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二章 婚約式

14:普通に生きるということ

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 オリオン=デイヴィス=ホワイトディアと出会い、彼に気遣われ、尊重されている内に、アメリアは思い出してしまった。

(そうだったわ……わたしは、普通じゃなかった)

 アメリアは毛布を身体に巻き、洞窟の岩壁に背を預けて、目を閉じた。

 義母のマーガレットや異母妹のプリシアは、アメリアを疎んでいた。暴力を振るわれたり、食事を抜かれたり、直接虐げられてはいなかったが、いないものとして扱われる毎日。声をかけられることもない。当然、会話に入っていくこともできない。アメリアが彼女たちを見ていると、彼女たちもアメリアを見る瞬間があって、その時の目に浮かぶ色は負の感情が込められていた。

 父親はアメリアに嫌悪感を向けてはいなかったが、孤独な彼女に寄り添うことも、手を差し伸べることも、救い出してくれることもなかった。

 だから、かもしれない。彼女は、誰も傍にいない中、己が異端であることを不意に自覚した。そして、家族に溶け込めないのは相手が狭量なのではなくて、自分が彼女たちと違う生き物だからだという結論に至ったのだ。ゆえにアメリアは時期を待って領地へ引っ込み、家族と距離を取ることにしたのである。

 独りになれば、自身の異常性を感じずに済んだ。比べるべき相手がいなければ、異端は異端ではないのだ。

(かぞく……)

 家族というものに捨てられたのが先か、捨てたのが先か。それはアメリア本人にすらわからない。家族なんてものは、縁遠い存在だと思っていた。

(そっか……このまま結婚したら、わたしはオリオン様と家族になるのね……)

 家族がどういうものかよくわかっていないのに、いきなり英雄の家族になるという実感は、未だない。出会って、もうすぐ三か月が経つ。それとも、まだ三か月と言うべきなのだろうか。それすらも彼女には判断できない。

(なれるのかしら……)

 アメリアにとって、家族と異端は、正反対の位置にある概念だ。異端は日常に混ざれない。異端は独りにならざるを得ない。近頃の、絵への欲望が溢れてやまない状態で、誰かと家族になることなど、果たしてできるのだろうか。

 絵を、描きたい。

 吹雪いた雪山の洞窟の中であっても。

『平時に絵を描かれるのは構いませんが、今はやめませんか? 何かあってからでは遅いのです』

 同年代の、真っ当な人間の中で、高潔な精神を持って育ってきたであろう女騎士は言った。

『お言葉ですが、御老公が貴方に甘いのをいいことに、自由にしすぎではないでしょうか? 今回の同行はもちろん、わがままが過ぎるかと。御老公は貴方の言うことを聞いてしまうのです。なので貴方自身に自重していただかねば、困ります』

 正論だ。

 真正面から正論をぶつけられた時、自分が異常な行動をしていると理解している者は、何も言えなくなる。その通りだと思ってしまったが最後、選択肢はふたつだけ。正論に従うか、異常を続けるか。どちらを選んでも楽にはなれない。それがわかっているからこそ、正論をぶつけてくれるなと、思ってしまう。

 アメリアにとって、時と場合を考えて絵を描け、というのは、喉元に凶器を突きつけられるのに等しいことだった。従えば不自由を強いられて息がしにくい。かといって無視して描き続ければ、自分の異常性を痛感せざるを得なくなる。

 手を止めるか否か迷った末、アメリアはスケッチブックを閉じた。

 洞窟に残る女性の竜騎士、ヴァネッサから向けられる目は、アメリアの暗い記憶を呼び起こす。幼い頃、義母や異母妹がよくこの目で彼女を見ていた。忌避と拒絶の目だ。その目を向けてくる人間と歩み寄れないことも、理解し合えないことも、これまでの人生が証明している。

 彼女が目を閉じていると、ルートの確認に出ていたオリオンとエリックが戻ってきた。竜の足音や息遣い、彼らが服についた雪を払う音や声が聞こえる。それでもアメリアは目を閉じたまま寝たふりをし、毛布の下で拳を握った。

