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四章 英雄の花嫁
65:男爵家の歪み:Sideオリオン
しおりを挟むレオル=ローズハート――
オリオンよりも二十歳ばかり年下のその男は、この度のアメリアとの結婚により、義父となった人物だ。小さいながらも代々続く男爵家の当主だが、家政と領内の実権は後妻のマーガレットに奪われている。彼は良く言えば温厚な性格、悪く言えば凡庸で事なかれ主義の男だった。
昼食の時間を少し過ぎた時間、オリオンはメルクロニア城に到着した。ここのところの話題の中心だった英雄の登場に城内の人間はもちろん、まだメルクロニアに滞在していた諸侯たちも沸き立っている。
当然ながらずっと謁見を求めていたローズハート男爵家の人間も、オリオンの出現を知り、ソワソワと焦燥に駆られていたことだろう。オリオンは城の使用人に指示して『当主とのみ会おう』と伝えた。蚊帳の外に置かれた実権の持ち主は、さぞかし歯痒い思いをしているに違いない。
指定した場所――メルクロニア城の敷地内にある礼拝堂に、レオル=ローズハートを呼び出した。人払いは済ませている。オリオンは木製のドアを押し開けて、中へ足を踏み入れた。
ロンダーク神殿ほどではないが、メルクロニア城の礼拝堂は厳かな雰囲気のある場所だ。煌びやかな空間とはかけ離れているが、清廉な空気と静寂に包まれており、正面奥には天窓から差し込む光を浴びる女神像が鎮座している。
礼拝堂では女神教の教団から派遣された司祭が常駐して日々祈りを捧げ、悩みを抱く城内の人間の話を聞き、心を癒してくれていた――とはいえ、昼時に礼拝堂を訪れる者は少ない。司祭はオリオンの意を汲み、昼食を摂りに行ってくれた。
「待たせたようだのう」
「っ!! い、いえ、そのようなことは!!」
最前列の長椅子の前を、落ちつかない様子で行ったり来たりしていた男爵は、オリオンに声をかけられて大きく肩を跳ねさせる。慌てて答える身体がぎゅっと縮こまっており、緊張しているのが見て取れた。
アメリアと似た赤い髪が目に入り――次いで、彼の頬にできた三本の細い傷跡に気付く。それがどうやってできた傷かひと目見てわかった。
「その顔、奥方に引っ叩かれたか」
「え……あ……その、私の不注意でぶつけてしまい……」
「誤魔化さずともよい。ぶつけて爪痕が残るものか」
「っ……そう、ですね……でも、これはしょうがないのです。私が妻を怒らせるような真似をしてしまったので……」
オリオンの指摘に観念したらしく、ローズハート男爵は自嘲気味の笑みを張り付ける。頭を掻き、硬い声を紡ぐ姿は、小さいとはいえ領地を持った貴族の当主とは思えないほど情けないものだった。
ひとまず長椅子に腰を下ろすように勧める。レオルは恐縮した様子だったが、オリオンに重ねて座るよう言われて、おそるおそる長椅子に腰かけた。その隣にオリオンが座ると、男はわかりやすく肩を跳ねさせる。
「奥方の不興を買ったのは結婚式のエスコートか?」
「はい……何故この機会を逃したのかと、激昂しておりました。そしてその勢いのまま、式後に城へ戻ったところで、バシンと……」
「挙式の場で激高しないだけの忍耐はあったようだのう」
「損得を考える人ですから……彼女にしてみれば、私が裏切ったようなものです。甘んじて、殴られました」
「裏切りか。交代したことは話しておらなんだか」
「はい……当日、何食わぬ顔で神殿を訪れた私を、妻はたいそう驚いた顔で見ていました。何故ここにいるの、と……」
レオル=ローズハートは膝の上で両手を組んだ。親指を擦り合わせるように動かしているのは、気持ちを落ち着けようとしているからかもしれない。
「話せば、妻は反対するでしょう。そうならないために……寸前まで、交代することは隠していました。これまで、あの子には何もしてこなかった……最後くらいは、せめて――」
