強請り屋 悪魔の羽根顛末

柚緒駆

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ガス燈

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 チャレンジ十日目。

 今日のキャプテンからの指示は、いつもと違った。雰囲気が違う。何だか文章の書き方が別人のようだ。内容も、ちょっとこれまでとは違う。住所がメールで送られてきて、ここを捜せというのだ。場所は検索してみたらすぐ見つかったけど、直接行って写真を撮って来ないといけない。

 どうやら駅二つほど離れた街の、路地を入った裏通りらしい。行ったことがない場所だけど、怖いところじゃないだろうか。

 迷った。これ、キャプテンじゃないのかも知れないとも思った。でも行かないと。もし自分の勘違いだったら、キャプテンを本当に怒らせることになる。それは嫌だ。

 今日の指示はこれだけだから、学校が終わってから行って来よう。勇気を持て。勇気を持て。何としてもクリアするんだ。

 でも何だろう、興信所って。

 ◆ ◆ ◆


 朝一番、九時前の芦則精神科。急ブレーキの音と共にクラウンを駐車場に突っ込ませると、俺は紙袋を手に飛び出した。フォックスが、笹桑が、そしてジローが下りてくるのを待ちきれずに、ガラス扉の中に走った。待合には、当たり前のように誰もいない。診察券を出すと、受付の丸い大きな看護師は、驚いた顔を見せた。

「あらまた来たの」

 俺は紙袋の中からチェック表を出し、看護師に見せた。

「今日は書いて来たんでね。すぐ先生に会わせてもらえますか」
「ちょっと待ってね。確認してきますから」

 看護師が奥に消えると同時に、ジローたち三人が中に入って来た。そして看護師が戻ってくる。

「それじゃ、入ってください」

 いささか不服そうな言い方を気にする間もなく、診察室にジローを引きずり込む。

 芦則老医師は、相変わらず大きな顔とチョビひげと小さな身体で俺たちを迎えた。俺はチェック表を芦則の机に叩きつけるように置くと、その上に茶色の瓶を乗せた。昨夜近所の酒屋で買っておいた最高級のスコッチだ。そして芦則の前の椅子に座った。ジローを立たせたままで。

「なんじゃね、今日は美人を二人も連れて、エラい勢いだな」

 こういう患者もいるのだろうか、芦則は慣れた様子で笑顔を見せた。

「昨日のこと、覚えてますよね」

 もしかしたら、俺の顔は殺気立っていたかも知れない。

「昨日? ああ、海崎と篠生のことか」

 芦則はまた苦そうな顔をした。だが。

「いいや、その後です」

 俺の言葉に目を丸くする。

「後? 他に何か話したかな」
「『さすがにチョチョチョイっとはいかんな』先生はそう言いました」

「覚えとらんな」
「いいや、言いました。確実にね」

 ジローを振り返る。そう、間違いなく言ったのだ。

「それが何か重要なのかね」

 さすがの芦則も戸惑った顔を見せている。

「ええ、重要ですよ。チョチョチョイっとはいかないってことは、つまり時間をかけ、手間をかければ、人間を病気にすることも可能ってことになります」
「病気? どんな病気だね」

「たとえば、人間がロボットのように操られてしまうとか」

 芦則は一つため息をつくと、スコッチに手を伸ばした。栓をねじ開け、ビーカーに一口分注ぐ。

「そんなことを聞いても意味がないぞ。誰にでも出来る訳ではない」
「俺に出来る必要はないんですよ。専門知識のある人間に出来さえすればね」

 芦則は一瞬躊躇したが、そのスコッチを一気にあおった。

「くーっ、キツいな」
「先生」

 苛立つ俺を押さえるように、芦則医師は右手を前に出す。そして、いまましげな顔でこう言った。

「……心理的虐待の手法のひとつに『ガスライティング』というヤツがある」
「それを使えば人を操れる?」

「ある程度はな。程度問題だよ。人によるとしか言えん」
「具体的には何をするんです。ガスを使うんですか」

 この質問があまりに初歩的すぎたのだろう、芦則は小さく笑った。

「ガスは使わんよ。ガスライティングという名称は、大昔の『ガス燈』という映画の中で、主人公の女がこの手法を使われて、徐々に追い詰められていくことから名付けられたものだ」
「精神的に追い詰めるやり方ってことですね」

「まあ簡単に言ってしまえばそうだ。日常の些細な行動を否定することによって、精神的に安定している足下を崩して行くのだな。たとえば対象に、車の鍵をいつもの場所に置いていないぞ、と注意する」
「鍵?」

