ロングディスタンス

くもはばき

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prologue

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 その日、織部おりべ夕真ゆうまは機嫌が良かった。

 それは雲一つない秋晴れのおかげであり、フライパンの上で割った卵が双子だったおかげでもあった。

 機嫌の良かった夕真は鼻歌なんか口ずさみ、リュックサックにとっておきのレンズとフィルムを詰め、スニーカーを爪先にひっかけた。

 玄関を出て濡れ縁へ回ると、夕真に写真を教えてくれた祖父は、庭の白い山茶花に二眼レフカメラのファインダーを向けていた。

「じいちゃん。俺ニシムラさん行ってくるけど。何かお使いある?」

 夕真が声をかけると、祖父は白い髭を蓄えた顔を上げて「おう」と応え、部屋へ上がりフィルムケースと財布を手に戻ってきた。

「現像に出してきてくれるか。お釣りは駄賃にしていいから」

「わかった。……ありがと。じいちゃん」

 握らされたフィルムケースをリュックに、小遣いを財布に仕舞って、夕真は自転車に跨った。

 祖父が譲ってくれたフィルム一眼は骨董品みたいなクラシックカメラで、大事に使っていてもしょっちゅう故障する。なので、デジタル一眼に持ち替えようと考えたことは一度や二度ではない。

 けれど学校には暗室があって、またクラシックカメラの魅力にも抗い難く、結局高校の三年間はずっと祖父のカメラを使い倒した。

 廃農が進んで荒涼とした田畑を横目に自転車を三十分走らせて、駅の月極駐輪場に前輪を突っ込む。

 そうして辿り着いた最寄駅でICカードの定期券が使えるようになったのはつい去年のことだ。

 電車に乗ってしまえば二駅で新幹線も停まる大きな駅ではあるものの、その二駅が隔てる田舎と都会の溝は深い。

 カメラを馴染みの修理店から引き取って、天気がいいのでその足で鉄道を撮りに行こうと思っていた。予定を変更したのは、二つ下の妹から「お兄ちゃん助けて!」と電話がかかってきたからだ。

「どうした、まひる。落ち着いて話せ」

 穏やかで気持ちの良い日曜日に、一瞬で暗雲が立ち込めた。

 なんの前触れもなくこんな電話を受ければ、世の大抵の「お兄ちゃん」は居ても立ってもいられなくなるはずだ。

「今、どこにいるんだ? 何があった」

「清掃センターの二つ手前の交差点! お兄ちゃん、今日の朝イチでニシムラさんにカメラ取りに行くって言ってたよね!? 今近くにいない!?」

「近く……ってほど近くもないけど。三十分くらいはかかりそう──」

「よかった! お兄ちゃん、一生のお願い! レースの写真撮りに来て!!」

 妹のまひるは同じ高校の陸上部で幅跳びをやっていて、その日は駅伝大会の応援に行っているはずだった。

 普段の夕真ならきっと、お調子者の妹が口にする「一生のお願い」なんかに真面目に取り合ったりはしない。

 けれどその日は天気が良くて、目玉焼きは双子で、リュックには修理が終わったばかりのカメラと、とっておきのフィルムとレンズが入っていた。

 だからなんだろう。「こんなことでもないと、駅伝大会なんか撮りに行くことないだろうし」と妹のいる交差点へと足を向けたのだ。

 そうしてふらりと訪れた先では、何十メートルと人だかりが続いていた。

 まひるの話によれば、行われているのは駅伝の県大会──つまり、年末に京都で行われる全国大会への出場のかかった大一番ということだった。

「──で、こちらがその……」

「新聞部のウツギちゃん。カメラの替えのバッテリーどっかに落としてきちゃったんだって。だからお兄ちゃん代わりに写真お願い! あとで肉まん奢るから!!」

 ウツギちゃん。と紹介された顔面蒼白の彼女は、なるほど首からデジタル一眼レフのカメラを提げ腕には新聞部の腕章をつけている。

「肉まんは別にいらないけど……俺、走ってる人なんか体育祭以外で撮ったことないけどいいの? 今持ってるのモノクロフィルムだし。全然使い物にならないかも」

「一枚もないよりマシだよ! お兄ちゃんよく電車撮ってるじゃん。キプサングだって電車よりは遅いんだから大丈夫だって!」

 キプサングって誰だよ……。とここが家ならすかさず言い返しているところだ。けれど妹の横に立っている新聞部のウツギちゃんに、悲壮な声で「お願いします!」と頭を下げられてしまい、夕真は「わかったよ」とだけ返事をしてカメラにフィルムを装填した。

