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味方
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菜摘は家や学校でなにか嫌なことがあったとき、家からも学校からも歩いて約十分の距離にある公園に足を運び、気が済むまでそこで過ごす。そうするようになったきっかけは、今となっては覚えていない。
先客がいたことは滅多にない。あとから人がやって来たことも数少ない。人通りが少ない通りに面しているので、心身をクールダウンさせたり、物思いに耽ったりするには打ってつけの場所だ。
三橋さんとは、三か月ほど前にその公園で出会った。
その日、なにに嫌気が差してその場所に逃げ込んだのかは、今となっては思い出せない。学校から直接立ち寄った記憶だけが残っている。クラスメイトと喧嘩をしたか、濱田結衣にこっぴどく叱られたか、そのどちらかだろう。
「なにをやってるの、そんなところで」
いつものようにぼんやりとブランコに座っていると、出入口の方から声が飛んできた。
顔を上げると、公園と道路の境界に男性が立っている。
黒縁眼鏡をかけ、黒いツナギを着ている。年齢は三十前後だろうか。両手を腰に当てて菜摘のことを見ている。炭酸が抜けたような、緊張感に欠ける顔つきだ。
菜摘は人見知りをする性格ではないが、この公園にいるときに誰かに声をかけられたのは初めてだったので、まごついた。男性は右手を腰から外した。
「なにをやってるの?」
様子見のつもりで沈黙を継続する。男性はもう一方の手も下ろすと、ゆっくりと歩み寄ってきた。緊張を覚えたが、黙ってブランコに座り続けた。
男性は菜摘の目の前で足を止め、顔を見つめながら返答を待った。真剣さが感じられないわけではないが、どこか間の抜けた印象が拭えない表情だ。図々しいくらい親しげに声をかけてきて、にこやかな笑みを絶やすことがないという、フィクションの世界でよく描かれる変質者とは明らかにタイプが違う。
下心があって近づいてきたのではないのだろうか? 仮面の下に本性を隠していると深読みすることもできるが、器用な真似ができる男には見えなかったし、万が一そうだったとしても、ジーパンのポケットに隠し持っているカッターナイフがある。
「おじさんこそ、なんでわたしに話しかけてきたの?」
落ち着き払った口調で反問すると、男性の顔に柔和な微笑みが灯った。
「僕、職場への行き帰りに公園の前を通るんだけど、君が一人でブランコに座っているのをよく見かけるから、気になっていたんだ。見かけたのが今日でちょうど十回目だったから、一回声をかけてみようかと」
「そうだったんだ。……じゃあ、まあ、座れば」
右隣のブランコの座板を掌で叩く。男性は「あ、どうも」と言い、勧められた場所に腰を下ろした。ツナギからは鉄の臭いがした。
「ブランコなんていつ以来だろう。懐かしいなぁ」
男性はブランコを漕ぎ始めたが、子供用の遊具なので、脚の長さが邪魔をしてスムーズに漕げない。すぐに諦め、菜摘の方を向いて本題に入った。
「君はどうして一人で公園にいるの? 週に一回は来ているよね。なにか困っていることでもあるの?」
「ううん、別に。ちょっと嫌なことがあったときに、ここに来てしばらくぼーっとしてるだけ」
「そうなんだ。この公園、人が滅多に来ないから、一人になりたいときには絶好の場所かもしれないね。ところで、君の名前は?」
「それって、自分が名乗ってから訊くものじゃないの」
「あ、ごめん。僕は三橋勇気っていうんだ。数字の三に、ブリッジの橋に、勇気凛々の勇気」
名乗れば名乗ると約束したわけではなかったが、返礼に、菜摘も自分の名前を告げた。
そのあとは、互いに簡単な自己紹介をしたり、気になったことを相手に質問したりした。どちらかといえば男性――三橋勇気の方が、相手のことを知りたい欲求を強く持っているようだった。
今年で三十歳。町内の安アパートで一人暮らしをしていて、同じく町内にある工場で働いている。子供が好きで、保育士を目指して勉強をしていた時期もあった。
以上の情報を、三橋勇気は自ら明かした。
菜摘は三橋勇気のことを、親しみを込めて「三橋さん」と呼ぶことにした。
三橋さんはよく喋った。口数は多いが厚かましくなく、無闇に子供扱いをしないところに、菜摘は好感を持った。信頼できる大人だ、という気がした。三橋さんとの関係をこの場限りで終わらせるのは惜しい、とも思った。
「お腹空いたなぁ」
会話の切れ目に呟き、三橋さんは左手首に巻いた腕時計に目を落とした。菜摘も一緒になって覗き込む。午後六時を過ぎたところだった。
「もうすぐ晩ご飯の時間だし、そろそろ帰ろうかな」
