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ロレッタの望み
第九話 病気の女と無表情な男
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いろいろな花に飾られた屋敷の大きめの部屋にロレッタとミッシェル、それにクルツがいた。部屋の中も、ここリッチモンド領特産の花が飾られ、少ない調度品の代わりをしている。ミッシェルとクルツはソファに腰かけているが、ロレッタはクルツの腿の上に座っていた。クルツの体に枝垂れかかり、額を彼の首に当て、彼の体温を全身で感じている。
クルツの腕がロレッタの体が崩れ落ちないよう、優しくも力強く巻かれていた。ロレッタは望んでいた安心感に包まれ、静かに目を閉じている。ロレッタは久しぶりに満たされた安堵の中、頭から不安を追い出すことができていた。
「さて、何から話そうかしらね」
ミッシェルがニコリとする。そして思いついたのか、手を軽く叩いた。
「まずは彼ね。彼の名前はウォルツよ」
閉じていた目を開けたロレッタは顔を上げ彼を見た。そこにはいつもの無表情の彼の顔がある。間違いなくクルツだ。彼の臭いも抱き締められている腕の硬さも、ロレッタの記憶が彼をクルツと断定しているのだ。
「えぇ、私はウォルツと申します」
クルツは自分をウォルツと言った。ロレッタは息を短く止め、ショックで顔を歪ませる。
「クルツさんじゃ、ないの?」
ロレッタの疑問に、彼は困った笑顔になった。初めて見る表情だ。
「クルツは賊に襲われてしまいましたので」
ロレッタが不安な顔をすると彼は「そんな顔しないでください」と眉を下げ、さらに困った顔になる。無表情だった彼の顔は、いつの間にか動くようになっていた。
「そうそう、あなたもこの屋敷ではロゼッタと名乗るのですよ」
ミッシェルがふふっと笑う。ロレッタではなくロゼッタだと。それにはクルツも目を開き驚いている様だ。予想外だったのかもしれない。思わずミッシェルとクルツを見比べた。
「貴女はロゼッタで、この屋敷で病気を治す為にウォルツと暮らすの。あぁハンナを付けるから、動けるようになるまでは彼女に色々頼みなさい」
ミッシェルが話し終わる前にハンナが部屋に入って来る。
「お嬢様、お邪魔して申し訳ありません」
言葉とは裏腹なハンナの笑顔に、ロレッタはぽかーんとした。いまいち理解できていないのだ。クルツは眼鏡のブリッジをあげ、無表情に戻っている。
「お医者さんは、クルツさんなの?」
「ん~違うわよロゼッタ。ウォルツ、でしょ?」
ミッシェルに窘められ、ロレッタはクルツの顔を見上げた。彼の顔は心なしか頬が引きつっている様にも見える。流石に公爵夫人に異議を唱えることはできないのだろう。
「奥方様、これはいったい……」
「貴方のせいでロゼッタはこうなってしまったんだから、これを治すのは貴方の責任でしょ?」
ミッシェルはハンナが持ってきた紅茶を飲み、しれっと告げた。クルツに拒否権は無く、ただ「そ、そうですが」と言うにとどまった。
「貴方が治ったと思ったら私に報告なさい。それでロレッタを屋敷に戻すわ」
真顔のミッシェルがクルツに告げる。ロレッタは治ったら屋敷に戻されてしまうと思い、クルツを見上げた。彼はいつもの無表情で「確認ですが、私が判断するのですね?」と答える。
「えぇ、貴方にしかできないでしょ?」
ミッシェルはニコリとする。だがどこか怖い感じがした。
「よろしいのですか?」
クルツは眉を顰める。なにが良いのだろうか?
