ロングディスタンス

くもはばき

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ロングディスタンス

03、LAST ONE

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 三週間の入院は思ったより長く感じた。やるべきことが山ほどあるのに体の自由が利かないもどかしさのせいだ。

 喜久井が最初にパソコンを持ってきてくれたおかげで、サークルやバイト先との連携や書き物仕事、それに滞っていた卒論の下書きに手を付けられたのは不幸中の幸いだった。

 しかし部屋の片付けは丸きり喜久井や同期の三浦兄弟に頼ってしまったし、新しい携帯も部屋も、何も探せていない。

 元彼(と言ってもう差し支えないだろう)には夕真への接近禁止命令が出ているが、それを破るリスクを考えて行動できる人間はきっと夜中に窓ガラスを割って騒いだりしない。家賃を一ヶ月分余計に払うことになったとしたって、すぐにでも引っ越すのが妥当だろう。

 もっともあの事がある前からたびたび騒音で注意を受けていたので、どのみち追い出されそうではあるが。

「あー……これからこのクソ暑い中、携帯の機種変して不動産屋行って……嫌んなるな」

「まあそりゃしゃーないっすよ。契約関係ばっかりは赤の他人が代理でってわけにいきませんからね。親兄弟ならいざ知らず」

 退院の日も、喜久井が当然のような顔をして荷物を引き上げるのを手伝いに来てくれた。正直なところ相当に有難くはあるものの、この三週間完全に彼の世話になりっぱなしだったので心理的な負担は大きい。

「っていうかフツーはこういう時、家族に頼るもんですけど?」

 暗に「家族にはなんて説明したんですか?」と聞きたいんだろう。喜久井は少し夕真のことを嗜めるような口調で言う。

「未成年の子どもじゃないんだから、別に必要ない。警察も病院も、死ぬような怪我じゃなきゃわざわざ実家に連絡したりなんかしないし」

「はあ。そういうもんすか」

「そういうもんだよ──あっつ……」

 喜久井は腑に落ちないような様をあからさまにして首を捻りながら夕真の後ろについてくる。入院した頃はまだ梅雨明けもしていなかったのに、外はすっかり真夏だ。

「先に一回部屋帰って荷物置いて、それからだな……あ、昼飯奢るよ。何食いたい──」
 
 夕真が言うのを遮るように、喜久井は黙って真新しいスマートフォンを夕真の目の前に突き出した。

「なに。携帯変えたの?」

「先輩のです。新規発番でユメタ先輩が契約してくれました」

「は? どういうこと?」

「あと、引っ越しももう終わってます。窓ガラスもちゃんと直しときましたんでご心配なく」

「はあ!? 待て待て! どういうことだ!?」

 混乱して大声を出したら、繋がったばかりの肋骨が少し痛んだ。「うぐ」と背中を丸め胸の下を摩っている間に目の前へ三浦兄弟が社用車として乗っているバンが止まり、運転席からはサングラスをかけたチンピラみたいな格好のユメタが顔を出す。

「ヘイ! おまた!」

「いえ、ユメタ先輩。ナイスタイミングっす」

 と言うなり喜久井は後部座席のスライドドアを開け、呆気に取られたままでいた夕真をそこへひょいと押し込んだ。相手が友人でなかったら、完全に拉致事件のそれである。

「タマっち退院おめでとお。もうコルセット外れてる感じ?」

「あ、ありがとう。コルセットは外れたけどまだサポーターが……って違う違うユメタ! これどういう状況!?」

「どうって別にィ? 暑い中バスと歩きで帰ってくんの大変だろーなーと思って、迎えに来てあげたんじゃーん」

 ユメタがバックミラー越しに夕真を見てニマニマ笑っていて、猛烈に不安になった。フットワークが水素より軽い双子がこの笑顔を浮かべている時、大事が起こっていなかった試しはない。


「ダメだ! このモードのユメタには話が通じん! 喜久井! どういうことかちゃんと分かるように説明──」

「もしもーし。お疲れ様ですノブタ先輩! はい。今ユメタ先輩にピックアップしてもらったとこっす。帰りなんか買ってくモンとかあります?」

「喜久井ィ!!」

 頼みの綱の喜久井もまた、ユメタと一緒になってニマニマ笑っている。そして電話の向こうのノブタもまた、同じようにニマニマしているに違いない。

 万事休す。何が何だかさっぱり分からないが、そんな言葉が脳裏に浮かぶ。車はどうやら三浦ハウスへ向かっているらしい。市街地を抜け、細い林道をうねうねと上り、やがて二階建ての鄙びた古民家が見えてくる。夕真にとっては因縁の場所だ。

