★【完結】月光の虹(作品230806)

菊池昭仁

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第6話

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 予期せず子供が出来てしまった。
 瑠璃子が悩んでいるのは、産むか産まないかではない。
 瑠璃子には「産まない」という選択肢は無かった。
 問題はその事実をいつ、どのタイミングで夫にそれを告げるかだった。
 
 だからと言って、直人と結婚するつもりはない。
 瑠璃子はひとりで育てることを決めていた。
 親や周りのことなど、もうどうでもよかった。
 意思を持ってそうなったわけではなかったが、日を追うごとにその喜びは増して行った。
 瑠璃子は自分のお腹に手を当てて呟いた。

 「あなたのことはママが絶対に守るからね?」




 1か月が過ぎた頃、瑠璃子は産婦人科を受診することにした。


 「おめでたですね? おめでとうございます」
 
 中年の男性医師は、いつもそう言っているかのように、フォーマットされた診断結果を瑠璃子に伝えた。

 「後はスタッフから説明があります。
 では、お大事に。
 妊娠初期が一番大事ですからね?」
 「ありがとうございました」



 瑠璃子は役所で母子手帳を受け取り、帰りにカフェに寄った。
 コーヒーやアルコールはお腹の子供に害になると思い、クリームソーダとパンケーキを注文した。
 壁際の席には小さな女の子と若い母親が座っていた。

 「おいしい?」
 「うん」

 苺のショートケーキを食べて、口元にクリームをつけてそれを頬張っている女の子。
 以前の瑠璃子であれば、その光景から目を背けていたはずだが、今はそれを微笑んで見ることが出来る。
 瑠璃子はバッグから母子手帳を取り出し、パラパラと手帳をめくった。


 (これで私もママになるのね?)


 瑠璃子はうれしかった。
 ひとりで子供を育てることには、もちろん不安もある。
 だが、その覚悟は既に出来ていた。
 このお腹の子供と生きていくことに迷いはなかった。



 家に帰り、レインの散歩に出掛けた。

 「こらこらレイン。ママは走っちゃ駄目なのよ」

 いつものようにレインは先を急ぐので、リードが張っていた。
 瑠璃子はレインを引き寄せ、言った。

 「ママね、本当のママになったのよ。
 レインに弟が出来たの」

 離婚してもレインは自分が引き取るつもりだった。
 子育てと一緒では大変なのはわかっている。
 でも、レインの存在は瑠璃子にとって長男も同じだった。

 (夫の健介には今夜、きちんと話をしよう)

 瑠璃子はそう決意した。




 夕食を終え、私はグラスにカルバドスを注ぎ、好きでもないテレビドラマを眺めていた。

 「あなた、お話があります。ちょっといいかしら?」

 私はその次の言葉を遮るように言った。

 「離婚したいのかい?
 いいよ、君は僕に良く尽くしてくれた。
 瑠璃子には悲しい想いをさせたね? 今までありがとう。
 その男と人生を遣り直してくれ」

 瑠璃子は驚いたような顔をしていた。

 「どうして離婚だと分かったの?
 ごめんなさい・・・。私、あなたを裏切っていました。
 本当にごめんなさい」

 瑠璃子は床に頭をつけ、私に土下座をした。
 
 「赤ちゃんが、赤ちゃんが出来たの。
 もちろん、あなたの子供ではないわ。
 でもね、だからと言ってその人と一緒になるつもりはないの。
 私がひとりで産んで育てるつもりです。
 だってそれが私の夢だったから、ママになるのが私の夢だったから。
 あなたはいつもやさしかった。
 でも、そのやさしさが私には重かったの。
 どうか私と離婚して下さい」
 
 私は酒が入ったグラスを、そのまま壁に投げつけた。
 グラスが割れ、破片が飛び散り、酒が壁を汚した。

 そんな自分の行動に私も驚いていた。そして妻の瑠璃子も。
 私はいつも、人に対して穏やかに振る舞うことを心掛けて生きて来た。
 そんな私がこんなことをするとは、自分でも信じられなかった。

 「俺がやさしい? この俺が?
 あるとすればそれは弱さだ。
 やさしさと弱さは常に紙一重なんだよ。
 君が浮気をしていたのは2年前から知っていた。
 子種のない俺が、君に子供を授けてやれない俺に、それを責める権利が一体どこにある?
 俺には君を責める資格などないんだ!」

 すると瑠璃子も立ち上がり、叫んだ。

 「責めてよ! もっと私を罵倒してよ! 罵ってよ! この裏切り浮気女って!
 私が浮気したのは寂しかったからじゃない! ただ男に抱かれたい、ただの淫らな女だからよ!
 
 私は誰のチカラも借りないわ!
 私はこの子と生きて行く! そう決めたの!」
 あなたは何も悪くはないわ! 悪いのはこの私よ!」

 今まで、私はこんな瑠璃子を見たことが無かった。
 私は冷静に訊ねた。

 「相手の男は子供が出来たことは知っているのか?」
 「知らないわ。これからもそれを言う気もないわ」
 「そいつと別れるつもりなのか?」
 「別れるわ、彼とはただの遊びだったから。
 結婚する気もないし、それについてグダグダ言われるのもイヤだから」
 「その男には言うな」

 瑠璃子は驚いた。

 「えっ?」
 「俺の子供だということにするんだ」
 「あなた、何を言っているの?」
 「俺たちの子供として育てよう。俺たちふたりで」
 「バカなこと言わないでよ! この子はあなたの子じゃないのよ!
 あなたを欺いて身籠った子なのよ!」
 「少なくとも君の子ではある」
 「ダメよそんなの! ダメに決まってる!」
 「君は父親のいない子を育てるつもりなのか?」
 「だってしょうがないじゃない・・・」

 瑠璃子はついに泣き出してしまった。
 私は自分でも不思議だった。
 不倫相手の子供を自分の子供として育てるなど、どう考えても常軌を逸している。


 「瑠璃子のために言っているんじゃない。
 君のお腹の子供には何の罪もないじゃないか?
 俺に対してもう愛情がないと言うのなら、せめて経済的な援助はさせて欲しい」
 「好きよ、健介のことは。
 でも、でもね、これは私の犯した罪なの。
 だからお願い、私と別れて・・・。
 そうじゃないと私、私・・・」


 私はそんな妻がとても愛おしかった。
 私は泣きじゃくる瑠璃子を強く抱き締めた。

 「この子は俺たちの子供だ。それでいいな?
 君は今まで通りでいい、今のままで。
 そしてこの子を大切に育てて行こうじゃないか? 俺たちで。
 子供を持つことは君だけの夢じゃない。俺たちの夢だったんだから」
 「少し・・・、考えさせて・・・」
 「ああ、ゆっくり考えればいい。
 とにかく、この家をすぐに出て行くことはない。
 夫婦が嫌なら正式に離婚して、同居人でもいいからずっとここに居て欲しい」
 「あなた・・・」


 私と瑠璃子は一緒にグラスの破片を拾い集め、掃除機をかけた。

 「手を切るといけないから、君はもう休むといい」

 私はいつもの自分に戻っていた。

 つけっぱなしのテレビのドラマは終わり、バラエティ番組に変わっていた。
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