「ルートはどうでしたか?」
「吹雪いておった。今日はもう回復せぬであろう。ここにもう一泊して、また明日、様子を見たほうが良さそうだ」
「食料などの物資は多めに準備してきています。婚約式の日取りを考えると、最長であと六日は余裕があるかと」
「あまりギリギリに戻るとエリティカがうるさそうだのう」
「否定はいたしません。あの父ですから」
「ふむ……明日を入れて二日だな」
「猶予が、たった二日ですか?」

 オリオンの提示した日数を、ヴァネッサが繰り返すように確認する。

「そう驚いてくれるな。私は六十を越えたジジイだぞ。吹雪の中の穴蔵生活は三日もすれば充分だ」
「……限界が三日なのは御老公ではなく――」
「ヴァネッサ」
「っ!」

 エリックが同僚騎士の名前を呼んだ。

 目をつぶっているアメリアでも、ヴァネッサが何を言おうとしていたのかわかる。吹雪の中の洞窟滞在の限界が三日なのはオリオンではない。それはおそらく、アメリアだ。素人が雪山の同じ場所で平静を保っていられるのは、そのくらいの日数なのだろう。

「差し出がましいことを言いました。申しわけございません」

 彼女は謝罪の言葉を口にしているが納得はしていなさそうだ。

(しかたないわよね……)

 ヴァネッサの言う通り、わがままで同行し、滞在日数が限定されることになった原因は自分にあると理解している。今になって思えば、蒼炎の花を入手できなかった場合、婚約式の伝統をぶち壊すことになるのだ。北の辺境領で生まれ育ったヴァネッサが苛立ちを覚えるのも無理はない。

「……ヴァネッサ、アメリア嬢は寝ているのか?」
「はい。先ほどお眠りになられました」
「食事は?」
「あ……いえ、まだ……白湯をお飲みになっただけです」
「そうか。何か胃に入れたほうが良いだろう。ヴァネッサ、エリック、食事の支度をしてくれ。竜たちのほうも頼んだぞ」
「はい、すぐに取りかかります。ヴァネッサ」
「ええ。竜は私が」

 ふたりが動き出すと、狸寝入りを続けるアメリアのほうに、ひとり分の足音が近付いて来た。目を閉じたままでいると。大きな身体が、すぐ隣に座るのがわかった。

 沈黙が流れる。当然だ。アメリアは寝たふりをしており、オリオンは眠っている人間に話しかけて起こすような男ではない。ただし、相手が起きている確信があれば話は変わってくる。

「そのまま寝ていなさい」

 若い令嬢の狸寝入りに気付かないほど、鈍感な人間ではなかった。

(寝たふりをしているとバレているのね……当然だわ。鋭い人だもの)

 そのままでいいと言われたが、本当にいいのだろうか。そんなことを考えて動けずにいる内に、オリオンの囁くような小さな声が聞こえてくる。

「ここへ戻って来るまで、私は、そなたが絵を描いていると思っていた。昨日のそなたは、まるで翌日に楽しみを控えた子供のように、浮き足立っていたからのう。目が覚めていの一番に、夢中になって絵を描き始めるのだろうと、考えていたのだ」

 声を潜めて喋っているからか、少し枯れているようにも聞こえた。

「そなたは寝食に重きを置いておらぬ。ゆえに食事も忘れるだろうと思い、ヴァネッサにあとを任せて出たのだが……何があった?」

 ほんの一瞬で空気が変わる。

(オリオン様……? 怒ってる……?)

 何かあったのか、ではなく、何があったのか。問題が起きたということは、すでにオリオンの中で決定済みのことらしい。アメリアはその問いに答えず、息を殺して、目をつぶったままでいた。

 再びの沈黙。

 エリックが食事の支度をする音や、ヴァネッサが飛竜たちの世話をする声が聞こえてくる。しばらく黙り込んだあと……オリオンが深く息を吐いた。

「まったく、我が婚約者殿は口が堅いのう。仕方ない。降参だ」

 彼が冗談めかした言葉を紡げば、張り詰めていた空気が霧散した。

「無理には聞かぬ。だがな、アメリア嬢。そなたも分かっているはずだ。己が周囲の人間が違う世界に生きていることも、ただ人にどのような常識、規律を語られたところで、従うことができない人間であることも、とっくに気付いておろう」
「っ……」
「それは悪ではないぞ。アメリア嬢のいる世界は美しいのであろう。常人には見えぬ、まるで御伽噺の精霊が住まうところのような、唯一無二の場所で、そなたは感じ、学び、絵を描いてきた。異端は悪ではない。そなたの世界は、愛し、愛されるに相応しい場所だ」

