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最終話 重なり
しおりを挟む「えっ、ちょっと待って……頭が、追いついてないんだけど……」
俺の声は震えていた。混乱したまま、湊が差し出したスマホの画面を見つめ、恐る恐る指差す。
そこには、あの表紙が映っていた。
――『放課後、星の瞬きを』
「……それの作者は」
「俺」
即答だった。ぶれない声。もう、隠す気はないという強い確信が、言葉の奥にあった。
「で、その話の元になったのが……」
「俺と、晴之」
言われた瞬間、全身が一瞬だけフリーズした。
意味が、すぐには繋がらなかった。
でも、ふと脳裏をかすめた――あの、美術室の光景。斜めから差し込む夕陽。油絵の匂い。
(まさか……)
頭の中で何かが結びついて、呼吸が浅くなる。それでも、確信を持てずに訊いてしまう。
「……高校の、あの時の……?」
頷いた湊は、眼鏡越しに穏やかに笑った。
その視線が真っ直ぐすぎて、思わず目を逸らしたくなるほどだった。
全身の力が抜けて、ソファに沈み込む。
「ええ……?」
情けない声が漏れる。全身が火照っていた。頭の中では過去と現在の情報が入り乱れ、思考がまとまらない。
「なんで……なんで言ってくれなかったの……?」
やっと絞り出した声。湊は、少しだけ眉尻を下げて、苦笑するように言った。
「……なんかさ、言い出せなかったんだよ」
スマホの画面に映った表紙絵を見つめながら、湊は唇を噛むように言った。
「なんか……ストーカーみたいだろ。あの頃の記憶、ぜんぶ引きずって、数時間同じ部屋にいただけの人をモデルにして、作品まで描いてさ……」
少し俯いた横顔に、冗談っぽさを装った照れが滲んでいる。でも、その声の奥にあるものは――たぶん、ずっと抱えてきた自意識の重みだ。
俺は思わず笑ってしまった。
「いや、俺の小説読み込んで性癖解析してるほうがよっぽどストーカーだよ……」
湊が、目をぱちぱちと瞬かせる。
「……それは……まあ……うん、否定はしない……」
「なんだよそれ、開き直りじゃん」
「いやだって、あれ……すごく“俺の好きな晴之”が詰まってたから」
「知らない間に“俺の好きな晴之”にされてるんだけど」
思わず頬が熱くなる。言いながら、笑ってしまうのに、どうしようもなく胸の奥がきゅうと締めつけられた。
――でも、本当は、俺も同じだった。
ずっと忘れていたはずの、ほんの短い出会い。
でもきっと――どこかで、あの記憶を手がかりにして、小説を書いていた。
自分でも気づかないまま、あの人のことを、登場人物に重ねて。声や仕草、言葉の余韻、あの西日の色――無意識に、思い出していたのかもしれない。
……いや、それって。
(……結局、俺も同じことしてたじゃん)
自分の中でそっと笑いがこぼれる。呆れたような、でも少しだけ、救われたような。
湊は、小さく息を吐いて、それからぽつりと呟いた。
「……ほんとは、もっと早く言うべきだったんだけど」
言葉が少しだけ震える。
「……なんか、こうやって話せて……安心した」
目を伏せる彼の肩に、俺はそっと手を伸ばした。そのまま、何も言わずに抱きしめる。
湊の体温が、静かに胸に染み込んでくる。心臓の鼓動が重なる感覚が、なんとも言えず心地よかった。
そして俺は、耳元で小さく、息を吐きながら呟く。
「……ごめん。俺のほうこそ」
「え……?」
「……話してるうちに、思い出してきたんだ。
あの時、美術室で……“絵、楽しみにしてる”って言ったのに――行けなかった」
自分の声が、少しだけ震えたのが分かる。胸の奥に、ずっと残っていた違和感が、言葉になるたび、少しずつ形を持っていく。
「実行委員と副部長、両方やってて……バタバタしてて。時間がなかったって、自分に言い訳してた。でも――あんなに頑張ってたのに、ちゃんと見に行けばよかったんだ」
少しだけ抱きしめる腕に力を込める。
「……あの2年生と、もっと仲良くなりたかったって……ずっと、どこかで思ってたんだ」
湊の背中が、ぴくりと震えた。
しばらくの沈黙のあと、湊はそっと顔を上げた。
「……そっか」
その声は小さかったけれど、確かに胸の奥まで届いた。
「ハル、俺……ずっと、後悔してた。だから――こうして、また出会えたのが、本当に嬉しい」
その言葉に、俺もこたえるように頷く。
湊の手が、そっと俺の背に回った。腕の中で、彼が少しだけ震えているのが伝わってくる。
――この人も、ずっと孤独な記憶を抱えてたんだ。
抱きしめたまま、俺はそっと尋ねる。
「……なんでそんな、弱々しくなってるんだよ。
さっきまでノリノリで俺のこと押し倒してた湊は、どこ行ったわけ?」
一瞬、湊の肩がぴくりと揺れる。
それから、少し照れたように笑って、小さく呟いた。
「……そりゃあさ」
その声は、どこか諦めたような、でも誇らしげな響きだった。
「ずっと欲しかった“小林先輩”が、目の前にいるんだよ?
