよりも早く、父親から指摘された。普段は口数が少なく、息子には積極的に関与しようとはしない人が、自分から声をかけてきたのだ。僕はそうとうおかしかったのだろう。

 作り置きのおかずを出すのを忘れていたらしく、冷蔵庫の中を探っていた母親が、皿を手にダイニングテーブルまで戻ってくる。母親は父親とは違ってしつこいので、沈黙を返せば煩わしい展開になるかもしれない。だから、答えた。
「うん、まあ、いろいろあって」

 父親の反応は僕の予想とは違っていた。
「そうか。まあ、お前くらいの年ごろになると、いろいろあるものだからな」

 皿をテーブルの空いた場所に置いて、着席した母親が、なにを話していたのかと尋ねた。父親は父親らしく手短に説明する。母親は僕に向かって言った。
「困っていることがあるんだったら、お母さんとお父さん、どっちでもいいから相談しなさいよ。そのために親がいるんだから」

 親に異変を感づかれて、「なにかあったのか」と尋ねられたとき、僕は一貫して「なんでもない」と答えてきた。
 内面をさらけ出すのをよしとしない性格だから、というのも、要因としては大きかっただろう。でも一番の理由は、ほんとうになにもなかったからではないか、という気がする。友だちの一人もいたことがなくて、内にこもっていたから、これという出来事に遭遇しない。だから、それが唯一の回答に等しかった。
 正常か異常かのどちらかに分類するなら、それはたぶん、異常なことだったのだろう。
 両親が言うように、思春期の人間なのだから、「いろいろある」のが普通なのだ。

 今日を区切りに、普通の日常が始まる。
 それは手放しで喜ばしいことだ。別れは悲しかったけど、その悲しみでは帳消しにできないほど、喜ばしいことなのだ。

 少し元気が出た。僕は箸を手にとって夕食を食べはじめる。職場で起きた出来事について話しながら食事をする両親は、息子を心配して声をかけたことなんか忘れてしまったみたいだ。

 さびしいのに一人きりにされて、恨んだこともある。でもそれは、仕事が忙しかったから仕方なかったのだ。孤独とはまた別の不幸を僕が抱えこまないために、仕事をがんばってくれていたのだ。中学生になった今ではそう完璧に納得できる。
 父親は寡黙だけど、今日声をかけてくれた事実が示すように、我が子に冷淡なわけでも、無関心なわけでもない。
 母親は口うるさいときもあるけど、逆に言えば、僕を気にかけてくれているということだ。
 僕は両親に恵まれた。
 心からそう思った。

 食事が美味しい。気持ちはとても前向きだ。一時間前の自分が嘘のように、心が高ぶりはじめている。
 僕の人生は、きっとよいものになる。

*

 由佳が消えたことは、住友さんには伝えないことにする。迷いに迷ったけど、自分の意思でそう決めた。
 住友さんは、四人の友だちに本音を打ち明けるという一大イベントを控えている。それを邪魔するのはよくない、という判断だった。
 一生の秘密にするつもりはない。機会を見て、こちらから言おうと思っている。由佳が消滅した事実を知って、彼女は悲しむかもしれない。罪悪感を覚えるかもしれない。だとしても、言おう。僕にとっても住友さんにとっても、必要なことだから。

 そのさいにはきっと、誤解をおそれずにこう付け加えよう。
 由佳はいつか帰ってくるかもしれないから、と。
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