強請り屋 悪魔の羽根顛末

海崎志保

　海崎志保はことごとく家族運――そんなものがあればの話だが――に見放されていた。高校教師であった谷野孝太郎と、その妻美保との間に一人娘として生まれたものの、志保の三歳の誕生日を前に両親は離婚。親権を得た美保は実家の海崎家に戻ったが、二年と経たぬうちに突然の病で死亡した。

　以後、祖父の惣五郎の庇護の下で志保は育った。祖父には溺愛されたとはいえ、当時すでに海蜃館大学の総長となっていた惣五郎は極めて多忙であり、志保の世話は家政婦と家庭教師に任された。その後二十年以上に渡り、彼女は家族というものを知らずに暮らすことになる。

　そんな海崎志保の人生に変化が起きたのは、二十六歳のとき。大学の同窓生であった藤松秀和からプロポーズを受けたのだ。秀和の祖父であり、大帝邦製薬グループの総帥であった藤松勘重が惣五郎と旧知の間柄であったこともあり、婚約話は誰の抵抗を受けるでもなくトントン拍子で進んだ。そして結婚、志保は新しく得た家族と何不自由のない新生活を送った。だが。

　ある日、秀和の勤務する研究所を、グループの首脳陣が視察することとなった。総帥である勘重が、大帝邦製薬社長であり秀和の父でもある藤松和重など経営陣の錚々たるメンバーを引き連れての、仰々しい視察であった。新人研究者のリーダーであった秀和を将来経営陣に加えるための、いわば顔見世的な意味合いがあったとも言われている。だがそこで、あり得ない事故が起きた。可燃性の有毒ガスが大量に漏出し、大爆発を起こしたのだ。結果勘重、和重、そして秀和を含む三十数名が死亡するという大惨事となり、研究所は閉鎖された。

　藤松勘重は旧家の出で三人兄弟であったが、兄二人はすでに亡くなっていた。離婚した妻がいるだけで、家族以外に親類縁者は誰もいない。またその息子である和重に兄弟はなく、妻とは死別している。そのさらに息子であり、海崎志保の夫である藤松秀和もまた兄弟がいない。かくして、大富豪藤松家の遺産はすべて志保が独り占めすることとなった。

　その喪が明けぬうちから、志保の周囲には噂が立っていた。曰く、あの事故は志保が財産を独占するために謀った物ではないかと。噂の発信元はわかっていた。勘重の離婚した元妻である肥田久子である。久子は事故の直後から志保に取り入ろうと接近していたものの、ことごとく拒絶されていたのだ。このタチの悪い噂に、一部マスコミが飛びつく。志保を『闇のシンデレラ』と書き立て、疑惑の追及を社会に訴えかけ始めた。

　もっともその時点では、世間の強い関心を呼ぶことはできなかった。マスコミが勝手に騒いでいるだけだ、と見透かされていたのである。ところが事故から三ヶ月としないうちに、世間の評価はガラリと変わる。

　新興の製薬会社サイノウ薬品の未公開株を海崎志保が大量に取得し、その手続きに疑念があると経済紙がすっぱ抜いたのである。地検も捜査に動き、これに連動するようにマスコミの志保バッシングは日に日に苛烈さを増していった。そしてそれに乗せられた世間も、安心して叩ける者は叩かねば損だとばかりに志保を攻撃し続けた。こうして『闇のシンデレラ』は日本中の嫉妬と憎悪を一身に集めることとなった。

　しかし結論を言えば、志保に違法行為は認められなかった。追加で幾つかの手続きを行う必要があっただけで、罰金すら支払う必要がなかったのだ。もちろん研究所の事故への直接的な関与の証拠など、出て来るはずもない。世間はまるで憑き物でも落ちたかの如く、最初から何も起きていなかったかのように『闇のシンデレラ』騒ぎを忘れていった。

　そして年が明け、春も夏も過ぎ去り、完全にほとぼりも冷めようかという先月、海崎志保の名前が再び小さくクローズアップされた。世間の知らぬ間に彼女が理事長に就任していた、私立海蜃学園高等学校の女子生徒が自殺したのだ。その死には、悪名高い自殺サイトが関連しているという噂もあった。

　けれど『羮あつものに懲りて膾なますを吹く』の例え通り、大半のマスコミはこの件に飛びつかなかった。女子高生が自殺することによって、海崎志保の懐に利益が転がり込むとでもいうのなら別だろうが、どう考えてもそうなるはずがなかったからだ。校長と弁護士とに挟まれて質素な謝罪会見を開いた海崎志保理事長を、マスコミは知らぬ顔で無視したのだった。