 俺は一瞬、ポケットの中に意識を向けた。

「そう、注意された方は、ちゃんと置いたはずなのに、と不思議に思う。一回だけならな。だがそれが毎日続き、毎日叱られるようになると、もしかすると自分がおかしくなったのかと不安になる。そうやって足下を崩された対象は、意味もわからず闇の中に放り出されてしまう。こうなれば第一段階は成功だ。後は同様のことを様々な種類行い、繰り返し、やがてまったくの嘘を吹き込み、だんだんスケールを大きくして行く。周囲の人間も巻き込んで行く訳だな」

 芦則は淡々と話す。その淡々さ加減が、怖いほどの切迫感を呼ぶ。

「そして恐怖、孤独、無力感、そういったものに苛まれて不安の極限に達したとき、そこに手を伸ばしてやれば、対象はこちらに全幅の信頼を寄せる。ここまで来れば後は簡単。自分を助けてくれた者が、どんなことを言っても疑わない。場合によっては、理不尽な指示にも喜んで従うようになってしまう。たとえそれが、自分を追い詰めた相手であっても、だ」

「あれっ」後ろから笹桑の声がした。「それって悪魔の羽根と同じじゃないすか」
「いいや、少し違うな」

 しかし芦則は首を振った。

「人間の心理の弱さにつけ込んで、意のままにコントロールする、と言う点では似ているが、同じではない」
「つまりどの辺が?」

 納得できない笹桑の問いに芦則はまた淡々と答えた。

「精神的に未成熟な若者や、極端なコンプレックスを持っている者、あるいは精神面に病的な問題を抱えている者に狙いを定めているのが、悪魔の羽根のような自殺サイトだ。つまりは人を選ぶ。だから実際にウェブサイトを見ても、大多数の人間には不快なだけで、たいした害はない。ところが、ごく一部の人間には猛毒なのだ。千人に一人くらいは引っかかると言われているな」

 海蜃学園高校は、全校生徒千二百人ほどだ。なら、一人か二人は引っかかる計算になる。

「一方、ガスライティングは精神的に自立した者を狙う。自立しているという自覚があるからこそ、急に足下を崩されるとうろたえ、誰かにすがりつく訳だ。言わば力尽くであり、相手を選ばない。人間ならば誰でもターゲットになり得ると考えていいだろう」

「うわあ、そりゃ怖いっすね」

 怖いと言ってはいるが、笹桑の言葉に緊迫感はない。

「そのガスライティングは、医者なら誰でも使えるんですか」

 いままで黙っていたフォックスがたずねた。芦則は困ったように笑った。

「医者は魔法使いではないよ。知識のない分野においては、医者もただの人間だ。ガスライティングを使うには、それなりに専門的な知識が要る。だが言い換えれば、専門的な知識があれば、医者でなくとも使えるさ」
「篠生幸夫には専門的な知識がありますか」

 俺のストレートな問いに、芦則は両手を挙げた。お手上げということらしい。

「それは本人に聞いてくれ。わしは知らん」


 銀色のクラウンが、篠生メンタルクリニックの駐車場に滑り込んだとき、午前の受付時間終了まで、あと二十分というところだった。俺はジローを引きずるようにクリニックの中に入った。待合には患者が三人座っている。四人連れの俺たちは、明らかに場違いだった。

 受付に診察券を出すと、眼鏡をかけた白衣の女は首をかしげた。

「次の予約は明日じゃありませんでしたか」

 俺は受付に顔を近づけ、小声で静かにこう言った。

「先生に急用でね、是非お会いしたい。あと、アンタにも用があるんだよ、長畑房江さん」

 眼鏡の女がこちらをのぞき込む。パンクなTシャツばかりが印象に残っていたが、言われてみればこの顔は長畑房江だ。ジローがホワイトボードで指をさした名前である。

「先生にお伝えしますね」

 そう言って長畑房江は奥に姿を消した。まあジローが呼ばれるまで、あと何十分かはあるだろう。その間に考えをまとめておこう。俺たちはジローの周りに座った。


 ◇ ◇ ◇

 さて、何処から話したもんかな。

 発端がいつなのかはわからない。おそらく、アンタが大学生の頃なんだろう。アンタは海崎惣五郎に恨みを抱いた。だが芽生えた復讐心は、一気には燃え上がらなかった。

 そうこうしているうちに時は過ぎ、何十年も経っちまった。海崎惣五郎は海蜃館大学の総長になり、アンタはいっぱしの医者になっていた。結婚して子供も出来た。娘は海蜃館大学の系列校に入学したが、それはたいした問題ではないと思っていた。

