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第3話 揺らぎ
しおりを挟む――ラブホテルの落ち着いた照明の中。
俺たちは真剣に、BL小説の描写について議論していた。
「なんか、セリフが説明臭くなっちゃうときがあるんですよね……」
俺がこぼすと、湊さんが軽く頷いた。
「一回、声に出して読んでみたらいいんですよ」
「え……?」
「演技とかじゃなくて、ただ声に出すだけでも、わかるんです。言いすぎてるところ、流れが不自然なところ……目で追うだけよりずっと」
「……ああ、なるほど……」
「試しにやってみます? 前に投稿してた、会社員のやつとか。俺が攻めパート読みますから」
彼はスマホを開いて、該当の作品を表示した。ソファの隣に腰かけて、少しだけこちらに体を向ける。
黒縁メガネの奥で、湊さんの目が真剣に光っていた。
「……『悠里……俺は、別にお前が嫌いなわけじゃない。ただ……距離がわかんなくなるだけで』」
湊さんが、落ち着いた声で“先輩”の台詞を読む。
「えっと、こっちが……『僕だって……分からないですよ。でも、だからって、逃げるのはズルいでしょ』――」
一通り読み終えて、ふたりで画面を見下ろす。
「……うん、やっぱりこのやり取り、いいですね。自然です」
「そうですか? なんか自分だと分かんなくて……」
「『距離がわかんなくなる』って台詞、かなりリアルですよ。むしろそのあとの悠里くんの台詞が、ちょっとだけ、言い切りすぎかも」
「あー……たしかに、“でも”で押しすぎてるかも」
読み返して、俺も思わず頷いた。
「“逃げるのはズルいでしょ”って断言するより、“ズルくないですか……”くらいに弱めた方が、視線が合ってない空気感が出るかもです」
「そっか、今の流れだと、ちょっとだけ言い負かしに行ってる感じになっちゃうか」
「そうそう。微妙に“勝ってる”構図になっちゃうんですよね、言葉で」
「なるほどなあ……やっぱ声に出すと違いますね」
「でしょ? 俺もよくやってて――あっ」
湊さんが言葉を切った。そして、ほんの一瞬、目が泳ぐ。
「……やっぱり、湊さんも何か創作されてるんですね」
自然とそう訊いていた。あの感想の鋭さ、描写への言及、そして今の言葉。読み専だけじゃないと、うすうす感じてはいた。
「ええ、まあ……ちょっとだけですけど」
曖昧な笑みと一緒に返されたその答えに、確信が混ざる。たぶん別のサイトで活動してるか、あるいは――商業作家、なんてこともあり得るかもしれない。
(……やっぱりな)
驚きよりも、納得の方が大きかった。
そんな空気を振り払うように、湊さんがわずかに咳払いをする。
「……じゃあ、次は仮眠室のシーンいきましょうか」
「はい…………はい!?」
唐突すぎる展開に、思わず声が裏返った。
「ちょ、ま、待ってください!? 仮眠室って、それ、エロ――濡れ場じゃないですか!」
「え、普通に順番に見ていくつもりで……台詞チェックですから、当然じゃないですか?」
「いや、それは、わかってるんですけど……心の準備が……!」
苦し紛れに抗議する俺を見て、湊さんは楽しそうに笑った。
「大丈夫ですよ。ちょっと声に出すだけです。さ、始めますよ」
「ちょ、ちょっと待って……!」
もう話を聞いてない。
湊さんの手元のスマホには、あの“仮眠室で押し倒される部分”が表示されていた。
「『お前……なんて顔してるんだよ』」
柔らかく、でも少しだけ掠れるような低音が、部屋の中に落ちた。
「あ、えと……せ……『先輩には、関係ないです……っ』」
自分の声がやけに響いて、恥ずかしさが喉元までせり上がる。自分で書いたセリフを読み上げるだけでも恥ずかしかったのに――さらに、濡れ場のセリフだ。
「『いや、俺には関係あるんだよ。悠里がどんな顔して、どんな声出すか――全部、見たいって思ってる』」
スマホの文字を追いながらの読み合わせなのに、湊さんの言葉には“本物”のような温度があった。
俺もそれにつられるように、次のセリフを読む。
