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四章 英雄の花嫁
62:本音と建前①
しおりを挟む春の夜はまだ冷える。
改装されたばかりなのであろう上品な造りの寝室は、暖炉の火で温められていた。煌びやかではないが、例えば家具に施された彫刻や水置き台のテーブルクロスの出来栄えは見事で、職人の丁寧な仕事振りが見て取れる。
中でも寝室の主役であるベッドからは、職人と、旧リュール要塞の改装を命じたテリーザ=ホワイトディアの意気込みをひしひしと感じた。塗りこめた黒檀のベッドは静謐さをもって寝室に君臨し、白いシーツとレースの天蓋が部屋との調和を促している。
そんなベッドの端に、アメリアは申しわけ程度にちょこんと腰かけ、神妙な顔で足の爪先をじっと見ていた。文字通り、頭の天辺から足の先まで、余念なく磨かれている。仄かに桃色がかった足の爪を擦り合わせ、彼女は小さく息を吐いた。
数時間前、旧リュール要塞にオリオンと共に入ったアメリアは、一旦彼と離れ、すぐに花嫁衣装を脱いだ。動きやすさよりも見た目を重視した格式ある礼装は、めったに着るものではない。知らず知らずの内に身体が強張っていたようで、解放感にほっとした。
時刻は昼をとうに過ぎており、昼食には遅く、夕食には早い時間だ。軽くつまめるものを食べてなんでもいいから胃に入れておく、という選択肢もあった。けれどそんなことをすれば、アメリアの胃が夕食を受けつけなくなるのは明白だ。ゆえにオリオンの提案に乗り、早めの夕食を摂ることにした。
(わたしの食べられる量を把握していらっしゃるから……)
と、アメリアは思っていたが、早めの夕食の理由がそれだけではないのかもしれないと察したのは、絶品の夕食をデザートまで食べ終えたあとのことだ。
メルクロニア城から派遣された数人の侍女の手により、アメリアはあれよあれよという間に、風呂で身を清められ、疲労していた筋肉を労わるように揉みほぐされ、真っ赤な髪をくしで何度も梳かれ、頭の上から足の先まで高級な香油を塗り込められ、薄っすらと化粧を施された上――用意されていたソレを纏わされた。
透けそうなほどに薄く、けれど透けてはいない布――光沢のある白い生地の下着と夜着は花嫁衣装を彷彿とさせた。純白ドレスの上に重ねて纏っていた、金糸を編み込んだ薄布と同じ意匠がこらされている。ただし結婚式の時と違うのは、首回りや足の露出があることだ。
その夜着のまま、大きなベッドのある部屋に案内されれば――いくら、あれやこれやに疎いアメリアも、そこにどういう意図があるのかを、さすがに理解した。
(初夜……)
夫婦関係のない白い結婚になると、当然のように思っていた。だがそれはあくまでも、アメリアとオリオンの間にあった暗黙の了解に過ぎない。明言していない以上、侍女や周囲の人間が結婚式当日の夜、夫婦が寝室を共にすると考えるのは、何もおかしなことではなかった。
テーブルの上にワインとグラスが用意されている。手を伸ばす気にはならない。アメリアは自分至上最高に磨かれた足の爪を擦り合わせながら、オリオンが来るのを黙して待った――
――しばらくすると、寝室の扉が開いた。
この場所へ来るのはオリオンしかいない。アメリアは足元へ向けていた視線を入口の彼へと向け、目を見開く。
「なんで……」
思わず彼女の口から素直な気持ちがこぼれ落ちた。
オリオンの格好は普段と変わらない。もちろん、寝支度を整えているので薄着ではあるが、シャツもズボンもしっかり身につけている。自分――新婦側がひらひらの夜着を着せられているのだから、新郎側もバスローブ姿やそれに準じた格好なのだと、勝手に思い込んでいた。しかし蓋を開けてみれば、まるで違う。
アメリアが動揺して目を泳がせている間に、オリオンが長い足を動かしてベッドの傍らにやって来た。彼は何も言わない。ただ少しだけ、困ったとでもいうような、なんとも言えない表情を浮かべている。そしておもむろにシーツをベッドから剥ぎ取ると、アメリアの身体にぐるぐると巻きつけた。
「オリオン様……?」
「隣に座ってもいいだろうか?」
「ええ、もちろんかまいません……あ、ワインを飲まれますか?」
手をつけずにいたテーブルのワインを示せば、オリオンは緩く首を横に振る。そのまま彼が隣に座った。体重差でベッドマットは彼のほうが深く沈む。近付いた距離にオリオンから、石鹸の香りがした。