「良くなければ言わなくってよ?」
ミッシェルは笑顔だが目が笑っていない。
「……ありがとうございます」
真剣な顔のクルツに対しミッシェルの顔は意味深く微笑んでいるのだが、ロレッタにはその意味するところが分からない。不安げなロレッタの顔を見たクルツが耳に顔を寄せてくる。
「ご心配なさらなくて大丈夫です。信じてください」
クルツは優しい口調で囁いてきた。ここまで来たら、大丈夫という彼を信じるしかない。折角クルツに会えたのだから、後はできるだけ一緒にいる。ロレッタはそう思い、またクルツに寄りかかり、首に額を当てた。彼はロレッタの癒しなのだから。
「あらまぁ。母親の前なんですけどぉ」
ミシェルは呆れた笑みを浮かべ、口を尖らせた。
ミシェルが屋敷に帰り日も暮れた夕餉時、三人は食堂に揃っていた。クルツとハンナが作った夕食がテーブルに並んでいる。野菜を茹でたもの。野菜のスープにパン。数は多くない。かなり質素だが今のロレッタにはこれでも多い。
「これは屋敷の隣の畑で採れたものです。まぁ、作って貰っているんですけども」
ロレッタの隣に座っているクルツが説明してくれた。茹でた野菜は人参大根ジャガイモ。まだ熱いのか、ほのかに湯気が揺れている。
「食べられるだけで良いです」
クルツが口もとを緩ませた。ロレッタは食事よりもクルツの顔を見ている。彼の笑顔は貴重だ。
「お嬢様? これからは毎日見れるんですから。温かいうちに食べましょう」
ロレッタの向かいに座ったハンナがせっついてくる。お腹も空いているのだろう。祈りを捧げ、食べ始めた。
茹でた人参をナイフで小さく切り、口に運ぶ。すっかり柔らかくなっている人参を、ゆっくり舌で潰すと、ほっこりとした甘さが口に広がる。ロレッタは思わず目を開いてしまった。そんなロレッタを見ていたクルツがニッコリと笑う。
「採れたての野菜は甘いんです」
「……美味しい」
ロレッタは久しぶりに美味しいと感じていた。食事が喉を通らない時は砂を噛むようだった。味がしないのだ。
クルツは嬉しそうにロレッタを見てくる。そんな笑顔に、ロレッタは見惚れた。
「無理のない程度にしておきましょう。食べることができれば、体力も戻ってきます」
いつ切ったのか、クルツの手にはジャガイモの刺さったフォークがある。それがロレッタの口の近くに差し出されているのだ。
食べろって、ことよね。
ロレッタは躊躇しながらも差し出されたジャガイモをパクッと一口にする。塩がきいているのか、口で崩れるジャガイモが甘く感じる。口を動かして懸命に味わう。ロレッタは初めて食べるということの嬉しさを知った。
「これも美味しい」
「これは私が茹でました。塩加減が心配でしたが、どうでした?」
クルツがちょっと不安そうに聞いてくる。そんな様子にロレッタの頬は自然とあがる。
「丁度、いいかな」
それを聞いたクルツが息を吐き「良かったです」と呟いた。今日のクルツは色々な顔を見せてくれる。
なんだ、いっぱい表情があるんじゃない。
ロレッタは嬉しくてじっとクルツを見つめていた。
「……あのー、あたしもいるんですよー」
砂糖で埋まりそうな雰囲気の中、向かいに座るハンナが小さく抗議した。
明かりも無い夜の闇を、ロレッタはじっと見つめていた。今いる寝室の灯りは消してある。窓辺に立つロレッタは隣に寄り添うクルツに肩を抱かれ、少し体を預けていた。
窓の外は、月明りがあるだけで暗い。都市の栄えている場所からは離れているからだ。屋敷の周りは畑であり、花と野菜に囲まれている。音もない空間に、月に照らされた二人が佇んでいた。
「ねぇクルツさん」
「ウォルツです」
