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第三楽章

第5話 Careless Whisper

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 1級小型船舶操縦士の学科講習には、ヒマとカネを持て余したセレブたちで盛況だった。
 その中には女性受講者も数人混じっていた。

 「みなさんは灯台がそれぞれ違う物だと言うことはご存知でしたか? 実は灯台は同じ白でも、光り方や光の色はそれぞれ違う物なんです」

 学科講習が2日、実技講習が1日、その後に学科試験、実技試験がそれぞれ半日ずつの合計4日間に渡り行われる。  
 合格率はほぼ100%だった。
 つまり、お金さえ払えば誰でも取得出来る国家試験だった。
 船舶を操縦するための講習会のようなもので、私には眠くなるような話ばかりだった。

 (どうして小型船舶の資格を取るなんて言っちゃったんだろう?)

 隣の席の鹿田君は熱心にノートを取っていた。

 (やっぱり男の子ね? 乗物が大好きみたい。かわいい)



 ようやく学科講習の初日が終わり、

 「ああ、明日もあるのね? 何だか疲れちゃったー」
 「僕も自分の船が欲しくなりましたよ」
 「男の人はみんな、電車とか飛行機、お船やクルマ、バイクとかが好きだもんね?」
 「男は旅に憧れるんですよ、冒険の旅にね?」
 「冒険かあ?」
 「琴子さん、お茶して帰りませんか?」
 「別にいいけど。お夕食の支度に間に合えば」

 鹿田君は片手にサックスのケースを持っていた。

 「僕も今日はスタジオで収録なんです」
 「ジャズの?」
 「今日はフュージョンなんです。嫌な作曲家の。
 下品で苦手なんですよ、そのおじさん」
 「だったらやらなきゃいいじゃないの? そんなお仕事。
 私は自分と音楽性の合わない人とはお仕事をしないことにしているの。
 だって私の歌だから」
 「音楽は自由であるべきですからね?」

 そう言って白い歯を見せて笑う彼に、私はギリシャ神話のアドニスを想像した。

 (美少年、アドニスみたい)
 

 

 汐留のテレビ局の下にあるオープンカフェで、私たちは軽い世間話をしていた。
 家路を急ぐ人たち。都会の喧騒。


 「琴子さん、サックスの曲は何が好きですか?」
 「そうねー、ケニーGとかかな?」
 「今日はソプラノではなく、アルト・サックスですけど、ちょっと吹いてみましょうか?」
 「ここで?」

 すると彼は楽器ケースからアルト・サックスを取り出し、ストリートライブ用に設けられたスポットライトの下のペイブメントまで歩いて行き、そこへ立った。
 彼の演奏が始まった瞬間、周囲の会話やざわめきが止んだ。


 ケニーG。『Waiting for You』


 黄昏の高層ビルの谷間に鳴り響く彼のアルト・サックス。
 行き交う人たちも足を止め、彼を見て、耳を澄ませていた。
 繋いだ手に力を込める恋人たち。
 彼のサックスが人々の心を鷲掴みにしていた。そして私の心までも。
 彼の頭上の高架を、「ゆりかもめ」がノロノロと這うように走り過ぎて行った。


 彼はその1曲だけを演奏すると、私のところへ戻って来た。

 「錬三郎さんがお腹を空かして帰って来ますよね?
 そろそろ帰りましょうか?」

 眩しいくらい素敵な笑顔だった。
 彼は私に手を差し出した。
 私はその手を取り、椅子から立ち上がった。
 骨ばった太い血管の浮き出た彼の手の甲を見た時、私は軽い欲情に胸がドキドキした。

 (何をそんなに動揺しているの? ただ彼の手に触れただけじゃないの?)

 私は戸惑いを覚えた。



 JR新橋駅のコンコースで私たちは別れた。

 「琴子さん、それじゃあまた明日」
 「うん。レコーディング頑張ってね?」
 「ありがとうございます」

 私は人混みに紛れて消えてゆく、彼の引き締まった小さなお尻を見ていた。

 (アソコは錬三郎よりも大きいのかしら?)

 私はそんな自分に吹き出しそうになりながら駅の改札を抜け、ホームへのエスカレーターを昇って行った。




 夕食の時、錬三郎と今日の講習会の話をした。

 「まるでどこかの知らない国の言語を聞いているようだったわ」
 「陸上では海や船の仕組みは馴染がないからね? まずは基本的なことを憶えて、後は実地で学べばいい。
 わからないことは僕が教えてあげるから」
 「うん、取り敢えずがんばってみる。せっかく錬三郎にお金を出してもらったんだから、必ず一発で合格しなきゃね?」
 「琴子なら大丈夫だよ。
 今日の琴子の作ってくれたこの黒酢酢豚、黒酢がよく効いていて凄く美味しいよ。
 ビールによく合うからもう一本飲んじゃおうかなあ?」
 「ありがとう錬三郎。私も飲みたい!」