腰を下ろしたオリオンは何も言わない。アメリアは自分の夫となった人の横顔をジッと見つめた。白銀の髪とヒゲが微かに湿り気を帯びている。石鹸の香りもすることも合わせると、どうやらオリオンも風呂で身を清め、寝室へやって来たらしい。
彼は黙ったままだ。普段であれば、話を振ってくれるのはオリオンのほうだった。けれど何故か彼は口を閉ざし、何か考え込んでいる。いつものオリオン=ホワイトディアらしくない。
そして、それはアメリアも一緒だった。普段であれば、沈黙に気まずさを覚えて話を急かすこともしないし、妙な緊張感に飲まれて口を動かすこともしない。だが、今日のアメリアは彼の言葉を待たず、口を開いた。
「あの……この場所を用意してくださったのは、テリーザ様ですよね? それはつまり、あの方はわたしたちが、その……夫婦の営みを、行うと思っていらっしゃる、ということでしょうか?」
オリオンの緋色の目がアメリアを見る。
それでも彼は口を開かず、ただこちらを見つめるだけだ。彼女は身体に巻きつけてもらったシーツをぎゅっと握り締めた。
「そしてそれは、テリーザ様だけでなく、メルクロニア城から来ている……支度をしてくれた、侍女たちも、そういう認識だということなのですよね?」
さらに言葉を続ける。
するとようやく、オリオンの唇が開き――彼は深く息を吐いた。そして自身の白銀の髪を軽く掻き上げると、艶のある低い声で「そうなるのう」と、アメリアの言葉を肯定する。
「では、どうなさいますか? 周りの人たちは――」
「アメリア、よく聞いてほしい。これはな、周りの者たちにどう思われているのかという問題ではない。大事にしなければいけないのも、重要になってくるのも、周囲の意見ではなく私たちの気持ちと考えなのだ」
彼女が思っていた以上にオリオンは真剣な顔をしていた。紅玉の瞳から目が離せなくなる。自分の意見や考えではなく、テリーザや侍女にお膳立てされ、流されるまま寝室に辿り着いたアメリアは、オリオンの言葉に何を返せばいいのかわからない。
困惑した様子の彼女を見かねたのか、オリオンがふっと表情を崩した。重かった空気が緩む。
(あ……)
彼の大きな手が伸びてきて、アメリアの頬にそっと触れた。少しかさついた、硬い手の平が頬を包み、慈しむように撫でる。
「……オリオン、様……?」
アメリアという人間は、他人の感情の機微に特別鋭いわけではない。もともと人間というものへの興味が薄く、あまり深く気にしてこなかった。しかし、そんな彼女にもわかるほど、オリオンが自分へ向ける優しい眼差しには熱がこもっている。彼女はもう一度、戸惑いながら夫になったばかりの、その人の名を紡いだ。
名前を呼ばれたオリオンは、頬を撫でる手を動かし、アメリアの赤い髪を耳へとかける。そして彼の大きな手は、触れた部分に熱を残して離れていった。
「馬車に揺られていた時から、そなたに何をどう話そうかと考えておった。上手く宥めすかし、丸め込む方法もいくつか思い浮かんだが、そうするつもりはない。最初に言っておこう。決定権は、アメリア、そなたにある」
「わたしに、ですか?」
「ああ。ゆえにそなたには全てを――本音と建前を話そうと思う」
目には見えないが、決定権を渡されたのがわかる。
アメリアは、小さく頷いた。
「今の私たちには、三つの選択肢がある。白い結婚だと隠さずに暮らしていく道、内情は白い結婚でもそうではないと思わせる道、それから――初夜を迎え、誠の意味での夫婦となる道だ」
「その道の、どれを選んで進むのか……その決定権を、わたしにお委ねになられたのですか?」
「重い責任だと、思うておろうな」
「……はい。わたしの手には、余ってしまいます……」
手の中にある決定権がどっと重さを増した。選択肢とはつまり、今後のふたりの関係の道筋のようなものである。どの方向へ進んでいくのか、またその結果どうなるのかを考えた上で、ひとりで決めるのは難しい。
アメリアはじっと紅玉の瞳を見つめた。
「オリオン様は、どう思われているのでしょうか?」
「私は――そなたと結ばれたいと思うておる」
翡翠の目が見開かれる。
オリオンの言葉は思いもよらないものだった。夫婦関係のない、白い結婚になることは、暗黙の了解だと思っていた。だからこそ、その暗黙の了解を打ち砕くようなオリオンの言葉は意外で、アメリアはなんと返していいのかわからない。