半分は話しかけるつもり、半分は独り言のつもりで菜摘は言った。すると、思いがけない言葉が返ってきた。
「もしよかったら、晩ご飯一緒に食べる? 僕が奢るよ」
初対面の人間に食事に誘われるのは初めてだったので、どう答えていいか分からない。三橋さんはにこやかに言葉を連ねる。
「心配しなくてもいいよ。奢ったのと引き替えになにかしてもらうとか、そういうのじゃ全然ないから。僕と菜摘ちゃんが知り合った記念に、僕の奢りで一緒に晩ご飯を食べる。ただそれだけのことだよ。菜摘ちゃんの都合さえよければ、是非一緒に食べたいんだけど、駄目かな?」
「……帰りが遅くならないんだったら、別にいいけど」
「時間なら大丈夫。ここから歩いてすぐのところにあるお店――『ラーメン近代』っていうところで食べるから。菜摘ちゃん、ラーメンは平気?」
ラーメンが嫌いな人はあんまりいないんじゃないかなあ、と思いながら首肯する。三橋さんは、いささか大げさな表情の変化と言葉で喜びを露わにした。
夕食時ということもあり、『ラーメン近代』の店内は客で賑わっていた。
二人は出入口近くの二人がけの席に着き、無駄話をしながらラーメンをすすった。注文したしょうゆラーメンは少々油っぽかったが、濃いしょうゆ味が菜摘の好みに合った。初対面の割には話も弾んだ。
「暗いから、帰り道には気をつけてね」
手を振る三橋さんに見送られ、菜摘は帰途に就いた。
それからというもの、菜摘は嫌なことが起らなかった日でも、三橋さんに会うために公園に行くようになった。
公園で顔を合わせると、二人は並んでブランコに腰かけ、心ゆくまで話をした。仕事が終わったばかりにもかかわらず、三橋さんは疲れた顔を見せたり、「疲れた」と口にしたりすることは一度もなかった。
菜摘は主に、学校や家であった出来事について話した。三橋さんは街で見かけた風変わりな事物や、無料動画共有サイトで視聴した面白い動画など、毒にも薬にもならない話題を持ち出すことが多かった。
夕食はこれまでに四回、一緒に食べた。行く店は決まって『ラーメン近代』だったが、二回目はしょうゆラーメンの他にチャーハンを一皿頼んでシェアし、三回目はチャーハンを頼まない代わりにしょうゆラーメンのトッピングを豪華にし、四回目はラーメンを頼まずにギョウザとチャーハンという具合に、毎回オーダーを変えた。四回とも代金は三橋さんが支払った。
「いつも思うんだけど、僕と菜摘ちゃんのツーショットって、やばいよね。周りの人たちからすれば、僕は菜摘ちゃんによからぬことをしようと企んでいる変質者にしか見えないんじゃないかな。最近、その手の事件が多いし」
三橋さんは菜摘と顔を合わせるたびに、苦笑混じりにそんなことを言った。
そのくせ、仕事帰りに公園内に菜摘の姿を見つけると、気安く隣に座り、気さくに話しかけてくる。
先客がいたことは滅多にない。あとから人がやって来たことも数少ない。人通りが少ない通りに面しているので、心身をクールダウンさせたり、物思いに耽ったりするには打ってつけの場所だ。
三橋さんとは、三か月ほど前にその公園で出会った。
その日、なにに嫌気が差してその場所に逃げ込んだのかは、今となっては思い出せない。学校から直接立ち寄った記憶だけが残っている。クラスメイトと喧嘩をしたか、濱田結衣にこっぴどく叱られたか、そのどちらかだろう。
「なにをやってるの、そんなところで」
いつものようにぼんやりとブランコに座っていると、出入口の方から声が飛んできた。
顔を上げると、公園と道路の境界に男性が立っている。
黒縁眼鏡をかけ、黒いツナギを着ている。年齢は三十前後だろうか。両手を腰に当てて菜摘のことを見ている。炭酸が抜けたような、緊張感に欠ける顔つきだ。
菜摘は人見知りをする性格ではないが、この公園にいるときに誰かに声をかけられたのは初めてだったので、まごついた。男性は右手を腰から外した。
「なにをやってるの?」
様子見のつもりで沈黙を継続する。男性はもう一方の手も下ろすと、ゆっくりと歩み寄ってきた。緊張を覚えたが、黙ってブランコに座り続けた。
男性は菜摘の目の前で足を止め、顔を見つめながら返答を待った。真剣さが感じられないわけではないが、どこか間の抜けた印象が拭えない表情だ。図々しいくらい親しげに声をかけてきて、にこやかな笑みを絶やすことがないという、フィクションの世界でよく描かれる変質者とは明らかにタイプが違う。
下心があって近づいてきたのではないのだろうか? 仮面の下に本性を隠していると深読みすることもできるが、器用な真似ができる男には見えなかったし、万が一そうだったとしても、ジーパンのポケットに隠し持っているカッターナイフがある。
「おじさんこそ、なんでわたしに話しかけてきたの?」
落ち着き払った口調で反問すると、男性の顔に柔和な微笑みが灯った。