 私は冷蔵庫に冷えたビールを取りに行った。

 「それから今日の帰り、鹿田君と汐留のカフェでお茶してから帰って来たんだけど、その時彼、ストリート・パフォーマンスをしてみんなから凄くウケてた。
 サックスをライブで聴くなんて初めてだったけど、ブラスの音色もいいものね?」
 「今度僕も聴いてみたいな? 彼のサックス」
 「レイのお店でやってくれたらいいのにね?」
 「そうだね? 今度、レイにリクエストしてみるよ」

 そう言って、錬三郎は喉を鳴らしてビールを飲んだ。



 私たちは二日目の学科講習を終え、私と鹿田君は同じ電車で家路に就いた。
 夕方ということもあり、電車は混雑していた。
 私たちは電車のドアの近くに立っていた。

 「明日からいよいよ実技講習ですね?」
 「大丈夫かしら? 私」
 「一応国家試験ですからね? 殆ど落ちる人はいないそうですけど」
 「そうみたいね? 鹿田君は今日もこれからレコーディングなの?」
 「いいえ、今夜は何もありません」
 「鹿田君はひとり暮らしなの?」
 「いいえ・・・」

 野暮なことを訊いてしまったと思った。
 おそらく彼はレイと一緒に暮らしている筈だった。
 私は話題を変えた。

 「錬三郎がね? 鹿田君のサックスを聴いてみたいって言っていたわ。「レイのお店でリサイタルをやってくれないかなあ」って」
 「そうですか? ありがとうございます。レイに話してみます」

 (レイ? 年上なのに呼び捨て?)

 やはりそうなんだと私はその時確信した。

 「じゃあ楽しみにしているわね?」
 「はい」

 鹿田君は吊革に掴まり、車窓を流れる夕方の東京を眺めていた。
 その表情はとても寂しげだった。

 (アドニス・・・)

 鹿田悠斗。私は彼のことを密かに「アドニス」と名付けた。





 夕食前の2時間は、錬三郎とのレッスンの時間だった。
 普段はニコニコして、子供みたいに無邪気な錬三郎でも、いざピアノに向かう錬三郎は、まるで「音楽の鬼」だった。


 「何度言ったらわかるんだ! そこはダラダラ歌うな! ヴィオレッタの恋焦がれる想いを隠せ! 心を鬼にしてアルフレードを追い返すんだ!」
 「はい」
 
 私はアドニスをアルフレードに想像して、錬三郎の言うように歌った。

 (ああ、ダメよアドニス! それ以上私に近寄らないで!)

 「いいぞ琴子! お前は飲み込みが早い! 新国立劇場での公演まであと二か月だ。パート練習はこれくらいにして、明日からは通しでやるからな?」
 「わかりました」

 レッスンの時とベッドでは、彼に服従するのが私の決めたルールになっていた。
 私は錬三郎を深く愛していた。


 
 今夜の錬三郎とのセックスは燃えた。

 「私は淫らなヴィオレッタよ! あなたが欲しい! アルフレード!」
 「じゃあちゃんとお願いするんだ! 四つん這いになって尻を突き出せヴィオレッタ!」

 私は四つん這いになり、腰を高く上げて自分を錬三郎に晒した。すごく恥ずかしかった。

 「アソコがグチョ濡れじゃねえか? そんなにぶち込んで欲しいのか? ヴィオレッタ!」
 「はい・・・、お願いします」

 私は淫らなヴィオレッタを演じ、そして錬三郎はサド侯爵に扮したアルフレードを演じた。
 錬三郎が私の腰を引き寄せ、自分の硬くなったそれを私のそこに宛がった時、私は次の展開を期待して歓喜の声を上げた。

 (やられてしまうのね? アドニスに!)

 だが錬三郎はそれを私の濡れた女の部分に押し当てると、ゆっくりとそこをなぞるだけだった。
 私は遂に叫び声を上げた。

 「何をしているの! 焦らさないで早く入れて!」
 
 すると彼は私から身体を離し、いつの間に用意していたのか? ジーンズ用の幅の広い革ベルトを手に取り、私の背中からお尻に掛けて、先端をゆっくりと滑らせた。
 身体中にゾクゾクと鳥肌が立った。

 「どうやらお前にはまだお仕置きが足りないようだ。ムチの味を教えてあげないといけないようだな?」

 錬三郎は私の耳に息を吹き掛け、そう囁いた。
 彼はベルトをふたつに折り、ビシッビシッとベルトを鳴らしてみせた。
 もちろんこれはただの演技であり、実際に私のカラダを傷付けるようなことはしない。
 だが私の蜜は更に溢れ出した。

 「錬三郎! 早く頂戴! 私を犯して!」
 「琴子、両手を出せ」

 (縛るつもり?)