 オリオンの言葉が、すっと、胸の奥に入ってくる。

 散々奇異の目で見られ、忌避され、遠巻きにされてきた。血の繋がりのある、同じ家名を持つ者たちでさえも、理解してくれなかった。孤独な少女時代。絵を捨てれば普通になれると考えたこともある。そうすれば、人の輪の中に入れるのだと。

 それでも捨てられなかった。ひとりになってでも絵を描くことを選んだ。たぶん、それは――。

(わたしは、わたしの世界を愛している――)

 だから、捨てられなかった。

「……――ラファエルさんは――」

 狸寝入りはおしまいだ。アメリアは睫毛を震わせながら、そっと重い目蓋を持ち上げた。首を動かした彼女は、宝石のように鮮やかな緑の目で、星の名を持つ男を見つめる。

「ラファエルさんは、わたしの世界を理解して……仮初の名であっても、価値を見い出してくれました」
「ああ。あやつの目は本質を見抜く」
「オリオン様、オリオン様は――」

 一度吐き出した言葉は戻せない。アメリアはその言葉を紡ぐのを一瞬躊躇うが、オリオンがあまりにも穏やかで、優しい目で見つめ返してくるものだから……口は勝手に動いて、震える声がこぼれた。

「オリオン様は、わたしの世界を……愛してくださるのですか?」
「もちろんだ。アメリア嬢が生き、守ってきた世界を、愛さずにはいられようか」

 わずかな間もなく、答えが返ってくる。

「そなたの世界は美しい。こちらのつまらぬ常識、理論などに縛られる必要はないのだ。そんなもののために、これまで大事にしてきたものを、捨てたりなどしてくれるな」

 そう言って、オリオンは毛布越しにアメリアの手を取った。きつく握りしめていた拳は、彼の大きな手にすっぽりと包まれる。労わるように、敬うように、神聖なものに触れるかのように、武骨な手からは考えられないほどやわく、包まれていた。

「手をほどきなさい。大切な手に傷がついてしまうぞ」
「あ……」
「こうもきつく握った拳は、そなたの心の表れだ。絵を描かずにいることへの拒絶なのだろう」
「わたしが描くことで、オリオン様のご迷惑にはなりませんか……? わたしは、感謝しているのです。恩を仇で返したくは、ありません……」
「迷惑であるはずがなかろう」

 オリオンがふっと笑う。

「私は生きる伝説とまで云われ、物語の主役として多々語られることのある、救国の英雄であるぞ? 才能溢れる若人をひとり抱えたくらいで、重荷になると思うているのか?」
「本当に……?」
「ああ、本当だとも。ゆえに、私に遠慮などする必要はない。存分に描きなさい、思うままにしなさいと、もう何度も言うておろう?」

 彼の言う通りだ。

 北の辺境領へ来て、オリオンと出会い、何度も背中を押してもらった。それなのに何度も立ち止まってしまうアメリアを、彼は見守り続けてくれている。呆れることもない。何度目だと、面倒がることもない。いつだって真摯に、本音で、向き合ってくれる。

 優しい表情を浮かべるオリオンに、アメリアは微笑みを返した。自然と握っていた拳が開かれていく。指先が少し痺れていたが、そんなことは気にならない。

 彼女はしまったスケッチブックを出して、描ききれていなかったものを紙面に落とし込んでいく。オリオンはその傍らに座って、彼女の手元をずっと見ていた。隣にいる大きな人の気配も、ヴァネッサからの視線も、気にならない。アメリアの意識は目の前にだけ向けられていた。集中しきった彼女は、オリオンにあれこれ世話を焼かれながら、一心不乱に絵を描いていく。

 そうして二日目の洞窟滞在が終わり、三日目。進行可能な程度に吹雪がおさまるのを待って、四人と三匹は『竜の背』のさらに高所へ向かって、出立したのだった――。






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