七竈

菱沼あゆ

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夏 エピローグ ~遠ざかる影~

遠ざかる影

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「みんな何が楽しくて走ってるのかしら」

 二会場に分れてやっているという陸上大会を見ながら、七月は呟く。

「暑いのに、苦しいのに。
 頼まれてもないし、走らなきゃ、単位がもらえないわけでもないのに」

「お前、本当にスポーツに向かないな」

 横に立つ三橋が言った。

 誰かが笑ったと思ったら、辛いのに苦しいのに、わざわざ仕事休んでまで、大会のためにやってくる男、波野が後ろに立っていた。

「確かに。
 何が楽しくて走ってるんだろうね」

 そう呟きながらも、目を細め、グラウンドを走る仲間たちを見つめている。

「……結局、変わってるようで、誰も変わってなかったんだな」

 ぽつりと波野はそう言った。

「ところで七月ちゃん、あれから影の方はどう?」

 影の方はどうって訊かれ方もなんだが……。

「はあ……なんだかたくさん居すぎて。
 もうどうでもいい感じです」

 七月が会場を見ながら呟くと、
「あ~、たくさんってほどでもないけど。
 会場内でたまに見るねえ、あの帽子被ってる人」
と波野もまた見渡しながら言う。

 唯一無二の影だと思っていたことに比べれば、かなりたくさんだ。

「なんだかもう、笑いが出ます。
 怖がるのも莫迦らしくなってきちゃって」
と言うと、

「それはよかったね」
と波野は笑った。

 よかった。

 うーん。
 そうだな、よかったか……。

「君にとって、あの年の県大会のユニフォームがなんの意味があるのかよくわからないけど。

 遥の件でも、僕は真実がわかってよかったと思ってる。
 厭な記憶は封印すればするほど、重く大きくなるような気がするから。

 君もいつか、すっきりしてくれればな、と思うんだけど。
 難しいかな」

「いえ―― ありがとうございます」

 帽子だけでなく、ダウンのコートにまで反応するということはよくわかった。

 すごい色なので、帽子はあまり被る人は居ないようなのだが。

 コートの方は色はともかく温かいし、それなりの値段がしたもののようなので、着て歩いている人も結構居るようだった。

 だから、冬場によく影を見てたんだな、と思う。

 パンッ! と音がし、近くのトラックでやっている短距離走の選手がスタートした。

「いやでも、やっぱり影より不可解だわ。
 走る人……」

 七月のその呟きに波野たちは笑っていた。
  


 古い家の多い通りだ。
 しぼんだ朝顔を見ながら、夕暮れの道を七月は歩く。

 いつもの場所で足を止めた。

 そこに居た影は、こちらに気づいたように動きを止める。

 七月は覚悟を決め、
「こんにちは」
と言ってみた。

 いつも避けていた影のよく出る道にわざと入り込んでみたのだ。

「なんじゃ」
と声がした。

「初めてしゃべったの」

 老人の声だった。

「あんた、わしの前で足を止めては、じーっと見ておるから、なにごとかと思っておったんじゃが。

 死んだジイさんに似てるからとかなら、しゃべってイメージを壊したらいかんと思って、黙っておったんじゃが」

 やさしい声だった。

「彼氏かね?」
と言う。

 振り返ると、いつの間にか槻田が立っていた。
 大会の運営の方を手伝っていたのではなかったのか。

「あんたら、西瓜すいかは好きかね」
と唐突に老人は言う。

「は?」

「ひとつあげよう。
 裏庭にいっぱいなっとるから」

 こちらの答えを待たずに、影は奥に入っていってしまう。

「あの老人のことだったのか」
と槻田が呟いた。

「そういや、まだ寒い時期にすごい色のコートを着て、水をやってたな」

 その色に目を奪われ、槻田は思わず足を止めたのだろう。

 影だけが見えていたからではなく。

 戻ってきた影に槻田が問うた。

「どなたか、陸上やられてるんですか?」

「ああ、これかね。
 孫がやってたんだよ。

 あんたもかね?
 高かったのに全然被らないからとコートと一緒に娘がくれたんだ。

 この年になると、色がどうとか。
 あんまり細かいことは気にならなくなるからのう」

 はは、と笑った老人は、玉のような汗の浮かんだ、艶やかに光る頭を肘で拭った。

 その手にはあの帽子――。

 七月は目を伏せ、少し笑う。

「白内障が進んでるんで、日に当たらんよう、夜に水やってたりするが。
 変なじいさんじゃないから。

 まあ、二人とも、また遊びに来なさい」

 西瓜を抱えた槻田とともに、七月は、はい、と笑顔で返した。 




                         完




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