 私が両手を錬三郎に差し出すと、今度はネクタイで、やさしく痕が残らないように配慮しながら少しだけ緩く私の両手を縛り、万歳をさせた。

 「どうだ? 身動きが出来ないだろう? ヴィオレッタ?」

 私の自由は奪われ、彼は私の両足を持ち上げると、私の中に自分自身を挿入して来た。
 私の全身を突き抜ける凄まじい快感。
 
 ズブブ ズブブ

 私の中が錬三郎のそれによって掻き出され、卑猥な音と私の淫らな喘ぎ声が寝室に響いた。
 私は目を閉じ、電車でのアドニスを想像した。

 (ああ、アドニス! もっと激しくちょうだい! 私を滅茶苦茶にして!)

 「イ、イクっ」

 私は頭が真っ白になり、少し遅れて錬三郎も射精したようだった。
 私たちは演技を終えた。


 私のオルガスムスが収まった頃、錬三郎が言った。

 「今日の琴子は凄かったよ。ほら、シーツがお漏らししたみたいになってる」
 「・・・オシッコ漏れそうだった」
 「オシッコじゃなくて潮じゃないのかなあ? これ?」
 「ばか。錬三郎の変態・・・」
 「真剣にセックスに没頭している時に、変態じゃない男はいないよ」
 「そうか? そうだね? あはははは。ねえ? 今度は私を縛ってみてよ。ちょっと興味があるの」
 「じゃあ船のロープワークもついでに教えてあげるよ」
 「ボーライン・ノットとか? クラブ・ヒッチとか?」
 「よく覚えたね?」
 「覚えるだけはね? 錬三郎のこれで練習したい」
 「いいよ、じゃあ今度買って来るよ。でも痕が残るといけないから、柔らかいヤツを買って来るよ。本格的な麻縄じゃなくて、ナイロンの撚りがないヤツ。何色がいい?」
 「黒か赤でしょ? 普通。女の人の白い肌に栄えるのは?」
 「じゃあ赤にしよう。草間彌生の信者の僕としては絶対に赤だ!」
 「あはははは。いいわね? 赤。綺麗に縛ってね? 「亀甲結び」ってやつで」
 「そんなのどこで覚えたの? 「亀甲結び」だなんて?」
 「私ね、意外と中学からヤンチャしていたのよ。
 お嬢様の進学校、あの名門御三家の生徒だったのに、お酒にタバコ、一通りの不良はやったわ」
 「初体験もその時に?」
 「教えない。ひ・み・つ。うふっ」 

 私たちは笑った。


 「それからレイに話したよ、鹿田君のライブの件」
 「そう? それで?」
 「一カ月後、常連さんだけを呼んで、あの店でやることになった」
 「じゃあお花を持って行かないとね?」
 「うん、楽しみだね? 彼のサックス」
 「ねえ、もう一回して。今度はいつものノーマルなやつで」
 「いいけど」

 私たちの長く熱い夜は続いた。




 アドニスのライブで店は鮨詰め状態だった。
 みんな彼の演奏に酔いしれ、女性客からは黄色い歓声が飛んでいた。

 ギリシャ神話に登場する伝説の美男子、アドニス。
 フェニキアの王、キュニュラースの王妃、ミュラーは絶世の美女だった。
 フェニキア家は代々、愛と美の女神、アフロディーテを信仰していたがある時、誰かが「王女ミュラーはアフロディーテよりも美しい」と口走ってしまったことに端を発する。
 それに激怒したアフロディーテは、ミュラーが実の父親に恋愛感情を抱かせ、近親相姦へと誘導してしまう。

 暗がりの中で行為に及んだ王妃、ミュラーの父親はその相手が自分の娘だと知ると、激怒してミュラーを殺害しようとする。
 ミュラーはアラビアに逃れて命拾いをするが、そんなミュラーを神々は哀れに思い、彼女の姿を「ミルラ」という木に変える。
 そこにある時、猪がミュラーの木に激突し、その裂け目から産まれたのがアドニスだった。
 まだ赤ん坊であったアドニスに、アフロディーテは酷く惹かれ、アドニスを箱に入れ、冥府の女王、ペルセポネに預けるが、箱を絶対に開けてはいけないと、彼女はペルセポネに忠告する。
 だがペルセポネは言いつけを破り、箱を開けてしまう。

 やがて美少年に成長したアドニスを、アフロディーテとペルセポネが奪い合うようになる。
 そして裁判になり、全能の神、ゼウスが裁決を下した。
 「一年の三分の一をアフロディーテと過ごし、同じ期間の三分の一をペルセポネと過ごす。そして残りの三分の一はアドニスの自由にして良い」とするものだったが、アドニスは自分のその三分の一までも、アフロディーテと一緒に過ごすことを選択してしまう。
 それに怒り狂ったペルセポネは愛人のアレスをそそのかし、猪に化けさせてアドニスを殺させてしまう。
 悲歎にくれるアフロディーテ。
 そしてアドニスの流した血から咲いた花が「アネモネ」になったという神話だった。


 彼のアンコール曲はGeorge Michaelの『Careless Whisper』だった。
 その曲に合わせて最後、みんながチークダンスを踊った。

 そして私と錬三郎もチークを踊った。
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