ロレッタが名を呼べば直ぐに訂正される。ロレッタは恨めしそうにクルツを見上げた。
「そういうことにしておいてください。賊に襲われたということにして名を変え、この都市の役場に勤めております」
むーという顔で見られたクルツが困った顔になっている。
「どうして死んだことになったんですか? あたし、あたし……」
あの時の絶望感がロレッタの脳裏に甦ってくる。瞳は揺れ、焦点は合わない。ぼやけた先のクルツが、泣きそうになるロレッタを抱き寄せ、額に唇を落としてきた。一瞬何をされたか分からないロレッタだが、クルツが唇を触れさせたまま動かないことで頭が認識をできた。やせ細り体力がなくなり冷え切っていた体が急に熱を持ち始め、今にも落ちそうな涙はどこかに家出してしまった。
クルツはゆっくり顔を離し、ロレッタを見つめてくる。眼鏡の奥の青い瞳は、後悔の色を滲ませている。
「ネイサン閣下から、いっそ身を隠すか、と言われました。城から追い出されてもこの名前は付きまといます。領地は弟夫婦に譲渡しましたし、それも良いかなと思い、承諾しました。それがこんなことになってしまうとは……申し訳ありません」
暗闇の中、クルツの慙愧の念が籠った声が響く。
「クルツさんは悪くないよ」
「しかし、結果的に貴女を苦しめてしまいました」
クルツの青い瞳が暗くなった。また、自分の身を引くことで解決するつもりなのだろうか。そしてまた自分の前から消えてしまうのだろうか。ロレッタの胸は不安で爆発しそうだった。
「もういなくならないで!」
弱っていたロレッタにしては大きな声を出した。なけなしの力でクルツを抱きしめ、いなくならないで欲しいと訴える。胸に顔を押し当て、嫌だと喚いた。体全体で拒否を示した。これで二度目だ。自分が好きになった相手を、もう諦めたくはなかった。
クルツは目を瞑り、数舜考えた後、ロレッタを抱きしめた。
「一度掴んだら、離しませんよ?」
「あたしだって逃がさないわよ!」
ロレッタは嗚咽の混じったか細い声を張り上げる。
「後悔、しないでくださいね」
「もう後悔はしたくないの! だから――」
後に続く言葉を遮るように、クルツがロレッタの唇を塞いだ。
明かりも消して窓から射す月明りしかない部屋で、ベッドに腰かけたクルツの腿の上にロレッタは座っている。目の前にクルツがいて安心できるはずだが、こうしているのがロレッタは一番安堵できるのだ。言い方を変えれば甘えているということになる。クルツに密着し、体温と共に癒しを感じていた。
「大分軽くなってしまいましたね」
ロレッタを腕の中に確保しているクルツが寂しげに呟く。足にかかる重さが以前お姫様抱っこをした時よりも軽いと言っているのだ。体重も以前からは三割は減ってしまったろうか。見かけよりも軽いのだ。
王城の時とは違い、クルツの声も寂しげではあるがどこか軽い。これが良いことなのかは分からないが、クルツにとっては悪いことではないように思えた。だがロレッタには一つだけ不安があった。昼間、ミッシェルが言ったことだ。体が治ったら元に戻ってしまう。クルツとは離れたくはなかった。
「昼間、お母様が言っていた、治ったら屋敷に戻すって……あたしは――」
「その治ったかどうかの判断は私に委ねられました」
クルツは遮るように言葉を重ねてきた。ちょっと驚いて口を噤んだロレッタの額に唇を落とし、少し微笑む。
「ロゼッタ様の体調体が元の状態に回復しても、私がまだですと言えば、まだ回復していないということなんです」
「えっと、どういう事?」
