新井林忠正 奮闘抄

はらひろ

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 この夏の水不足は深刻な事態に陥っていた。猛暑の最中、一滴の雨さえ降らない日が幾日も続き、雨乞いの祈祷も自然の猛威の前には何の役にも立たなかった。 
 青々としていた田の水は干上がり、畑は地割れをおこしかけていた。このままでは今年の農産物の収穫は全滅であろう。恐ろしい干ばつの前触れだった。 
 連日、城の執務室では対策の議論が交わされていたが、一向に有効な手立てが見つからない。
 「山の水も、もうないのですからな」
 いつも沈着な柱谷の声が悲痛に響いた。
 そこへ、ドタドタと入り乱れる足音と、怒鳴りあう2つの声が飛び込んできた。
 「止さぬか、正太郎」
 「父上、お離し下さい。是非とも殿にお聞き願いたいのです。何とぞお目通りを」
 「ならぬ。分をわきまえろ」
 どうやら怒鳴りつけているのは、家老の浅川であるらしい。何事かと忠正はからりと襖を開けた。 
 「どうしたのだ、浅川」
 「これは殿、お耳汚しいたしまして申し訳ございません。それがしの愚息でございます」
 それから「正太郎、殿の御前だ。控えろ」と厳しい叱責を飛ばした。
 「殿、お初にお目にかかります。浅川が嫡男、正太郎と申します。御無礼は重々承知で進言つかまりたい事がございます」
 「止さぬか、正太郎」
 浅川家老が、ふれ伏しながら言上する息子を、慌てて引きずり出そうとしていた。
 「殿、非礼の罪は覚悟でございます。何とぞ、堀の水を田畑にお流し下さいませ。堀水を民に、田畑にお流し下さりますよう、、」
 「黙らぬか」
 怒気に顔を赤らめて、浅川が息子の言葉を遮ると、がばりと忠正に平伏した。
 「殿、申し訳もござりませぬ。愚息の処遇については、沙汰をお待ち申し上げます」
 忠正は軽く右手をあげて「よい」と制すると、「こちらへ」と浅川家老と息子の正太郎を部屋に招きいれた。
 「一刻の猶予もならない。非常事態だ。良い案があるなら話してみよ」
 浅川正太郎が畳に額を擦りつけんばかりに懇願した内容は、大層度肝をぬくものだった。まだ残っている城の堀水を、幾方へと多数樋を渡し、堀の水を田畑へ流しこんで欲しいというものだった。
 「危険じゃ。城の守りが手薄になってしまう」
 家老の浅川が早速に難色をしめした。用人の柱谷は黙り込んで思案している。たが、忠正は躊躇なく即断した。
 「事態は切迫しておる。使えるものは全て使おうぞ。早速に堀の水を与えよ」
 「ですが、殿」
 尚も不安に顔を曇らせる浅川家老に忠正が言い放った。
 「この秋、収穫がなくば、この藩は終わりなのだ」
 浅川が何か申して下されと、思案気な柱谷を見やった。しかし考えをまとめながら発せられた柱谷の言葉は、浅川の意に反するものだった。
 「そうでござりますな。正太郎どのの申される通り、水の確保にはそれしか方法は無さそうです。まずはこの干ばつを乗り切るが先決」
 「柱谷どの。そなたまでが何をおっしゃる」
 浅川の声音が荒くなった。
 「御家老、二の丸の堀までです。それ以上はなりますまい。城の警護は強化いたします故。殿、如何でございまするか」
 「うむ、いいだろう」
 正太郎が「ありがとう存じあげます」と、涙声に叫んだ。
 「地形に詳しい者を集め、樋を渡す図面を至急引かせねばなりませぬな」
 柱谷が気ぜわしげに言うと、「それがしにお任せ下さい」と郡奉行の長岡の野太い声がとんだ。
 「皆のもの、頼むぞ」
 やおら意気込み始めた皆に、浅川がそれでも不安そうな声をあげる。
 「危険じゃ、どうにも城が危険になる」
 「御家老、それについては一案がございまする。空になった二の堀には、枯れ枝を敷き詰めるが宜しいかと」
 柱谷の言葉に家老があっと驚きを示した。聡い家老は瞬時に柱谷の言葉の意味を理解したものらしい。柱谷が慇懃に頷いている。
 「そうです。枯れ枝で備えるのでございます。万が一、襲撃にあったならば直ちにそれに火を放ち、炎で城を守る盾とするのでございまする」
 「成る程、敵が押し寄せてきたら、一の丸の水堀と二の丸の火の堀で挟撃するという算段ですな」
 「乾燥した枝木なら、山のようにありますからな」
 感心したように大見が、長岡が声をあげた。誰もが柱谷の鋭敏さに舌を巻いた。
 「確かに、確かにそれは名案じゃ。こうしてはおれぬな。直ぐに手配を致さぬと。大工もいるな。非番の役人を召集して」
 浅川が顔を輝かせて、早速に段取りを巡らせ始めた。
 「手はずは浅川、柱谷に頼むぞ」
 忠正が信頼の眼差しを二人に向けた。
 「畏まりました」
 浅川が細い身体に似合わない胴間声で答え、「お任せ下さりませ」と柱谷が丁重に頭を下げた。それから柱谷は「ご子息をお借りしたい」と家老に願うと、正太郎を伴い足速に立ち去っていった。
 浅川は樋の建設や城の警護要員、枯れ枝召集班、大工や役人召集などを、それぞれ長岡と大見とで三人で割り振った。それから話を詰めるため、柱谷の後を追おうとしたところで、忠正に呼び止められた。
 「浅川、良い息子を持ったな」
 「勿体ないお言葉、恐れ入ります」
 始め家老は鹿爪らしく、「全く生意気で」などと渋面を造っていたが、こみ上げてくる嬉しさに抗えなくなったものらしい。次第に顔が緩んでいく。
 「いやはや、あ奴めもなかなか」
 そんな様子を忠正は、口元に笑みをこぼしながら眺めていた。