「はいっ。とうちゃーく。あ、タマっち。先に言っとくけど今うちアルコールとニコチンの持ち込み厳禁だから。持ってたら出して」

 振り向いたユメタが有無を言わせない雰囲気でいるので、夕真は黙ってポケットの中の電子タバコを差し出した。

「サンキュ。悪いね」

 と言うなり彼は車の窓を開けて「オラア!」と勇ましい声を上げ、夕真の電子タバコを思い切り放り投げる。

「おおおおおおい!?」

「イエス! レーザービーム!!」

「レーザービーム!! じゃないよおい! 何してくれてんの!?」

 ユメタの放り投げた電子タバコは屋根瓦の上をカラカラと転がり、雨樋で止まった。

「いやだから、タバコ持ち込み禁止なんだって。うちには未成年もいるし、百害あって一利なし! これを期にタマっちも禁煙禁煙!」

 ニマニマ笑いを保ったままユメタは夕真の肩を強く叩く。喜久井が後部座席のドアを開け「痛かったら捕まってください」と手を伸ばしてきたが、固辞して車を降りた。

「それじゃ夕真先輩。おれはトランクから荷物下ろしてお勝手に運ばなきゃなんで、ユメタ先輩と先行っててください。事務所でノブタ先輩からいろいろ説明あると思うんで」

 喜久井は少し寂しげな目でそう言うと、ユメタから放られた車のキーをキャッチした。夕真はユメタに「行くよ」と促され、玄関ポーチへ向かう。

 三浦ハウスは築九十年の、土間と囲炉裏のある正真正銘の古民家だ。あたり一帯の地主である曽祖父から進学祝いに譲ってもらったというのだから、織部家がゴボウ、喜久井家がダイコンとするなら、三浦家の太さたるや屋久杉レベルである。

 とは言えそのまま住むには設備的に難のある空き家であったこの家は、現在も絶賛リフォーム&リノベーション進行中だ。

 喜久井のように遠方から進学してきて駅伝部へ入部した部員には、空室がある限りはこの「三浦ハウス」が下宿先として紹介される。リフォームを手伝うと時間や日数に応じて下宿生なら家賃がディスカウントされ、実家住まいや一人暮らしの部員には三浦兄弟からアルバイト代が出るらしい。

「お。来たなDV野郎製造機。まあ座れよ」

 双子が会社の事務所として使っている部屋に通されると、ノブタは社長椅子──っぽく見えるゲーミングチェアの上でくるくる回りながら夕真を応接セットのソファへ座るよう促した。


 事実ではあるものの、人に言われると腹が立つ。が、そんなことを口にできる身分でもないか。と思い直して夕真は黙ったままソファに腰を下ろした。

「まあ、まずは退院おめでとう。あと、この間は『謎解きソーセージラン』のPR原稿ありがとな。助かったよ」

「ああいや、こちらこそ……これから色々アホほど金かかるから、ああいうのすごい助かる」

 入院生活三日目のことだった。ようやくなんとか自力でトイレに行けるようになった矢先、彼らの立ち上げたイベント会社「ファンナーズハイ」が主催するファンランイベントのPR記事執筆を依頼されたのだ。

「……でも、そんなことよりもっと聞きたいことが山ほどあるんだが?」

「うん! 知ってる!」

 ユメタと色違いのチンピラシャツを来たノブタは、デスクの上のファイルブックを片手に立ち上がり夕真の差し向かいへ座る。隣には同じようにユメタも腰を下ろした。

「重陽から新しい携帯は受け取った?」

「え? ああ……なんなのこれ。どういう意味?」

 病院の前で押し付けられた携帯を取り出して机に置く。すると対面のほぼシンメトリーな二人はニマニマ笑ったまま、ノブタはファイルブックをユメタへ渡し、ユメタはそこから書類を出して夕真の前に置く。

「これ、その携帯の契約書な。名義と支払い先はウチの会社にしてある」

 ノブタはニマニマ笑いを絶やすことなく、けれどどこかビジネスライクな口調で言った。それから続け様に、ユメタがファイルブックから書類を取り出して夕真の前に並べる。

「で、これはお前の部屋の窓ガラス張り替えの領収書」

 続けてまた一つ。

「こっちは引っ越しにかかった経費」

 またまたもう一つ。

「それからこれが、部屋の退去手続きの書類。本人は入院してるんでっつったら、大家さん心配してたぜ? あとでちゃんと挨拶行っとけよ」

「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って。ちょっと待って。話が見えてくるようでいて全然見えてこない。つまり、色々立て替えてもらったってことなんだろうけど……ていうか、引っ越し先って──」

