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四章 英雄の花嫁
63:本音と建前②
しおりを挟む真っ直ぐ向けられる深紅の瞳には熱が篭もっている。オリオンの瞳から、アメリアも目を逸らせなかった。口を開くのも躊躇ってしまうほどの真剣さと本気が伝わってくる。思わず息をつめていると、自分の心臓の音が身体の内側で響いているかのような、不思議な感覚に陥った。
ベッドが軋む。
オリオンが彼女のほうへ身体を向けた。
「――建前は話した。となれば本音も伝えねばならぬな……もしも、途中で聞くに堪えないと思ったら、すぐに言っておくれ」
「……言ったら、どうなるのです?」
本音を拒絶した結果どうなるのか。アメリアの声に微かな不安が滲んでいるのに気付いたのだろう。オリオンが小さな笑みを口元に作った。
「何、そなたが心配するようなことにはならぬ。熱に浮かされた老いぼれが頭を冷やしに行き、夜が明け……また、これまでの半年と同じ日常がはじまる。アメリア、そなたの不安は杞憂に終わるであろう」
それは彼が用意してくれた、おそらく、最後の逃げ道だ。アメリアがどんな決定を下してもかまわないと、優しい逃走経路を作ってくれた。
周囲に初夜だと寝室に追い込まれ、今後の行方を決める大事な話の中にあっても、オリオンはアメリアを気遣ってくれている。それは、年齢差があるからとか、人生経験の差があるからとか、身分の差があったからだとか、そんな表面的な理由でないのだろう。もっと本質的な、感情の深い部分が関係しているのだ。
それに気付いたから、アメリアは思った。
(どんな話でも途中で逃げたりはしてはいけない)
自分が下す決断がどうなるのか、本人でさえわからない。けれどせめて、彼の敷いてくれた逃げ道を進むことだけはしまいと、アメリアは決めた。
「本音を話せば――私は、そなたを私のものとし、私をそなたのものとしてほしい」
「それは……?」
小さく首を傾げながら見つめる。
オリオンが紅玉の瞳にアメリアを映したまま、やわく、優しく、それでいて熱を隠せない様子で、微笑んだ。
「そなたを守り、支え、繋ぎ止めておきたいのだ。私はそなたを、アメリアを好いておる。どうかこれまでのように……否、これまで以上に、私を傍においておくれと、懇願してしまうほどにだ。アメリア、誰でもなくそなたに、我が人生の最後の愛を受け取ってほしい」
「あ……あの、オリオン様、えっと……」
オリオンの言葉には真っ直ぐな好意と熱情が込められていた。自分よりもずっと多くのものを持ち、ずっと大きな人間である彼が、恥ずかしげもなく懇願してくる。アメリアの頭の中は混乱していた。
「オリオン様は、わたしを……女性として、みていらっしゃる、ということ……でしょうか……?」
「そうでなければ、こうまでも必死になって初夜を求めはせんよ。そなたと、心も身体も触れ合い、愛し合いたい。傲慢と思ってくれてもかまわぬ。愛すだけでなく、アメリアの愛も求めるなど――」
とくん、とくん、と……身体の内側から鼓動が聞こえる。
混乱は増すばかりだ。
アメリアは愛を知らない。自然の景色や建造物、活き活きとした生き物に美しさを見い出し、心を惹かれ、愛でること――それが『愛』ならば、人間がその対象になるのは難しい。
では人間が嫌いかと問われれば、彼女は否と答えるだろう。嫌悪感という強い感情を向けるほどの相手はいない。大げさに言ってしまえば、アメリアの中にいるのは、大切な人と、知っている人と、それ以外の人だけだった。
オリオンは大切な人だ。他にも何人か、同じように大切な人はいる。それはラファエルであったり、侍女の少女であったり、ホワイトディア家の人間だったり、バラリオス城で親切にしてくれた者たちであったり――
(同じように……?)
アメリアはふと、息を止める。
(オリオン様と、他の人たちを、同じように大切に思ってる……?)
