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第二章 貯水湖の提案編
名もなき宰相の妻
アルフレートは、ふと視線を絵画から外した。
(……少し、話しすぎたな。)
わずかに間を置き、咳払いをひとつ落とす。
「……そろそろ、本題に戻るか。」
静かな声でそう告げると、彼は机の方へと歩みを向けた。
「文献の確認をしよう。」
その言葉に、リリアーヌはハッと我に返る。
「ッは!そうでした……!」
顔を赤くして、慌てて背筋を正す。
「す、すみません!つい夢中になってしまって……!」
リリアーヌは小走りで彼の後を追う。
(わ、私ったら……殿下のお部屋で、ついはしゃいでしまって……!)
胸の鼓動を整えるように、ぎゅっと手を握る。
「構わない。」
短く返しながら、アルフレートは机へ視線を落とした。
そこには、三冊の資料が並べられている。
古代王国時代の歴史を記した『パレフィエ史書』。
貯水湖の構造や水路技術についてまとめられた『古代水利技術概論』。
そして、当時の地形や河川を記録した『パレフィエ国土記録』。
「まずは、貯水湖の基礎構造から確認しよう。」
「は、はい!」
アルフレートは、『パレフィエ史書』を手に取った。
分厚い表紙には、見慣れない古代文字が刻まれている。
古代パレフィエ語――。
かつて存在した古代王国パレフィエで使われていた言語だ。
パレフィエ国は他国との交流をほとんど行わず、独自文化の中で発展した閉鎖国家だった。
そのため、国内の書物が他国語へ翻訳されることは殆どなかった。
そもそも、多くの国にとってパレフィエは“野蛮な辺境国家”と認識されている。
そんな国の文献を、わざわざ翻訳しようとする者はいない。
故に、現存する資料の大半は原語のまま残されていた。
アルフレートは机の引き出しから小さな魔導具を取り出した。
掌に収まるほどの金属製の装置。
中央には淡く光る魔石が嵌め込まれている。
「……わあ、それは何ですか?」
リリアーヌが、興味深そうに身を乗り出した。
「ん?これのことか?」
アルフレートは魔導具を軽く持ち上げる。
「古代語の翻訳補助具だ。起動すれば、ある程度は現代語に変換される。」
「ほ、翻訳してくれるんですか!?」
リリアーヌの目がぱっと輝いた。
「そんな便利なものがあるんですね……!」
素直な感嘆の声。
「あ、あの‥‥よければ、見せてもらっても‥‥?」
どこかそわそわした様子で、リリアーヌは魔導具をじっと見つめる。
その反応があまりにも分かりやすくて、アルフレートは思わず小さく笑った。
「ああ。触ってみるか?」
「い、いいんですか!?」
ぱっと顔を明るくしたリリアーヌへ、アルフレートは魔導具を差し出した。
リリアーヌは壊れ物でも扱うように、恐る恐る両手で受け取る。
「ほわあ‥‥。」
感嘆の吐息が漏れた。
「これが、翻訳機の魔導具……。」
まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせる姿に、アルフレートはわずかに目を細める。
「……そんなに珍しいか?」
「はい!私、翻訳機の魔導具なんて初めて見ました!」
リリアーヌは嬉しそうに、手の中の魔導具を見つめる。
「魔導具ってもっと大きいイメージでしたけど、こんなにコンパクトなんですね。不思議です!」
「……初めて?」
アルフレートは反射的に、リリアーヌを見た。
(待て。なら、リリアーヌはどうやってあの本を読んでたんだ?)
「古代語の文献は、翻訳機を使って読むものだろう。」
それは疑問というより、確認に近い声だった。
貴族も、王族も、学者も。
古代語を扱う者のほとんどが魔導具を併用するのが常識だ。特に古代パレフィエ語は別格だ。
宗教語、古語、地方口語が混在し、文法も現代語とかけ離れている。
専門家ですら解読に苦労する難解な言語。
だからこそ、翻訳補助具は必須だった。
リリアーヌは一瞬きょとんとした。
(えっ‥‥そうなの?)