「『……なんで、そんな……僕のこと、見ようとするんですか……』」
「『そりゃ、お前が……かわいいからだよ』」
喉がひゅっと鳴った。
「……地の文も、続けて。悠里視点でしょ?」
「あ、え……と……“先輩の手が、気づけば僕の頬に触れていた。ひやりとした指先が、熱を奪うように肌をなぞる”……」
頬に触れるような視線を、湊さんから感じた。体の芯が、少しずつざわついていく。
「『……こっち、向けよ』」
「『いや……見ないで……っ』」
「『じゃあ……もっと触るぞ』」
「……っ……ゆ、“指先が、顎の下から喉元をなぞっていく。逃げようとする体を、ゆっくりと壁に追い込まれていくようだった”」
湊さんは、俺に触れてない。なのに、まるで触られているかのように、全身が粟立つ。
「『……湊さん……っ』」
口をついて出たその名前に、自分でハッとして言い直す。
「『……せ、先輩……っ』」
顔が熱い。
どこまでが自分の小説で、どこからが現実なのか、分からなくなっていた。
湊さんの息づかいが、すぐ隣で聞こえる。
「『ここ、もう……こんなに熱くなってる』」
視線が下に落ちた。俺の身体が、セリフのとおりになってしまっていることを、湊さんに知られてしまった気がした。
「『晴之……どうして欲しい?』」
――“悠里”ではなく、“晴之”。
耳元で囁かれたその一言で、俺の“役”は完全に崩れた。
ゆっくりと、視線を上げる。
湊さんの瞳には、もう迷いのない熱が浮かんでいて、それが真っ直ぐ俺を射抜いていた。
「みっ、湊さんに……全部……触って、ほしい……です……」
言った瞬間、自分の声の震えに気づく。身体の芯が熱くなりすぎて、息をするのも苦しい。
湊さんは何も言わずにスマホを置いた。そして、静かに、でも一歩も逃げ場を残さないように、俺の顔へと手を伸ばした。
顎の下に指先が添えられ、自然と顔が上を向く。黒縁のフレームが、ほんのわずかに視界の端に入り込むたび、湊さんの輪郭がくっきりして見えた。
そのまま、ためらいもなく――唇が、触れた。
やわらかくて、湿り気を帯びた感触が、すぐに肌の奥まで染み込んでくる。
最初のキスは、思ったよりも静かで、長くて、どこか“確認するような”優しさに満ちていた。
でも、二度目は違った。
唇がもう一度重なった瞬間、湊さんの手が俺の腰を引き寄せ、俺は自然とその胸に身を預けていた。舌がわずかに触れ合い、吐息が絡む。
熱を帯びた唇が離れて、ほんの一瞬、部屋の中に静寂が戻る。
目の前にいるのは、読者だったはずの人。感想をくれて、言葉を交わして、創作を語り合った相手。
でも今は、その指が、俺のシャツの隙間に滑り込んで――
「っ……ん……」
思わず漏れた声に、自分でぎょっとする。なのに湊さんは何も言わず、ただ優しく、でも確実に熱を探ってくる。
「は……っ、だ、だめ……っ」
言葉と裏腹に、体が逃げきれない。細い呼吸の合間に、湊さんの掌が腹部を撫でて、腰がびくんと跳ねる。
「や……あ、あっ♡」
喉の奥から上ずった音がこぼれた。そんな声、自分の中にあるとは思っていなかった。
「……かわいい」
耳元に落とされた囁きに、頭が真っ白になる。その言葉が、肌の内側にじわじわと広がっていく。
そして手が、下腹へ。体の奥で張り詰めていた熱に、そっと触れられた。
「っ……や……っ!」
反射的に身をよじって、湊さんの腕を掴む。震える指先に、自分の必死さがにじんでいた。
「こ、こんなの……やっぱり、だめ……!」
懇願のような言葉を吐きながら、逃げ出す力ももう残っていない。
そんな俺を見つめながら、湊さんは静かに――でもどこか確信を持った声で、言った。
「ここまできて……“逃げるのはズルいでしょ”」
「……あ……」
そのフレーズは、俺が書いたセリフだった。
けれど、今その言葉は――湊さんの声で、俺の現実を突き刺した。
「……ね、ハルせんせ?」
頭のどこかで分かっていた。言葉では抗っても、体はもう、拒絶できないと。
俺はもう、湊さんに完全に――負けていた。
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