微かな違和感を覚えて、彼女は自分に向けられる紅玉を見つめ返した。
「わかっておるのだ。そなたがまだ『愛』という感情に疎く、深く知り得ていないことは……ゆえによく考え、本心で応えてほしい。私が差し出したいものと、求めているものが何かを、な」
「あなたは、わたしのことを、わたし以上に理解していらっしゃるようですね」
「自分自身の姿は見えぬものだ。そなたの傍にいる栄誉があったからこそ、よく見ることができた」
「わたしは……傍にいても、オリオン様をよく見ては、いなかったのかもしれません……」
傍にいてくれていることは知っていた。視界にも入っていた。それでも果たして、彼ほど相手の内面を見ようとしていただろうか。どんな人間で、どんな考えを持っているのか、気にしたことはあっただろうか。
ぎゅっと心臓が締めつけられる。
彼の大きな手が伸びてきて、手の甲がアメリアの目の横に触れた。それは一瞬のことで、手はすぐに離れて行く。オリオンは少しだけ寂しげに、だが、穏やかな空気で笑った。
「それでも良い。そなたの目は多くを映し、多くのものの本質と、美しい光をとらえるのに忙しかろう。それをわかった上で、私は愛を乞うておる」
「責めないの、ですか?」
「誰がそなたを責められよう。むしろ責められるべきは、私のほうだ。歳の開いた、輝かしい未来のある女性に老いぼれの身で縋っているのだから――若い心を欲し、肌に触れさせてくれと懇願するなど、いっそ罵られてもおかしくない、おぞましいまでの劣情だ」
オリオンの口元に自嘲が浮かぶ。
彼が、己を嘲る顔を見たくなかった。再び、心臓が締めつけられているかのような息苦しさを覚える。そんな顔をしないでくださいと言いたいのに、上手く言葉が出てこない。
だからアメリアは、咄嗟にオリオンの口元へ手を伸ばした。先ほど彼の手が目の横に触れたように、ほんのまばたきの間、口の端に触れる。
離れて行く手を、オリオンが離さないとばかりに取った。武器を扱う者特有の硬い手の平の中に、アメリアのほっそりとした手が捕まる。
「おぞましいと自身を嘲っても、なお、私はそなたを愛したい。そして、アメリアに愛されたいのだ」
「オリオン、様……」
「齢六十を越えた私と違い、若い身空のそなたの人生は長い。もしかするといずれ、未来で愛を知る時がくるのやもしれぬ、と……そんなことを考えては、未来の誰かに渡したくないと思うてしまう」
「未来の誰か、なんて、そんな人――」
現れるはずがない。明日、明後日、来年、再来年――ずっと先の未来で、自分が誰かと寄り添っている場面など想像もできなかった。それに、これまでそんな想像をしたことすらない。
絵を描いて生きることができれば、それだけで満ち足りた人生だと、胸を張って言える。
叶うことなら死ぬ直前まで筆を握って、キャンバスと向き合っていたい。もしも、才の枯渇か、身体的な理由によって、人生のどこかで絵を描けなくなる時がきたら、その時は……ということを考えてしまうくらいに、人生の比重は絵を描くことに傾いている。
「私はそなたが絵を描いて生きるのに必要な庇護者だ。今後の関係に差し支えがあってはならぬからと、上辺だけでなんとなく答えるのではなく……アメリアの本心で応えてほしい。身体だけでは足りぬ、言葉だけでも足りぬ、心までをも欲する強欲なジジイで、すまぬのう」
彼が申しわけなさそうに眉を寄せた。笑っているのに、笑っていない。先ほどのような自身を嘲る表情も見たくはなかったが、こんな、苦しげな顔をするオリオンも、見たくはなかった。
握られた手が震えている。震えているのは、困惑と動揺の中にいるアメリアの手か、それとも彼の手か――
(あ……)
少しずつ、違和感がほどけていく感覚がした。
手の震えがどちらのものだとか、嘲りも苦々しい顔もしてほしくないだとか、そんな風に思える人が自分の周りにどれくらいいるのだろうか。大切に思える人間は何人かいる。けれどその人たちを並べた時、そのラインにオリオンを並べることができるのか。
(オリオン様と、他の人たちを、同じように大切に思ってる……わけじゃない。彼を同列になんて、見ていない――)
ぱちり、と――アメリアの中で薄い泡の幕が弾けた。
それは風のそよぎよりも遥かに些細な事象で、割れる音も微かならば、光の加減によっては透明で目に映ることもないだろう。しかし、何故か――アメリアの目に映るオリオン=デイヴィス=ホワイトディアの輪郭が、くっきりと形どられた。
アメリアは、目をまたたかせた。一度目を閉じてみても、視界のオリオンの姿はクリアなままで、以前とは違って見えている。不思議だ。
「こんな風に、見えているのでしょうか」