 だがそんなとき、偶然アンタは海崎志保と知り合った。いや、そのときはまだ藤松志保だったか。とにかくアンタの心の中には火が点いた。長い間くすぶり続けていた復讐の火がな。

 まずアンタは医者と患者という立場を利用して、藤松志保にガスライティングを仕掛け、混乱状態に突き落とした。そしてその上で手を差し伸べた。これで藤松志保はアンタの思い通りに動く人形になった。

 次に藤松志保に家政婦を紹介した。長畑房江という女をね。彼女は藤松の家の中で、志保の唯一の味方になった。アンタはいつでも藤松志保に自分の指示を伝えることができるようになった訳だ。

 この時点で、もう復讐は成功したようなものだった。藤松志保はアンタの手のひらの中だ。その気になれば、いつでも殺せる。それはつまり孫娘を殺すことで、海崎惣五郎を絶望させられるということだ。その力と手駒をアンタは手に入れた。だがアンタは慎重だった。もしかしたら殺すことを迷っていたのかも知れない。
  
 もし本当に藤松志保を殺しても、自分が罪に問われたのでは意味がない。彼女を殺しながら、自らは罪に問われない、いわば完全犯罪を成し遂げることこそが、海崎惣五郎に対する見せしめとなり復讐となる。アンタはそう考えたんだろう。

 そのために、まずアンタが作ったのが『悪魔の羽根』だ。けど作ってすぐには使わなかった。これが世間に広がるまで、じっくり待つことにした。ウイスキーを寝かせるようにな。その最中に大帝邦製薬の研究所で爆発事故が起き、藤松志保は海崎志保に戻った。

 そこでアンタは海崎志保を海崎惣五郎から引き離そうとした。これも復讐の一環なんだろう。対して海崎惣五郎は、志保を海蜃館大学の系列校の理事長に就任させた。何としても自分の手元に置こうとしたんだ。それをアンタは利用した。

 アンタは海崎志保に学校専用SNSを導入させた。その上でSNSを乗っ取らせ、悪魔の羽根のURLを生徒の間にバラ撒かせた。いずれ来る収穫のときを豊かにするために、畑を広げた訳だ。悪魔の羽根が広がれば広がるほど、有名になればなるほど、アンタはより安全になる仕掛けだった。一人か二人は引っかかるはず、そう見込んでいたんじゃないのか。

 しかし、その一人が自分の娘になるとは、さすがにまったくの想定外だったろう。まあ娘のメアドを知ってる父親なんぞ滅多にいないだろうし、なに不自由なく育てた娘が自殺を考えるなんて、想像出来る方が少ないからな。だがアンタはその悲劇すら利用した。絶好の機会と捉えた訳だ。

 アンタは自ら率先して自殺サイト撲滅キャンペーンを立ち上げ、娘を亡くして悲しむ父親であることを世間にアピールした。講演会を開き、遺された家族の怒りと悲しみを社会に訴えた。まさかそんなヤツが自殺サイトを運営している張本人だとは誰も思わない。結果、アンタは自分を安全圏に置くことに見事成功したんだ。

 ここまで来れば、あと残るは海崎志保を殺すだけ。もはやアンタにとって、殺人はいつやるか、切っ掛けとタイミングだけの話だった。

 そんなとき、海崎志保に接近しようとする男がいた。そいつはアンタに接触し、次に長畑房江に接触して来た。そこで長畑房江は、そいつにペラペラと喋った。知っていることをすべて話すかのように、しかし実際はほとんど意味のない、当たり障りのないことばかりをな。だが、一つだけミスをした。

 そいつが篠生幸夫という名前を出したとき、当然この男は篠生幸夫が海崎志保のかかりつけ医だと知っているのだと長畑房江は思った。だからそう話した。だが残念、その時点ではその男は、篠生幸夫のことをほとんど知らなかったんだ。知らないと言われたら、すごすご引き返すしかなかったんだよ。長畑房江大先生はそれをアシストしてくれたってことだ。

 そして、次にその男は海崎志保を訪ねた。本木崎才蔵のことをネタにね。結果、男は志保に適当にあしらわれたが、帰るときにこう言った。
「もう一つのネタが固まるまで、アンタは自由だ」
 それが不安の種になった。

 さらには大帝邦製薬の研究所爆発事故を警察が再捜査し始め、刑事も海崎志保を訪れた。アンタはこう思った。このまま海崎志保を生かしておいたら、いずれ自分にも火の粉が降りかかるんじゃないのか、と。

 アンタはそれらをすべて見ていた。あの日、1208号室で、ドアの隙間からね。いや、そもそも海崎志保が男や刑事を部屋に入れたのは、アンタの指示だったんじゃないのか。あのとき靴箱にはアンタの、つまり男物の靴が入っていたはずだ。

