新井林忠正 奮闘抄

はらひろ

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 以来、初は忠正の執務室での会議が終わるのを、ひたすら待ちわびるようになった。家老たちが退室すると、すぐさま勢いよく飛び込んできては、鬼ごっこやままごと、鞠つき等をせがむのである。
 ーー懐かれたものだな。
 忠正は溜息ばかりが出るのだが、初の嬉しそうな笑顔を見ると、突き放す訳にもいかず、不承不承ながらも、ついつい付き合ってしまうのだった。
 時おり、用人の柱谷が物言いたげに、二人の様子を見ている事があったが、あれ以来、側女の話を持ちかけることはなかった。忠正はそれはそれで有難がったが、その一方で口惜しがる気持ちもまた確かにあった。その多少後ろめたい気持ちも手伝ってか、初のお遊戯に熱心に相手してやるのだった。
 その日の会議もはかばしくなかった。農民たちや町民たちは日々の仕事に忙しく、補修工事にかりだせる状態ではない。とても人手がまわらない。灌漑設備の充実どころか、溜池の修理さえ、ままならないでいた。
 室内は誰もが無言で、鬱屈とした空気に包まれていた。
 そんな中、重苦しい雰囲気を破り、初の狼狽した声が響き渡った。
 「あああ駄目でちよう」
 すると、ずぶ濡れの汚い子猫が執務室に飛び込んできた。
 突然の走りまわる子猫の出現に、会議は余儀なく中断された。忠正は苦々しく逃げ回る子猫を捕まえようとするが、すばしっこくてなかなか捕まらない。どうにかこうにか大見と長岡の手で捕獲されたが、初に引き渡す頃には部屋中が泥まみれになっていた。
 皆、さすがに困惑の色を隠せない。
 「初どの。今は執務中ですぞ」
 忠正の口調が厳しくなる。
 「ごめんなさい。洗ってあげてたの。このこ泥だらけだったのぇ」
 涙ぐむ初に忠正はやれやれと首をふると、「今日はこれで終いにしよう」と締めくくった。それから「初どのには無理だ。私がやろう」と言い、呆気にとられている要人たちを尻目に、初の後から庭に降りた。初めて触る子猫は恐ろしいほど、くにゃくにゃしており、今にも潰してしまいそうで、洗おうにも実に扱いにくい。
 「柱谷、そちも手伝え」
 呼ばれた柱谷がぎょっとしたように、「それがしがですか?」と呟いたが、それでも躊躇いながら手伝いに降りてきた。
 藩主である忠正と用人である柱谷が、揃って猫を洗っている姿は、ある種異様な光景であった。子猫も大の男二人に挟まれ、観念したように大人しい。
 「さあ、これで綺麗になりましたぞ、初どの」
 忠正の言葉に初が嬉しそうに駆け寄ってきて、洗い上がった子猫の頭を撫でている。
 柱谷は水飛沫のついた羽織袴を拭きながら、「成る程」としきりに思案している。どうやら何か思いついたものらしい。
 「成る程、この手があり申したか。自ら携わるのも道理、、殿、非番の者達をも修理に当たらせましょう」
 思い切った柱谷の言葉に、しばらくの間、忠正を始め誰もが声を発せずにいた。
 「藩の一大事です。皆が力を合わせる必要がありまする」
 「それはそうでござりますが、ですが、藩士たちが人足に混じって働いてくれるものかと、、、反感が生ずるやもしれませんな」
 と、長岡が難しい顔をした。
 「なに、私たちも同じく力仕事をするのですから、否とは言わせません。殿にもお力添えが頂けましたら士気も上がりましょう」
 柱谷の藩主への不躾な発言に、周りはぎょっとしたが、忠正は意に介さなかった。
 「無論、そのつもりだ。これは藩全体の最重要案件だ」
 「名案じゃ」
 家老の浅川がぽんっと手を打った。
 「確かに今は一人でも手が欲しいところじゃ」
 「しかし納得してくれるでしょうか?藩士たちが、、」
 と尚も心配そうな大見が浅川を見やった。
 「なに、説得するのは、わしと柱谷どのの役目。そなたらも異論はないであろうな」
 「勿論でございます」
 「殿が率先して陣頭で力をお振る舞いになられるのですから、反論など出来はしないでしょう」 
 柱谷がふふっと不敵に微笑んだ。
 「ならば、今年は相良さまの菊自慢を聞かずにすみそうですな」
 長岡の言葉に皆が声をあげて笑った。久方ぶりの笑顔だった。


