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第5話 芽吹き
しおりを挟むあれは、8年前。高校2年になったばかりの春だった。
美術室の窓は西日を受けて橙色に染まり、古い木製の机には斜めに光が差し込んでいた。薄く漂う油絵具の匂いの中で、俺は眼鏡をひとつ、くいと押し上げてから絵筆を握った。
向かうのは、文化祭出展用の絵。顧問の先生に「藤森君、油絵やってみなよ」と言われて、ためらいながら始めた。だけど、思うように描けない。最初の一筆は悪くなかった気がしたのに、少しずつ迷いが出て、線がぶれて、色が濁っていく。
何枚目かももう分からない。先生からもらったキャンバスを、いくつ無駄にしたか。倉庫の隅に立てかけられた、使いかけの絵が俺を睨んでくる気がした。
(文化祭まで、あと一ヶ月……間に合うのかよ……)
思考が沈む音に重なるように、美術室の扉が開いた。
「失礼しまーす……」
控えめな声とともに、知らない男子生徒が入ってきた。こちらを一瞬きょろきょろと見渡し、俺と目が合った。
「ごめん。ここ……文化祭の出展受付に使うんだけど……いいかな?」
細身の男子。黒髪が少し寝ぐせ気味で、制服はきちんと着てるけど、どこか気の弱そうな雰囲気がある。
「あー……」
思わず口をついて出た曖昧な声。3年生だろうか、実行委員の腕章が制服の袖に巻かれている。面倒くさいな、と思いながら、目の前のキャンバスに視線を戻す。
今から片付ける? 無理だろ。絵具もパレットも出しっぱなし。筆なんてやっと油がなじんできたところだし、絵の途中で手を止めたくない。
「あ、場所はそんなに使わないから!横で机使わせてもらえれば……」
そう言って彼は自分で長机を運びはじめた。動きが少しぎこちないけど、慣れている様子だった。
(……まあ、邪魔されないならいいか)
俺は筆を持ち直し、再び目の前のキャンバスに集中する。といっても、集中できていたかどうかは分からない。彼の動きが視界の端にちらちら入ってくる。印刷した資料、ファイル、赤いボールペン。
まもなく、賑やかな声が廊下から近づいてきた。ガラッと扉が開き、数人の男子生徒がぞろぞろと入ってくる。
「おーう、小林じゃーん。お疲れっすー」
「これ頼むぜ~」
明らかに運動部、見覚えがある。確か、サッカー部の連中だ。
「ああ、豊田君。用紙貰うね。
え、なにこれ……バニー喫茶?……サッカー部で?」
「そ! めっちゃ面白くね!?」
「うーん、でも飲食物の提供はちょっとね……」
「晴之くん、そこは多めにみてよ~」
「いやぁ……でも決まってるから……」
「けちだな~」
そのやりとりがやたら耳に残る。小林晴之――それが、この受付の彼の名前らしい。
部屋の隅で俺は筆を止めて、ちらりと横目で彼らを見る。サッカー部の集団はしばらくふざけた後、「つまんねー」と言いながら退室していった。
部屋が静かになったその瞬間、さっきの小林先輩が、少し申し訳なさそうな顔でこっちを見ていた。
「ごめんね、騒がしくて……集中できないよね」
意外と柔らかい声だった。声かけられると思ってなくて、一瞬だけ言葉に詰まる。
「ああ、いや……全然」
それしか言えなかった。彼はそれに微笑むように頷いた。
「……君、2年生?」
「あ、はい……そうです……」
「……めっちゃ絵上手いね。見ていい?」
一拍置いて、俺は頷いた。
「……はい」
それだけしか言えなかったけれど、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、ちょっとだけ、何かがほどけたような気がした。
小林先輩が俺の斜め後ろに立って、キャンバスを覗き込む。
「これ……油絵? すごいね」
控えめな声に、筆を持ったまま振り返る。ごく自然な距離で、斜めから光を受けたその顔には、柔らかい笑みが浮かんでいる。
「あ~……まあ、初めてなんで、あんまり……」
自分でも聞き取れないような曖昧な声が口をついて出る。
だけど、先輩は「ううん」と小さく首を振って、真剣な目で絵を見つめた。
「この、影の入り方とか、すごく好き。筆の跡に、“時間”が表現されてるっていうか……“描きながら迷ってる”感じが、ちゃんと絵になってるの、すごいと思う」
絵を見つめる彼の横顔は、まっすぐで、優しくて。
――胸の奥に、風が吹いたような気がした。
