喫茶ソレイユの日常

プロローグ 静かな日常の変化

名前を知るということ

　カップの中のコーヒーは、ゆっくりと減っていく。
　ガラス窓の向こうでは、昼下がりの穏やかな日差しが通りを照らしていた。商店街を行き交う人々の姿をぼんやりと眺めながら、僕はこのカフェの雰囲気にすっかり馴染んでいた。

　居心地がいい。

　大学の食堂や、バイト先の喧騒とは違う、静かで落ち着いた空間。
　ここでは誰もが自分の時間を持ち、それぞれのペースで過ごしている。

　そんなことを考えていると、カウンターの向こうから彼女が近づいてきた。手には、一枚の小さな紙片がある。

「良かったら、これをどうぞ」

　僕は驚きながら、それを受け取った。

「……これは？」

「当店のスタンプカードです」

　そこには、「Cafe Soleil」と店名が記され、十個のスタンプ欄が設けられていた。

「初めてのお客様には、記念として一つ押してます」

　見ると、一番端のマスに、小さなコーヒーカップのスタンプが押されていた。

「また来ていただけたら嬉しいです」

「……ありがとうございます」

　僕はカードを眺めながら、ふと疑問が浮かんだ。

「そういえば、あなたの名前を聞いていませんでした」

「あ、そうですね」

　彼女は軽く笑いながら、エプロンのポケットから小さな名札を取り出して見せた。

「椎名 千夏」

「椎名さん、ですか」

「はい。でも、常連さんには『千夏』って呼ばれることが多いですね」

　千夏――

　その名前を口の中で転がしてみる。
　シンプルで、親しみやすい響きだ。

「あなたは？」

「え？」

「お名前、聞いてもいいですか？」

　千夏は穏やかな笑みを浮かべながら、僕を見つめている。

「……藤井陽介です」

「藤井さん、ですね。では、藤井さんがまた来てくださるのを楽しみにしています」

　その言葉には、不思議な温かさがあった。

　それから数分後、僕はカフェを後にした。
　扉を開け、外の空気に触れると、ほんのわずかに肌寒さを感じる。

　店を出る前、千夏が「良い午後を」と微笑みながら見送ってくれたことを思い出す。

　僕はポケットの中にあるスタンプカードを指でなぞった。
　これがあるということは、また来る理由ができたということだろうか？

　――いや、そうじゃない。

　次に来る理由は、もうすでに僕の中で決まっていた。

　それが「コーヒー」なのか、「カフェの雰囲気」なのか、それとも「彼女の存在」なのかは、自分でもまだよく分からなかったけれど。

　それでも、確かなことが一つだけある。

　今日、僕の日常に「新しい何か」が加わったのだ。

　そして、それはほんの小さなきっかけに過ぎない。
　けれど、こういう些細な変化が、やがて大きな変化につながるのかもしれない。

　そんなことを考えながら、僕は大学へと戻る道を歩き始めた。

　――これは、まだ何も始まっていない物語。
　けれど、きっとここから、何かが変わっていく。