いまいち呑み込めないロレッタに、クルツが頬に口を寄せチュッと音を立ててきた。クルツが予想外に攻めてくるが、ロレッタとしては、唇が落ちるところがぽやーんと暖かくなるのでもっとして欲しいと感じている。これも安心させようとしているが為なのだろうか。
「私が望む限り、この腕の中に貴女を確保し続けることができるのです。それを奥方様は許可くださいました。ザカライア様は頭を抱えてらっしゃるかもしれませんが」
クルツは苦笑いになる。地位を重んじるザカライアに脅されたからだが、ロレッタはそんなことは知らない。兄がクルツを良く思っていない事を知り、ロレッタはむっとした。だがザカライアの行為は常識的なものだ。良いとか悪いとかではない。常識的にいって、最上位ともいえる公爵の子女が最下位の男爵に嫁ぐなど、ありえないのだ。
「ロゼッタ様がお望みならば、その限りではありませんが」
ちょっと寂しそうな顔のクルツにロレッタは悲しくなる。追いかけても届かない所に行ってしまったと思っていたクルツが、またこの手からすり抜けてしまうなどと、考えたくもなかった。だが考えてしまうと視界がぼやける。肉体もだが精神的にも弱っているのだ。クルツの試すような言葉に抗えることができず、感情に流されて行ってしまう。ロレッタの潤んだ瞳を見たクルツの顔が苦しみに歪んだ。
「……失言です。すみませんでした。これからはお傍にいさせてください」
「どっかに行っちゃダメ」
「分かりました。何処にも行きません」
「先に死んでもダメ」
「えっと……それは、厳しいかもしれません」
クルツも苦笑いだ。十歳以上離れていれば、クルツが先に土の下に眠ることになるだろう。彼の苦笑いはもっともだった。
「ダメ!」
だがロレッタには通じない。ロレッタの潤みつつも真剣な眼差しにクルツは「ぜ、善処します」と答えざるを得なかった。この二人の主導権は、あくまでもロレッタが握っている様だ。
「……後のことは、元気になられたら考えましょう。さて、もう遅いですから、寝なければ」
しばしの沈黙の後、クルツがこう切り出した。今すぐに全ての答えは出ないのだ。時間はたっぷりある。ゆっくり考えれば良いことだった。
クルツがひょいっとロレッタの体をすくい、ベッドの真ん中まで膝で移動していく。このベッドはいつもクルツが寝ている一人用のベッドだ。急だったので用意ができなかったのとハンナが別の部屋で使用しているために予備が使えなかった、という理由をつけてミッシェルが押し付けたのだ。立場が弱いクルツは言われるがままだが、別段怒っている様子もない。当のクルツはソファででも寝るつもりだった。
抱えられているロレッタはベッドに降ろされる前にクルツの首に抱き着いた。そして耳元で囁く。
「寂しいから一緒に寝て」
特別な意味を込めたわけでは無い。本当に寂しかったのと、目が覚めた時にこれが夢だったなどと思いたくなかったからだ。もう置き去りにされたくはないのだ。
「……今日だけですよ?」
「ダメ、明日も明後日もその次もずっとずっと一緒」
ロレッタは畳みかける。クルツがロレッタの我儘を聞いてくれるのを確信してのことではあった。抱き締める腕に力をこめ、了承の言葉をいってくれるまでは離さない覚悟だ。
「ベッドを大きめの物に変えないといけませんね」
小さく息を吐いたクルツがそう言うと、腕を下げロレッタを横たえた。ロレッタが抱き着いたまま、もぞもぞとクルツも横になる。なかなか器用な動きだ。
「恐らく明日、リッチモンド家の屋敷から必要な家具や調度品が届くでしょう。ハンナさんにその時に話をして貰いましょう」
「クル、ウォルツさんはいないの?」
「私は仕事がありますので、日中のロゼッタ様のお世話などは彼女に任せようかと。夕刻には戻りますので」