     ⋯⋯⋯⋯⋯


 新井林藩は山あいの小さな盆地に位置している。為に出水にも日照りにも極端に弱かった。そうした地形であるからこそ灌漑設備の不備は、深刻な問題を引き起こしてしまう。実際、ここ数年の鉄砲水と干ばつにより、藩は酷い打撃を受けている。一刻も早い設備の充実が望まれるのだが、現状は溜池の補修が精一杯だった。
 溜池修理の件は、先の柱谷の案で、忠正を筆頭に城役人総出であたり、何とか間に合ったのだが、今度は別の問題が浮上していた。
 梅雨の時期にまとまった雨量が望めなかったのである。これは迫りくる夏を前に、深刻な問題となっていた。
 ーーせめて彫り物や織物などの特産品でもあったならば。
 忠正は忸怩たる思いで考えを巡らせていた。いつも論議に出されるのだが、目新しい案は浮かばなく、模索の時が流れるばかりだった。無理からぬ事だった。一朝一夕に成ることではない。藩全体で年月をかけて、取り組んでいかねばならぬ事である。
 特産物についても、元手となるものがなくば、興しようもない。それにはやはり農産物収穫による租税が、是非とも必要であった。現状、全てにおいて余裕がなく追い詰められていた。
 ーー何か、何かないものか。
 藩全体で取り掛かれる効率的な何かが欲しかった。
 「忠正さま。まだ起きては駄目でち」
 ようやく熱の下がったばかりの忠正を初が案じた。
 忠正は山水の引き方を考えるため、山歩きをしている最中、運悪く土砂崩れにあい、裂傷を負ったのであった。傷口は思いのほか深く、そこから菌が入り込み数日ものあいだ高熱が続いていた。心労と過労のためもあってか、容態が芳しくなく、周りの者達を随分と心配させていたのである。
 「いや、もう大丈夫だ」
 誰よりも忠正を案じ看護に尽くしてくれたのは、他ならぬ初であった。片時も側をはなれず付き添っていたのである。熱に浮かされて瞼をうっすら開けるたび、決まって心配そうに覗き込んでいた初の顔を、忠正は夢うつつながら覚えていた。
 「まだ起きては駄目でち」
 忠正は微笑みながら憔悴しきった初の顔をみた。ふっくらとしていた初の頬は、心労のためか痛々しい程、げっそりと落ち窪んでいる。
 忠正はついっと人指で、初の頬をつついてみた。
 思わず我知らずの所作に、忠正自身驚きを隠せなかった。驚いたのは初も同じであるらしい。見ると真っ赤になっている。
 夫婦といっても、未だに一度も同衾したことのない二人だった。初の精神は幼く男女の関係を強いるのは、あまりにも酷なようで憚られていた。
 慌てて咳払いをすると、「造作だが家老と用人を呼んでくれ」と、顔を背けながら忠正が言った。
 「は、はい」と初も転がるように退室し、直ぐ様に浅川家老と柱谷用人が姿を現した。二人は忠正が倒れてから、ずっと宿直を続けていたのだった。
 「寝い姿だが、楽にいたせ」
 寝床で置き直っている、やつれてはいるが忠正の強い瞳に、浅川と柱谷は安堵の色をみせた。
 「殿、ご回復のご様子、重畳に存じます」
 「御熱もお下がりあそばしたと聞き、皆、喜んでおりまする」
 それぞれの堅苦しい挨拶に忠正は苦笑すると、「辞儀は抜きにしよう。心配をかけてすまなかった」と、闊達に声をかけた。
 「その後、どうなっておる」
 浅川と柱谷が意味ありげに目を交わした。目ざとく認めると、忠正が焦れったそうに促した。
 「何かあったのなら早く申せ」
 「卒爾ながら、特産につき一考案がございます」
 家老の朗報に、忠正は布団を跳ね除けて起き上がった。
 「誠か」
 「殿、どうかご安静に」
 「詳しく申せ」
 そこで浅川が「鯉でござります」と述べ、柱谷がその後を引き継いだ。
 それは藩全体で鯉の養殖を行うという話だった。稚魚を育成し出荷するといったもので、鯉の色や形などの交配に知識や技術は必要だが、実現可能に思われた。鯉ならこの藩にもある。これから新分野での職人を育成するなど、膨大な費用と時間のかかるものでもない所に利点があった。
 遠い西国に似たような地形の藩があり、実際に鯉の養殖で成功を治めているという。
 「確かに、その様な事は聞いたことがある」
 「直ぐに商いに結びつけるは難しいでしょう。ですが」と、柱谷が続けた。
 「売買のまえに、非常食とお考え下さい」
 まずは非常食対策のための鯉の養殖を優先し、同時進行で交配事業を検討して頂きたいという旨だった。
 「うまいぞ。早速、家中より人物を選出し西国のその藩に派遣いたそう。実情を調査させ、良くば後に私からの書状をもたせ交渉する」
 忠正は熱い塊が胸に込み上げてくるのを感じた。浅川家老も柱谷用人も、興奮で頬が上気している。
 「それにはやはり水の確保。灌漑設備が必要になってくるな。いや、よくやった。大したものだ」
 「は、勿体なきお言葉。光栄至極にございまする。ですが稚魚を買うにもお金が入り用です。全てはこの秋の収穫次第となりましょう」
 柱谷が鹿爪らしく冷静につけ加え、浅川が重々しく頷いた。
 だが、彼らの瞳は力強く輝いていた。これから迎える夏が勝負所なのはもっともであるが、それでも漸く藩の方向性を見いだせたのだ。三人はゆるゆると、心が満たされていく心地良さに浸っていた。