「うちの学校、あとどのくらいで来そう?」

「さっき前の中継所でタスキ渡したところだから……あと十分くらいです! 十番手だったって聞いてます!」

 質問に答えながら、ウツギちゃんは夕真の手元を覗き込んでいた。カメラがあんまり古めかしいので不安になったんだろう。

「ありがとう。陸部には悪いけど、先頭じゃなくてよかったよ。練習できる」

 そんなことを言っている間に、道の先に先頭の選手が見えてきた。他校の留学生選手だ。黒くしなやかな脚が、大きなフォームでアスファルトを蹴っていた。

「──はっや!」

 パチン、かしゃん。と夕真が一度シャッターを切ってフィルムを巻き上げる間に、その選手は沿道の応援団に目もくれず一瞬で駆け抜けていった。現像するまでもなく、シャッタースピードが足りなかったのは明らかだ。

 先頭じゃなくて本当によかった! と思わず息を吐きながら、夕真は慌ててカメラの設定を調整し直した。試し撮りの機会はもう少しあるようだったけれど、無駄打ちするには惜しいフィルムだったのだ。

「えーっ!? 嘘でしょ!?」

 しかしすぐ横で誰かと電話をしていたまひるが、えらく興奮した様子で声を裏返した。

「うちの先輩、ごぼう抜きしてるって! いま三番手!」

 それはよほどの番狂わせらしかった。近くにいた同じジャージの陸上部員たちがにわかに色めき立ち、ガードレールの手前に押し寄せた。

 夕真もその人波に押されながら、少しだけ身を乗り出してファインダーを覗く。掌にかいた汗でグリップが滑るのが分かった。

「……来た」

 息を飲みながら、無意識に呟いていた。

 とっておきのレンズを限界まで伸ばし、ガードレールから乗り出している人の頭の間をぬってその姿にフォーカスを合わせる。

 パチンッ、かしゃん。

 その瞬間、世界からそれ以外の音が消えた。呼吸も止まった。大きなフォームで泳ぐように走る彼に、夕真は吸い寄せられるようにフォーカスリングを回してはシャッターを切りフィルムを巻き上げた。

 炎に巻かれたような赤い髪と、同じ色のユニフォームと襷がなびいている。そしてきっと気のせいではなく肌も赤い。皮膚の下で煮え滾る血が透けているのだ。

 パチン、かしゃん。

 パチッ、かしゃんパチッ。

 前を走る選手の襷を掴まんばかりの勢いで大きく腕を振って走る彼は、追っているというより逃げているように夕真の目には映った。何がそんなに怖いんだろう。そんな疑問で頭がいっぱいになる。

 パチンッ──かしゃん。

 最後に一度、見送るようにシャッターを切ってカメラを下ろした。目がチカチカするのはきっと、酸欠のせいに違いなかった。

「──じゃあ俺、もう行くわ」

 夕真がそう言ってカメラをリュックに仕舞うと、まひるは「え! もう!?」とまた声を裏返した。

「最後まで見ていけばいいのに」

「いや。学校行ってこのフィルム現像する。すぐ使うでしょ?」

 とウツギちゃんの顔を見れば、彼女は小さな頭をこくこく縦に振り「月曜日には……」と言いづらそうに答える。

「データ化できたら送るよ。新聞部のアドレスとかあるなら教えて」

「ど陰キャのお兄ちゃんが女子に連絡先聞いてんのウケんだけど」

「まひるうるさい」

 妹のちゃちゃをいなし、ウツギちゃんから新聞部のメールアドレスを聞いて夕真はすぐにその場を離れた。

 人の流れに逆らって、体の前にリュックを抱えたまま早足でバス停を目指す。

 気がついたら走り出していた。焦ってもしょうがないのは分かっていても、気持ちが逸って走り出さずにはいられなかったのだ。

 赤い髪と赤い襷をなびかせるあの選手は、まるで火の鳥みたいできれいだった。持っていたのがモノクロフィルムだったのがつくづく悔やまれる。

 けれど、たとえモノクロでもあの瞬間が自分のカメラの中にある──フィルムにあの瞬間の光が焼きついていると思うと、まるで恋でもしたみたいに胸が高鳴る。

 早く見たい。早く。早く!

 気持ちの逸るまま、ちょうどやってきたバスに飛び乗って学校へ急いだ。職員室で暗室の鍵を借り、すぐに現像とプリントに取り掛かる。

 案の定、ほとんどの写真が手ブレやピンぼけで使い物にならなそうだった。

 ──ただ一枚を除いて。

 「……すごい」

 火の鳥みたいな彼が、前の選手を抜き去った瞬間。

 唯一その写真だけは、夕真の想像を遥かに上回る出来だった。

 薬品を洗い流したばかりの印画紙を見つめ、シャッターを切っていた時のように息を飲んだ。学校行事の手伝いや家族旅行以外で人を撮るのも、写真を撮っていて人間が「きれいだ」と思ったのも初めてだった。

 それが、夕真と喜久井きくいエヴァンズ重陽ちょうようとの馴れ初めだ。

 雲ひとつない秋晴れの日、長い初恋に号砲が鳴った。
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