その一言で、否定されなかった。未完成で、拙くて、形になっていなくても、見てくれる人がいる。そう思えた瞬間、ずっと胸に溜まっていた濁りが、すっと薄れていく。
何も言えない俺に気づいたのか、先輩は少し照れたように笑って――
「……ごめん、変なこと言ったかな」
申し訳なさそうに呟いた。
「……いや、そんな……ありがとうございます」
ようやく声を出すと、先輩はふわりと笑う。
「これ、完成したら展示するの?」
「……はい」
「楽しみにしてるね。あ、僕の作品も一応、部誌で出すからさ。文芸部のブース、覗きにきてね」
思いがけない誘いに、うまく答えられないまま頷く。
「……ああ、はい……」
その時、廊下から別の生徒の声が聞こえてきた。
「すみませーん、文化祭の展示受付って……」
「あ、はいはーい。用紙、確認します」
そう言って、小林先輩はぱたぱたと走っていく。その背中を、俺はなぜか動けないまま見送った。
***
――絵は、なんとか完成した。
筆の軌跡はぎこちなく、色も混ざり合いきらない。何度も何度も重ねた末に生まれた、その絵に満足しているとは言いがたかった。
けれど、完成したキャンバスを目の前に立てかけたとき、ふと頭に浮かんだのは、小林先輩の顔だった。
あの人に見てほしいような、見てほしくないような。複雑な気持ちが胸の奥で絡まり合う。
文化祭当日、クラスの展示当番を早めに切り上げ、美術部の展示スペースへ向かった。
――けれど、彼は現れなかった。
彼の言っていた文芸部のブースにも、そっと足を運んでみた。けれど、部誌はすでに頒布終了の張り紙が貼られ、机の上は空だった。
そこにも、小林先輩の姿はなかった。
その後、卒業までの数ヶ月。校内ですれ違うことがあるかもしれない――そう思っていたが、結局、一度も会うことはなかった。
探そうと思えば探せた。教室を回れば、あるいは文芸部の部室を訪ねれば、彼の所在は分かったかもしれない。
でも、その一歩が踏み出せなかった。
どうしてかは、自分でも分からなかった。
――それでも。
あの人が言ってくれた、あの一言。
『“時間”が表現されてるっていうか、“描きながら迷ってる”感じが、ちゃんと絵になってる』
その言葉だけは、ずっと頭に残っていた。
あの人の言葉が、俺の中に“残ってしまった”から。反対していた親を説得して、美大に進むことを決めた。迷っても、濁っても、それを絵にできる人間になりたかった。
――そして、いつかもう一度、彼に見てもらいたかった。
俺の描く絵の続きを。
彼がくれた言葉の先を――俺の手で、描いていきたかった。
***
でも、そんな一時の衝動で芸術の道に進んだ俺は、結局、自分の力の限界を思い知らされた。
美大の教室で、木炭と鉛筆と、無数のスケッチブックに向き合う。教授に出された課題をこなすため、目の前のキャンバスに絵具を重ねる。
だけど、いつも自分の線は、どこか輪郭が甘かった。
学費のために夜遅くまでバイトして、アトリエには始発で向かう。睡眠は削れど、完成度は上がらない。慣れない徹夜の作業で目は霞み、眼鏡の奥の視界もにじんでいた。どんなに目を凝らしても、描くべき線が見えなくなる夜があった。
天才と呼ばれる同級生の作品は、ため息が出るほど完成されていて、俺の絵は、横に並べられるだけで惨めだった。
そんな日々の中で、ある日、友人がふと声をかけてきた。
「湊、あんたエロ描ける? ……てか、BLとかいけるクチ?」
冗談混じりのその一言に、なぜか頷いていた。
――好き、かもしれない。
昔からどこか、“ふたり”の距離感に惹かれていた。見つめ合う瞬間、指が触れそうで触れない緊張、呼吸の重なり。男同士であっても、むしろだからこそ、言葉にならない関係性が、俺の胸をざわつかせた。
冗談半分で始めたBLの同人誌。けれど描き始めてすぐに、それがただの“遊び”ではないと気づいた。
キャラクターの目線、肩越しに見える手の動き、服のしわの角度。そのすべてが、自分の中にあった“描きたさ”とピタリとはまった。
“ああ、俺は、これを描きたかったんだ”
感情が滲む肌。心と体が一致する瞬間。美術では描けなかった“濡れ場のロジック”が、BLというジャンルにはすべてあった。
何より――自分の“欲”を描いていいという許可を、得たような気がした。