     ⋯⋯⋯⋯⋯


 「嬉しいことが、ありまちたの?」
 縁側に大きめのタライを運びながら、初が楽しそうに声をかけてきた。何をするつもりなのだろうと、忠正は訝しく思いながら、「今夜は月が綺麗だな」と答えた。
 今日は藩の大河である坂巻河を祀る月見の宵であった。この藩の豊穣を祈る習いで、夕涼みをしながら夜空の月と、坂巻河の水面に映る月と、二つの月を愛でつつ感謝を捧げるのである。好もしく風流な祭り事であった。
 ーーさぞ賑わっておるのだろうな。
 残念そうに忠正は首を横にふり、縁側に歩いていった。足に痛みが走り思わず顔がゆがんだ。
 忠正の怪我は快復が遅れていた。過労による疲れもあり、足の化膿がなかなか癒えず、今もぱんぱんに足が膨れ上がっている。
 「半月も寝付いてしまった」
 こんな大事な時に、と忠正は自分の迂闊さを悔やんでいた。それから、もうお忍びでの外出は許されないだろうなと溜息をついた。かねがね是近一人だけを伴っての微行には、みな難色を示していたのである。今回の出来事は決定的だった。是近も随分と家老や用人達に叱責を受けたものらしい。
 ーー気の毒なことをした。
 ふと初を見ると、今度は忙しそうにタライに水を汲み始めている。自らの手で、縁側に降りて桶に水をくみ、それをタライに入れているのである。初は奥方の立場など関係なく、自分でできることは率先して行なっていた。亡き父の方針でもあったのだろう。忠正は己の立ち位置を優位にしない心に、いつも好感を覚えていた。
 「先ほどから何をしておるのだ」
 「今宵はお月見の晩でち」
 「何だ、楽しみにしていたのなら、初は行くがいいだろう」
 鷹揚に忠正が笑うと、初がぶんぶんと首を振った。
 「初は毎年みてるもの。忠正さまに見ていただきたいの」
 それから水の入ったタライを、あっちに動かし、こっちに引きずり始めた。移動するたびに、ちゃぷんちゃぷんと水がこぼれる。
 「初、いったい?」
 「さあ、ここがいいわ。忠正さま、きて」
 見るとタライには月が揺らめきながら映っている。
 「坂巻河の月はもっとキレイだけど、これでガマンちてね」
 初の口から我慢という言葉がでたのが何とも可笑しかったが、忠正は優しさに胸が詰まった。
 「ああ綺麗だな、綺麗だ」
 感に堪えないように、忠正はしみじみとタライの月を眺めやった。それから「聞いたことはないか?」と傍らの初を見やった。
 「なにを?」
 「遠い西の国には、この様に二つの月を一緒に眺める美しい離宮があるそうだ」
 「二つ一緒に?」
 「ああ夜空の月と水面の月と、一緒にだ」
 藩もそうあるべきかな、とこれは胸の中で呟いた。
 初がタライに指を入れた。たちまちに月は散れじれに崩れ、それからまた、ゆっくりと元の姿に戻っていった。
 初が忠正の視線に頬を赤らめた。
 その仕草に、熱く強い眼差しで初を見つめていたのかと、忠正は慌てて目を反らせた。
 夜空の月が気を利かせて、雲に隠れたところだった。



 
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