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16.新しい指輪
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「お待たせしました」
部屋に入って来た副社長の手には、コーヒーのカップを載せたトレイ。
ギョッとする俺たちに、副社長は慣れた手つきでコーヒーを差し出す。
「このホテルに入社した時、ラウンジのウエイターをしていたんです」
俺の考えが読めたらしく、副社長は言った。彼は俺たちの正面に座り、コーヒーを飲むように手を差し出した。
「昔はもう少しスマートに動けたのですが」
「いただきます」
さすが一流ホテルはコーヒーも美味い。
「それで、私に聞きたいこととは?」
長谷部課長がカップをソーサーに置き、膝の上に腕を置いて、足の間で手を組んだ。
「相川が退職して行方をくらましました」
「え……?」
「単刀直入にお伺いしますが、相川が身を寄せそうな場所をご存じじゃありませんか」
課長がなぜ、副社長が千尋の行方を知っていると思うのか、わからない。
現に、副社長が千尋がいなくなったことを知らなかったことは、表情で分かった。
「私は知りません」
「では、相川の実家の場所はご存じですか?」
千尋の実家とは、千尋の母親の元。
そうか。
副社長は千尋の母親と面識がある。
だとしても、十年以上前に退職した従業員の実家の場所なんて知っているだろうか。
「帯広です」
帯広……?
あ――っ!
ようやく、俺は思い出した。
一緒にテレビを見ていた時、帯広の菓子店の三時間しかもたないスイーツが美味いと紹介され、千尋が「久々に食べたい」と言った。
「食べたことあるのか?」と聞いたら、「おばあちゃんちが近いから」と答えた。
じゃあ、千尋は帯広にいる……?
「年寄りの……昔話を聞いていただけますか」と、副社長が言った。
「はい」と返事をしたのは、長谷部課長。
副社長はコーヒーを口に含み、味わって喉に流すと、音をたてることなくカップをソーサーに置いた。
「三十数年前、私はウエイターやベルボーイ、フロントを経て、本社の人事部に籍を置いていました。女性が働きやすい環境とは言えなかった当時の我が社で、熱心に転属願を申請する清掃スタッフがいました。彼女は高校の卒業と同時に清掃スタッフとして入社し、二年ほどでフロントへの転属を希望した。却下されても、何度も転属願を出し続け、私の目に留まった。とても興味を持ちましてね。一度、彼女と面談しました。家庭の事情で進学を諦めたが、昔一度だけ泊まったホテルの豪華やスタッフの優しさに感動し、ホテル業界を希望したという彼女は、もっとお客様に関わりたいと私に訴えた。私は彼女の熱意に期待して、フロントへの転属を認めました」
副社長は、懐かしそうに目を細めた。とても穏やかに、けれどテンポよく、言葉を繋ぐ。
「当時では考えられない人事に、不満や反発の声も多く、転属後の彼女が実際にはフロント業務に携われていないと知ったのは、三カ月も経ってからでした。様子を見に彼女の元を訪れた私に、彼女は泣きごとも言わず、ただ礼を言った。今も、その時の彼女の笑顔をよく覚えています。あれから、忘れた日は一日もなかった」
なんとなく、察しがついた。
長谷部課長は、やっぱり、と思っているのかもしれない。
「当時の私は、彼女とは一回りも年が離れている上に、妻がいた。政略結婚で、形だけの妻だったが、私は確かに既婚者だった。彼女もそれを知った上で、私のそばにいてくれました」
部屋に入って来た副社長の手には、コーヒーのカップを載せたトレイ。
ギョッとする俺たちに、副社長は慣れた手つきでコーヒーを差し出す。
「このホテルに入社した時、ラウンジのウエイターをしていたんです」
俺の考えが読めたらしく、副社長は言った。彼は俺たちの正面に座り、コーヒーを飲むように手を差し出した。
「昔はもう少しスマートに動けたのですが」
「いただきます」
さすが一流ホテルはコーヒーも美味い。
「それで、私に聞きたいこととは?」
長谷部課長がカップをソーサーに置き、膝の上に腕を置いて、足の間で手を組んだ。
「相川が退職して行方をくらましました」
「え……?」
「単刀直入にお伺いしますが、相川が身を寄せそうな場所をご存じじゃありませんか」
課長がなぜ、副社長が千尋の行方を知っていると思うのか、わからない。
現に、副社長が千尋がいなくなったことを知らなかったことは、表情で分かった。
「私は知りません」
「では、相川の実家の場所はご存じですか?」
千尋の実家とは、千尋の母親の元。
そうか。
副社長は千尋の母親と面識がある。
だとしても、十年以上前に退職した従業員の実家の場所なんて知っているだろうか。
「帯広です」
帯広……?
あ――っ!
ようやく、俺は思い出した。
一緒にテレビを見ていた時、帯広の菓子店の三時間しかもたないスイーツが美味いと紹介され、千尋が「久々に食べたい」と言った。
「食べたことあるのか?」と聞いたら、「おばあちゃんちが近いから」と答えた。
じゃあ、千尋は帯広にいる……?
「年寄りの……昔話を聞いていただけますか」と、副社長が言った。
「はい」と返事をしたのは、長谷部課長。
副社長はコーヒーを口に含み、味わって喉に流すと、音をたてることなくカップをソーサーに置いた。
「三十数年前、私はウエイターやベルボーイ、フロントを経て、本社の人事部に籍を置いていました。女性が働きやすい環境とは言えなかった当時の我が社で、熱心に転属願を申請する清掃スタッフがいました。彼女は高校の卒業と同時に清掃スタッフとして入社し、二年ほどでフロントへの転属を希望した。却下されても、何度も転属願を出し続け、私の目に留まった。とても興味を持ちましてね。一度、彼女と面談しました。家庭の事情で進学を諦めたが、昔一度だけ泊まったホテルの豪華やスタッフの優しさに感動し、ホテル業界を希望したという彼女は、もっとお客様に関わりたいと私に訴えた。私は彼女の熱意に期待して、フロントへの転属を認めました」
副社長は、懐かしそうに目を細めた。とても穏やかに、けれどテンポよく、言葉を繋ぐ。
「当時では考えられない人事に、不満や反発の声も多く、転属後の彼女が実際にはフロント業務に携われていないと知ったのは、三カ月も経ってからでした。様子を見に彼女の元を訪れた私に、彼女は泣きごとも言わず、ただ礼を言った。今も、その時の彼女の笑顔をよく覚えています。あれから、忘れた日は一日もなかった」
なんとなく、察しがついた。
長谷部課長は、やっぱり、と思っているのかもしれない。
「当時の私は、彼女とは一回りも年が離れている上に、妻がいた。政略結婚で、形だけの妻だったが、私は確かに既婚者だった。彼女もそれを知った上で、私のそばにいてくれました」
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