     ⋯⋯⋯⋯⋯


 「それで、どうなりまちたの?」
 縁側に腰かけながら、初が傍らに座っている忠正に問いかけた。初の手はゆっくりと膝にのせた子猫の頭を撫でている。いつぞやの泥まみれの子猫である。すっかり初になつき、いつの間にか居着くようになっていた。
 「うむ。それがだ。幾日も夜を徹して工事に取り掛かっておったが、なにせ全ての田畑にだ。なかなか進まなくてな。だか、なんと恵みの雨が降ってまいった」
 「まあ!本当に?」
 まことだと応えながら、忠正も手を伸ばして子猫の頭を撫でた。ごろごろと気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
 「我らの想いが天に届いたのだろうか」
 忠正がしみじみと述懐した。
 城の堀水を開放する沙汰に、藩中が狂喜し大騒ぎとなった。郡奉行の長岡は学識者と各村の代表を集め、地形を案じながら効率よく水を渡す図面をひかせた。浅川家老は城の警護人員を
忠正の要望により少数精鋭にかえ、用人柱谷は大工、石工、木こり(主に竹の切りだし)、町人商人農民たち、それに藩士たちを片っ端から集めた。子供たちも率先して手伝った。全てが迅速に行われ、歩いている者はただの一人もいなかった。いつもは昼寝ばかりしている猫も、尾を立てうろうろと気忙しげに歩き廻っていた。
 図面が完成すると切り出した割竹や、ありったけの板を用いて樋をつくり、堀池から樋を渡す工事がはじめられた。足りない板は三の丸の板塀が用いられた。忠正の采配だった。どうせ二の丸までを開放するのだから、三の丸など無用だという理由で、板塀が剥がされたのだった。
 そして城の四方八方で、いっせいに樋工事が始まった。これ程大がかりな事業は、この藩、始めての事だった。皆、必死で夜を徹して働き続けた。炊き出しが至るどころで自発的に用意され、交代で仮眠をとりながら樋をつくり、繋げていった。それはもう気の遠くなる作業だった。身分もなにも存在せず、一つの目標に向かい人々は懸命に働いた。
 完成した樋に水が注がれ、緩やかに流れていくたびに、人々は涙をながした。その水がひび割れかけた地面を浸していく光景は、まるで夢のようだった。だが、まだだ、まだまだ多くの田畑が残っている。人々は体力の限界を感じつつも、生き延びるために必死に働き続けていた。
 そんなある日、奇跡が起こった。
 ついに雨が降ったのだ。
 待ち望んでいた雨が、恵みの雨が地に降り注ぎ、次々に地割れをおこしかけていた田畑をみるみる潤していった。誰もが天に感謝を捧げた。
 地面に平伏し号泣するものが後を立たず、浅川が長岡が大見が感涙にむせび泣いていた。あの柱谷でさえ、目尻に光るものを浮かべていたではないかと、忠正は独りごちた。
 ーーいいな。良い藩だ。
 田畑は本来の姿を取り戻した。眼下には青々と生い茂る田畑が広がっており、草木の一本一本が活力に溢れていた。その延々と続く緑の原に、風がさあっと吹き渡り、緑達が気持ち良さそうに揺らめいている。
 「それで、どうちまちたの?」