――もう、理性なんか残ってなかったよ」
その言葉に、喉の奥が熱くなった。
馬鹿みたいだ、と思った。
でも同時に――こんなに嬉しい告白は、他にないとも思った。
ようやく、ふたりの時間が、過去と現在で繋がった気がした。
ゆっくりと、湊の瞳をみつめると、彼がふっと笑った。
「……ずっと、好きだったよ。小林先輩」
「……僕もだよ、あの時の2年生」
言葉を交わすよりも早く、どちらからともなく顔が近づいていく。
視線が交差する瞬間、もう答えは決まっていた。
触れた唇は、思っていたよりも柔らかくて、あたたかかった。
その甘さに、長い時間がゆっくりと溶けていく。まるで、ようやく解けた雪のように。
――俺たちは、やっと春を迎えたのだと思った。
***
静けさの中、湊がふと思い出したように口を開いた。
「そうそう。あの時の絵は、もう見てもらったし、感想ももらったんだよ」
「……えっ、どういうこと?」
「これ」
そう言って、スマホのギャラリーを開いて、一枚の画像を見せてくる。
「あ――」
俺は息を呑んだ。
――星空の絵が、そこにあった。
『放課後、星の瞬きを』のクライマックスで、昴が陽真に見せた、あの一枚だった。
「これが……あの、絵……」
画面の中の星空は、白と群青が滲むように混ざり合い、奥行きのある夜空がキャンバスに広がっていた。細かな点描が、まるで光の粒を散らすように、空間を構成している。
「美術室で見てもらった時は、まだ描き始めたばかりだったけど……そのあと、相当描き込んだんだ」
湊は、スマホの画面を見つめながら少し照れたように笑った。
「単行本だと白黒だし、ちょっと雰囲気違ってただろ? 本当は、あれじゃ伝えきれなかったんだよね」
一瞬だけ視線が交差する。
「――今度、実物も……見てほしいな」
「……うん」
画面を見つめながら、自然と胸の奥がきゅっと締め付けられた。
あの時、美術室に届かなかった想いが、今ここで、絵になって俺の前にある。
言葉にならない感情が、胸に満ちていく。
――湊はずっと、描いていたんだ。俺の知らない場所で、俺の知らない時間を使って。
でもそれは、確かに、俺と繋がっていた。
「……すごく、綺麗だね」
そう言うと、湊は少しだけ、照れたように笑った。
「だって、ずっと見てほしかったから」
「……うん。ちゃんと、届いたよ」
その言葉に、湊の目がわずかに潤んだ気がした。
部屋の空気が、しん、と澄む。
――過去に描ききれなかった想いが、今、言葉になって、絵になって、ようやく交わった。
そんな、確かな実感があった。
***
休日の昼下がり。都内の住宅街は意外なほど静かで、遠くから電車の音だけがかすかに聞こえていた。マンションのエントランスには柔らかな陽射しが差し込み、風に揺れる街路樹の影がゆっくりと地面をなぞっている。
呼び鈴を押すと、すぐにドアが開いた。
「いらっしゃい」
湊はいつものゆるい部屋着姿で、片手に缶コーヒーを持ったまま立っていた。もう何度目かの訪問だから、俺も特に遠慮はせず、そのまま靴を脱いで中に上がり込む。
薄暗い室内には、作業机の青白いモニター光と、電子レンジの横に積まれたコンビニ袋。湊の生活感は、どこか安心する匂いがした。
すれ違いざま、軽くキスを交わして、そのままふたりでベッドの端に腰を下ろす。膝と膝が触れる距離。
「どっち、先にする?」
湊がニヤニヤしながらそう言ってきた。含みのある声音と、わざとらしい視線。こいつは、分かってて言ってる。
「……講評で」
俺がバッサリそう返すと、湊は肩をすくめて「ちぇー」と口を尖らせた。
「よろしく、先生」
思わず笑ってしまうようなやりとり。それでも、俺の小説を印刷した紙を取り出した湊の顔は、すぐに真剣なものになる。
「じゃ、まずは冒頭からね。
最初の三行、情景描写で一気に空気つくろうとしてるのは分かるんだけど……情報が立て込んでて印象がぼやけてる」
湊は眼鏡を指で押し上げながら、真面目な顔で言った。いつもより少しだけ編集者っぽい顔つき。
「手厳しいなあ……」
「商業行くならこれくらいは、って話」
さらりとしたその一言に、なんとなく目を伏せる。
「……商業ねえ……別に、俺は……」
曖昧に返すと、湊はすぐに声を被せてきた。
「ちょっと。俺、言ったよね?」
「え?」
「“晴之の小説をコミカライズするのが夢だ”って」
そう言いながら、不満そうに唇を尖らせる湊が、ちょっとだけ愛おしい。
「……じゃあ、俺が湊のために小説書くから、それで漫画描けばいいじゃん。別に商業作家じゃなくたって――」
「だーめだって! ちゃんと対等にしたいの!」
言いながら湊はベッドの上で俺の肩を軽く小突いてくる。
「俺、それのために今、担当にめっちゃ媚び売ってんだからな?」
ふたりして笑い合う。その声が部屋の中に溶けて、ほんの少しの静けさが残る。
ふと視線を逸らすと、壁に掛けられた一枚の絵が目に入った。
――群青の夜空に、散りばめられた白い光。
滲むように重ねられた色彩。
あの時、言葉にできなかった気持ちが、そこにはちゃんと描かれていた。
なんだか、胸がじんと熱くなる。
湊の声が、そっと重なる。
「……俺、あの時の“先輩”の言葉がなかったら、きっと今みたいに描けてなかったと思うんだよね」
「……俺も。湊が感想くれてなかったら、たぶん、もう書いてなかった」
目が合って、微笑みがこぼれる。
すべての始まりは、たったひと言だった。
否定されなかった、あの瞬間。
見てくれた。伝わった。だから、続けようと思えた。
あれから何年も経って、やっとまた同じ場所に立てた気がした。
――あなたの言葉で、書(描)きたくなった。
そして今、同じ部屋で。
ふたりの視線が、同じ星空を見つめている。
(終)
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