　◇　◇　◇


　ネットで得た海崎志保の情報を簡単にまとめてみて、俺は一つため息をついた。推理小説に出て来る超絶推理力のスーパー名探偵なら、何か怪しいところを見つけ出すのかも知れないが、この頭では何も出てこない。

　すでに地検が動いた。なら警察だって動いたはずだ。探偵一人の捜査能力が検察や警察の組織力を上回るなんてことは、常識的に考えてあるはずがない。連中がシロだと言うならシロなのだ。

　無論連中は神様じゃないし、絶対的な正義のヒーローでもない。いろんな都合でシロをクロと言ったり、その逆を言うこともある。だがそうやって出て来た結論を、一匹狼の貧乏探偵がひっくり返すことなんざ無理に決まっている。ただし。

　タバコを咥えて火を点けた。そして液晶モニターの明かりだけが顔を照らす暗い部屋で、ゆるゆると上っていく煙を見つめながら思う。一人は軽い。組織は重い。スタート地点が同じなら、スピードで勝てることもある。

　それに俺が欲しいのは真実じゃない。正義でもない。金だ。法律に違反しているかどうかは最初からどうでもいい。たとえ法的に真っ白なヤツでも、他人に知られたくないことくらいあるはずなのだ。それさえ見つけ出せればいい。そこに俺の付け入る隙がある。

　とは言え、だ。

　タバコの煙を肺の奥まで深く吸い込み、そして吐き出す。このヤニ臭い脳みそが、何かひらめいてくれるかと少し期待したのだが、やはり何も出てこない。

　確かに金のニオイはする。もし海崎志保の弱みが握れれば、当分生活には困らないだろう。だがその肝心の弱みってのは何だ。

　まあ、あるとするなら研究所の事故関係だろうが、一時期マスコミが騒いだような、都合良く事故が起きるよう計画を立てたなんてのは、いくら何でも話が出来過ぎだ。そんなことが出来るヤツなど、天才的犯罪者にもほどがある。昔の映画にありそうな、人通りのない橋の下に時限爆弾を仕掛ける、なんてのとはレベルが違うのだ。最低限、研究所で取り扱ってた化学物質に関する知識くらいは必要になるだろう。

　海崎志保は大学で化学を専攻してたのか？　旦那は研究所にいたくらいだから、化学を学んでたんだろうが、その同窓生っていうなら……学部が違っても同窓生って言ったっけか。言ったな、確か。どうにもハズレ臭いが調べておくか。

　あと調べておくとしたら、こいつだな。肥田久子か。藤松勘重の別れた女房。どうせ金目当てで海崎志保に近づいて、断られて逆上、あることないこと撒き散らした、ってとこだろうが、一応当たってみるとする。

　俺はモニターから視線を離すと、疲れた目を押さえながら、暗い事務所の奥に向かって声をかけた。

「ジロー、もう寝ろ。明日は仕事だ。……そこで寝るんじゃねえよ。自分のベッドで寝ろ」

　事務所の奥に無言で立ち上がった気配は、のそのそと寝室のドアに向かい、その向こうに消えた。俺はまた一つため息をついて、独り言をつぶやいた。

「三万円払っちまったからな。元くらいは取りたいが。もっと値切りゃ良かった」


　◆　◆　◆

　チャレンジ三日目。

　今日のキャプテンからの指示は、リストカットだ。正直怖い。切りすぎて出血多量で死んだらどうしよう。

　でもリスカくらいやってる人はたくさんいる。身近にはいないけど、ネットではよく見かける。逆にリスカで死んだって話は滅多に聞かない。だったら、たぶん大丈夫なんじゃないか。それにこのカミソリはあんまり切れないから、傷は深くならないと思う。やっぱり切ったら痛いんだろうか。でも。

　悪魔を見るんだ。決めたんだ。勇気を持て、勇気を持て。スパッと切れば大丈夫だ。きっと大丈夫。怖くない。

　カミソリを左手首に当てて、スパッと一気に引く。冷たいような熱いような痒いような痛み。血がにじみ出る。でもすぐ止まった。思っていたよりあっけない。これでいいんだろうか。まあいいや、写真を撮ってキャプテンにメールで送ろう。また褒められるといいな。

　リスカの傷跡はリストバンドで隠そう。長袖にリストバンドとか、おかしいと言われるだろうか。でもどうせ、みんな他人のことなんか見ていないに違いない。大丈夫だ。きっと、たぶん。