知らなかった。リリアーヌは慌てて首を振る。
「い、いえ!私は使ったことがなくて……!」
「使ったことがない?」
アルフレートの声音が、ほんの僅かに低くなる。
(嘘だろ。)
では彼女は、魔導具なしであの書物を読んだというのか?
リリアーヌはあわあわと手を振った。
「す、すみません!その、魔導具って高価なので、私の家には置いてなくて……。教会にも昔はあったみたいなんですけど、壊れてしまって処分されたそうで……!」
申し訳なさそうに肩を縮める。
「お恥ずかしい話ですけど、私、翻訳機の魔導具を見るのも初めてなんです……!」
「……待て。なら、どうやってこの本を解読していた?」
「えっと、教会の書庫で、辞書と古代パレフィエ語の聖典を見比べながら、一文字ずつ読んで覚えました!」
その言葉に、アルフレートは一瞬言葉を失った。
(……辞書と聖典。それだけで?)
古代パレフィエ語を?
「あ、もちろん、私一人で覚えたわけじゃないですよ!?」
リリアーヌは慌てたように付け加える。
「ちゃんとシスターにも教えていただきました!」
「シスター?」
「はい。古代パレフィエ語に詳しいシスターがいて、その方に色々教えていただいて……。」
そこまで言って、ふとリリアーヌは首を傾げた。
「あれ……?」
「?」
(そのシスターの名前、なんだっけ……。)
困ったように眉を下げる。
(お、おかしいな……。私、教会のシスターの名前はみんな覚えてるのに……。)
シスターマリナ――いや、違う。
あのシスターはマリナと出会う前から勉強を教わっていた。シスターグレイスでもない。
(えっと、他には……。)
だが、どうしても思い出せない。
顔も、名前も、輪郭がぼやけるように曖昧だった。
(な、なんで……?)
リリアーヌが一人で混乱している一方で、アルフレートもまた別の意味で困惑していた。
(……待て。)
さっきから、驚かされてばかりだ。
古代パレフィエ語は、王立学術院でも習得難度が高い言語として知られている。
宗教語、古語、地方口語が入り混じった特殊な言語体系。
文法構造も現代語とかけ離れており、専門教育を受けた者でも解読は容易ではない。
皇太子教育で基礎を履修していても、専門文献を原典で読み解くには別格の知識が必要だった。
それを彼女は――。
翻訳魔導具すら使わず、辞書と聖典だけで習得したと言うのか。
「……。」
アルフレートは、無意識にリリアーヌを見つめていた。
困ったように眉を寄せている。
貴族なら当然のように与えられる翻訳補助魔導具。
それすら持たずに、原典を読んでいたというのか。
(……俺と彼女では、そもそも環境が違う。)
王族にとって、魔導具のある生活は当たり前だった。
幼い頃から最高の教師がいて、必要な書物も、補助具も、学習環境も、全て与えられていた。
だが、下位貴族では、そもそも高価な魔導具など手に入らないのかもしれない。
いや――仮に男爵家にあったとしても、彼女は触れることすら許されなかったのだろう。
それでも、リリアーヌは学ぶことを諦めなかった。
教育を受けられなくても。
環境が整っていなくても。
彼女は、自分の力で知識を掴み取ったのだ。
(……俺は、どれほど恵まれていた?)