ロレッタは非難の声をあげようと思ったが、仕事なら仕方がない。だが代わりは必要だ。
「日中いない代わりに、夜はずっと一緒にいてね。でないと病気は治らないし。そしたら許してあげる」
「あの、ちょっと、元気になられました?」
クルツがやや引き気味である。クルツに言われる通り、少し調子が戻ってきたようにもロレッタは感じている。やっぱりクルツの傍にいないとダメなんだ、とロレッタは確信した。
ロレッタは腕の緩め体を離し、クルツをじっと見つめる。眼鏡の奥の青い瞳は、しっかりと見返してくる。
「貴方と一緒なら、元気かも」
「……では何時までも何処までも貴女と共に」
夜の帳は二人を包むように、静かに降りて行った。
クルツの腕がロレッタの体が崩れ落ちないよう、優しくも力強く巻かれていた。ロレッタは望んでいた安心感に包まれ、静かに目を閉じている。ロレッタは久しぶりに満たされた安堵の中、頭から不安を追い出すことができていた。
「さて、何から話そうかしらね」
ミッシェルがニコリとする。そして思いついたのか、手を軽く叩いた。
「まずは彼ね。彼の名前はウォルツよ」
閉じていた目を開けたロレッタは顔を上げ彼を見た。そこにはいつもの無表情の彼の顔がある。間違いなくクルツだ。彼の臭いも抱き締められている腕の硬さも、ロレッタの記憶が彼をクルツと断定しているのだ。
「えぇ、私はウォルツと申します」
クルツは自分をウォルツと言った。ロレッタは息を短く止め、ショックで顔を歪ませる。
「クルツさんじゃ、ないの?」
ロレッタの疑問に、彼は困った笑顔になった。初めて見る表情だ。
「クルツは賊に襲われてしまいましたので」
ロレッタが不安な顔をすると彼は「そんな顔しないでください」と眉を下げ、さらに困った顔になる。無表情だった彼の顔は、いつの間にか動くようになっていた。
「そうそう、あなたもこの屋敷ではロゼッタと名乗るのですよ」
ミッシェルがふふっと笑う。ロレッタではなくロゼッタだと。それにはクルツも目を開き驚いている様だ。予想外だったのかもしれない。思わずミッシェルとクルツを見比べた。
「貴女はロゼッタで、この屋敷で病気を治す為にウォルツと暮らすの。あぁハンナを付けるから、動けるようになるまでは彼女に色々頼みなさい」
ミッシェルが話し終わる前にハンナが部屋に入って来る。
「お嬢様、お邪魔して申し訳ありません」
言葉とは裏腹なハンナの笑顔に、ロレッタはぽかーんとした。いまいち理解できていないのだ。クルツは眼鏡のブリッジをあげ、無表情に戻っている。
「お医者さんは、クルツさんなの?」
「ん~違うわよロゼッタ。ウォルツ、でしょ?」
ミッシェルに窘められ、ロレッタはクルツの顔を見上げた。彼の顔は心なしか頬が引きつっている様にも見える。流石に公爵夫人に異議を唱えることはできないのだろう。
「奥方様、これはいったい……」
「貴方のせいでロゼッタはこうなってしまったんだから、これを治すのは貴方の責任でしょ?」
ミッシェルはハンナが持ってきた紅茶を飲み、しれっと告げた。クルツに拒否権は無く、ただ「そ、そうですが」と言うにとどまった。
「貴方が治ったと思ったら私に報告なさい。それでロレッタを屋敷に戻すわ」
真顔のミッシェルがクルツに告げる。ロレッタは治ったら屋敷に戻されてしまうと思い、クルツを見上げた。彼はいつもの無表情で「確認ですが、私が判断するのですね?」と答える。
「えぇ、貴方にしかできないでしょ?」
ミッシェルはニコリとする。だがどこか怖い感じがした。
「よろしいのですか?」
クルツは眉を顰める。なにが良いのだろうか?