ポツリと呟く。
「オリオン様の目には、わたしの姿が、こんな風に映っているのでしょうか」
「こんな風?」
「あなたは、わたしを見てくれているのですね」
英雄の婚約者や妻でもなく、画家のルーカス=アストライオスでもなく、男爵家の娘でもなく、彼女をアメリアとして見てくれている。もしくはいろんな肩書きを全て含めて、見てくれているのだ。
もしかすると、それは――誰よりも。
会話が噛み合っていない。それでもオリオンは訝しい顔をせず、アメリアの言葉を聞いてくれていた。だからアメリアは言葉を続ける。
「オリオン様は、未来の誰かを示唆されましたが、わたしには想像もできません。誰かと、深い関係になっているところなんて」
大きな大きな彼の手の中で、アメリアの手は震えていた。
「でも今、想像した時に見えたのは――」
あなたの姿でした、と澄んだ声が空気を揺らす。
「愛が何かなんて、わたしにはわかりません。でも、もし――これから先の未来というもので、愛する人ができるのなら、それはあなたしかいないのだと思います」
ぎゅっと、握る手に力が込められた。
「だから、わたしが持っている全てを、あなたに差し出して――」
まだ言葉の途中でオリオンが繋いだ手を引いた。彼女の身体が傾いて、ベッドが軋み――
気付けば彼の胸の中にいた。繋いでいないほうの手で腰を抱かれ、そのまま抱きすくめられれば、オリオンの体温を素肌に感じる。羽織っていたシーツがはだけ、落ちていた。肢体で感じる彼の温もりと、たくましい身体の質感に、彼女の喉からはきゅうと声にならない音が漏れる。
「ああ、なんと――」
熱い吐息が耳をくすぐった。低い声が鼓膜を震わせる。頭の奥に直接語りかけられているかのような、甘い響きだ。
「なんと……幸甚の至りであろうか。頼むから、一度吐いた言葉を飲み込んでくれるなよ」
「はい」
「そなたの掛け替えのない貴重な時間をもらうのだ。私の残りの人生の全てを、そなたに捧げよう。アメリア――愛させてくれて、ありがとう」
くっついていた身体が離れていく。それでも腰を抱く手はそのままだ。彼の紅玉を見つめれば、熱を孕んだ目に囚われそうになる。
幸せそうに微笑む顔が、近付き――
(そうだったわ)
口付けの時は目を閉じるものだと、結婚式でオリオンが教えてくれた。アメリアは目蓋を伏せて、翡翠の目を隠す。
唇に、熱い唇が重なった。少しだけかさついている。触れて、離れて、また唇が重なった。目を開けるタイミングがわからず閉じたままでいると、触れるだけの口付けが何度も交わされる。薄い夜着をまとった身体を抱き締められたまま、オリオンに全てを任せた。
(っ……?)
ちゅ、と。それまでと違う濡れた感触に、薄い夜着に透けた線の細い肩が震える。唇よりももっと熱い、湿った感触だ。ヒゲがくすぐったい。彼女の白い肌が仄かに赤らむ。オリオンはアメリアの髪を梳くように頭を優しく撫でてくれた。
熱い吐息が、互いの唇にかかる。初めての経験に何をどうすればいいのかわからない。アメリアの手は戸惑いがちに彼の服をぎゅっと握り締めた――
――唇が、離れる。
そこでようやくアメリアは大きく呼吸することができた。上気した頬と目元を赤く染め、濡れた瞳でオリオンを見つめる。彼は愛しげにアメリアを見下ろしていたが、紅玉には隠しきれない情欲が見え隠れしていた。
「アメリア、今夜そなたを抱くぞ」
彼の太い指が、彼女の小さな耳をくすぐる。その感触に背筋が甘くわなないた。身体の力が抜ける。その瞬間を狙ったかのように、アメリアの身体はそっとベッドに押し倒された。
横たえられたアメリアは、自身に跨るオリオンを見上げる。
(きれい)
ベッドの天井は漆黒に塗り込められている。そこに細かく砕いた宝石を流れる川のように撒いており、螺鈿の輝きがまるで星のようだった。そんな夜空を背負い、オリオンが服の首元を広げる。太い首が露わになり、喉仏が大きく上下した。
白銀の彼が、美しく映えている。
「きれい――」
思わず漏れたアメリアの言葉に、オリオンが紅玉を見開いた。そして、小さく笑ってアメリアの頬に手を添える。
「綺麗なのも、美しいのも、そなただ。アメリア。我が人生、最初で最後の妻よ――」
紅玉が近付いてきた。獰猛な輝きを秘めた瞳だ。彼にこんな目を向けられるのは初めてだが、怖くはない。それは視線のことだけでなく、これから先の行為に対してもだ。オリオンがどれほど優しく、自分を慈しんで、敬い、大事にしてくれているのかを、知っているから――
アメリアは微笑み、目を閉じた。
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