リリアーヌを見ていると、そんなことを思い知らされる。
「読んでくれるか?」
「あ、はい。少々お待ちください。えっと‥‥、確か貯水湖について記されていたのは、第十一代国王の治世の箇所なので…。」
リリアーヌは迷いなくページを捲っていく。
アルフレートは思わず目を細めた。
一度や二度読んだ程度で覚えられる内容ではない。
(……どれだけ読み込んだんだ。)
しかも、本人はそれを特別なことだと思っていない節がある。
「あ、ここです。」
リリアーヌは本を開いたまま姿勢を正した。
「では、読みますね。」
小さく深呼吸し、古代パレフィエ語の文章を静かに読み上げていく。
「ーー古代パレフィエ国、第十一代国王の治世。貧困と水不足は長く国を蝕み、民は疲弊していた。その折、国王の側近たる宰相の妻が進言したのが――"貯水湖"の建設である。」
流れるような発音だった。
まるで古代語を母語として扱っているかのように淀みがない。
「彼女が王都へ嫁いできてより、国は次第に潤い、やがて豊かさを知るに至った。これをもって、後世の史家は"転換の十一代"と称している。」
リリアーヌはさらにページを追う。
「古代パレフィエ国は、往古より水に乏しく、"砂漠の国"と称されていた。民は遠く離れた井戸や河川より水を汲み、日々の生活を営んでいたが、その水はしばしば濁り、決して清浄とは言い難いものであった。」
アルフレートの眉が僅かに動く。
「地方の村落においては、その困窮はいよいよ深く、幼き子らまでもが一日に数度、半日を費やして水を運ばねばならなかった。斯くして彼らは学ぶ機会を失い、家事労働に従事することを余儀なくされていた。」
(……同じだ。)
アルフレートは息を呑んだ。
かつての古代パレフィエ国。
そして、今のローゼンハイム神聖皇国。
あまりにも状況が酷似している。
リリアーヌの朗読は続く。
「この窮状が大きく改められたのは、十一代国王の治世のことである。当時、国王の側近たる宰相の妻が、国中に清潔な水を行き渡らせる策として、"貯水湖"建設を進言したと伝えられる。」
静かな部屋にリリアーヌの柔らかく、心地よい声だけが響いた。
「宰相の妻は異国の出身にして、雪のように白い肌を持つ美しい女人だった。しかし、彼女は美しさだけでなく、稀なる聡明さと博識、先見の明を備えていた。」
アルフレートは黙って耳を傾ける。
「だが、その出自と素性は詳らかには記されていない。後世の史家の中には、特殊な血筋ゆえ意図的に名を伏されたのではないかと推測する者もいる。」
そしてーー。
「国王はこの進言を受け入れ、各地に貯水湖を築かせた。やがて、国中に清潔な水が行き渡り、民の生活は著しく改善されたという。」
リリアーヌは静かにページへ視線を落とす。
「また、幼き子らは水汲みの労から解放され、学びの場へ戻ることが叶ったと伝えられている。この事績は、王の治世を象徴する改革のひとつとして、今なお語り継がれている。」
リリアーヌはここで読み終えると、
「貯水湖についての記述は、この史書ではここまでしか書いてないんです。」
リリアーヌは『パレフィエ史書』をそっと閉じた。
「具体的な設計や構造、管理方法については、こちらに記されています。」
そう言って、彼女は『古代水利技術概論』を手に取る。
分厚い頁を開くと、そこには文字だけではなく、複雑な図面や水路の構造図まで描かれていた。
その時ーー。机の端に積まれた別の資料へ、リリアーヌの視線が向いた。
「……あれ?」
羊皮紙の束。
細かな数字の羅列。
魔術師の配置図。
費用計算表。
先ほどまで見ていた歴史書や技術書とは違うものがそこにはあった。
「それは……?」
「ああ。」
アルフレートはちらりと資料へ視線を向けた。
「次の会議で使う予定のものだ。」
「会議で?」
「これまで治水事業で使用していた魔術師の人件費と維持費をまとめた資料だ。」
アルフレートは淡々と続ける。
「貯水湖を導入した場合の利点と欠点も整理している。両方を比較し、会議で吟味するつもりだ。」
「な、なるほど……!」
リリアーヌは感心したように目を丸くした。
「そこまで準備されてるんですね……!」
「これくらいしないと、貴族派の連中に足元を掬われる。」
アルフレートの声音が僅かに冷える。
「明後日の会議には、貴族派も出席する。奴らに隙を与えないためにも、万全に準備しておく必要がある。」
「……。」
その言葉に、リリアーヌはふと以前、耳にした噂を思い出した。
皇族派と貴族派の対立。