「良くなければ言わなくってよ?」
ミッシェルは笑顔だが目が笑っていない。
「……ありがとうございます」
真剣な顔のクルツに対しミッシェルの顔は意味深く微笑んでいるのだが、ロレッタにはその意味するところが分からない。不安げなロレッタの顔を見たクルツが耳に顔を寄せてくる。
「ご心配なさらなくて大丈夫です。信じてください」
クルツは優しい口調で囁いてきた。ここまで来たら、大丈夫という彼を信じるしかない。折角クルツに会えたのだから、後はできるだけ一緒にいる。ロレッタはそう思い、またクルツに寄りかかり、首に額を当てた。彼はロレッタの癒しなのだから。
「あらまぁ。母親の前なんですけどぉ」
ミシェルは呆れた笑みを浮かべ、口を尖らせた。
ミシェルが屋敷に帰り日も暮れた夕餉時、三人は食堂に揃っていた。クルツとハンナが作った夕食がテーブルに並んでいる。野菜を茹でたもの。野菜のスープにパン。数は多くない。かなり質素だが今のロレッタにはこれでも多い。
「これは屋敷の隣の畑で採れたものです。まぁ、作って貰っているんですけども」
ロレッタの隣に座っているクルツが説明してくれた。茹でた野菜は人参大根ジャガイモ。まだ熱いのか、ほのかに湯気が揺れている。
「食べられるだけで良いです」
クルツが口もとを緩ませた。ロレッタは食事よりもクルツの顔を見ている。彼の笑顔は貴重だ。
「お嬢様? これからは毎日見れるんですから。温かいうちに食べましょう」
ロレッタの向かいに座ったハンナがせっついてくる。お腹も空いているのだろう。祈りを捧げ、食べ始めた。
茹でた人参をナイフで小さく切り、口に運ぶ。すっかり柔らかくなっている人参を、ゆっくり舌で潰すと、ほっこりとした甘さが口に広がる。ロレッタは思わず目を開いてしまった。そんなロレッタを見ていたクルツがニッコリと笑う。
「採れたての野菜は甘いんです」
「……美味しい」
ロレッタは久しぶりに美味しいと感じていた。食事が喉を通らない時は砂を噛むようだった。味がしないのだ。
クルツは嬉しそうにロレッタを見てくる。そんな笑顔に、ロレッタは見惚れた。
「無理のない程度にしておきましょう。食べることができれば、体力も戻ってきます」
いつ切ったのか、クルツの手にはジャガイモの刺さったフォークがある。それがロレッタの口の近くに差し出されているのだ。
食べろって、ことよね。
ロレッタは躊躇しながらも差し出されたジャガイモをパクッと一口にする。塩がきいているのか、口で崩れるジャガイモが甘く感じる。口を動かして懸命に味わう。ロレッタは初めて食べるということの嬉しさを知った。
「これも美味しい」
「これは私が茹でました。塩加減が心配でしたが、どうでした?」
クルツがちょっと不安そうに聞いてくる。そんな様子にロレッタの頬は自然とあがる。
「丁度、いいかな」
それを聞いたクルツが息を吐き「良かったです」と呟いた。今日のクルツは色々な顔を見せてくれる。
なんだ、いっぱい表情があるんじゃない。
ロレッタは嬉しくてじっとクルツを見つめていた。
「……あのー、あたしもいるんですよー」
砂糖で埋まりそうな雰囲気の中、向かいに座るハンナが小さく抗議した。
明かりも無い夜の闇を、ロレッタはじっと見つめていた。今いる寝室の灯りは消してある。窓辺に立つロレッタは隣に寄り添うクルツに肩を抱かれ、少し体を預けていた。
窓の外は、月明りがあるだけで暗い。都市の栄えている場所からは離れているからだ。屋敷の周りは畑であり、花と野菜に囲まれている。音もない空間に、月に照らされた二人が佇んでいた。
「ねぇクルツさん」
「ウォルツです」
ロレッタが名を呼べば直ぐに訂正される。ロレッタは恨めしそうにクルツを見上げた。
「そういうことにしておいてください。賊に襲われたということにして名を変え、この都市の役場に勤めております」
むーという顔で見られたクルツが困った顔になっている。