 「ああ。そうは申しても油断はならぬからな。また、いつ干上がるとも限らぬ。初、樋は完成させたぞ」
 「あんちんね」
 初が嬉しそうに笑った。
 「ああ、安心だとも」
 忠正もにっこり微笑んだ。
 「秋の収穫が楽しみだな」といい差して、忠正はふと笑みをおさめた。
 ーー備蓄用の蔵がまだだったな。
 出水と湿気に強い蔵を、急ぎ作らなければならない。蔵の壁や板はもはや何も残ってはいまいが、急ごしらえでも手は打っておかないとならない。その後に建設する蔵の図面と資金ぐりも、今のうちから整えておかねば。
 急ぎ家老と用人たちを召集せねばと、忠正が腰を浮かせると、つられて初も立ち上がった。子猫がしぶしぶ膝から滑りおりた。
 「そなたはよい。ゆっくりしておれ」
 初が子猫を抱き上げる様子を、忠正は愛しそうに眺めながら、低い声で言った。
 「そなたを抱きたいと言ったら、驚くかな」
 それからくるりと背を向けると、「是近、正太郎」と近侍の名を大声でよんだ。
 浅川が嫡男、正太郎は今回の功績により、忠正により近侍に取り上げられていた。
 何事かと二人が大慌てで走りでてきた。
 「急ぎ会議を行う。家老たちを呼んでまいれ。いる者達だけでも構わん」
 照れを隠すように、急ぎ足で執務室に向かう忠正の耳に、子猫の不満そうな鳴き声が聞こえてきた。振り向くと真っ赤な顔をした初が、子猫をきつく抱きしめている。その細い腕の中で子猫がもがいていた。
 初は頬を赤く染めながらも、小さいが何度も何度もしっかりと頷いていた。



    ⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯



 紅や黄色の艶やかな秋山の景色とともに、忠正の生家に嬉しい便りが届いていた。
 「おお、お初様が身ごもったとあるぞ。忠正の子ぞ」
 嫡男を藩主に擁立すると、さっと隠居してしまった忠正の父が嬉しそうに声をあげた。
 「誠でございますか。それはそれは何とおめでたいこと」
 妻女もまた嬉しそうに頬を綻ばせ、手紙をのぞき込んだ。
 「先日に参った是近も申しておりましたわ。二人はたいそう仲睦まじいとやらで」
 「相性が良かったのであろうな。今年は豊作とあるし、一安心ぞ」
 「まあまあ、それはそれは」
 妻女がほうっと安堵のため息をつくと、今だから申しますがと、何やら複雑な表情を浮かべた。
 「今だから申し上げるのですが、わたくしはこの縁組を案じておりましたの」
 「ふむ」
 夫君が腕組みをして妻女を見やった。今しがたの柔和な顔が謹厳に引き結ばれた。
 「⋯実を申せば、わしもだった。だが約束は約束、、それにしても分からぬものだなあ」
 と無責任なことを言ってから、弾けるように破顔した。妻女も「そうでございますわねぇ」と笑い、お祝いは何が宜しいかしらと、気の早い楽しい心配を始めた。



 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
 



 
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