近年では貴族派が急速に力を伸ばし、財力では皇族派を凌ぐとも言われている。
事業や商会にも積極的に介入し、今や国内経済の七割近くを掌握している――そんな話まであった。
(う、うわぁ……。)
リリアーヌは内心で小さく震える。
(な、なんだか泥沼の権力争いって感じだなぁ……。こ、怖い……。)
だからこそ、余計に思う。
(……でも、殿下は、ずっとこういう世界で戦ってきたんだ。)
リリアーヌは、机の上の資料へ視線を落とした。
膨大な数字。
細かな費用計算。
派閥への対策。
どれも、自分には想像もつかないものばかりだ。
絵画の話をしていた時の穏やかな雰囲気は、もうそこにはない。
今、目の前にいるのは――。
国の未来を背負い、多くの政敵と戦う皇太子だった。
(……ああ。)
殿下はただ優秀なだけではない。
国を動かすために、常に神経を張り巡らせているのだ。
(この人は、本当に“皇太子”なんだ。)
その肩には、きっと自分には想像もできないほど重いものが乗っている。
一体、どれだけの重圧を抱えてきたのだろう。
それでも弱音ひとつ吐かず、こうして前へ進もうとしている。
(……すごいなぁ。)
リリアーヌは改めて、アルフレートを尊敬の眼差しで見つめた。
(……少し、話しすぎたな。)
わずかに間を置き、咳払いをひとつ落とす。
「……そろそろ、本題に戻るか。」
静かな声でそう告げると、彼は机の方へと歩みを向けた。
「文献の確認をしよう。」
その言葉に、リリアーヌはハッと我に返る。
「ッは!そうでした……!」
顔を赤くして、慌てて背筋を正す。
「す、すみません!つい夢中になってしまって……!」
リリアーヌは小走りで彼の後を追う。
(わ、私ったら……殿下のお部屋で、ついはしゃいでしまって……!)
胸の鼓動を整えるように、ぎゅっと手を握る。
「構わない。」
短く返しながら、アルフレートは机へ視線を落とした。
そこには、三冊の資料が並べられている。
古代王国時代の歴史を記した『パレフィエ史書』。
貯水湖の構造や水路技術についてまとめられた『古代水利技術概論』。
そして、当時の地形や河川を記録した『パレフィエ国土記録』。
「まずは、貯水湖の基礎構造から確認しよう。」
「は、はい!」
アルフレートは、『パレフィエ史書』を手に取った。
分厚い表紙には、見慣れない古代文字が刻まれている。
古代パレフィエ語――。
かつて存在した古代王国パレフィエで使われていた言語だ。
パレフィエ国は他国との交流をほとんど行わず、独自文化の中で発展した閉鎖国家だった。
そのため、国内の書物が他国語へ翻訳されることは殆どなかった。
そもそも、多くの国にとってパレフィエは“野蛮な辺境国家”と認識されている。
そんな国の文献を、わざわざ翻訳しようとする者はいない。
故に、現存する資料の大半は原語のまま残されていた。
アルフレートは机の引き出しから小さな魔導具を取り出した。
掌に収まるほどの金属製の装置。
中央には淡く光る魔石が嵌め込まれている。
「……わあ、それは何ですか?」
リリアーヌが、興味深そうに身を乗り出した。
「ん?これのことか?」
アルフレートは魔導具を軽く持ち上げる。
「古代語の翻訳補助具だ。起動すれば、ある程度は現代語に変換される。」
「ほ、翻訳してくれるんですか!?」
リリアーヌの目がぱっと輝いた。
「そんな便利なものがあるんですね……!」
素直な感嘆の声。
「あ、あの‥‥よければ、見せてもらっても‥‥?」
どこかそわそわした様子で、リリアーヌは魔導具をじっと見つめる。
その反応があまりにも分かりやすくて、アルフレートは思わず小さく笑った。
「ああ。触ってみるか?」
「い、いいんですか!?」
ぱっと顔を明るくしたリリアーヌへ、アルフレートは魔導具を差し出した。
リリアーヌは壊れ物でも扱うように、恐る恐る両手で受け取る。
「ほわあ‥‥。」
感嘆の吐息が漏れた。
「これが、翻訳機の魔導具……。」
まるで新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせる姿に、アルフレートはわずかに目を細める。
「……そんなに珍しいか?」
「はい!私、翻訳機の魔導具なんて初めて見ました!」
リリアーヌは嬉しそうに、手の中の魔導具を見つめる。
「魔導具ってもっと大きいイメージでしたけど、こんなにコンパクトなんですね。不思議です!」
「……初めて?」
アルフレートは反射的に、リリアーヌを見た。
(待て。なら、リリアーヌはどうやってあの本を読んでたんだ?)