「どうして死んだことになったんですか? あたし、あたし……」
あの時の絶望感がロレッタの脳裏に甦ってくる。瞳は揺れ、焦点は合わない。ぼやけた先のクルツが、泣きそうになるロレッタを抱き寄せ、額に唇を落としてきた。一瞬何をされたか分からないロレッタだが、クルツが唇を触れさせたまま動かないことで頭が認識をできた。やせ細り体力がなくなり冷え切っていた体が急に熱を持ち始め、今にも落ちそうな涙はどこかに家出してしまった。
クルツはゆっくり顔を離し、ロレッタを見つめてくる。眼鏡の奥の青い瞳は、後悔の色を滲ませている。
「ネイサン閣下から、いっそ身を隠すか、と言われました。城から追い出されてもこの名前は付きまといます。領地は弟夫婦に譲渡しましたし、それも良いかなと思い、承諾しました。それがこんなことになってしまうとは……申し訳ありません」
暗闇の中、クルツの慙愧の念が籠った声が響く。
「クルツさんは悪くないよ」
「しかし、結果的に貴女を苦しめてしまいました」
クルツの青い瞳が暗くなった。また、自分の身を引くことで解決するつもりなのだろうか。そしてまた自分の前から消えてしまうのだろうか。ロレッタの胸は不安で爆発しそうだった。
「もういなくならないで!」
弱っていたロレッタにしては大きな声を出した。なけなしの力でクルツを抱きしめ、いなくならないで欲しいと訴える。胸に顔を押し当て、嫌だと喚いた。体全体で拒否を示した。これで二度目だ。自分が好きになった相手を、もう諦めたくはなかった。
クルツは目を瞑り、数舜考えた後、ロレッタを抱きしめた。
「一度掴んだら、離しませんよ?」
「あたしだって逃がさないわよ!」
ロレッタは嗚咽の混じったか細い声を張り上げる。
「後悔、しないでくださいね」
「もう後悔はしたくないの! だから――」
後に続く言葉を遮るように、クルツがロレッタの唇を塞いだ。
明かりも消して窓から射す月明りしかない部屋で、ベッドに腰かけたクルツの腿の上にロレッタは座っている。目の前にクルツがいて安心できるはずだが、こうしているのがロレッタは一番安堵できるのだ。言い方を変えれば甘えているということになる。クルツに密着し、体温と共に癒しを感じていた。
「大分軽くなってしまいましたね」
ロレッタを腕の中に確保しているクルツが寂しげに呟く。足にかかる重さが以前お姫様抱っこをした時よりも軽いと言っているのだ。体重も以前からは三割は減ってしまったろうか。見かけよりも軽いのだ。
王城の時とは違い、クルツの声も寂しげではあるがどこか軽い。これが良いことなのかは分からないが、クルツにとっては悪いことではないように思えた。だがロレッタには一つだけ不安があった。昼間、ミッシェルが言ったことだ。体が治ったら元に戻ってしまう。クルツとは離れたくはなかった。
「昼間、お母様が言っていた、治ったら屋敷に戻すって……あたしは――」
「その治ったかどうかの判断は私に委ねられました」
クルツは遮るように言葉を重ねてきた。ちょっと驚いて口を噤んだロレッタの額に唇を落とし、少し微笑む。
「ロゼッタ様の体調体が元の状態に回復しても、私がまだですと言えば、まだ回復していないということなんです」
「えっと、どういう事?」
いまいち呑み込めないロレッタに、クルツが頬に口を寄せチュッと音を立ててきた。クルツが予想外に攻めてくるが、ロレッタとしては、唇が落ちるところがぽやーんと暖かくなるのでもっとして欲しいと感じている。これも安心させようとしているが為なのだろうか。
「私が望む限り、この腕の中に貴女を確保し続けることができるのです。それを奥方様は許可くださいました。ザカライア様は頭を抱えてらっしゃるかもしれませんが」
クルツは苦笑いになる。地位を重んじるザカライアに脅されたからだが、ロレッタはそんなことは知らない。兄がクルツを良く思っていない事を知り、ロレッタはむっとした。だがザカライアの行為は常識的なものだ。良いとか悪いとかではない。常識的にいって、最上位ともいえる公爵の子女が最下位の男爵に嫁ぐなど、ありえないのだ。