「僕、職場への行き帰りに公園の前を通るんだけど、君が一人でブランコに座っているのをよく見かけるから、気になっていたんだ。見かけたのが今日でちょうど十回目だったから、一回声をかけてみようかと」
「そうだったんだ。……じゃあ、まあ、座れば」
右隣のブランコの座板を掌で叩く。男性は「あ、どうも」と言い、勧められた場所に腰を下ろした。ツナギからは鉄の臭いがした。
「ブランコなんていつ以来だろう。懐かしいなぁ」
男性はブランコを漕ぎ始めたが、子供用の遊具なので、脚の長さが邪魔をしてスムーズに漕げない。すぐに諦め、菜摘の方を向いて本題に入った。
「君はどうして一人で公園にいるの? 週に一回は来ているよね。なにか困っていることでもあるの?」
「ううん、別に。ちょっと嫌なことがあったときに、ここに来てしばらくぼーっとしてるだけ」
「そうなんだ。この公園、人が滅多に来ないから、一人になりたいときには絶好の場所かもしれないね。ところで、君の名前は?」
「それって、自分が名乗ってから訊くものじゃないの」
「あ、ごめん。僕は三橋勇気っていうんだ。数字の三に、ブリッジの橋に、勇気凛々の勇気」
名乗れば名乗ると約束したわけではなかったが、返礼に、菜摘も自分の名前を告げた。
そのあとは、互いに簡単な自己紹介をしたり、気になったことを相手に質問したりした。どちらかといえば男性――三橋勇気の方が、相手のことを知りたい欲求を強く持っているようだった。
今年で三十歳。町内の安アパートで一人暮らしをしていて、同じく町内にある工場で働いている。子供が好きで、保育士を目指して勉強をしていた時期もあった。
以上の情報を、三橋勇気は自ら明かした。
菜摘は三橋勇気のことを、親しみを込めて「三橋さん」と呼ぶことにした。
三橋さんはよく喋った。口数は多いが厚かましくなく、無闇に子供扱いをしないところに、菜摘は好感を持った。信頼できる大人だ、という気がした。三橋さんとの関係をこの場限りで終わらせるのは惜しい、とも思った。
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半分は話しかけるつもり、半分は独り言のつもりで菜摘は言った。すると、思いがけない言葉が返ってきた。
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初対面の人間に食事に誘われるのは初めてだったので、どう答えていいか分からない。三橋さんはにこやかに言葉を連ねる。
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「時間なら大丈夫。ここから歩いてすぐのところにあるお店――『ラーメン近代』っていうところで食べるから。菜摘ちゃん、ラーメンは平気?」
ラーメンが嫌いな人はあんまりいないんじゃないかなあ、と思いながら首肯する。三橋さんは、いささか大げさな表情の変化と言葉で喜びを露わにした。
夕食時ということもあり、『ラーメン近代』の店内は客で賑わっていた。
二人は出入口近くの二人がけの席に着き、無駄話をしながらラーメンをすすった。注文したしょうゆラーメンは少々油っぽかったが、濃いしょうゆ味が菜摘の好みに合った。初対面の割には話も弾んだ。
「暗いから、帰り道には気をつけてね」
手を振る三橋さんに見送られ、菜摘は帰途に就いた。
それからというもの、菜摘は嫌なことが起らなかった日でも、三橋さんに会うために公園に行くようになった。
公園で顔を合わせると、二人は並んでブランコに腰かけ、心ゆくまで話をした。仕事が終わったばかりにもかかわらず、三橋さんは疲れた顔を見せたり、「疲れた」と口にしたりすることは一度もなかった。
菜摘は主に、学校や家であった出来事について話した。三橋さんは街で見かけた風変わりな事物や、無料動画共有サイトで視聴した面白い動画など、毒にも薬にもならない話題を持ち出すことが多かった。
夕食はこれまでに四回、一緒に食べた。行く店は決まって『ラーメン近代』だったが、二回目はしょうゆラーメンの他にチャーハンを一皿頼んでシェアし、三回目はチャーハンを頼まない代わりにしょうゆラーメンのトッピングを豪華にし、四回目はラーメンを頼まずにギョウザとチャーハンという具合に、毎回オーダーを変えた。四回とも代金は三橋さんが支払った。
「いつも思うんだけど、僕と菜摘ちゃんのツーショットって、やばいよね。周りの人たちからすれば、僕は菜摘ちゃんによからぬことをしようと企んでいる変質者にしか見えないんじゃないかな。最近、その手の事件が多いし」
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