　◆　◆　◆


　クラウンはいい車だ。俺は心底そう思っていた。たとえば冠婚葬祭どこにでも乗って行ける。この車で乗り付けて、嫌な顔をされる場所やシチュエーションは日本には存在しないんじゃないか。ちょっと想像が出来ない。

　俺が乗っているのは十年型落ちの、本体価格十万円で買った、走行距離三十万キロで事故歴ありの中古車だが、それなりの高給ホテルに乗って行っても白い目では見られない。尾行や監視にはもってこいだ。俺のような商売の人間には、ある意味日本で一番便利な車かも知れない。

　そのクラウンの銀色の屋根を叩く小さな音がした。そしてフロントウインドウに無数の波紋が広がる。

　十月も後半に差し掛かったこの時期、雨など降っても有難味はない。一瞬左手の指をワイパーのスイッチに伸ばそうとして、やめた。胸のスマホが振動している。俺はクラウンを路肩に停めて電話に出た。

「俺だ」
「五味さーん！　笹桑っすー！」

　甲高い声に耳がキンキンする。

「もうちょっと絞って喋れ」
「いやあ、だってだって、五味さんから電話くれるなんて思ってもみなかったっすから、着信見たとき心臓止まるかと思ったっすよ」

　一回くらい止まってみたらどうだ、と思わないでもなかったが、今は口に出すのをやめておいた。

「すまんな、忙しかったか」
「忙しいっすよそりゃ、パシリっすから。でもでも、五味さんの電話は特別っす。で、何すか。用っすか。もしかしてプロポーズとかっすか」

「……話していいか」
「はい、いつでも！」

　いつでもじゃねえだろ、と思いながら俺はたずねた。

「海崎志保の大学での専攻学部が知りたい。情報はあるか」
「それなら文学部っす。日本文学専攻で、枕草子で卒論書いてるっす」

「詳しいな。マジか」
「マジっすよ。とことん調べましたもん。エッヘン」

　笹桑の元気度が上がるのとは反対に、俺のやる気は一段落ちた。やはり研究所の事故と海崎志保を結びつけるものはない。

「だとすると、海崎志保に化学の知識はないって訳だな」
「そんなことないっすよ」しかし笹桑は当たり前のように言った。「海崎志保は化学大好きっ子でしたから」

「どういうことだ」
「海崎志保は高校時代、化学の成績５以外取ったことないんす。超優秀な理系女子だったんすけど、何故か大学は文学部に行っちゃって。でも文学部だったのに化学実験同好会ってサークルに入ってて、死んだ旦那さんとはそこで知り合ってるんす」

「そりゃ妙な話だな」
「どうもお父さんの影響じゃないかって自分はにらんでるんすけど」

「父親？」慌ててメモ帳を開く。「離婚した、えーっとアレだ、谷野孝太郎か」
「そう、その孝太郎さん。孝太郎さんは高校で化学の先生してたらしいっすから」

　興味深い情報ではある。だが弱い。海崎志保と研究所の事故を結びつける糸としては、かなり弱いと言える。大学のサークルレベルでは、どう頑張っても研究者の域には達しないだろう。ただ、その弱い糸はまだ切れてはいない。

「もしもーし、五味さーん！　聞こえてますかー！」

　笹桑の声にまた耳がキンキンする。

「うるせえな、聞こえてるよ。またかける。じゃあな」
「えーっ、ちょっと謝礼……」

　電話を切って胸のポケットに戻す。進展した、と言えるほどには何も進んでいない。まあ、電話だけで進めようというのは虫が良すぎる。結局自分の足を使うしかないってことなんだろう。俺はひとつ息をついた。そして何気なしに助手席を見る。

　水晶のような二つの目が、正面を見つめていた。歳は十六か十七かのどちらか。小柄なので中学生にも見えなくはない。中性的な顔立ち。白磁のようななめらかな白い肌に真っ直ぐで真っ黒な髪。スカジャンにジーンズをはき、いつも通り膝を抱えている。その無表情と相まって、人形のようにも見える。まあそれはある意味間違ってはいない。俺にとって、それは人間ではないのだから。

「……雨」

　ジローの口が突然開いた。

「雨？」

　外に目をやると、いつの間にか雨は止んでいた。通り雨だったのだろう。

「雨は止んじまってる。まあその方が面倒がなくていいがな」

　ジローはまた、いつものように口を固く閉ざしてしまった。俺はクラウンを出した。四道兼持は家にいるだろうか。いま考えているのはそれだけだった。