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変わりゆく気持ちの行方
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しおりを挟む次の日、璃湖は寝不足と疲労で重たい身体を引きずりながらなんとか会社に辿り着いた。休んでしまおうとも思ったが、上司に異動の件を伝えねばならない。
あれから福永から数回着信がありメッセージも届いたが、璃湖はすべて無視してしまった。今彼と繋がってしまったら泣いて縋ってしまうし、離れようとした決意が鈍ってしまいそうだったからだ。
オフィスに入り、上司の姿を見つけると早速異動したい旨を伝える。突然の申し出に驚いてはいたが、昨夜眠れずにいた時間に考えた理由を伝えると納得してくれたようだった。
そういうことならば応援すると温かい言葉を掛けてくれ、十月に間に合うようにすぐに人事に伝えてくれると言ってもらった。
そして午後、璃湖は人事部に呼び出され会議室の椅子に座っていた。
「忙しいのに、申し訳ないね。営業部所属の、細井璃湖さんですね」
「はい」
璃湖が返事をすると、人事部の部長である宝村海斗は難しい顔で眼鏡をずり上げた。
宝村は名字で分かる通り、宝村ホールディングスの創業者一族で、父親は食品部門の本部長をしている。目鼻立ちのスッキリとした、クールな印象のなかなかのイケメンである。
「食品部門への異動を希望しているということでしたが、間違いありませんか?」
「はい、間違いありません」
宝村の質問に答えながら、ずいぶん動きが早いなと思う。朝上司に伝えて、午後には人事と面談があるとは。
それも人事のトップが出てくるなんて、異動するときはこういうものなのだろうか。
「ずいぶん急な話でしたが、前から希望していたわけではありませんでしたよね。なにか部署でトラブルでもありましたか?」
なるほど。そういう心配をされていたらしい。一瞬、福永の顔が浮かび、ズキリと胸が痛む。それを振り切って、璃湖は笑顔を作って宝村の顔を真っ直ぐ見据えた。
「私、美味しいものが大好きなんです。この会社に入社したいと思ったのも、宝村の製品が大好きだったからです。メディカルヘルス部門での仕事も非常にやりがいがあったのですが、やはり食品部門で商品開発に関わりたい気持ちが捨てきれず⋯⋯。ですが慣れ親しんだ部門を離れるのが名残惜しくてなかなか決心がつかず、申告が遅くなってしまったことは大変申し訳なかったと思っています」
これが璃湖が一晩考えた異動を希望する理由だ。嘘は言っていない。宝村に入社を希望した動機は本当だし、当初は食品部門への配属を希望していた。
その希望は通らなかったが、今の仕事もやりがいがあって楽しい。だから不満はなかったのだが、入社して四年。原点回帰してみる時期には最適ではないかと思ったのだ。
我ながら完璧な動機づけである。なんの違和感もないはずだ。だが、璃湖の話を聞き終えた宝村はなぜか難しい顔で黙り込んでしまった。
「あの⋯⋯こんなに急に異動願を出すのは非常識でしたでしょうか」
心配になってそう聞くと、ハッとしたように顔を上げた宝村が慌てたように笑みを浮かべた。
「そんなことはないです。それに、食品部門に退社する社員がいるので非常にありがたい申し出ではあります。あまりに急だったので⋯⋯本当になにかトラブルがあった訳ではないんですよね」
眼鏡の奥の目がキラリと光った気がする。探るような視線に、冷や汗が浮かんだ。さすがやり手と噂の宝村部長である。
すべてを見透かすような眼力だ。だが、負けるわけにいかない。
「いいえ。本当に上司にも同僚にも恵まれて、嫌な思いをしたことは一度もありません」
謎の対抗心を燃やしながら、一点の曇りもない目で彼の顔を見つめる。しばらくじっと璃湖のことを見つめていた宝村が、ふっと表情を崩した。
「分かりました。異動届、確かに受理いたしました。もし、異動が決まった際は早めにお知らせしますね。お忙しいところ、お時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした」
「いえ、こちらこそありがとうございました」
宝村に深く頭を下げ、璃湖は会議室を出た。ほっと息を吐いて、廊下を歩き出す。手応えはあった。きっとこれで大丈夫だ。
福永と離れれば、あとは時間が彼を忘れさせてくれる。この胸の痛みも消えてくれるはずだ。これでいいのだと自分に言い聞かせて残りの仕事に取り掛かる。
だが、いまいち仕事に身が入らない。これで本当にいいのかという思いが頭の中を渦巻いている。こんなにモヤモヤするのなら、いっそ当たって砕けてしまった方がいいのではないか。しかし、それは傷が深まるだけのような気もする。
引っ越しのことも考えなければ。とてもじゃないが、もうあの家では暮らせない。手痛い出費ではあるが、仕方がないだろう。考えなければならないことが多すぎて、頭がパンクしそうだ。
とりあえず今は、今日の分の仕事を終わらせなければいけない。なんとか業務に集中しようとするが、余計な考えがチラついてしまいなかなか作業が捗らない。なんとか仕事を終わらせた頃には、オフィスに人気がなくなっていた。
そういえば今日は金曜日である。皆、楽しい予定があって羨ましいことだと卑屈なことを考えながらパソコンの電源を落とす。
今日もひとりでホテルで過ごさなればいけにと思うと、ひどく気が滅入る。盛大なため息をついて、オフィスの出入口に向かうと、そこに誰かが立っていることに気がついた。
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