「罪滅ぼしをして楽になりたかったか」
「っ……」
ビクッ、と男爵の肩が跳ねた。
「甘えるな。親としての義務も当主として後継者を育てる義務も、そなたは全て放棄していた。父親の義務を果たさなかったゆえ、権利を行使できなかっただけの話だ。権利を手放すことが罪滅ぼしになるはずなかろう」
「わ、私は――」
「話さずともよいぞ。そなたの懺悔を聞くために礼拝堂に呼んだのではない。コレを見せるために時間を取ったのだ」
オリオンの声は淡々としている。彼は数枚の書類を挟んだ紙のファイルを、レオル=ローズハート男爵へ手渡した。オリオンの醸し出す静かな空気に怯んでいるのか、書類を受け取る男爵の手は微かに震えていた。
震える指でめくりながら、書類に目を通していくレオルの表情は、だんだんと青白く変わっていく。信じられないとばかりに何度もページを戻ったり、進んだりと繰り返しており、驚愕に見開かれた目には困惑と絶望が見て取れた。
「……っ、こ、これは、いったい……っ!?」
「見ればわかるであろう? ――借用書だ」
「こんなにっ、莫大な金額をおおおお借りした覚えはありません!!」
領政の実権はマーガレットに握られているが、金勘定ができない男ではない。その莫大な金額が領の数年分の予算を遥かに上回っていることも、利子の設定が高額になっていることも、すぐに気付いた。
緊張し怯んでいても、強者のオリオンの言葉を否定できるのは、彼としても少々予想外のことだ。だがそんな考えをおくびにも出さず、オリオンは紅玉の目を細めて皮肉げな笑みを浮かべる。
「借りたのはそなたの娘だ」
「え……あ、は……?」
男爵が口を閉じるのも忘れて固まった。
「サインを見ればわかろう。借主はプリシア=ローズハート嬢。ここに書いてある。そして借金の担保は、ローズハート男爵領だ」
「な……っ!?」
「北の王が住まうメルクロニアには貴族も集まり、その層を相手に商いを行う店が多くある。毎日のように欲しいものを片っ端から買っていれば、この程度の金額にはなろうて。ああ、店の領収書もあるぞ。同行していた我が家の使用人が、一軒の漏れなく受け取っておるからのう」
「お、お待ちください! 私は、この契約を存じ上げません……! 領主を、差し置いて、領地を担保にというのは……!」
レオルが慌てて腰を上げ、オリオンの前に立つ。肉体を鍛えた北の貴族ばかり見ているせいか、ローズハート男爵は酷く貧相な身体つきに見えた。線が細く、ただ、アメリアと同じ真っ赤な髪だけが燃えている。
オリオンはフッと笑った。
「不満か?」
「借りた、元金は、必ずお返しします……! 購入したものは全て返し、決して、金を払わず逃げたりはいたしません!」
「だがのう、この借用書は王国の形式に則った正式なものだ。金利も国が認める範囲であるぞ。まあ、範囲の上限に近くはあるがのう」
「サインをした、プリシアはまだ幼く――」
「おかしなことを言うものだ」
そう言いながらも、オリオンの目は笑っていない。
「王国貴族の子女は学園を卒業すれば成人と見做される。そなたの娘の扱いはすでに成人であり、加えて、王国に正式に届出がされた後継者だ。破棄するだけの妥当な理由はなかろうて」
「し、しかし、娘は何もわからないまま、サインを――」
「わかっておらぬのは、そなただ。レオル=ローズハート。娘のプリシア=ローズハートは全て理解しておったぞ」
「……え……?」
語気を荒げていた男爵の気を削ぐのに、それは充分すぎる言葉だったらしい。レオルは目を見開き、オリオンを凝視していた。
「私の見る限り――そなたも、奥方も、婚約者の青年も、プリシア嬢の能力をいささか低く見すぎておるのではないか?」
「そ、そんなことは……」
「性格や人間性はともあれ、学園を問題なく卒業できる生粋の貴族令嬢であるのは間違いない。特段裏があるわけでもない、国が認める正式な借用書の契約を理解できぬはずなかろう」