「古代語の文献は、翻訳機を使って読むものだろう。」
それは疑問というより、確認に近い声だった。
貴族も、王族も、学者も。
古代語を扱う者のほとんどが魔導具を併用するのが常識だ。特に古代パレフィエ語は別格だ。
宗教語、古語、地方口語が混在し、文法も現代語とかけ離れている。
専門家ですら解読に苦労する難解な言語。
だからこそ、翻訳補助具は必須だった。
リリアーヌは一瞬きょとんとした。
(えっ‥‥そうなの?)
知らなかった。リリアーヌは慌てて首を振る。
「い、いえ!私は使ったことがなくて……!」
「使ったことがない?」
アルフレートの声音が、ほんの僅かに低くなる。
(嘘だろ。)
では彼女は、魔導具なしであの書物を読んだというのか?
リリアーヌはあわあわと手を振った。
「す、すみません!その、魔導具って高価なので、私の家には置いてなくて……。教会にも昔はあったみたいなんですけど、壊れてしまって処分されたそうで……!」
申し訳なさそうに肩を縮める。
「お恥ずかしい話ですけど、私、翻訳機の魔導具を見るのも初めてなんです……!」
「……待て。なら、どうやってこの本を解読していた?」
「えっと、教会の書庫で、辞書と古代パレフィエ語の聖典を見比べながら、一文字ずつ読んで覚えました!」
その言葉に、アルフレートは一瞬言葉を失った。
(……辞書と聖典。それだけで?)
古代パレフィエ語を?
「あ、もちろん、私一人で覚えたわけじゃないですよ!?」
リリアーヌは慌てたように付け加える。
「ちゃんとシスターにも教えていただきました!」
「シスター?」
「はい。古代パレフィエ語に詳しいシスターがいて、その方に色々教えていただいて……。」
そこまで言って、ふとリリアーヌは首を傾げた。
「あれ……?」
「?」
(そのシスターの名前、なんだっけ……。)
困ったように眉を下げる。
(お、おかしいな……。私、教会のシスターの名前はみんな覚えてるのに……。)
シスターマリナ――いや、違う。
あのシスターはマリナと出会う前から勉強を教わっていた。シスターグレイスでもない。
(えっと、他には……。)
だが、どうしても思い出せない。
顔も、名前も、輪郭がぼやけるように曖昧だった。
(な、なんで……?)
リリアーヌが一人で混乱している一方で、アルフレートもまた別の意味で困惑していた。
(……待て。)
さっきから、驚かされてばかりだ。
古代パレフィエ語は、王立学術院でも習得難度が高い言語として知られている。
宗教語、古語、地方口語が入り混じった特殊な言語体系。
文法構造も現代語とかけ離れており、専門教育を受けた者でも解読は容易ではない。
皇太子教育で基礎を履修していても、専門文献を原典で読み解くには別格の知識が必要だった。
それを彼女は――。
翻訳魔導具すら使わず、辞書と聖典だけで習得したと言うのか。
「……。」
アルフレートは、無意識にリリアーヌを見つめていた。
困ったように眉を寄せている。
貴族なら当然のように与えられる翻訳補助魔導具。
それすら持たずに、原典を読んでいたというのか。
(……俺と彼女では、そもそも環境が違う。)
王族にとって、魔導具のある生活は当たり前だった。
幼い頃から最高の教師がいて、必要な書物も、補助具も、学習環境も、全て与えられていた。
だが、下位貴族では、そもそも高価な魔導具など手に入らないのかもしれない。
いや――仮に男爵家にあったとしても、彼女は触れることすら許されなかったのだろう。
それでも、リリアーヌは学ぶことを諦めなかった。
教育を受けられなくても。
環境が整っていなくても。
彼女は、自分の力で知識を掴み取ったのだ。
(……俺は、どれほど恵まれていた?)
