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野良猫聖女(ディルク視点)

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(あんなに肝が冷えたのは久しぶりだな)

昨晩の光景を思い出しながらディルクは酒を注いで一気に煽った。職務柄、酩酊するわけにはいかないが、幸い酒には強いのでこれぐらいなら問題ない。

日を追うごとに表情が固くなっていくことに気がついてはいたが、表立って庇い立てすれば悪手であることが分かっていたし、多少の嫌がらせ程度なら呑み込んで欲しいとすら思っていた。

この国の王太子であるヴィクトールは見た目もよく、穏やかな性格だと言われているため令嬢がたに人気が高い。そんな憧れの存在であるヴィクトールの婚約者の座を異世界から来た少女に掻っ攫われたのだから不平不満が出るのも当然だったからだ。
とはいえ聖女の地位は高く、せいぜい嫌味や悪口程度のものと甘く見ていたのはディルクの判断ミスだった。

微かに聞こえた窓の開閉音を敏感に察知できたのは、不測の事態に備える心構えがあったからかもしれない。
こんな夜中に窓を開ける必要性もなく、数秒立って静かに扉を開ければ寝台の上に聖女の姿はなかった。

攫われたにしては抵抗する気配もなく、まさかと思いながら足音を忍ばせて窓の外を覗けば、聖女が壁の僅かな足場を利用しながら壁伝いに移動しているではないか。思わず息を呑んだが、ディルクは先ほどよりも更に慎重に窓際から離れた。聖女がこちらに気づけば集中力を欠き、最悪落下してしまう可能性がある。

もしものために下で待機するか迷ったのは一瞬で、聖女の目的が隣の客室だと悟ったディルクは急ぎながらも音を立てないよう隣室に潜むことにした。不安定な場所であったが、確実に歩を進めていたし、今から階下に向かっても間に合わないと判断したためだ。

些か乱暴に聖女を室内に引き入れたのは、こんな危険な真似をしたことへの苛立ちがあったことは否めない。華奢な身体のどこにそんな力があったのかと思うほど、必死で抵抗されて何だか自分が悪者になったような気分だった。


「……子供相手に何をああも苛ついたんだかな」

そう口にしながらも、原因は分かっていた。あの時の自分には聖女の状況を把握しておらず、ただ周囲の同情を引くために家出の真似事をしようとしているのだと考えていたからだ。そんなことのため大怪我をするような危険を冒す意味が分からなかったし、聖女に万が一のことがあれば、関係者全員が処罰されることになる。
一方的に決めつけて窘めたディルクに、聖女は野生の獣のような獰猛な眼差しを向けて乱暴な口調でディルクを詰り部屋へと戻っていった。

残されたディルクは気性の激しさに目を瞠りながらも、腑に落ちたような気持ちになった。
先ほどの聖女は、召喚直後に一瞬だけ見せたような強い意志のこもった眼差しをしていたのだ。立ち位置的に恐らくディルクしか気づかなかっただろう。

すぐに困惑したような弱々しい様子に変わっていたが、一筋縄ではいかなそうな少女だと考えていたからこそ、気を失ったのは演技ではないかと疑った。
カマをかけたらその表情と強張らせた身体からは一目瞭然で見事に引っかかった形が、それ以上は藪蛇にならないよう確認をしない用心深さは大したものだと思っている。そんな風に感心したからこそ差し障りの無い程度にディルクは彼女を気遣うようになった。

だが聖女への嫌がらせは能力不足のせいだけではなく、ディルクがマリエット王女の前で聖女を庇うような態度を取ったせいだ。恐らくマリエットの指示で令嬢たちは自分たちよりも地位の高い聖女に対して強気な態度を取ることが出来るし、それに令息たちも乗っかっている。
流石に王太子の婚約者を傷物にすればただでは済まないことは理解していただろうが、多少の行為であれば許されるとでも思ったのだろうか。

(恐らく聖女から誘惑されたとでも言い逃れするつもりだったんだろうけどな)

間に合って良かったと安堵するのに対し、冷ややかな一瞥をくれる聖女につい素の口調で叱ったが、響いた様子がなくもやもやとした想いを抱いたが、今になって考えれば彼女の中では護衛である自分も含めて、誰も信用できない状況だったのだろう。


聖女の話が引っ掛かり、翌朝すぐにエルヴィーラを捕まえた。彼女はしばらく渋っていたものの、神殿としても聖女の力を強化することは必須であり、そのためにも健康状態には気を遣う必要がある。その点を突いて話を聞きだしたディルクはようやく自分が思い違いをしていることに気づいたのだ。

「……聖女様の食事は一昨日の晩から準備されておりません」
ということは、一日半以上何も食べていないことになる。それではあんなに気が立っていて当然だろう。

「ただ昨日の王子妃教育の際に準備されたお茶菓子を、バロー夫人に断りもなく……勝手に召し上がったそうです」

(随分と陰険な真似をする)

空腹を抱えている者の前にこれ見よがしに準備して、手を出せないようにしたのだろう。通常の令嬢であれば我慢するところを我慢しなかったのは淑女としては失格だが、ディルクには正しいことのように思えた。

「夫人が止めさせようとして体勢を崩せば、不作法ではないかとあげつらったり、午後の聖女教育でも昼食を食べていないからと浄化を拒否するなど、こちらにも弊害が――何か面白いことでもございましたでしょうか?」

エルヴィーラの口調が冷ややかなものに変わるが、ディルクは堪えきれずに笑っていた。

「くっ、ははははは!いや、済まない。――っく、だが聖女様も随分とたくましいものだな」
そう告げればエルヴィーラは冷ややかな態度は変えないものの、こくりと頷いてディルクに同意したのだった。


そこからディルクは聖女に食事を準備させるため、多少権力を使って手を回した。これまで必要のないと思っていた爵位だが、こういう場合には副団長の立場よりも便利な手段だったのだ。

それなのに謝罪の品として持っていった朝食を見て、聖女は不信感を隠そうともせず胡散臭そうな眼差しを向けられた。毒が入っていないことを示すために食べてみせれば、怪しみながらもパンを頬張る姿を見て何だか微笑ましい気持ちになった。

「野生の獣……というより野良猫だな」
餌付けを繰り返せば多少は懐いてくれるのだろうかと思ったが、そう簡単にはいかないだろう。

(しばらくは様子見だな。どうせ邪魔が入れば状況は変わる)
今後の動きに考えを巡らせながら、ディルクは一人静かに酒を飲み干した。
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