黙り込んだアメリアと反対に、オリオンが言葉を続けた。
「私は先ほど本音と建前の話をすると言った。それはこの件についてだ。私とそなたが初夜を迎えねばならぬ、建前の話をしよう。まず何よりも前提として考えねばならぬのは――私がそなたよりも遥かに歳かさで、先に逝くということだ」
「それは、そうかもしれませんが……でも、まだ先の話です。寿命を気にしなければならないような、持病がおありになるわけでは、ありませんよね?」
「うむ。その点は心配いらぬ。だがのう、こればかりは先延ばしにしたとしても、いずれ訪れる問題だ。私の死後、そなたは先代辺境伯の妻――あるいは、先々代辺境伯の妻として、ホワイトディア家に守られることになる」
「……白い結婚のままでは、そうならないということですか?」
「否、そのようなことにはならん」
彼は即座に否定する。確信があるのだろう。きっぱりと断言しており、その力強い光を宿す目には疑いや躊躇の色など窺えない。
「アークトゥルスは私が死んだからといって、アメリアを無下に扱ったりはせぬ。まだ会ったことはなかろうが、次代のアケルナルもまた同じく、そなたを尊重し、立場を守ってくれよう」
「それでは、どうして……夫婦の関係が必要になってくるのです?」
「傘の骨は多いほうがいい」
「……え?」
「門外漢の私でもわかる。いずれ画家としてのそなたの名は、国どころか世界中の画壇に残ることになるであろう」
アメリアのもうひとつの名前――『ルーカス=アストライオス』は、新進気鋭の画家として王国の同業者、知識人、芸術に造詣のある貴族の間で有名だ。オリオンは、その名前が今後更に大きくなることを、微塵も疑っていないらしい。確信めいた言葉は、ある種の予言のようにも聞こえた。
オリオンが真剣な顔で眉を寄せる。
「名が大きくなればなるほど、利用しようとする者も、取り込もうとする者も現れる。その時にそなたの正体が明らかになり、私との婚姻関係が紙面上のものでしかないと露見すれば、ホワイトディア家が表立って使える盾がひとつなくなるのだ」
「では、白い結婚だということを秘匿しておけば――」
秘匿しておけばいいのではないでしょうか、と紡ごうとしていた言葉を、アメリアは飲み込む。例えばふたりの関係を暴こうと悪意を持って近付く人間がいたとする。その手のことをつっ込んで聞かれたら、果たして自分は上手くかわせるのだろうか。巧みに嘘をついたり、逃げたりすることはできるのか。
悪意がなくとも、そういう話を振られた時、嘘で誤魔化せるほどの話術をアメリアは持っていないし、今後備わるとも思えない。そんなに器用なことができるのであれば、そもそも――今の状況に流れ着いたりはしていないのだ。
「わたしには、秘匿なんて、できませんね」
「そうだのう。そなたは正直者だ。普通の人間のように、俗世で適当な嘘を並べる真似はできぬ」
「そう思っていらしたのなら、最初から、選択肢はふたつだったということになりませんか?」
「自分自身でそれに気付かねば納得できまいて」
「……そうかも、しれませんね……」
オリオンがふっと軽く吐息を漏らす。
「そういうわけでのう。私たちの公的な深い繋がりは、いずれそなたがひとりになった時……『先代辺境伯』『先々代辺境伯』という名の傘の骨の一本となる。たかだか一本と思うやもしれぬが、その一本のおかげで激しい風雨にも耐えられる……それもありえぬ話ではない」
「だから、白い結婚ではなく……本物の夫婦となるために、結ばれようと、おっしゃるのですね」
「ああ、その通り――というのが、建前だ」
そう言うオリオンの表情を見て、アメリアは目をまたたかせる。
確かに彼は『建前の話をしよう』と言ってこの話をはじめた。しかし話の間中ずっとオリオンは真剣な顔をしていて、建前――言いわけめいた言葉を続けているようには聞こえなかった。だから自然と、真面目な意見として、アメリアも耳を傾けていたのだ。
けれど今のは建前だと言ったオリオンは、眉尻を下げて困ったような、あるいは、申しわけなさそうな――ほんの少しだけ、情けない顔をしていた。初めて見る彼の表情だ。どことなく羞恥と罪悪感が滲んだような顔に、オリオンは苦い笑みを浮かべている。しかし、アメリアを映す紅玉の瞳から――熱は失われていなかった。
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