リリアーヌを見ていると、そんなことを思い知らされる。
「読んでくれるか?」
「あ、はい。少々お待ちください。えっと‥‥、確か貯水湖について記されていたのは、第十一代国王の治世の箇所なので…。」
リリアーヌは迷いなくページを捲っていく。
アルフレートは思わず目を細めた。
一度や二度読んだ程度で覚えられる内容ではない。
(……どれだけ読み込んだんだ。)
しかも、本人はそれを特別なことだと思っていない節がある。
「あ、ここです。」
リリアーヌは本を開いたまま姿勢を正した。
「では、読みますね。」
小さく深呼吸し、古代パレフィエ語の文章を静かに読み上げていく。
「ーー古代パレフィエ国、第十一代国王の治世。貧困と水不足は長く国を蝕み、民は疲弊していた。その折、国王の側近たる宰相の妻が進言したのが――"貯水湖"の建設である。」
流れるような発音だった。
まるで古代語を母語として扱っているかのように淀みがない。
「彼女が王都へ嫁いできてより、国は次第に潤い、やがて豊かさを知るに至った。これをもって、後世の史家は"転換の十一代"と称している。」
リリアーヌはさらにページを追う。
「古代パレフィエ国は、往古より水に乏しく、"砂漠の国"と称されていた。民は遠く離れた井戸や河川より水を汲み、日々の生活を営んでいたが、その水はしばしば濁り、決して清浄とは言い難いものであった。」
アルフレートの眉が僅かに動く。
「地方の村落においては、その困窮はいよいよ深く、幼き子らまでもが一日に数度、半日を費やして水を運ばねばならなかった。斯くして彼らは学ぶ機会を失い、家事労働に従事することを余儀なくされていた。」
(……同じだ。)
アルフレートは息を呑んだ。
かつての古代パレフィエ国。
そして、今のローゼンハイム神聖皇国。
あまりにも状況が酷似している。
リリアーヌの朗読は続く。
「この窮状が大きく改められたのは、十一代国王の治世のことである。当時、国王の側近たる宰相の妻が、国中に清潔な水を行き渡らせる策として、"貯水湖"建設を進言したと伝えられる。」
静かな部屋にリリアーヌの柔らかく、心地よい声だけが響いた。
「宰相の妻は異国の出身にして、雪のように白い肌を持つ美しい女人だった。しかし、彼女は美しさだけでなく、稀なる聡明さと博識、先見の明を備えていた。」
アルフレートは黙って耳を傾ける。
「だが、その出自と素性は詳らかには記されていない。後世の史家の中には、特殊な血筋ゆえ意図的に名を伏されたのではないかと推測する者もいる。」
そしてーー。
「国王はこの進言を受け入れ、各地に貯水湖を築かせた。やがて、国中に清潔な水が行き渡り、民の生活は著しく改善されたという。」
リリアーヌは静かにページへ視線を落とす。
「また、幼き子らは水汲みの労から解放され、学びの場へ戻ることが叶ったと伝えられている。この事績は、王の治世を象徴する改革のひとつとして、今なお語り継がれている。」
リリアーヌはここで読み終えると、
「貯水湖についての記述は、この史書ではここまでしか書いてないんです。」
リリアーヌは『パレフィエ史書』をそっと閉じた。
「具体的な設計や構造、管理方法については、こちらに記されています。」
そう言って、彼女は『古代水利技術概論』を手に取る。
分厚い頁を開くと、そこには文字だけではなく、複雑な図面や水路の構造図まで描かれていた。
その時ーー。机の端に積まれた別の資料へ、リリアーヌの視線が向いた。
「……あれ?」
羊皮紙の束。
細かな数字の羅列。
魔術師の配置図。
費用計算表。
先ほどまで見ていた歴史書や技術書とは違うものがそこにはあった。
「それは……?」
「ああ。」
アルフレートはちらりと資料へ視線を向けた。
「次の会議で使う予定のものだ。」
「会議で?」