「ロゼッタ様がお望みならば、その限りではありませんが」
ちょっと寂しそうな顔のクルツにロレッタは悲しくなる。追いかけても届かない所に行ってしまったと思っていたクルツが、またこの手からすり抜けてしまうなどと、考えたくもなかった。だが考えてしまうと視界がぼやける。肉体もだが精神的にも弱っているのだ。クルツの試すような言葉に抗えることができず、感情に流されて行ってしまう。ロレッタの潤んだ瞳を見たクルツの顔が苦しみに歪んだ。
「……失言です。すみませんでした。これからはお傍にいさせてください」
「どっかに行っちゃダメ」
「分かりました。何処にも行きません」
「先に死んでもダメ」
「えっと……それは、厳しいかもしれません」
クルツも苦笑いだ。十歳以上離れていれば、クルツが先に土の下に眠ることになるだろう。彼の苦笑いはもっともだった。
「ダメ!」
だがロレッタには通じない。ロレッタの潤みつつも真剣な眼差しにクルツは「ぜ、善処します」と答えざるを得なかった。この二人の主導権は、あくまでもロレッタが握っている様だ。
「……後のことは、元気になられたら考えましょう。さて、もう遅いですから、寝なければ」
しばしの沈黙の後、クルツがこう切り出した。今すぐに全ての答えは出ないのだ。時間はたっぷりある。ゆっくり考えれば良いことだった。
クルツがひょいっとロレッタの体をすくい、ベッドの真ん中まで膝で移動していく。このベッドはいつもクルツが寝ている一人用のベッドだ。急だったので用意ができなかったのとハンナが別の部屋で使用しているために予備が使えなかった、という理由をつけてミッシェルが押し付けたのだ。立場が弱いクルツは言われるがままだが、別段怒っている様子もない。当のクルツはソファででも寝るつもりだった。
抱えられているロレッタはベッドに降ろされる前にクルツの首に抱き着いた。そして耳元で囁く。
「寂しいから一緒に寝て」
特別な意味を込めたわけでは無い。本当に寂しかったのと、目が覚めた時にこれが夢だったなどと思いたくなかったからだ。もう置き去りにされたくはないのだ。
「……今日だけですよ?」
「ダメ、明日も明後日もその次もずっとずっと一緒」
ロレッタは畳みかける。クルツがロレッタの我儘を聞いてくれるのを確信してのことではあった。抱き締める腕に力をこめ、了承の言葉をいってくれるまでは離さない覚悟だ。
「ベッドを大きめの物に変えないといけませんね」
小さく息を吐いたクルツがそう言うと、腕を下げロレッタを横たえた。ロレッタが抱き着いたまま、もぞもぞとクルツも横になる。なかなか器用な動きだ。
「恐らく明日、リッチモンド家の屋敷から必要な家具や調度品が届くでしょう。ハンナさんにその時に話をして貰いましょう」
「クル、ウォルツさんはいないの?」
「私は仕事がありますので、日中のロゼッタ様のお世話などは彼女に任せようかと。夕刻には戻りますので」
ロレッタは非難の声をあげようと思ったが、仕事なら仕方がない。だが代わりは必要だ。
「日中いない代わりに、夜はずっと一緒にいてね。でないと病気は治らないし。そしたら許してあげる」
「あの、ちょっと、元気になられました?」
クルツがやや引き気味である。クルツに言われる通り、少し調子が戻ってきたようにもロレッタは感じている。やっぱりクルツの傍にいないとダメなんだ、とロレッタは確信した。
ロレッタは腕の緩め体を離し、クルツをじっと見つめる。眼鏡の奥の青い瞳は、しっかりと見返してくる。
「貴方と一緒なら、元気かも」
「……では何時までも何処までも貴女と共に」
夜の帳は二人を包むように、静かに降りて行った。
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