オリオンがプリシアに、好きなものを買うための金を貸そうと持ち掛けたのは、彼女の意識を外へ向けるためだった。城下へ自ら足を運び、買い物に夢中になっていれば、メルクロニア城内にいるアメリアと顔を合わせる機会は減る。
アメリア本人の血縁者への興味が薄いのは知っていた。そのため、あえて波風を立てて目に触れさせずとも、距離を置く形を取ることにしたのだ。
しかし想定外だったのは、一応用意していた借用書を見せた時のプリシアの反応だった。彼女は書類に目を通したあと、迷うことなくサインをしたのだ。そして無邪気な顔でお礼を言い――オリオンの考えていた以上の散財をした。
「で、では……プリシアが、男爵領を売ったと、おっしゃるのですか……? そんなの、ありえません! いずれ領主となったあの子が、受け継ぐことになる、財産なのですよ!?」
「蚊帳の外の領主か」
「何を……」
「環境と才ゆえに情緒を育てられなかった非凡な彼女ならばともかく――甘ったれたところはあれど、極めて平凡な育ち方をした人間であれば、気付くであろう。実権は持たせてもらえず――己の考えや感情は聞き入れてもらえず、母親といずれ結ばれる夫に飼い殺される人生の、無力感に――」
「そんなことはありません! 妻も、ノアも、プリシアを大事にしています! 特に妻は娘を心の底から愛して――」
「愛ゆえに繋いだか」
興奮するレオルとは反対に、オリオンは落ちついていた。
マーガレット=ローズハートは一片の曇りなく娘を愛しているということを疑いはしない。過剰なまでに領地を発展させようとしているのは、間違いなく娘の将来のためだ。大事に大事に娘を愛の真綿でくるみ、両手で握って離そうとしない。例え、愛する存在が、その真綿の中で息ができずに足掻いていたとしても。
「プリシアは、望んでいない、と……? 私のように、生きることを、拒否しているのですか……?」
「さてのう。私に聞かれても知らんよ。深い関わりのある娘ではない」
「っ……私のような、人間は……小さい領地とはいえ、上に立つの器ではないのです……私が領主として、政を行うより、優秀な伴侶に任せたほうが、民のため……そして、プリシアは……私とよく似た凡人なのです……」
「十八の血気盛んな若者がその境地に至れると思うておるのか? 全て人に任せて己はそこに『いるだけでいい』と悟れるとでも?」
「――ぁ……」
オリオンは力が抜けているレオルの手から書類を抜き取ると、立ち上がって彼を見下ろした。オリオンに比べれば大抵の人間は小さい。だが実際の大きさよりも、男爵の姿ははるかに小さく見えた。
「プリシア嬢がサインをしたのが、そなたたちへの恨みと復讐ゆえか、ただ、どのような形でも己に目を向けさせようとする幼さゆえか、あるいは……領主になり、実権を持つのは己だという決意表明か。それはわからぬ。何せのう――」
かつて北の王だった彼の手が、音もないほど軽く――男爵の肩を叩く。たったそれだけで、レオルの身体は膝から崩れ落ちた。男爵は床に膝をついて、呆然とした目でオリオンを見上げている。
「そなたの家の事情など、私には関係のないことだ」
獲物を狩る獣のような、血色の瞳が爛々とぎらついていた。低い声が、静かな礼拝堂に響き、空気を震わせる。
「そしてそれは、我が妻にも関わりのないことと心得よ。今後、彼女をほんの少しでも煩わせれば、男爵領の名は消す。猶予などは与えぬ。その時は容赦なく奪うと、奥方にもしかと伝えておけ。良いな?」
「私は、どうすれば――」
「知らん。そなたの家だ。自分で考えよ」
縋ろうとしたのか、手が伸ばされた。オリオンはその手が触れるよりも先に身を翻し、男爵に背を向ける。
「――歪んでおるのう。歪んでおる」
しみじみとそう呟いて、オリオンは礼拝堂を出た。残された義理の父親を一瞥することもなく――
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