「これまで治水事業で使用していた魔術師の人件費と維持費をまとめた資料だ。」
アルフレートは淡々と続ける。
「貯水湖を導入した場合の利点と欠点も整理している。両方を比較し、会議で吟味するつもりだ。」
「な、なるほど……!」
リリアーヌは感心したように目を丸くした。
「そこまで準備されてるんですね……!」
「これくらいしないと、貴族派の連中に足元を掬われる。」
アルフレートの声音が僅かに冷える。
「明後日の会議には、貴族派も出席する。奴らに隙を与えないためにも、万全に準備しておく必要がある。」
「……。」
その言葉に、リリアーヌはふと以前、耳にした噂を思い出した。
皇族派と貴族派の対立。
近年では貴族派が急速に力を伸ばし、財力では皇族派を凌ぐとも言われている。
事業や商会にも積極的に介入し、今や国内経済の七割近くを掌握している――そんな話まであった。
(う、うわぁ……。)
リリアーヌは内心で小さく震える。
(な、なんだか泥沼の権力争いって感じだなぁ……。こ、怖い……。)
だからこそ、余計に思う。
(……でも、殿下は、ずっとこういう世界で戦ってきたんだ。)
リリアーヌは、机の上の資料へ視線を落とした。
膨大な数字。
細かな費用計算。
派閥への対策。
どれも、自分には想像もつかないものばかりだ。
絵画の話をしていた時の穏やかな雰囲気は、もうそこにはない。
今、目の前にいるのは――。
国の未来を背負い、多くの政敵と戦う皇太子だった。
(……ああ。)
殿下はただ優秀なだけではない。
国を動かすために、常に神経を張り巡らせているのだ。
(この人は、本当に“皇太子”なんだ。)
その肩には、きっと自分には想像もできないほど重いものが乗っている。
一体、どれだけの重圧を抱えてきたのだろう。
それでも弱音ひとつ吐かず、こうして前へ進もうとしている。
(……すごいなぁ。)
リリアーヌは改めて、アルフレートを尊敬の眼差しで見つめた。
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※ムーンライトノベルズでも投稿している同一作品です。
【完結】嫌われ令嬢、部屋着姿を見せてから、王子に溺愛されてます。
airriaグロース王国王太子妃、リリアナ。勝ち気そうなライラックの瞳、濡羽色の豪奢な巻き髪、スレンダーな姿形、知性溢れる社交術。見た目も中身も次期王妃として完璧な令嬢であるが、夫である王太子のセイラムからは忌み嫌われていた。
どうやら、セイラムの美しい乳兄妹、フリージアへのリリアナの態度が気に食わないらしい。
2ヶ月前に婚姻を結びはしたが、初夜もなく冷え切った夫婦関係。結婚も仕事の一環としか思えないリリアナは、セイラムと心が通じ合わなくても仕方ないし、必要ないと思い、王妃の仕事に邁進していた。
ある日、リリアナからのいじめを訴えるフリージアに泣きつかれたセイラムは、リリアナの自室を電撃訪問。
あまりの剣幕に仕方なく、部屋着のままで対応すると、なんだかセイラムの様子がおかしくて…
あの、私、自分の時間は大好きな部屋着姿でだらけて過ごしたいのですが、なぜそんな時に限って頻繁に私の部屋にいらっしゃるの?
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
婚約者のことが好きで好きで好きで仕方ない令嬢、彼に想い人がいると知って別れを切り出しました〜え、彼が本当に好きだったのは私なんですか!?〜
朝霧 陽月 ゾッコーン伯爵家のララブーナは、3日間涙が止まらず部屋に引きこもっていた……。
それというのも、ふとした折に彼女の婚約者デューキアイ・グデーレ公爵子息に想い人がいると知ってしまったからだ。
※内容はタイトル通りです、基本ヤベェ登場人物しかいません。
※他サイトにも、同作者ほぼ同タイトルで投稿中。