イベントに出て、コピー本を売って、少しずつ読者が増えていった。手紙をもらったこともあった。通販の感想欄に残された数行の文章に、何度も救われた。
大学を卒業する頃、商業レーベルから声がかかった。
最初は異世界モノだった。異形の種族、契約のキス、騎士と王子――華やかな舞台に、繊細な感情を乗せることは、ある程度できた。読者も喜んでくれた。
でも、どこかに“足りない”と感じていた。
感情が爆発する瞬間じゃない。その手前、もっとささやかな揺れ――あの、あの時、美術室で感じたような“視線”の余白。
ネームフォルダに、少しずつ増えていったのは、高校生の話ばかりだった。部活、教室、放課後、そして――美術室。
あの人の顔が、何度も浮かんだ。
「いいじゃん、これ」と編集に背中を押されて、俺は『放課後、星の瞬きを』を描き始めた。
“彼”をモデルにした主人公は、あえて写真部に変えた。あまりにもリアルすぎて、そのまま描く勇気がなかったから。
作品は思いのほか売れた。SNSでの感想がじわじわと広がり、出版社から重版決定のメールが届いた。電子版は週末だけで数千DLを超えていた。
けれど、描き切った後、ぽっかりと心に穴が開いた。
描きたいものがなくなった。
消耗した――というより、なにかを、使い果たしてしまったようだった。編集には「何でも良いからインプットしろ」と言われ、俺は同人時代ぶりに、小説投稿サイトを覗いた。
――正直、見下していた。
(所詮は素人だろ)
ネタの参考になれば、くらいのつもりだった。
でも、そこに、“それ”があった。
画面をスクロールする手が止まり、思わず眼鏡を外して眉間を揉む。さっきまでの疲れが、嘘みたいに消えていた。
高校生の、美術室での静かな恋。
指先の描写。視線。文化祭の準備室。ふたりの間の、言葉よりも熱が先に溢れるような濡れ場。
――『放課後を飾る君の指先』
タイトルを見た瞬間、全身が凍りついた。
(……まさか)
作品を読んで、言葉にならない焦りが胸を締め付けた。
“パクられた”と思った。
自分の作品を模倣された、そんな被害妄想すら湧いた。けれど、本当は――俺が描けなかった“あの瞬間”が、そこには描かれていた。
衝動に任せて、感想欄に書き込んだ。
――「参考にされてますか?」
後悔は、すぐに訪れた。
酒を煽って、再びページを開くと――件の作者から丁寧な返信が届いていた。
『該当の作品は読んだことがなかったのですが――』
『構成やキャラクター性などは、自分の体験を踏まえて書いたものです』
――自惚れていた。
少し売れたからって、自分の作品をパクられたと思って……あんなことを書いて。この人は読んだことないって言ってるじゃないか。文章からも嘘の気配はない。
けれど――それでも、拭えない違和感が残っていた。
セリフ回し、感情の高ぶるタイミング、視線の揺れ……そこに漂っていた“雰囲気”が、あまりにも自分の作品に近かった。
なぜだ?
あの思い出は、俺だけのものだ。他の誰も知らない。あの空気、あの温度、あの美術室。誰かに共有したこともないのに――なぜ、こんなにも似ている?
――いや、待て。一人……いる。
返信欄に、もう一度目を戻す。
『自分の体験を踏まえて書いた』
自分の体験。
その言葉が、頭の奥に引っかかった。
「――自分の、体験……?」
視界が歪むような感覚に襲われた。
作者名は――『春林檎』。
何度か作品を見かけて、気になっていたその名前を、もう一度口にしてみる。
「……はる、林檎」
「小林……はるゆき……?」
まさか……?
あの文化祭の日。俺の絵にまっすぐな感想をくれた、あの人の名前。
いや、でも、偶然かもしれない。
落ち着いて返信をしようと、感想欄に戻ると――相手からの返信が増えていた。
それを読んで、心を撃ち抜かれた。
『作品を読んだ』
『とても良かった』
『言葉が沁みた』
『見開きの絵が綺麗だった』
――『素敵な作品を教えてくれてありがとう』
と、綴られていた。
ああ。きっと、あの人だ。
人生で初めて、俺の作品を「好きだ」と言ってくれた人。
俺に、「迷ってもいい」と教えてくれた人。
――初恋の相手。俺の絵の原点。
そんな人が、また――“言葉”をくれた。まっすぐに、静かに、温かく。
俺の物語が、やっと、また動き出した。
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