「決まってんじゃん。ココだよ」

「やっぱり!」

 厚意は素直に有り難い。しかし不甲斐なさと申し訳なさ、そして友人にそこまでの面倒をかけてしまっているという恥ずかしさが先に立って夕真は頭を抱えた。

「……色々面倒かけて悪い。ちょっと時間もらうかもしれないけど立て替えてもらった分は必ず利子つけて返すし、すぐに新しい部屋も探──」

「そうは問屋が下ろしませんよ先輩!」

 部屋のドアが、大きな音を立てて勢いよく開いた。振り向くと、喜久井が麦茶のグラスを乗せたお盆を片手に憤然と立っている。

「重陽。ドアはそっと開けてそっと閉めろ。建て付けビミョーなんだから。壊したら家賃割増すんぞ」

 ノブタにどやしつけられると、喜久井は「すみません勘弁してください」とその大きな背を丸め、後ろ手にドアをそっと閉めた。


「聞いてたのかお前……」

「部屋の前まで来たら嫌でも聞こえますよ。どこもかしこもDIYで建て付けがビミョーなもんで、あちこち隙間だらけなんすから」

 喜久井は夕真と三浦兄弟の前にグラスを置き、小言を言うように続けた。

「そんなことより先輩、まず『悪い』の前に『ありがとう』でしょ! 先輩をそんなお礼を言えない子に育てた覚えはありませんよ!」

「お前は俺の親か! 俺だってお前に育てられた覚えはないよ!」

「ふふん。先輩が全っ然親御さんに連絡しないから、おれが親御さんに代わってビシッと言ってやりました!」

 となぜかドヤ顔の喜久井は空のお盆を手に部屋を出ていった──かと思いきや、夕真の後ろにまるで見張りのように佇んでいる。

 どっかで見たことあるぞこの構図……と記憶を辿ると、割合すぐに思い出せた。入院中に動画配信サイトで観たヤクザ映画だ。なんなら状況も大して変わらない。

「──まあしかし、重陽の言う通り『そうは問屋が卸さない』ってな。タマっちには諸々の費用を体で払ってもらうぜ。というわけでハイこれ借用書と契約書」

 内臓か!? それとも風俗か!? と身構えた夕真の前へ最後に差し出されたのは借用書と、アルバイト先で見慣れた書式の契約書だった。

「業務……委託……!?」

「そ。まあ詳しいことはその契約書を隅から隅までよーく読んでハンコ押して欲しいんだけど、要するにタマっちには今年度いっぱい、ウチに住み込んで駅伝部の密着取材アーンド弊社の記録担当をやってもらいまーす。ギャラは借金、家賃、水光熱費と相殺ってことで!」

「そんな無茶苦茶な!」

「なに。不服?」

 と言って業務委託契約書を覗き込んだのはユメタだ。

「もちろん、返済が終わったらフツーにギャラとして払うよ? 悪くない条件だと思うけどなあ」

「……逆だよ。破格すぎる。俺はそこまでしてもらっていい身分じゃない」

 夕真がそう言ってため息を吐くと、差し向かいのノブタとユメタは全く同じタイミングで「あ?」と発しながら剣呑な視線を向け、背後からは喜久井の「先輩」という低い声が聞こえた。

「そういうところですよ。先輩の悪いところ。昔から全然変わってない。そうやって自分を低く見積もってるから、先輩の周りには先輩を買い叩こうって人ばっかになってくるんでしょ。苦しくないんすか? そんなにずーっと自分で自分のことバカにし続けて」

 憐れみをたっぷり含んだ声で図星を指され、カッとなって立ち上がり喜久井を睨んだ。が、彼はそんな夕真の様にも臆することなく自分の携帯の画面を夕真の目の前に差し出す。

「うぅっ! 喜久井お前! それはあまりにも卑怯っ!!」

「いいえ先輩。俺はむしろ、もっと早くこうするべきだったと後悔しているぐらいです」

 見せつけられた画面──メッセージアプリのタイムラインに表示されている名前は他ならぬ「織部まひる」。

 メッセージ入力欄には既に夕真が暴行を受けて入院していた旨を記した文章が打ち込まれていて、あとは送信するだけ。という状態になっている。

「いいですか先輩。人間、そう何回もリスタートできるもんじゃありません。だからきっとこれは先輩にとって、最後のワンチャンスです。……大人しく契約書にサインしていただければ、このメッセージは削除します。これからも勝手にまひるちゃんにバラすようなことはしません。サインしないなら──分かってくれますよね?」

 腹の立つほど穏やかに、噛んで含めるように言われ、夕真は何も反論できずに再びソファへ腰を下ろした。

「ははは! チェックメイトだな。はいペンと印鑑。こっちとそっちの保管分で二枚ヨロシク」

 契約書を手にしていたユメタは声を上げて笑い、再び夕真の前に契約書を戻す。

「ちょっと待った。なんでユメタが俺の印鑑持ってるんだ」

「引っ越しはこっちで済ませたっつったじゃん。てかタマっち、通帳と印鑑セットで机に放置とかマジありえないんだけど」

「頼む……サインはするし判も押すから、これ以上正論で俺を追い詰めないでくれ……」

 ドアの建て付けとは逆に一切の隙がない包囲網に捕まり、夕真は契約書にペンを走らせた。
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