 その後ノコノコ一人で戻って来た刑事を見たとき、アンタは一計を案じた。睡眠導入剤入りのコーヒーで馬鹿な刑事を眠らせ、拳銃と警察手帳を奪ったんだ。上手く行けば県警が不祥事をもみ消すついでに、事件の捜査も中断してくれるかも知れない。そう期待してな。

 そしてアンタは決断した。海崎志保を殺そうと。

 翌日、海崎志保には夜まで待って、県営住宅団地に行くよう指示した。その五号棟。入居者が一番少なく、高齢者ばかりが住んでいる棟。人が落ちて死んでも、一番見つかりにくい棟だ。ここの患者に、あの県営住宅に住んでるヤツがいるんだよな。県警はそこまではつかんでたそうだ。

 四階と五階の間の踊り場。そこでアンタは海崎志保に、睡眠導入剤入りの飲み物を飲ませた。と言っても、そのときアンタは現場にいない。代わりにそこにいたのは、長畑房江だ。

 長畑房江の差し出す飲み物を、海崎志保が疑うはずがない。ましてアンタに指示されたなら、志保にはもう飲む以外の選択肢などあり得ない。だから実際に飲み、その身体から力が抜けたとき、下へと突き落とされた。あとは用意していた針で、倒れている海崎志保の腕に616の文字を書き込むだけ。

 そこに海崎志保からの留守番電話を聞いた、間抜けな刑事たちがやって来た。これで一件落着、アンタの完全犯罪は成立するはずだった。実際アンタが想定したように、警察もマスコミも、海崎志保の死と悪魔の羽根を結びつけた。それはすなわち、アンタの身が安全圏にあることを意味している。これで復讐は無事終わった。そう思ったんじゃないか。

 ところが、アンタは大事なことを見落としていた。理解していなかった。それが何かわかるかい。この世界にはな、『三人寄れば文殊の知恵』って言葉があるんだよ。

 俺が言いたいのはこれくらいかな。もし間違ってたところがあるんなら、言ってくださいな。篠生先生。

 ◇ ◇ ◇


 診察室で腕を組み、篠生幸夫は俺をにらみつけていた。顔が赤い。こめかみに血管が浮いている。その隣に立つ長畑房江は対照的に、蒼白な顔をうつむけている。

「幸夫くん」長畑房江はそう口にした。「もう諦めましょう」
「姉さんは黙っていてくれ」

 篠生幸夫は抑えた声を吐き出した。ああ、そういう関係か。

「私は海崎惣五郎に人生を奪われた」

 篠生は訴えかけるような目で俺を見つめる。

「人間として生きる時間の一部を、あの男に奪い取られたんだ」
「んなこたあ俺の知ったこっちゃねえな」

 俺はそう鼻で笑い、指を三本立てた。

「三百万。それで手を打ちましょうや」

 篠生は立ち上がった。全身が怒りに震えている。

「キミには、人間らしい心がないのか」
「人殺しに言われる筋合いはないね」

 俺はにらみ返す。篠生は目をそらし、情けない声でこう口にした。

「そんな大金、いますぐには無理だ」
「じゃあ、明日まで待ちましょう。また明日来ますよ。それで用意できてなきゃ、警察に行かせてもらいます」

「キミにその金を払ったら、警察に話さないという保証はあるのか」
「アンタが拳銃と警察手帳を奪った間抜けな刑事が、いま待合室にいる。だけどこの場には入れていない。話の内容を聞かせていない。それが俺の誠意のつもりなんだがね」

「しかし、後で話すかも知れないじゃないか」
「信じる信じないは、アンタが決めてくれ。そこまで世話は見切れねえよ」

 話は終わりだ。俺は立ち上がり、ジローを立たせた。だがあることを思い出し、うなだれる篠生幸夫に声をかけた。

「最後に一つだけ疑問があるんだが、教えてくれませんかね」

 篠生幸夫は絶望と屈辱に満ちた顔を上げる。俺は笑顔でたずねた。

「アンタの娘が遺した言葉、『悪魔を見た。さようなら』の『悪魔』って誰のことなんですか」

 篠生幸夫は答えない。表情にやや怒りが混じったように見える。それこそが答だった。

「ああ、なるほどね。自分の親父のやってることに気がついたって訳だ。そりゃ死にたくもなる」

 俺は背を向け、ジローを歩かせた。篠生幸夫と長畑房江を残し、診察室から出て行く。待合室の笹桑とフォックスが立ち上がった。

「明日だ、明日」

 さあて、事務所に戻るとするか。
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