鬼と小夜の物語り

赤雪

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第3章

第1話  戒光という僧

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 模擬戦から七日過ぎた日の、巳正刻10時を過ぎた頃。 
 小夜は山道を堰堤に向けて登っていた。

 呼びに来た千三が所々で小夜の手を取り引き上げる。それ程に急いでいた。
 何事かが起きた訳では無く、刻が無い訳でもない。だが気が急いた。

 山には三日前に登ったばかりだった。
 鬼王丸が書いた図面をもとに新しい水路を見つけた。山の衆と吉次で池に水を入れる新しい水路を検討し、道筋を決めた。今日辺り図面が出来る頃だとは思っていたが、正にその図面を無にする事態が出来しゅったいしたという。

 奥山から旅の僧が現れて、この堰堤えんていは役に立たぬと言いだした、というのだ。
 奥山から現れた――そのこと自体、すでに普通の僧ではない。
 滝の向こうは深い藪と岩が連なり、獣道さえないのだ。

 息を切らして駆けつけた小夜に、僧はその理由を明確に説明した。

「この方法であれば堤を支えるためには相当の石の量を必要とする。つまり棚田を一段無にしてしまう程の距離を厚みとせねばならぬ。石の重みが即ち蓄える水の量と等しくなる」と。
 それは正しく、小夜と吉次が答えを探し求めていた『弱点』を指摘する言葉だった。
 僧侶は名を戒光かいこうと名乗った。
 国々を歩き、水脈を見つけて教え、土木を教えて旅をしているのだと。

 ここには鬼に導かれてやってきたのだと言ったその一言が、僧侶の全ての言葉を絶対的なものに変化させた。

「よいか。お前達はものを見る眼が近すぎる。土木を成すにはまず自然と兼ね合った、姿・形の美しさを求めよ。遠くから見て自然と調和して見えれば、即ちそれは、理に叶っている」
 僧は工事の堰堤をつぶさに見て言った。
「工事自体は実に良く出来ている。これ程のしっかりした工作を見るのは久しい。余程、工人が心しているのであろう。一滴の水も漏らさぬ桶を見るようじゃ」
 吉次と古参の小頭が手を叩き、握りあった。
「じゃが、この桶にはたがが無い」 
「たが!」
顔を見合わせた。
たがの無い桶に水を入れてみよ。どうなる」
「僅かな水しか溜まりません」
少しでも補強の道を探そうとする吉次の声に、小夜の絶望的な声が被さった。
「何をぬるいことを。桶がバラバラになるわ」
「では小夜様。田を一段潰して御坊がご指摘の支えを置きます。残された方法は、水の圧力に耐えるほど、堤を厚くするしかないのではと思いますが」
 僧は首を振った。
「それにはどれ程の年月がかかると思うか。またそうなればどれ程資金が必要か。一年かかったものを五倍にするには五年かかる。この堤はこれまでに何年かかった。あと何年かけるのじゃ」
 理詰めで迫る僧侶の言葉に容赦はない。
「こうせよと儂が一言いえばそれで済む。だがそれではお前達の知識にならぬ。知識にならねば維持も修理もできぬが理」
 僧は堰堤の上に立ち、説法をするように「考えよ」と言った。
「よいか。耐える力とは、このように考えよ。水の力は滝の方から来る。ならば滝に向かう力を作ればよい。滝に矢を射かけると考えてみよ」
「滝に矢を射るのですか」
「そうじゃ。矢を射るために弓を引く。弓はどうなる」
「しなります」
「しなる強さが矢の強さとなる。それが水の圧力を打ち消す」
「まだよくわかりませんが、それ程の強き矢を打ち出す弓がありましょうか」
 解る様な気はしていた。矢の正体とは耐える力なのだろうが、それがどういうものなのかが浮かんでこない。
「考え方を変えよ。お前達は水を貯めようとするので桶やたらいを考えるが、堰堤とは水を止める力の事なのじゃ。弓が最大の力を発揮するために引き絞った形は半円である。これと同じような形に半分に切った桶があるとしよう。桶の両端を弓のはずと考えるが良い。これさえ支えておけば桶の内から外へは脆くとも、外から内に向かう力そのものが桶を支える力になると想像出来るであろうが」
「わかりました」小夜と吉次が同時に叫んだ。
 水圧のかかる堰堤は、椀に水を蓄えるのでは無く、隘路に椀を伏せた状態で外から水圧をかける。そうすると力がかかる程崩れにくくなる。
「成る程。ようやく解ったような気がします」
「幸いなことに、両脇に巨岩が露出して居るではないか」
 当然その椀の両端には強大な力がかかるので、これを今から取り除く予定の岩盤に当てる。
「はい。あれを弓のうらはず、もとはずにたとえて、滝に向かって半円を描きますれば」
 むろん椀は半分で良いし、石積みもかなり薄く出来るので、工事の短縮は計り知れない。
 工事に携わる者達の前にあった霞が吹き払われた。

「その一段で勢いを抑える事ができれば、これまでのたがの無い桶でも堤に応じた量の水が貯め置けますぞ」
「まことに。吉次、図面を引け。山の衆はそれによって地積を描く段取りをするのでしばらく休め」

「ふむ。解ったようじゃな。だが今少し待て。水に不自由な田はよくこのように、貯めることばかりを考える。じゃが、見たところこの棚田も、前の大雨で溢れた水が、田の土を押し流し、山道を流れたようじゃが」
「そのとおりでございます」
「ならば山道を水路にいたせばよい。それが自然である」
「成る程。実に明快なご教示。感服致しました」
 吉次が慌てて「お待ちください」と言った。
「ただ歩くでさえも、ここに至るに一刻を要する距離があります。水路を作り替えるとすれば、どれ程の月数が掛かるか分かりません」
 そう言う吉次の肩を叩き、小夜が「解りました」と返事をした。
「吉次。それについては私に考えがあるから任せて貰いたい。私は今から和尚様と山を下りるが、先程話した構造図。概略で良い。作図して急ぎご指導を仰げ」

「かしこまりました」という声に送られて小夜と戒光は山を降りた。

 翌日、朝早く。山の衆、吉次、小夜に見送られて、戒光和尚が旅立った。

    笠、弁当、幸田草鞋に矢立と紙、路銀に錫杖。「それだけあれば充分だ。他は全て智慧でまかなえる。光を戒めるとは頭のことではないぞ」と笑い、飄々として旅立っていった。
 
 小夜は十時の鐘四つが鳴った後、早鐘を三つ撞かせた。
 集まった村人に、明日、八時五つから、村始まって以来の物見遊山を行うと吉次が告げた。
 目的は奥山の滝で遊ぶこと。棚田を見て堰堤の工事の状況を視察する。但し工事地域への立ち入りは怪我を防ぐ意味で禁止する。紅葉を愛でて食事をした後、二時の刻八つから下山を許す。
 参加は自由とするも、塾生は十一歳以上。年寄りは七十までの、自力で登って、戻れる者は参加せよ……と。

 それはやがて始まる大工事の下見であり、心に予鈴を鳴らす目的の行楽だった。

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